副題:「虚偽と邪悪の心理学」
上は文庫版ですが、僕が実際に読んだのはハードカバー版で、以下のページ数はそちらに従ってます。
出た当時('96)は相当売れたらしく、どこのブックオフにも一冊はある感じ(笑)。(100円)
まずはそのハードカバー版の、表紙裏より。
ある知り合いに当てはまり過ぎて、爆笑してしまいました。(笑)邪悪な人間とは、こんな人である---
・どんな町にも住んでいる、ごく普通の人。
・自分には欠点がないと思い込んでいる。
・異常に意志が強い。
・罪悪感や自責の念に耐えることを絶対的に拒否する。
・他者をスケープゴートにして、責任を転嫁する。
・体面や世間体のためには人並み以上に努力する。
・他人に善人だと思われることを強く望む。
本文には具体的にこのようにコンパクトにまとめてある箇所は無かったので、編集者センスあるなあという感じです。
更に本文を細かく読んで行くと、その知り合いは「邪悪」に堕ち切るぎりぎり手前くらいの位置に、著者の分類ではなるらしいんですが。さっさと堕ちてしまえ!往生際悪く助かろうとするな。俺を見るな。(笑)
こんなんだから、どんなに興味があっても、心理療法家とかは僕はなれない(笑)んですけどね。
衝動的なタイプの"犯罪者"には、優しいんですけど。"動物"にはというか。
"人間"的な悪は、ひたすらおぞましい。
『平気でうそをつく人たち』というタイトルだけ見た時点では、"詐欺師"とか"敏腕セールスマン"とかそういうタイプの"うそつき"、その内の犯罪や精神疾患に至ってしまった人たちの事例集みたいな感じなのかなあと思ってたんですけど。少し違う。
そういうあからさまで軽薄な"うそ"ではなくて、もっと隠微な、見かけ真っ当な市民生活を送っている、何なら十分に高い社会的地位や階層に位置しているような人たちの中に潜む「邪悪」、それが標的です。
上の分類で言えば、最後の二項目の「体面」や「善人」の部分が、大きく関わっているというか。
まあ体面にこだわれば邪悪ということでもないんですけど、邪悪"率"は高いですよね、機械的に探しても。(「体面」にこだわる人の中を)
それら自体は言うならばただの「偽善」で、そこに前の方の項目にある異常な「意志」の強さ思い込みの強さが加わると、「邪悪」と呼ぶべき破壊的な人格になるという感じでしょうか。「体面」が動機、「意志」が原因というか。
まあ歴史的な"成功者"のある部分も含めて、「意志」が余りに強い人って、それだけで"病的"な感じはします。その目的を問わず。
とにかく現状では明確に"病気"とは分類されず、かつあからさまに"犯罪"としてあらわれるような悪には直接関わらない、しかし社会のあちこちに存在して深刻な害悪をまき散らしている「邪悪」な人格類型を、何とか対象化して、出来れば精神医学の"治療"の対象として認識されるようにしたいという、それが自ら療法家でもある著者の直接的な狙いです。・・・当面は既存の分類の中の、「自己愛性人格(パーソナリティ)障害」の一端として位置付けたらいいのではないかと、そういう提案ですが。
本の構成としては、「事例集」というよりも項目ごとに代表的な事例を一つずつじっくり解説・展開する感じで、それ自体を引用するのはちょっとやり難い。だからまあ、ほんとに興味のある人は"読んで下さい"という話になっちゃいますが。100円だし。(笑)
事例から即ちで導かれるというよりも、作者の論述によるところが大きいので、そういう意味でも、冒頭の(編集者による)まとめはありがたい感じ。あれだけ見れば、分かる人には分かるでしょうしね。
というわけで定義とかは微妙に端折りますが、ただ一つ著者が完全に「典型」として考えているものはあって、それは家族・家庭、特に「親子」関係において親が子に対して振るう権力・影響力、そこが正に「邪悪」の宝庫(?)というか、本場というか、本丸というか。
社会公認の閉じた関係の中で「悪」が表面化し難い領域であるし、「教育」や「親の子に対するケア」という口実の元"体面"や"世間体"の保護され易い領域でもあるし、また実際に"子供の為""愛"と親自身が自分をだまし易い領域でもあるし。更に言うならば、「子を愛する親」という自己像は、普通の(特に邪悪でない)人にとっても何としても守りたいものであるわけで、そこにおいて自分の誤りや罪や責任を断固として認めないという心理が発生し易い領域でもある。
素質としての"邪悪"が、成長・開花し易い領域というか。実際の事例を見てもそういう印象は強いですね。親にさえならなければ、この人(たち)もここまでおぞましい生き物にはならなかったろうにという。
より一般化すれば、権力や上下関係、地位や名誉、公認の価値があるところにこそ隠れ潜む隠微な悪としての「邪悪」は発生し易いわけで、だからこそ、社会の表側を主舞台とするからこそ、広範で深刻な危険があるわけですね。
そこらへんが、所謂「犯罪」(者)的な"悪"と違うところ。"裏側"とは。
とりあえず、「親子」というのは恐ろしい関係性であると。色々な意味で。
これはいち「邪悪」という観点からというよりは、ある種の業界あるある的なことみたいですけど。子どもが精神科の診療に連れてこられたときには、その子供は「見なし患者」と呼ばれるのが通例になっている。この「見なし患者」という名称を用いることによってわれわれ心理療法医は、その子が患者と呼ばれるようになったのは、両親やほかの人たちがそういうラベルをはったからであって、治療の必要な人間はほかにいる、ということを言おうとしているのである。
(p.81)
たいてい、悪いのは親であるという。ほとんど診察するまでもなく。
子供は勝手に病気(精神疾患)にはならないというか。
恐ろしいですね。そのことを当の親に認めさせる困難まで想像すると、尚更。
ますます心理療法家への道が遠ざかる。(笑)
"助けてあげたい"という気持ち自体は、痛烈に感じられますけどね。
例えばたがたがアルバイトの家庭教師先で、母親に意味なく抑え込まれて自尊心の成長を妨げられている男の子(の生徒)などを見るにつけても。そういう母親は息子の"成長"を敏感に察して、早々に息子と息子が懐いた家庭教師(つまり僕笑)の間を遠ざけようとして来たりするものですけど。
ちょいちょい言ってますが、核家族で女親が男の子の成育を(一手に)担うということに関しては、どうも僕はやはり基本的な疑問を感じざるを得ません。同じ"男の不在"でも、母子家庭の方がむしろマシなのではないかとか、直感的には思ったりします。
まあ著者が挙げる事例自体は、基本両親は共犯で、ますます"邪悪"感は増すわけですけど。"陰謀"感というか。
構成上、いきなり具体的な話から始まりましたが、ここからはむしろ"定義"的な話。
だからこそ、"虚偽"が"邪悪"の前に来ているわけですね。邪悪と罪悪を区別して考える必要がある。(中略)
邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めるのを拒否することにあるからである。
(p.94)
"邪悪"の原因としての"虚偽"というか。
過ちを犯すことではなく、それを認めないこと、認識しないことが、「病」としての悪を生み出す。
上でも少し喋ったような話ですが。私は犯罪者と呼ばれる受刑者たちの治療に長年あたってきたが、こうした人たちが邪悪な人間だと意識したことはほとんどない。(中略)
彼らの悪には、どこか開けっぴろげなところがある。これは、彼ら自身が好んで指摘するところである。つまり、自分たちが捕まったのは、自分たちが「正直な犯罪者」だからにすぎないというのである。
(p.95)
まだ性の"機微"と無縁だった子供の時(笑)は、"レイプ"より"ナンパ"の方が、「悪」としては遥かに本質的なのではないかと、真面目に思ってましたが。より"魂が穢れる"感じがするというか。(何であれ)「意図を隠して誘導する」という行為自体の"悪"。
今はさすがにそこまで四角四面ではないですが、そういう感受性自体は残ってると思います。(笑)
"外傷"的な悪と、"病"的な悪というか。まあ外傷で死ぬこともありますけどね。(笑)
「完全性という自己像」。物凄く分かる。私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に責任を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。
(中略)
したがって悪とは、他人をスケープゴートにするために最も頻繁に行われるものである。私が邪悪のらく印を押した人たちは、慢性的に他人をスケープゴートにする人たちである。
(p.98)
自分が最初から括り出されている("非難の対象外")というのと、"完全"なので一敗も出来ない、一歩も譲ることが出来ないので、自然「攻撃」性が高まるというのと。
そしてその「攻撃」は、"無謬"なるものからの相手の道徳性の否定という形で行われる。
まあこれは割りとよく見るタイプの批判というか、行動パターンというか。邪悪な人たちは、悪を破壊するために破壊的になることが多い。問題は、彼らがその悪の所在を見誤っていることである。自分自身の中にある病を破壊すべきであるにもかかわらず、彼らは他人を破壊しようとする。
(p.99)
"キリスト教"的正義や"PTA"的正義を掲げる、キンキン声のオバハンみたいな、ドラマ的類型が連想されますが。(笑)
またはキリスト教国の軍隊が、よその文化や価値観に向ける道徳的敵意・・・の問題などは、予定しているレポ第2弾で書くつもりです。
p.100
彼らは、自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない。
"ようとしない"というのが、鍵ですね。p.101
邪悪性の基本的要素となっているのは、罪悪や不完全性に対する意識の欠如ではなく、そうした意識に耐えようとしないことである。
別な観点から言うと、真理愛が極端に欠如しているという印象を、僕は受けます。
目の前の相手に勝つ/負ける、体面や世間体が守られるか/られないかだけが関心の対象で、それ以外の基準が無い。
自分の誤りや責任、真実性の問題としてのそれに全く関心が無いので、"真実"性への奉仕・忠誠としての、苦痛に「耐える」という選択肢・動機が存在しない。
24時間365日、法廷にいるような感じ、でしょうか。全ては勝ち負けと戦術の問題でしかなくて、有罪だろうが事実だろうが、とにかく"譲"ったら認めたら"損"という。
「世間」という、「法廷」かな?
ここは重要な定義的問題。精神病質者のように心楽しく道徳意識を欠いているのではなく、彼ら特有の良心の陰にある自分の邪悪性の証拠となるものを消し去ることに、絶えず専念しているのである。
(p.101)
つまり(著者の認識では)同じく恒常的にインモラルな行動を取る人でも、「社会病質者」や「精神病質者」は、良心が最初から壊れている機能していない、欠如している。だから葛藤は無くて、ある意味あっけらかんとしている。("心楽しく")
しかし「邪悪」な人は、良心自体は存在しているし心の底ではその声を聴いている、しかしそれを自分を欺いて隠蔽歪曲する("虚偽")、し続ける、その分の罪はあくまで他人に転嫁する。
また"し続ける"ことによって隠蔽は複雑化し、"病"化し、治癒改善の困難が増して、人格としての「邪悪」の烙印を押してしまっても、おおよそ誤りの無いような状態がもたらされる。
まあ、まとめ。邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、と定義することである。
(中略)
この支配関係として最も一般的に見られるのが、親の子供に対する関係である。(中略)邪悪性の犠牲になるのは、その大半がボビーやロージャーのような子供だということも、べつに驚くべきことではない。
(p.167)
「統合」(への執着)というのが問題で、それが誤りを認めないこと("完全性という自己像")に繋がるし、またその統合性の預託先としての「世間」体への、深い忠誠心にも繋がるという。
子供の"犠牲"っぷり、親の誤り・責任の"転嫁"されっぷり、それによる自尊心の奪われっぷり"破壊"されっぷりは本当にかわいそうで、まあ読んで下さいという感じですが。
ただここまで興味を持って読み進めて来られた人なら、恐らくは自分自身の体験、振り返っての親への恨みなどを拡張すれば、だいたいの想像はつくと思いますが。
あるいは社会人なら、ある種の上司や傍迷惑な同僚や、厄介な取引相手・顧客の顔などを思い浮かべれば。
・・・アマゾンレビューとかも、かなり力の入った"我が意を得たり"という感じのものが多いですね。みんな一度は被害に遭ってる。(笑)
とりあえずは以上。
入口が"入れた"人にとっては、そんなに分かり難い内容ではなかったと思いますが。
逆に入れなかった人には、説明不足というか段取りが不親切な部分もあるかなと。"論証"としては、正直あんまり出来は良くないかも。(笑)
次回はこうした認識を踏まえた、"集団の(邪)悪"論、具体的には"軍隊"についての著者のユニークな論を、紹介したいと思います。結論が意外でした。全て賛成というわけではないんですが。