2015年07月14日 (火) | 編集 |
もうこの話題終わりかと思いましたが、まだあったので続き。(笑)
6話までを扱った前回はこちら。
第8話より
「理性」と「本能」は勿論違う機能の仕方をしますし、当座対立的に捉えられることにはなりますが、しかしどちらかしか無いという人は恐らく現生人類には存在しませんし(笑)、本当に対立したら精神病になるというかそうなっちゃってる人が"病人"であるという言い方も、一つ可能かと思います。
どちらかというと、基本的には総合的な精神機能、あるいは(広義の)"思考"機能としてあるものを、あえて概念的に分けている、またはその総合性に逆らって無理に単純に捉えようとするとバラけて(見えて)しまう、そういうものだと思います。
またはベースの機能である本能に付加された高級機能として、理性を考えるか。ここらへんはまあ、色々でしょうが。
言いたいのはとにかく、案外それぞれの機能のさせ方というのは、慣れればコントロール可能、またはバリエーションは結構あって、別にゼロサム的に働くわけではないということ。
遠景におかれたものは遠景に置かれたなりに、近景に置かれたものは近景におかれたものなりに働くというか。
その"空間"配置自体も、結構色々ある気がしますが。
逆に「二概念」だけでは、そもそもその"空間"を埋めることが出来ない気がするというか。・・・まあさっきも言ったように、総合的な何かをあえて二つの概念で括ってるだけですから、当然その形式性でカバー出来ない領域やケースも出て来るわけですね。
文脈上、作者はまず間違いなく、この場面においても「理性」「本能」構造で描いているとは思いますが、例えば古来(?)「知・情・意」などと言うように、理性("知")、本能("情")の他に「意志」("意")という機能も設定すると、他の二者の関係を調整するという行為については、整理し易くはなるかも知れません。
まあ既に言葉として、"自分の「意志」"と言っちゃってはいるわけですが。(笑)
元々この人の「理性」という用語法は、かなり広いもので、むしろ「意識」と言い換えた方が正確なんじゃないかみたいなことも、最初に言ったと思います。
おまけの注意点としては、"自己意識"を持てるのはやはり本能ではなくて理性の方なので、調整の為にあえて"譲る"という役割を遂行可能なのは、具体的には理性になるのはまあ、仕方のないところ。本能は眠ることはあっても、譲ってはくれない。(笑)
第9話より
ちなみに「純粋な本能」というのは、本能として純粋なのではなくて、"本能"は"ピュア"だという話。信じやすい。暗示にかかり易い。マイナスの経験をストレートに受け止めてしまう。
プレー経験の浅さから、左利きプレイヤーへの対処に苦労している主人公についてのコメント。データ不足で上手い対処法が見つからずに、いっそ考えないでやろうとしたらそれも上手く行かないという状況。
「本能」はしばしば、「理性」には出来ないようなスムーズさや即効性直接性で、(テニスの)プレーを表現して見せますが、それはその人が既に持っている知識や技術の活用のやり方が違うだけで、ソース自体は同じなんですよね実は、変わらない。
基本はそれまでの人生で蓄積した経験(というデータ)。
どんなに"天才"的"独創"的に見えても、無い袖は振れない。
まあ"振って"る人類史上の偉人や天才がいるのかも知れませんが(笑)、それはまあ、別の次元の問題として。"集合的無意識"なり。
この作者はまああえて言えば、"フロイト的"範疇で話をしているはずです。(笑)
そもそもの主人公が、極端に理性的というか、ナチュラルに抑圧的な性格に設定されてますしね。それが必要な分だけ、ベイビーステップに地道に解放されて行く感じが、見ていて透明性があって面白いので。
解放は目指すけど、ジャンプはしない。
第12話より
かなりピンポイントというか、特殊で意図的な"経験"ですけど。蓄積された先からどんどん使われる。
スポーツ状況ならではというか。
本能はとにかく、表現のスムーズさという意味では常に理性より優るわけです。理性の把握速度を、常に上回るというか。
それは同時に、対戦相手の「理性」の把握速度をも上回るわけで、ある意味ではいかに上手に本能に主導権を委ねられるかという競争を、競技者はしているところはある。
ただ闇雲に委ねればいいというものではなくて、つまり本能は表現は出来ても仕込みを意図的には出来ないわけで、十分な仕込みをせずに本能的にプレーしても、すぐネタ切れになるかそもそも状況に適合的な"ネタ"自体が引き出しに無いか。繰り返すように本能は「引き出す」のは得意ですがそれもネタがあってのことなので、つまりやはり"無い袖は振れない"。
更に言うと刻々と変化する状況に対しても本能は新たな情報の追加は出来ない訳で、それを見透かした敵の「理性」が新たな状況を作り出して来た場合にはそれは対応出来ない。つまり"長くは続かない"。
この作品では具体的には、新"状況"に対して慌てて理性が主導権を取り戻そうとするけれど、そもそも弱って本能に譲り渡してしまったものは容易に今更取り戻せなくて、結局は負けてしまうわけですね。
意図的な目標設定の出来ない本能が、初期設定として埋め込まれた"目標"としての自己保存を優先させてしまった結果、テニスの試合という(理性の設定したルールによる)特殊状況にそぐわない反応をしてしまった。
「理性」というと分別がありそうですけど(笑)、"あえて"無理をさせるのはむしろ理性の仕事なので。本能は疲れたら、素直に休む。しかし無理が必要な場面というものもあって、その無理の程度を図ることも理性なら出来るけれど(ただし計算を間違うこともある(笑))本能には出来ない、そういう「限界」も本能にはあるという、そういう話。
・・・大きく言うと、「本能」の実在と機能についての説明から始まった話が、その限界というか現実世界の中での正確な立ち位置の測定に着地したと、そういう話ではあるかも知れません。
そこから自ずと導き出される、「理性」の役割というか。
あくまで"スポーツ"状況の話ではありますが、基本的な構造は我々の日々の精神活動全てに、共通する話だと思います。
余談ですけど(笑)、12話の「長くは続かない」「奇跡的に理性と本能のバランスを保ってる」状態というのは、サッカー日本代表が時折国際試合で見せる妙な"好試合"の状態に似てるかなと思いました。(笑)
代表的には、ジーコやザックのチームが、コンフェデあたりで見せた"健闘"とか。理性の(戦術の)準備が貧弱なチームが、追い詰められていっそ本能的に動けて束の間爆発的な力を発揮するという。
あくまで偶然であり怪我の功名でしかないので、それを"スタイル"にすることは出来ないんですけどね。出来なかったというか。
6話までを扱った前回はこちら。
第8話より
言い換えると、理性自身によって理性を殺し(眠らせ)て、本能に活躍させるということ。でもお前を見てると、お前が自分の意志で感覚的にテニスが出来るようになればいいのになと思うことがあってな。
「理性」と「本能」は勿論違う機能の仕方をしますし、当座対立的に捉えられることにはなりますが、しかしどちらかしか無いという人は恐らく現生人類には存在しませんし(笑)、本当に対立したら精神病になるというかそうなっちゃってる人が"病人"であるという言い方も、一つ可能かと思います。
どちらかというと、基本的には総合的な精神機能、あるいは(広義の)"思考"機能としてあるものを、あえて概念的に分けている、またはその総合性に逆らって無理に単純に捉えようとするとバラけて(見えて)しまう、そういうものだと思います。
またはベースの機能である本能に付加された高級機能として、理性を考えるか。ここらへんはまあ、色々でしょうが。
言いたいのはとにかく、案外それぞれの機能のさせ方というのは、慣れればコントロール可能、またはバリエーションは結構あって、別にゼロサム的に働くわけではないということ。
遠景におかれたものは遠景に置かれたなりに、近景に置かれたものは近景におかれたものなりに働くというか。
その"空間"配置自体も、結構色々ある気がしますが。
逆に「二概念」だけでは、そもそもその"空間"を埋めることが出来ない気がするというか。・・・まあさっきも言ったように、総合的な何かをあえて二つの概念で括ってるだけですから、当然その形式性でカバー出来ない領域やケースも出て来るわけですね。
文脈上、作者はまず間違いなく、この場面においても「理性」「本能」構造で描いているとは思いますが、例えば古来(?)「知・情・意」などと言うように、理性("知")、本能("情")の他に「意志」("意")という機能も設定すると、他の二者の関係を調整するという行為については、整理し易くはなるかも知れません。
まあ既に言葉として、"自分の「意志」"と言っちゃってはいるわけですが。(笑)
元々この人の「理性」という用語法は、かなり広いもので、むしろ「意識」と言い換えた方が正確なんじゃないかみたいなことも、最初に言ったと思います。
おまけの注意点としては、"自己意識"を持てるのはやはり本能ではなくて理性の方なので、調整の為にあえて"譲る"という役割を遂行可能なのは、具体的には理性になるのはまあ、仕方のないところ。本能は眠ることはあっても、譲ってはくれない。(笑)
第9話より
まずいな。今本能に任せるテニスは駄目だぞ。
お前の本能だって、お前と同じで左利きのことなんて知らねえんだ。
純粋な本能に無理させてミスると、逆に苦手意識が刷り込まれちまうことだってある。そうなったら厄介だぞ。
"お前"がこの場合の「理性」ですね。今のはおかしい。相手が左利きってだけじゃない。俺のショットもおかしくなってる。
ちなみに「純粋な本能」というのは、本能として純粋なのではなくて、"本能"は"ピュア"だという話。信じやすい。暗示にかかり易い。マイナスの経験をストレートに受け止めてしまう。
プレー経験の浅さから、左利きプレイヤーへの対処に苦労している主人公についてのコメント。データ不足で上手い対処法が見つからずに、いっそ考えないでやろうとしたらそれも上手く行かないという状況。
「本能」はしばしば、「理性」には出来ないようなスムーズさや即効性直接性で、(テニスの)プレーを表現して見せますが、それはその人が既に持っている知識や技術の活用のやり方が違うだけで、ソース自体は同じなんですよね実は、変わらない。
基本はそれまでの人生で蓄積した経験(というデータ)。
どんなに"天才"的"独創"的に見えても、無い袖は振れない。
まあ"振って"る人類史上の偉人や天才がいるのかも知れませんが(笑)、それはまあ、別の次元の問題として。"集合的無意識"なり。
この作者はまああえて言えば、"フロイト的"範疇で話をしているはずです。(笑)
そもそもの主人公が、極端に理性的というか、ナチュラルに抑圧的な性格に設定されてますしね。それが必要な分だけ、ベイビーステップに地道に解放されて行く感じが、見ていて透明性があって面白いので。
解放は目指すけど、ジャンプはしない。
第12話より
この"選択肢"というのがつまり、上で言う"経験"の、この場合の例ですね。でも今俺は、落ち着いて考えて、選択肢を増やして行かないと。
もっと本能で動けるように、今はしっかり理性で動く。
かなりピンポイントというか、特殊で意図的な"経験"ですけど。蓄積された先からどんどん使われる。
スポーツ状況ならではというか。
いい感じ。
急に思い通りに打てるようになったのは、疲れて理性的に考える余裕が無くなった分、本能で動けてるってこと?
その後更に時間が経過して、疲労で限界が近いと見えた主人公が思わぬビッグプレーを連発した時の、主人公とコーチそれぞれの感想。今は恐らく疲労で理性が働かなくなって、本能に任せるしかなくなってる状態。
過度の疲労と緊張感が、奇跡的に理性と本能のバランスを保ってるだけ。だとしたら、恐らくこの状態は長くは続かない。
本能はとにかく、表現のスムーズさという意味では常に理性より優るわけです。理性の把握速度を、常に上回るというか。
それは同時に、対戦相手の「理性」の把握速度をも上回るわけで、ある意味ではいかに上手に本能に主導権を委ねられるかという競争を、競技者はしているところはある。
ただ闇雲に委ねればいいというものではなくて、つまり本能は表現は出来ても仕込みを意図的には出来ないわけで、十分な仕込みをせずに本能的にプレーしても、すぐネタ切れになるかそもそも状況に適合的な"ネタ"自体が引き出しに無いか。繰り返すように本能は「引き出す」のは得意ですがそれもネタがあってのことなので、つまりやはり"無い袖は振れない"。
更に言うと刻々と変化する状況に対しても本能は新たな情報の追加は出来ない訳で、それを見透かした敵の「理性」が新たな状況を作り出して来た場合にはそれは対応出来ない。つまり"長くは続かない"。
この作品では具体的には、新"状況"に対して慌てて理性が主導権を取り戻そうとするけれど、そもそも弱って本能に譲り渡してしまったものは容易に今更取り戻せなくて、結局は負けてしまうわけですね。
これはその一例。本能がストップをかけたな?
戦うことより、体を休ませることを優先したんだ。
意図的な目標設定の出来ない本能が、初期設定として埋め込まれた"目標"としての自己保存を優先させてしまった結果、テニスの試合という(理性の設定したルールによる)特殊状況にそぐわない反応をしてしまった。
「理性」というと分別がありそうですけど(笑)、"あえて"無理をさせるのはむしろ理性の仕事なので。本能は疲れたら、素直に休む。しかし無理が必要な場面というものもあって、その無理の程度を図ることも理性なら出来るけれど(ただし計算を間違うこともある(笑))本能には出来ない、そういう「限界」も本能にはあるという、そういう話。
・・・大きく言うと、「本能」の実在と機能についての説明から始まった話が、その限界というか現実世界の中での正確な立ち位置の測定に着地したと、そういう話ではあるかも知れません。
そこから自ずと導き出される、「理性」の役割というか。
あくまで"スポーツ"状況の話ではありますが、基本的な構造は我々の日々の精神活動全てに、共通する話だと思います。
余談ですけど(笑)、12話の「長くは続かない」「奇跡的に理性と本能のバランスを保ってる」状態というのは、サッカー日本代表が時折国際試合で見せる妙な"好試合"の状態に似てるかなと思いました。(笑)
代表的には、ジーコやザックのチームが、コンフェデあたりで見せた"健闘"とか。理性の(戦術の)準備が貧弱なチームが、追い詰められていっそ本能的に動けて束の間爆発的な力を発揮するという。
あくまで偶然であり怪我の功名でしかないので、それを"スタイル"にすることは出来ないんですけどね。出来なかったというか。
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