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アルベルト・マングェル『読書の歴史』(その3) ~備忘録的な
2015年05月24日 (日) | 編集 |
その1その2



そんなに好評でもない気がしますが(笑)、やりかけなので切りがいいところまではざっと。


3.記憶の書

p.72下-p.73上

パイドロスという名の若い男が、リュキアスという人物がした話をソクラテスの前で語ろうと(暗唱しようと)していた。(中略)
だがソクラテスは、パイドロスがその話のテクストをマントの下に隠し持っていることを察し、暗唱するのではなく、原作を読んでくれないかと頼んだ。
リュキアス自身がそこにあるのなら、私は別にあなたが私のために暗唱してくれるのを聞きたいとは思わない」、そうソクラテスは若きパイドロスに語ったという。

さすがソクラテスは、「本」というもの「テクスト」というものを分かっている、という感じ。
著者がいるのは"そこ"なんですよね、常に。
要約・解説どころか"暗唱"でも駄目というのは、いかにも厳しくはありますが。
まあ暗唱には、"演技"という要素も入って来ますからね。または演出。
きっとソクラテスは、小説や漫画の映像化にも、そっぽを向いたに違いない?!(笑)
僕の"抜粋&解説"にも、あんまり重きは置かないで下さい、保証し兼ねます。(笑)
まあ僕のは実際、"連想""展開"ですけど(笑)、たいていの場合。


4.文字を読む術

p.87下

こうした(中世末期からルネサンス初期の)子供たちの教育にまず携わるのが、(中略)彼らの乳母であった。
(中略)
キリスト教の図像を見ると、教室で学習する女生徒の姿がほとんど描かれていない反面、小さな子供に文字を教える母親の姿はかなり多いことが分かる。

こういう"乳母"なり"家庭教師"なり、「学校」制度の外の"教育"システムには、興味のあるところです。
学校は学校でいいんですけど、それとの対照ないしそれ以前のたたき台として、こういう"個人""人格"的教育の存在感というのは、あった方がいいように思います。まあ単に親の精神的"存在感"というだけでもいいですけど。
「学校」を相対化するもの、「教育」に対して免疫をつけるものというか。
"人格"と言っても別に「道徳」的ということではないんですよ。むしろ「私」はこうだという、偏りの肯定というか。"乳母の人柄の温もり"というレベルでもね。
その上で、「学校」の一般性客観性と、向き合う。個人と社会、両方強くするというか。
ちなみに親じゃなくてあえて家庭教師というのは、ワンクッション置く為ですね。やはり実の親子というのは、難しいものがある。だから親が選んだ、信頼出来る他人という。
実際そのようなスタンスで、洋の東西を問わず上流子弟の教育というものは、行われていたようです。(近代以前には)
まあ上のはもう少し一般的基礎的な次元の話のようですけど。


5.失われた一ページ

p.102下

ソクラテスが明言しているところによれば、読書によって光を放つものは、その読者が既に知っていることだけであり、ただそこに横たわっている文字を追ったところで、何の知識も得られるわけではないという。

これプラトンの説じゃなかったっけ。
ソクラテスも言ってたのか。
プラトンはソクラテスの弟子ではあるわけですが、なんか"別物"という感じがしてしまいます(笑)。ソクラテスは(後の)プラトンの思想を、実際認めている/認めたのだろうかという。お前喋り過ぎだよと、思っていたのではないかという。(笑)
まあでもこれはその通りだと思います。
「理解出来る」というのは、「心当たりがある」ということです。目的からすると矛盾するようですが、"知らない"ことを"知る"ことは出来ません。
何も無いところでの「理解」というのは、それは"理解"というよりも"鵜呑み"または"洗脳""刷り込み"と呼ばれるべきプロセスだと思います。
だからピンと来ない時は、ピンと来ないままにしておけばいいんだと思います。ピンと来る為の"準備"が、自分に出来るまで放置・棚上げしておくべきというか。
肯定にしろ否定にしろ、"熟"さないまま次のプロセスに行くべきではないというか。

p.110下

ウンベルト・エーコが、警句的に述べている次の言葉は役に立つ。すなわち、「許される解釈の範囲とは、テクストの持つ権利の範囲と一致する。」

これはちょっと難しい。
その通りである、"権利の範囲"と言うべきものは存在するとは思うんですけど、さてではどのように具体的に定めたらいいのではという。
場合によっては文言が示すところの論理的には逆の解釈というものも、決して必ず"許されない"というものではないと思いますしね。
結局は一種の"良心"の問題としか、言えないのではないかという。またはもっと端的に、解釈者の知性と感性。(笑)
後はまあ、その"解釈"の受容者論評者が、個別に是々非々して行くしか。
まあ状況を定められないから、"警句"なのかも知れない。(笑)


6.絵を読む

p.115上

一〇二五年、アラスの宗教会議は、「聖書を読んでもなかなかその意味を掴めぬ者は、じっくりと考えさせるようなを通じて、その意味を学ぶことができる」と宣言したのであった。

なぜ宗教会議でわざわざこんなことを決めなくてはならないかというと、キリスト教が偶像崇拝禁止を謳っている宗教だからですね勿論。
逆にこんなことを"公式"に許したのかと、ちょっと驚き。

p.123上

「貧者の聖書」に収められた図像を「読む」行為と、ステンドグラスの図像を見るのとが基本的に同質のものであるということ、そしてそれらが共に、ページに言葉で記されたものを読むのとは異なるものであることに気づいていた点で、レッシングは正しかったといえる。

「貧者の聖書」というのは、簡単に言うとそう通称される(実態は分かっていない)、やたら絵や図像による説明に溢れたあるタイプの聖書のことです。文盲の貧困階級の信者向けに作られたという説もありますが、その割に装丁が豪華なので(ヴィジュアルで(笑))、とてもそうは思えないところがあるという。
とにかく「絵で読む」聖書というものが、実在したらしいという。
僕がなるほどなと思ったのは、"ステンドグラス"の図案自体、そのように"読まれる"ことを想定したものであるという指摘。


7.読み聞かせ

p.138上

人々が適宜集まり、形式にとらわれず自由に朗読会を行うという習慣は、一七世紀にはきわめて一般的ものとなっていた。

"書物"の影響力というものが増して行って、そこで"騎士道物語"に影響を受けて奇行を繰り返したドン・キホーテのようなキャラクターも現れた(書かれた)という話。
二次元コンプレックス事始め。(笑)

p.139下

タム・フレックという男で、定職にはつかず、いつもこのヨセフスの翻訳を持っては夕方街へ出かけ、それを最新ニュースと称して人々に読んで聞かせるのであった。(中略)
彼は、ヨセフスの同じ記述を毎年追っていくのに、どういうわけか朗読で聞くと、その新鮮さが失われなかったのである。

いつ聴いても忠臣蔵は興奮するぜ!という話。(三国志でも可)
まあこれは"読書"というよりも、その内容を"演じる"ことの力という話だと思いますが。
「定職にはつかず」というのがいいですね。その朗読でご飯を恵んでもらってたりしたんでしょうね。(笑)
現代の「定職」につかない人の多さよ!(笑)
まあその中間形態として、日本で言う"河原乞食"のような職能形態が存在した?
専業だけど、"乞食"でもある。


8.書物の形態

p.146上

というのも、従来テクストは、実際問題として、一巻の巻物に収まる分量を一つの単位としていたからである。

"従来"というのは、パピルスによる"巻物"がメインだった時代。
それが羊皮紙による、"巻く"のではなく"折る""畳む"(「本」)という形態の出現によって変わった。

p.146上-下

さらに巻物の場合、扱いにくいことに加え、一見して読み取ることのできる広がりにかなりの制約がある。この問題は、昔の書物ではなく、コンピューター画面を見ている今日の我々にとっても深刻なものである。

いわゆる"スクロール"の問題。正に。(笑)
するとコンピューター(モニター)時代になって、実は"本"から"巻物"に、先祖返りしている?
それはまあ半分冗談ですけど、一遍に「全て」を視野に収められる本に対して、電子情報のまだるっこしさ・不快感というものは確実に存在して、所謂"電子書籍"への抵抗感の一部にもそういうものはあると思います。目で"追わされる"不快感というか。時間の支配への。
一生懸命PDFで作っても、結局プリントアウトというか。(笑)

p.146下-p.147上

(一世紀のローマの詩人、マルティアーリス)
羊皮紙にホメロスの言葉が記されている!
『イーリアス』とウリッセースの冒険
プリアム王国の敵!
皆、動物の皮を折り畳んで作られた
数枚の紙片に収められている!

ほとんどUSBメモリーを初めて知った人みたいな感激の仕方ですが。
一世紀の情報革命!
羊皮紙凄かったんですね。よっぽど巻物って、使い辛かったというか。(笑)


p.154下-155上

グーテンベルクと彼の後継者たちは、積極的に写字生たちの技術を見習おうとし、実際、多くの初期印刷本のページは、写本のような体裁を取っているのである。
(中略)
一六世紀は、活版印刷されたものばかりでなく、手書きに関する手引き書も数多く生みだされることとなった。

旧メディアは死なず、むしろ新たな刺激で活性化したという話なんですが、これがグーテンベルクたちが偉かったという話なのか、新技術はあるけどイメージは旧技術のままだったという話なのか、微妙な感じもしないではないです。(笑)

p.156下

中世の人文主義者たちが積み上げたものを、ルネサンスの学者たちは吟味し、優劣をつけた」とは歴史家アントニー・グラフトンの言葉である。

"書物"化、印刷すべきかということをめぐって、ですね。
最近でも電子書籍化の優先度をめぐって、少し前ならマイクロフィルム化をめぐって、こうした"選別"は時代時代行われて来たわけですね。


9.一人で本を読むこと

p.180

一五世紀から一七世紀にかけて、ベッドは、その所有者が死亡した時などに贈与される大切な家具であった。書物とベッドといえばきわめて貴重な家財であり、売り払われてしまう他の家具とは違って、家族に受け継がれることが多かった。
(中略)
家財が女性に遺贈されるのは珍しかったが、書物は女性が所有し、息子よりは娘に受け継がれていくことが多かった。

ふーんという感じですが。
書物と言っても別に"小説"とかではなくて、古典の豪華本みたいなものが主みたいなので、なぜあえて女性に相続されたのか、この本の範囲では分かりませんが。
何かでも"男"のものてばないという、思想はあったんでしょうね。


これで前半分、第一部「読書すること」は終わりです。
現在後半分、第二部「読者の力」を読み始めたところですが、レポするかどうかは未定。(笑)


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テーマ:読書メモ
ジャンル:本・雑誌
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