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佐藤滋 『ロックの世界』
2015年07月21日 (火) | 編集 |
ロックの世界

ロックの世界―エルビスからクラッシュまで (1983年)


僕が買って読んだ最初で最後の、"ロック通史"的な本。
この前ボブ・ディランニール・ヤングを借りた時に、久しぶりに手に取って再読して、今見ても全然面白いなと思ったので少し紹介してみます。

著者は1940年生まれの、仏文卒の元音楽旬報記者。
発行は1983年で、取り上げられているのはぎりぎり'82年発表までの作品。"パンク"から"ニューウェイブ"が発展して、それもしかしそろそろ終わりかな、とても永続的な動きには見えないというような状況の中で、ある意味"終わった"ものとしてロックを総括する的なスタンスで書かれたものと、一応言っていいと思います。

泡沫的なものまで含めて"ニューウェイブ"もかなり広く紹介しながら、著者の主軸はやはりビートルズ、ストーンズからグラム・ロックあたりに流れるイギリス主流派、それにアメリカのフォーク・シンガーソングライター系あたりか。
プログレやサザン・ロックのような趣味的にサウンド志向なタイプには少し距離がある感じで、ハード・ロック系となると更に遠くて、ほとんど義理で取り上げてる感じ。(笑)
ニュー・ウェイブやテクノなどはさすがに年齢的に(当時43歳)熱狂したりはしませんが、"実験"としては一つ一つ興味を持って、フェアに評価しているという印象。
まあ至って王道というか、真っ当だと思います。しかし評価の仕方はきちっと個人的。いい本です。

以下特に面白かった記述をいくつか。


"ロックと階級"(p.7-8)

ロックは、主に、アメリカとイギリスの、白人中産階級及び比較的豊かな労働者階級の子女たちによって作られ、受け入れられてきた大衆音楽である。

"不良"の音楽、とはいうものの、"下層"の音楽ではないんですよね。
バネになっている"逆境"は、とぢらかというと精神的文化的なもので、ある意味では優雅。高級というか。
このある意味中途半端な「階級」感覚が、最早"ヤンキー"のレベルにまで大衆文化の主体が降りて来てしまったここ日本でも、今更主流にはなれない理由の一つではあるかも。


"ロックと黒人音楽"(p.9)

しかし、ロックがジャズやポップスと違っているのは、ジャズは黒人が作り出した黒人の音楽であり、ポップスが黒人の要素を一部に取り入れた白人の音楽であるのに対し、ロックは黒人音楽をそっくり真似した上で、そのまま自分たち白人の音楽にしてしまったことにある。

この感じはほんと独特で、たまに呑気な(笑)黒人ミュージシャンが、「やってるのは要は黒人音楽なんだから、ロックは本来黒人のものだ」などとのたまって揚々とロック・シーンに参入して来たりもするんですが、むしろ黒人ゆえに実に中途半端なものしか作れずに返り討ちに遭うみたいなことを、繰り返してる気がします。・・・Living Colorとかね。1stしか聴いてないけど、クソつまんなかった。
プリンスが面白いのは、誤解を恐れずに言えばむしろ十分に"白い"からだと思います。"黒"に頼ってないというか。黒のままではロックは出来ない。ロックは断固として"白人音楽"である(またはアングロサクソン)と、僕は思ってますが。
ジミ・ヘンも・・・どうだろう?個としては面白いけど、"ロック"として面白いのか?あれ。


"ロックとポップス"(p.10)

さらに、この国(注・イギリス)のポップスに強力なジャンルがなかったことも、逆にロックの成長に幸いしたのではなかろうか。
フランスではシャンソン、イタリアではカンツォーネの存在が、それぞれの国のロックをして、中和されたポップスへと導いて行った。日本でも歌謡曲が、ロックを吸収してしまった。これらの国では、伝統の方が強かったのである。

まあなんか、"確立"はしてるんだけど、"特例"でもあるんですよね、ロックは。本質的に。
掛け値なしに"20世紀の大衆文化に不滅の足跡を残"して、ロック以前と以後とでは"世界が違って見え"ると僕自身の経験からも思いますが、しかし現象としては、ミニマムには非常にローカルです。"黒人音楽"どころか、"ポップス"の普遍性の方に、むしろ軸足を置きたがる評論家業界人が次第に増えて行ったのも、無理のないことというか。(渋谷陽一を筆頭に。(笑))
国としても、ようやくもう"終わった"頃に、日本が本格的に"第三極"になれたかな、なれてないかな、というくらいかなと。・・・終わったからこそ?(笑)かも。リアルタイムだと、あいつらすぐ人の邪魔するし(笑)。ルール変えたりして。
とにかくアメリカですら、王道"芸能"の圧力は強くて、実は常にロックは"吸収・消滅"の危機にさらされて来たと思います。正に"プレスリー"が、うやむやにされたように。


"プレスリーとチャック・ベリー"(p.25)

この二人の差は、いわゆる大衆音楽民俗音楽の違いのように見える。ベリーが成熟や変化と無縁であるだけでなく、彼の歌が他の歌手によって歌われても同じ様に楽しく生命力が溢れてくるのは、いかにも民俗音楽的である。

まああんまり本論とは関係無い気がしますが、チャック・ベリー論として面白かった。
ただこういう"誰のものでもない""誰がやっても同じように盛り上がる"というのはロック以前のブルース、R&Bの段階ではむしろ当たり前な特徴なので、これは何というか、ペッラペラで"黒人音楽"的深みを思い切って断ち切ったかに見えるチャック・ベリーが、それでも黒人であるというそういう話として理解してもいいかなと思います。


"ビートルズのアメリカ進出"(p.28)

彼等のアメリカ進出は、実際には六四年になってからだが、既にアメリカ国内にはロックンロールの生命力を持った実力者は一人も見られず、迎えられるべくして迎えられた観があった。

"ブリティッシュ・インヴェィジョン(侵略)"とは言うものの、という。
上で言った、アメリカにおいてロックが"消化・吸収"された、その後に(母国の特殊事情に助けられて)より強固なジャンル意識を持ったビートルズが、アメリカに消えないクサビを打ち込んだというか。
まあ"ポップス"だけでなく、"黒人音楽"も、常に吸収しようと待ち構えてますからね、アメリカは。イギリスには基本的にそのシーンが存在しない、そういう強みはある。


"ボブ・ディランの歩み"

むしろ、ディランは、フォーク歌手のまま、ロックの領域に入って行ったと言った方が当っているのではなかろうか。(p.35)

ディランは"転向"したのか、否という話。

たしかに、ロックの歴史の中に位置づけてみれば、このアルバムが革新的であることは勿論だが、ディラン個人の歩みの中で考えると、革新というより自由を、さらには気楽さを感じてしまう。(p.44)

ディランの"本格"ロック転向作、『追憶のハイウェイ61』についての評価。

こうしてみると、ディランは、ロック、カントリーを通して、一貫して気持ち良さ、心地良さを追求してきたような気がする。時にはふてぶてしさを装うこともあるが、実際には、自分の気持ちの拠り所を努力して求めてきたのではないか、と思えてくる。(p.47)

更にのち、"カントリー"時代を経て。

こうしてディランの歩みを辿って来ると、自己主張から解放へ、さらにアイデンティティの探索から神への献身へ、と筋の通った足取りで進んできたのが解るだろう。(中略)彼の血筋であるユダヤ人的であったことが見えてくるのである。(p.50)

ボブ・ディランのユダヤ性という評価は初見だったので、当時はびっくりしました。(笑)
言っているのはつまり、
 ・ボブ・ディランの音楽活動が、"伝道者""革命家"的な世評とは裏腹に、しごく個人的な解放と安心を求めるものであったということ。
 ・その道筋が、出来過ぎなくらいに論理的であるということ。
 ・その論理性、及び予定調和的に"神"にたどり着く屈託の無さが、「ユダヤ」的に見えるということ。

ですね。
だからボブ・ディランが凄いという話ではなくて(笑)、むしろ神格化・過大評価の相対化を、ここでは試みているわけですが。



"中後期ツェッペリンの「ハード」・ロック"

(p.91)

 七三年の五枚目「聖なる館」は(中略)メロディアスな情感を全く排除して、ハードさだけに徹した禁欲的なものである。ブルースから黒人臭を抜き去って作り上げたハード・ロックから、さらに情感までも取り除き、音を音それ自体だけで自立させようとの目論みと理解して良いだろう。
 (中略)メロディックな方向に進む傾向にあったハード・ロック全体の流れに逆行するものだが、音の重さによって実在性を獲得しようとするハード・ロックの本質から見れば、当然の帰結であった。

(p.93)

 だが、ハード・ロックの本質は、本来、満たされないもの、魂の欠如感を音楽によって満たそうとする行為そのものの中にあったのではなかろうか。ツェッペリンの結論のように、満たされない部分を音塊そのもので埋め込んでしまい、それで足れりとするならば、論理的に筋が通っていても、これ以上に何が求められるだろう。

後の方は、集大成作『プレゼンス』('76年)についての評価ですね。
"正しい"けど、身も蓋も無い。これは「音楽」なのか?というか。
僕自身が付言すると、実際には普通のロック・ファン及びハード・ロック・ファンが「ハード」さを感じる/イメージする時、そこには"情感"によるある種のインフレ効果というか"突き抜け"感みたいなものが同時に感受・期待されていて、決してツェッペリンのように"音そのもの"だけで「ハード」が成立しているわけではないんですよね。
それが後期ツェッペリンを、マニアックな存在にしている。"ハード・ロック"が好きな人と"ツェッペリン"が好きな人って、しばしば別ですよね。
まあ何というかツェッペリンのは、炭酸の入ってないビールという感じがします(笑)。ビールそのものの味で勝負だ!と。まあいいんですけど、"とりあえずの一杯"としては、ちょっと飲めない。(笑)
むしろ暑さが増しそうというか。(笑)


"ブラス・ロックとプログレッシブ・ロック"(p.100)

 同じようにジャズクラシックの要素を取り入れながら、アメリカでは"ブラス・ロック"の形で現われ、イギリスでは"プログレッシブ・ロック"の形で現われたのは、両国の文化的背景、国民性の違いが影響しているのであろう。

"ブラス・ロック"と言われましても、最早知らない人に例を挙げるのすら至難なくらいの、マイナーな歴史用語になってしまってますが。
バンドとしては、"シカゴ"ですね。・・・ただしごく初期の。後年のAORとは完全に別ものなので、聴く時は覚悟した方がいいです。(笑)
知ってる人向けに言うと、"イギリスのプログレ"が"アメリカのブラス・ロック"にあたるという指摘、比較は、なかなかはっとさせられると思います。まあプログレの前身の一つの"ヴァニラ・ファッジ""アイアン・バタフライ"なんかはアメリカのバンドですから、そっちとは比べないんかいという疑問もあるにはありますが、「社会性」「知性」という意味では、確かにブラス・ロックの方が相応しいかも。
外向きだけど上っ面なシカゴ的なものと、内向きで意味ありげだけどありげなだけな気もする(笑)クリムゾン的なものというコントラストは、確かに"お国柄"として分かり易い違いですし。


"ピンク・フロイド『狂気』"(p.104)

 曲のタイトルも<マネー><タイム><走り廻って>と説明的で、歌詞も解りやすい皮肉っぽさで書かれているため一般的な評価は高いが、一面では、彼らの開拓したテクニックがテーマの単なる従属物となり、無限に広がるイメージが固定され、歌詞を説明するだけの卑近な素材に奉仕しているという無残な姿になり下っていることも見落してはならないだろう。

ここも大して重要な個所ではないと思いますが、当たり前のように『狂気』('73)が名作代表作として挙げられる度にいらいらさせられる同輩として、ノらせていただきました。(笑)
"無惨"という印象は、正にその通り。


"まとめ"(p.187)

ロックの三〇年、特にニュー・ウェイブ時代まで一貫して論じているのは本書が初めてではなかろうか。

そう、だったのかも知れないですねえ。
僕は紀伊国屋で、てきとうに目についたのを買っただけでしたけど。
どっちみち当時は、載ってるバンドのほとんどを聴いたことの無い若輩者(笑)の身だったので、何でもありがたく拝聴するつもりでしたけど。
でも結果として、いいのを選んだなと思っています。
例えば渋谷陽一みたいな"ロック評論家"というジャンル自体を確立したような人が、自らの本質を編集者と規定して、ライターとして体系的な記述などには余り意欲を見せなかったので、珍しいと言えば珍しい本だったのかも知れません。
ただしこの本も、体系的認識を背景にはしつつも、基本的には割りと散発的なアルバムレビュー、アーティスト論の寄せ集め的な構成になっていますけど。
まあ固め過ぎるのも嘘くさいところがありますから、それはそれで良かったのかも知れない。

僕が影響を受けているか。
うーん、何せレビューされている対象自体をほとんど知らなかったので、割りとアウトラインを掴む為に読み飛ばしたところがあって、一つ一つはそんなに受けてないというか、そもそも記憶に残っていない。たまに思い出して、照らし合わせることがあるくらい。
まあ例えばこの人はザ・フーを無視してるので、僕も割りと"歴史"観の中でフーが欠落しがちとか、それくらいの影響はあるかも知れない(笑)。一つ一つの評価や論法は、結果的にかなり似てるところがあるので、受けるまでもないというか。

とにかく知ってる人も知らない人も、それなりに面白いと思うので、良かったらどうぞ。
"学者先生のご高論"ではないけど"業界人の内輪話"でもない、程よい距離感が、いい本だと思います。


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テーマ:洋楽ロック
ジャンル:音楽
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