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『弱虫ペダル』で感心したこと  ~"キモくない"ということ
2015年05月20日 (水) | 編集 |



fc2ブログの仕様変更で、結局amazonタグはこれから自分で貼るしかなくなったみたい。
めんどくさあ。
逆に言えば、今までありがたかった
とりあえずamazonアソシエイトの検索機能ポンコツ過ぎ。弱虫検索。


微妙にタイミングを逸しましたが(笑)、アニメ『弱虫ペダル』を見ての話。(TVアニメ公式) (Wiki)
ちなみに原作は読んでません。

王道熱血友情自転車漫画(アニメ)として、普通に"大"の付きそうな傑作であるこの作品ですが、その中に更にプラスアルファ、または自己否定的な異物的要素が見て取れて、そこにかなり感心したので書き留めておきます。

要は作中異端の"リアリスト""マキャベリスト"、御堂筋翔(あきら)」の位置付けということなんですが。

御堂筋1


主人公たちの「熱血」「友情」を、何かにつけて"キモい"とあざ笑って、スーパーエゴイズム、勝利至上主義の道を驀進する御堂筋

御堂筋2

その範囲でも十分に異形で十分に魅力的なライバルキャラではありましたが、途中まではそれでも、ちょっと味付けの変わった(or極端な)"天才型ライバル"いち類型として見て、済まされるところがありました。途中までは。

ところがもう一方の主人公のライバル、箱学の一年生クライマー真波山岳と絡むようになってから、ちょっと様子が違って来ました。
御堂筋の(自分の勝利という)結果への身も蓋も無い"執着"とはまた違う形で、時にチームプレーもどこ吹く風、最終的には自らの走りのみに興味を集中させる"自由人"真波。

その彼と激しく戦いながら、御堂筋は言います、「おまえ、キモくないなあ(関西弁)」

御堂筋3

ここで僕はあっと思ったというか、作品の世界観が一つ違う次元に飛ぶのを感じたというか。


まず単純に言うと、それまでは主人公サイドの熱血、それを肯定する否定する("キモい")か、その2択をめぐって作品が展開されていたわけです。
"2択"とは言っても実際には作品構造的に、主人公サイドの最終的な勝利は"約束"されているわけで、御堂筋的価値観はその引き立て役か、せいぜいテーゼのアウフヘーベン、ジンテーゼ化の契機としての"アンチテーゼ"として機能する、そこらへんが相場なわけです。
そして大きくはこの作品も、そういうまとまり方はするわけですが。

ところが真波の登場とそれとのコントラストにより、この構造に新たな局面が加わります。
"キモさの是非"、から、"キモくなさの是非"へ。
あるいはそれまで"キモさ"との対照でのみ、ある意味消極的に描かれていた御堂筋の価値観・性格が、それ自体を正面から、中心的に、初めて積極的に描かれる機会を得たというか。
"キモい"を否定する、だけではなくて、"キモくない"という積極的具体的あり方があるということが、真波というもう一人のサンプルが登場することで実体化したというか。
御堂筋自身、他人を否定する攻撃するだけでなく、認める肯定することもあるのだということが描かれ(意外だ!(笑))、それによって日頃の(笑)否定・攻撃に重み/正当性が増したというか。

キモくないとは何か。逆にそれによって、"内容"についてはある意味流されている部分もあった(肯定否定だけが問題とされていた)、主人公サイドの"キモさ"の中身が、より精密に検討される可能性または必要性が開かれた。そうも言えるかも。
そこらへんを本格的に追求すると、作品構造は大幅に組み替えられるまたは複雑化することになると思いますが、アニメ2ndシーズンの範囲ではそこまでは追求されてはいません。ていうか多分、"御堂筋スピンオフ"を本格的に作らないと、それは難しいだろうと思います。(笑)
「キモくない」軍団の"ライバル""引き立て役"として、「キモい」軍団の登場する作品?(笑)
強虫ペダル。


実際のところ、作者も別に、"キモさ"を否定している、商業的要求に屈して(笑)嫌々"キモい"サイドを勝たせているわけではないわけですよね。"キモさ"の天才・破格である主人公坂道の努力と勝利のプロセスを、それ自体並々ならぬ熱意と創意で描いていて、そういう作品としてこれは"傑作"であるわけです。まずは。
・・・まあ"優勝"までしちゃうのは、「要求」に従った予定調和という面が無いわけではないんでしょうが。ただそれはそれで予定調和の官能があるというか、それに説得力を持たせる為の、"描き甲斐""冥利"があるというか。

ただ「御堂筋」の異端・極論についての"本気"度も、伊達や酔狂ではないんだなということが、真波との絡みを見て分かったという。
・・・もっと言えば、作者自身は、本意は、あえて言えば「御堂筋」の方にあるのではないかとさえ。
それくらい、同類を見つけた御堂筋の、「キモくない」という台詞の迫真度というか、さりげない"血の叫び"度は、はっとさせるものがあったという。あれ?急にリアルになったなというか。(笑)

まあ"両方"なんだとは思いますが。
少年漫画の「王道」である「熱血」「友情」は、世間的には実際には限りなく非常識・例外・異様なものであるわけで、それに対する"常識"を提示するというのは、枠組みの強固さから決して易しくはないものの、それ自体としてはトリッキーではない、当然のものでもある。
ただフィクションはフィクションでいいので、むしろそうした非常識、"不可能"を"可能"にするところに少年漫画のロマンもあるし、面白味もあるし、繰り返しますが描き甲斐もあるわけで、それ自体に本当に否定的だったら、こんな作品は描けないはず。
ただ"それ以上"を求める気持ち、あるいはやはりどうしてもその"非常識""不自然"に収まり切れない本音もある、もしくは知性的な「真理」追求の欲求が。それが御堂筋という異形のキャラを通じて噴き出した、その噴き出し方の切迫感と「キモくない」というキーワードの面白さ、あるいは(結果的)巧妙さ、示唆の豊かさ、それに打たれた、あるいは作品を見る目が変わったと、そういうことですね。


どこまで計画的なものだったかは、ちょっと疑問な部分があります。基本的には王道的枠組みで描き始めて、ただ御堂筋にキモキモキモと言わせ続けて(笑)いる内に、ところでキモいってなんだろう、御堂筋は何をキモがっているのか、逆にキモくないということがあり得るのか、あるとすればどういうことか、そういう風に筆が思考が走って行ったのではないか、そういう感じもしています。
なぜなら御堂筋の性格形成を説明する、"不幸な少年時代""母親"のエピソードには、さほどの説得力も魅力も感じなかったからです。あえて言えば取って付けたような、推量するに文字通り"後から"考えた、そういう厚みの不足が感じられた。"今の"御堂筋の実際の面白さには、遠く及ばないというか。むしろ理由が無い方が面白かったかもというか。(笑)

ただその"今の"御堂筋の面白さや過剰さ、そしてその御堂筋に同類と認められる真波山岳の登場時からの不思議感、何が不思議なのかもよく分からない不思議さ(笑)、そこらへんの造型には、何か予感的なものというか、先取り的ポテンシャルはあったのではないかなという。
何となく最初からあったものが、具体的に話を展開させ、二人を絡めさせた時に、バチっとハマったというか、作品に潜在していた違う面を引き出したというか。


で、結局「キモい」とは「キモくない」とは、どういうことなのか。
"御堂筋"対"主人公たち"の構図の範囲で言えば、要は「リアル」対「ロマン」というか、「理性」対「感情」というか、そういうありがちな対立の範疇で、とりあえずは収まるものだと思います。
その「ロマン」や「感情」の濃密さやディテール・道具立ての工夫に、見るべきものはあっても。
ただそこに"真波"が加わり、「キモくない」側の体現者として位置付けられると、話はそこでとどまらなくなります。

"キモい"側を攻撃して、御堂筋が当面標榜していたのが勝利の"効率"と策略、その為の非情であったのに対して、真波が目指すのは勝利すら度外視したような、自らの最高の走り、または飛躍の瞬間、失敗も恐れぬスリルの追求。
それを御堂筋が甘ちゃんだキモいと否定していれば、ある意味話は簡単だったのですが、そうではなく"キモくない"、自分の側の人間だと認めた。
御堂筋が真波の何を認めたのかと言えば、直接的には「チーム」や「仲間」「友情」へのこだわりの薄さであるわけでしょう。ただ更に根本には、御堂筋なりに"魂"で感応したのは、真波の正直さ、自分自身の欲望や感情(の実現)への、率直さだと思います。
「勝利」と「走り」という、目標は違っても"同じ"だと御堂筋が感じたのは、その部分。
逆に言えば、他の選手にはそれが無い、足りないと御堂筋は感じていた、いらついていた。嘘をつくなよ、ありもしない訳の分からない共同的理想の陰に自分を隠すなよと。キモいわと。

主人公を筆頭とする他の有力選手たちが、自分に正直にならずに嫌々全体に奉仕していたわけでは勿論ないわけで、ただ少し回路が複雑なだけだとそう言えば言えるはずですけど、とにかくその不明瞭さが、御堂筋には我慢ならなかった。
あえて言えば御堂筋は特別に純粋だとも言えるわけで、結局そこに感動・納得しているから、京都伏見のチームメイトたちも独裁や暴言を許している従っている、そういう描写はまあ、作中にもありましたね。

ロマンと言えばこんなにロマン、感情と言えばこんなに感情的なありようも無いわけで。
ここにおいて、様相は逆転しているというか。


ふむ。
すると作者の立ち位置もそうなるのかな?
少年漫画のフォーマットに従って、共同的ロマンの究極を描きつつ、だからこそそこからこぼれた「個人」「自分」を、非常に純化した過激な形で御堂筋に表現させた。その孤独な戦いを、真波という"天使"も期せずして助けに来た。(笑)
まあそこまでそんなに緻密に構成されたものだとは、上で言ったように僕は思っていないわけですが。
結果的には、御堂筋という優秀な批判者の存在によって、それにすら打ち勝つことによって、主人公サイドのロマンの"究極"性は、更に高みに登っているわけですが。

いや、最後は個人だと、2ndシーズンラストの"箱根"のゴールシーン/デッドヒートは言っているのかな?
そこまで考える必要は無いか。(笑)
この後このライバル関係はどうなって行くのか。敗れた御堂筋はどのような形で復活するのか。
原作読んでないので知りませんが。(笑)


とにかく「王道」の密度勝負だと思っていた作品に、思わぬアングルというか、風景の広がりを感じてドキッとしたと、そういう話でした。


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テーマ:アニメ・感想
ジャンル:アニメ・コミック
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