東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
『読書の歴史』ラスト ~枕草子、朗読
2015年08月31日 (月) | 編集 |
凄く今更ですが、マングェル『読書の歴史』




は、大きく前半が「読書すること」後半が「読者の力」と分かれていまして、前回まで延々やっていたのはその前半部分についてだったんですね。
それで終わりにしようかとも思ってたんですが、最後のつもりでやった前回がそこそこ好評のようだったので、せっかくなので最後までやります。
といっても割愛しようかと思っていたくらいで、前半部分ほどの内容は無いです。結果的に、二つのトピックスに集中してしまいました。


枕草子(vs源氏物語)

p.257下

以下に(枕草子中で)「楽しいこと」とされた例を二つ挙げよう。

 以前読んだことのない何巻もの物語を見つけること。
 あるいは第一巻を読んで面白かった物語の第二巻を得ること。もっとも、この場合、
 大抵は面白くない

千年の時を越えて爆笑。
分かるよ、清少納言。"物語"読みの心は、平安時代も現代も変わらないらしい。
漫画読ませてあげたいなあ。どこかで生まれ変わってないかなあ。
まあそれくらい、現代人には暇がある、ということかも知れない。平安の世なら、宮廷女性くらいしか持っていなかったような。
・・・どちらかというと、ここでいう"第二巻"というのは、単行本の第二巻というよりは、ヒット作の"パート2""続編"みたいな感じの方が、比較としては正しいかもしれませんね。


p.259上

紫式部自身もまた同じような生活をしていた日常世界のそのささいな出来事を、清少納言は、あたかも『源氏物語』に描かれた輝くばかりの世界と同じように細心の注意を払って綴ったのであった。

架空の人物による大きな「物語」を書いていた紫式部が、極微の「物語」、枕草子の"随筆"性"日記文学"性を批判したという、そのことを受けての記述。
ポイントは「細心の注意」というところですかね。つまり小さいからと言って書き流したわけではなくて、紫式部が源氏に注いだ情熱と対等のものを、清少納言は"ささいな出来事"の描写に注いだという。(そういう評価)
要はジャンルの発明というか、物語る対象の"発見"というか。
源氏的な物語は、ある意味ギリシャの叙事詩以来の"物語"の王道であるわけですけど、そこから物語る対象を広げて広げて、現代に至るというか。
あるいは近代「私小説」であるとか黒澤明が日本映画はお茶漬けさらさらばっかりだとぼやいた、そこらへんに至る日本的物語性文学性の、それをめぐる論争のはしりみたいな話かも。
じゃあやっぱり紫式部は、(日本的な)"ブログ"や"ツイッター"を見ても、「そんな個人的なことをわざわざ書いてどうするんだ」とか言うんですかね。(笑)
"ネット実名派"の臭いとかは、少しするんですけどね。勝間和代の顔が一瞬浮かんだというか。(笑)
悪い人ではないと思うんだけど(笑)、少し付き合いづらそうな感じはする。


p.259下

『源氏物語』では、光源氏を取り巻く女性たちの生活が描写されているわけだが、『枕草子』では、女性読者自身が自らの記録者になる機会が与えられているのである。

一方で清少納言には、オタカルチャーの臭いが少なからずある。ちゃんとしてなくてもいいから自分の好きなこと書いちゃえというある種の"行動力"は、今日の同人文化(二次創作)に通ずるものを感じるし。
"作者になってしまう読者"という特性は、平安以来の日本女性のDNA?(てきとう)
僕自身は、同人まで行ってしまうと少し抵抗があるというか、逆に興味を感じないというか。
素材や切り口は自由でいい、でも書き方作り方には、ある程度"プロフェッショナル"の緊張感というか縛りがむしろ欲しいというか。
逆に自分の書く物については、徹底的に"アマチュア"ですけどね。一線を引いてるというか。
書くことは好きだし何らか才能らしきものがあるように思う瞬間もあるけど、プロになろう的なことを思ったことは人生で一度も無いですね。職業性にはハナから耐えられない。(笑)
事務的書類とかをプロフェッショナルに書くことについては一定の快感は感じるんですが、"好き"なことについて枷をはめられるのはほんと嫌ですね。
と、自分語り。これも枕草子のせい。(笑)


作者による"朗読"(会)

p.275下

 ひとたび聴衆に向かって朗読が行われると、そのテクストは、作者が意図した本来の性格とその朗読を聞く勝手気儘な聴衆との関係によってのみ決まるというようなものではなくなってくる。(中略)
すなわち、そのテクストは、朗読者でもある作者によって決定づけられたことになる。

日本ではあんまり見かけませんが、アメリカのドラマとかを見てると、フィクション/ノンフィクションを問わず出版にあたって作者がキャンペーンとして各地を"朗読"して回るというのは、現代でも当たり前のように行われているみたいなんですよね。
この本によると、近代以前から、それはヨーロッパ出版界の広い慣習というか、伝統だったよう。
ここで問題とされているのは、その"作者による朗読"を聴かされる(た)読者は、最早通常の意味の解釈の自由を奪われて、その朗読で朗読者たる作者が表現・伝達したある一つの意味・ニュアンスだけを、その作品から与えられるようになること。
実際それについては僕もそれらドラマ等の"朗読"シーンから感じていて、なんか不自由で嫌だなという思いと作者が伝えたかった"本当の"意味が分かるというある意味"正しい"形態なのかもなと、両方の感想を同時に持ちました。
聴いてみたい、でも聴いてみたくない。(笑)


p.279下

叙事詩『万国史』を、一三八七年までにラテン語から英訳したジョン・オブ・トレヴィーザは、韻文を使わず、あまり朗読には向かないはずの散文を用いていた。聴衆はもはやそれが朗読されることを期待せず、その代わり自分自身で読むに違いない、彼がそう判断したためである。
いわば作者の死により、読者はそのテクストを自由にやり取りすることができる、彼はそう考えていたのであった。

ジョン・オブ・トレヴィーザさん(笑)が問題意識としてそういうことをした、考えたのか、それとも諸事情で"朗読会"自体が廃れ始めていた時代の趨勢を受けてそうしただけなのか、ちょっとこの記述では分からないんですけどね。
ただとにかく14世紀の時点で、「作者」と「読者」(の自由)についての問題は発生はしていて、認識している人もいたという話。
"作者の死"という言葉を、こういう文脈で目にするとは思わなかった。
"朗読"してくれる作者の、文字通りの不在、死。(笑)
まあ今日当たり前のように享受している、「読者の自由」ってなんだろうということは、少し考えてしまいましたね。それは必ずしも本来的性格のものではなくて、作者の伝達能力・機会の物理的限界により、消極的に存在しているだけなのか。


p.283上

今日朗読会に聴衆が期待していることと言えるかもしれない。すなわち、作者が、俳優としてではなく、あくまで作者として朗読している様子が見られるということ、そして作者が登場人物を創造している際に心の中で発しているような声を耳にし、それを作品に合致させるということなのだ。

ああ、確かに。見たいのが作品の"上演"でないのは確かですね。
朗読ではあるんだけど、パフォーマンスそのものというより、むしろ「解説」に近い感じ、作者によるそれは。
作品の"本当の"意味を知りたいという気持ちは、要は"創作の秘密"を知りたい、裏側を見たいという気持ち。それによって作品を所有・独占したいというか。


p.344下

スティーヴンスン自身は、七歳になるまで文字の読み方を習わなかった。怠けていたからではなく、物語を朗読してもらう楽しみを少しでも引き延ばしたかったからである。

スティーヴンスンというのは、『宝島』のスティーヴンスンです。
僕はどうだったかなあと思い返してみますと・・・うーん、最初から自分で読みたがったかな?(笑)
母親は人並みに(?)読み聞かせを習慣的にしようとしていたようですが、僕は冷静に聴いていて、一定時間が経つと「もう寝たら?」(あれは疲れる)と母親に言っていたという話。(笑)
まあ読み聞かされた内容についての、記憶も印象も全く無いですしね。
根っから「自由」派なのかも。


以上、雑然としていますが。
「読者の力」編でした。
これにて終わり。


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