正確には、"第5章 集団の悪について"より
予め言っておくと、この章自体の必然性必要性は、僕自身はあまり感じないんですよね。
それまでの主に("社会"を背景としつつも)「個人」についてのユニークで野心的な分析に比べると、"人間が集団として行動した時に犯す特有の悪"という問題は、非常に重大で普遍的ではあっても、それゆえに多くの分析論述が既になされている分野なので、逆に下手に手を出すとせっかくの「個人」についての分析の価値を、曖昧化させてしまう恐れがあると思います。
ただその例として使われた「軍隊」についての筆者の論が、いささか意外な展開をして面白かったので、"(邪)悪"論というより"軍隊"論として、紹介しておきます。
直接的には筆者自身が職業的に関わったベトナム戦争時の米軍、特に所謂「ソンミ村虐殺事件」についての調査経験が、背景・中心となっています。
・・・その"ソンミ村"に代表されるベトナム戦争時の米軍の蛮行については、こちらのエントリーも参考にどうぞ。
集団行動・専門化・ナルシシズム
そうなんですよね。所謂「集団行動」とか「群衆心理」については、"悪"というよりも"未熟"という印象が凄く強いんですよね。集団の行動は、個人の行動にくらべて、想像以上に原始的かつ未成熟なレベルにある。
(中略)
この原因のひとつとしてあげられるのが、「専門化」という問題である。
(p262-263)
つまり「個人」のレベルでなら、およそ広義の近代社会に住んでいる人間なら、例え見栄や偽善が動機だとしても一応は抑制されるような行動や反応が、ほとんどそのまんま出てしまっているという感じ。
そういう意味では、そんなに"深い"悪だとは思わない。前の記事で分析された「邪悪」と比べた場合。
・・・だから何か適切な一言や対処で、彼らを「個人」に戻すことが出来れば、"我に返って"その行動を思いとどまらせることも、それ自体はそんなに難しいことではない。戻すことが出来ればですけど。
「専門化」と「モラル」一般については、同時期に読んだ別の本が詳しかったので、そっちの本をレポする時にまた書きたいと思います。専門化の"例"、具体的様相については、この後の軍隊論できっちり書かれてますが。専門化は、さまざまなメカニズムによって、集団の未成熟性やその潜在的悪を助長するものである。ここでは、とりあえず、そうしたメカニズムのひとつをあげるにとどめておくが、それは良心の分散化である。
(p263)
とりあえずは"良心の分散化"。それによる責任の回避。
上の僕の言い方と繋げると、要は良心が"分散"されずに、「個人」一人分程度が確保されてれば、一応防げると言えば防げるレベルの話だということですね。
立派な人である必要は無い。人間でさえあってくれれば("専門"家ではなく)、個人であってさえくれれば、極端な蛮行は防げるはず。・・・ただどうも「個人」に対する(近代的)教育ほど、簡単ではないようですけどね。何か別のシステムが必要なのか。もしくは別の思想。
"集団"の"凝集力"というと、真っ先に浮かぶのは、その集団内のメンバーに対する所謂「斉一性」(圧力)の問題ですが、ここで筆者が注目しているのは集団が集団として成立して後の、"外""他"に対する立ち現れ方・振る舞いとしての「ナルシシズム」ですね。この集団凝集力として最も大きな力を持っているのが、おそらく集団ナルシシズムだと思われる。
(p.274)
つまり集団が集団である、「自分」である、それ自体の中にある快楽や動機。愛。
その集団が集団として成立していること自体が、その集団を"守"る強い動機を生むというか。
何かの目的の為にその集団を守るのではなくて、存在自体が、守る動機。「自分」というものがそうであるように。
(筆者の)理論的に言うと、ここで"ナルシシズム"という概念を置くことによって、その共通性でもって前回言った"個人"の「邪悪」と集団の「邪悪」を、繫げようとしているわけですね。この集団ナルシシズムは、その最も単純かつ最も心地よいかたちとして、集団のプライドというかたちで表出される。
(中略)
こう考えると、物事に失敗した集団が最も邪悪な行動に走りやすい集団だということが明らかとなる。失敗はわれわれの誇りを傷つける。
(p.274-275)
つまり例えばこういう箇所ですが。
「完全性」「統合性」。ナルシシズム。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。
自分自身の病める自我の統合性を防衛保持するために
それを脅かされた個人が"邪悪"に染まったように、自分の過ちを認めずに他人に攻撃を振り向けたように、プライドを傷つけられた集団もまた、過度の攻撃性をしばしば無関係な他の集団に向ける。傷つけられたプライドの回復の為に。強くて完全な自分(たち)というナルシシズムの上書きの為に。
それがつまり、当時予想外の屈辱的な大苦戦を強いられていた米軍が、ベトナムで集団的習慣的蛮行に及んだ理由の一つであると。
上で言ったように"共通性"そのものには僕はさほど関心は無いんですが、一種の"八つ当たり"であったという説明自体は、理解の難しいものではないと思います。
少し後の方ですが、ここらへんをまとめた箇所。
一九六八年当時、アメリカ(中略)の誇りはいたく傷つけられ、とくに軍の誇りは決定的に傷つけられていた。ここでもまた、脅威にさらされたナルシシズムという条件から悪が生まれるという事実が明白となる。軍にとって、悪に走る条件は十分に整っていたのである。
(p.290)
"殺し屋"としての軍隊 ~"専門化"の問題
ベトナム開戦当初の米軍が、必ずしも「平均的」アメリカ人の集団ではなかったという話の流れです。われわれアメリカ人が、アメリカ社会が、意図的に彼らを選び、雇い、われわれにとってのダーティーワーク、つまり汚れ仕事である殺しを、われわれに代わって彼らにやらせたのである。その意味では彼らはみな、アメリカ国民のスケープゴートになった人間たちである。
(p.283)
つまり彼らは常設的伝統的な"軍人"集団と・・・そして地域社会の鼻つまみ者の粗暴性格者や犯罪者や、あるいは行き場の無い貧困者で主に構成されていたということ。
だから「意図的に」というのは、社会構造的にくらいの意味。無作為にではなく、結果的な必然性をもって、"選ばれた"集団であった。一種の"殺し屋"、少なくとも殺しの"代行"者ではあった。アメリカ社会の。
そしてその後。
理解は出来るけど、嫌な話だな。(笑)このスケープゴートの問題がクローズアップされたのは、ひとつには反戦運動の歴史においてである。(中略)
(六五年に始まっていた)ベトナム反戦運動が根づいたのは、七〇年以降のことである。なぜ、こうした時間のずれが生じたのであろうか。(中略)
その最も重要な要因となったことは、一九六九年にいたるまでは徴兵された兵隊が大量にベトナムに送られることがなかったという事実である。
(中略)ベトナム行きなど夢にも望んでいなかった自分たちの兄弟、息子、父親がベトナムに送られるようになってから、アメリカの大衆があわてはじめたのも、当然のことである。
(p.283)
つまり先ほど言った初期の米軍兵たちは、要するに職業軍人+志願兵だったわけですね。実際に"投獄か入隊か"の二択で軍隊に入った人は当時沢山いたようで、例えばかの『ウィンター・ソルジャー』中のスター証言者"カルミニ"なんかも、正にそうした一人としての身の上を語っていました。
そういった"連中"が戦っている間は、「反戦運動」は一般に波及しなかったと、いう話。"殺し屋"に殺しを任せて、"一般"の人たちは戦争を他人事として、暮らしていたと。その間に既に現地では、ソンミ村のような事件(1968)も起きていた。
繰り返しますが、大衆の反応として無理は無い、とは思います。当時の一般アメリカ人が、特に不道徳だったわけでは。殺しの専門家たちの数が底をつきはじめるまで、一般大衆は戦争の責任を引き受けようとしなかったのである。これが、専門化集団に伴う第三の問題として目を向けなければならない点である。
(p.284)
ただ、もしくはだからこそ、「要は殺し屋を雇ってるようなものだ」という指摘には、どきっとしましたね。戦争を専門職集団に任せるのは。
まあある意味ではほんとにそうなんですけどね。・・・つまり、"戦争を職業軍人や志願兵がやる"ことをむしろ正常だと考える常識も一方では存在していて、それは「国家総力戦」の絶滅戦争の悲惨さを回避するという意味でもそうだし、勿論「非戦闘員」を攻撃しないという倫理にも繋がる感覚でしょうし。更にはそれ以前に、望まない殺しを強要されないという、良心と人権の問題がありますが。
ただ一方で厄介払いをしている、押し付けているという濁りも存在はしていて、特に日本国憲法下における自衛隊という特殊も特殊な集団を抱える日本人などは、否定し難くそうでしょう。・・・何ならその自衛隊にすら殺し(や戦死)を許さないという、徹底した逃避でもあるわけですけど。
とにかく「専門化」によって、一般の人や社会全体が責任を引き受けない、現実や道徳判断から逃避するということを、筆者は強く問題視するわけですが。
徴兵制のススメ(?)
そっちへ行ったか!びっくり。(笑)完全徴兵制度--非志願兵制度--こそ、軍隊を健全に保つ唯一の道である。
徴兵制なき軍隊は、その機能が専門化するだけでなく、その心理においてもますます専門化するものである。(中略)
徴兵制には苦痛が伴うものである。しかし、この苦痛が保険の役割を果たす。
(p.285)
まあ、論理的には、おかしくはないんですけど。
軍隊をごろつきの吹き溜まりにしないように、専門化された、分散した良心しか持たない戦闘機械の集団にしないように。
それによって、自己目的的な暴走を抑える、暴力性の過度の徹底化に常識的な抑制がかかるようにする。
そういう論理。
分かるけれど、まさかの結論。(笑)
戦争は悲惨だ、戦争は嫌だ。だから徴兵制だ!
"軍人魂"。正に"集団ナルシシズム"としての。国防長官は絶えず変わる。また、徴募兵や四年勤務の志願兵も絶えず入れ替わる。ところが、古参職業軍人はそのまま居つづける。軍隊というものに連続性のみならず軍人魂なるものを付与しているのは、まさしくそうした人たちである。
(p.286)
まあ、「官僚」みたいなものか。
その強固過ぎる「連続性」に、"外部"の血を、あるいは"民間"との流動性を。
と、主張の"パターン"としては分かるんですけど。
それにしても極端だというのと、「軍隊」という組織の性格と、どこまで適合可能なのかというのと。
なるほどね。われわれが軍という組織を必要とするのであれば、可能なかぎりこれを非専門化することを、社会全体で真剣に考えるべきであると私は言いたい。
ここでわたしが提言することは、古くから言われてきたことをいくつか結びつけたものである。すなわち、多目的国家奉仕隊がそれである。(中略)軍隊としての機能も果たすが、それと同時に、スラム街の清掃、環境保護、職業訓練教育、その他、市民にとって不可欠のサービスを行う国家奉仕隊を設けることである。全面的な志願兵制あるいは不公平な徴兵制によって兵員補充を行う軍隊ではなく、男女を問わずアメリカの若者すべてに国家奉仕を義務づける制度にもとづいたものを設けるべきである。
(p.292)
だいぶ具体性は、見えて来たようには思います。
"軍備増強""総動員"としての徴兵制ではなく、また"若者を鍛え上げる為"のマッチョ文脈からの放り込み、完全義務制ではなく。
やはり意外ではあるし、いずれ複合的な目的意識ではあるんでしょうが。
1.軍隊に非専門家の常在による常識を。
2.それらの人たちを、更に「完全義務」による多人数を抱え込む為の活動の多様性を。
3.副次的に、各種社会的必要性の満足を。
4.不公平の防止と、やはり"国家への奉仕"も。
これくらいの優先順位でしょうか。
まあ文脈が理解されないと、あるいは"誰が"提案するかによって猛反発は来そうではありますが。
体制による悪用も、比較的容易に出来そうですし。
ただ「奉仕」そのものは常識として持っているアメリカなら、実現不可能ではないのかも。議論の対象にはなるというか。
ただより根本的には、軍隊のそもそもの目的や戦闘力の問題が、正に「専門」性との絡みで問題視されるのは間違い無いでしょうね。言わば軍隊の"骨"をある意味抜くことによって、弊害も防止しようという主張なわけで。
そして動機の道徳性からすれば、その目的を隠して主張するという誤魔化しは、金輪際出来ない訳でしょうし。
まあ緩い二重構造による部分的実現、くらいなら可能なのかなと。
「専門」層は専門層で温存しつつ、完全徴兵の(多目的)素人層も、一応は「同じ組織」として日々活動することによって、自然に影響し合う、風を通すと、そんな感じで。
戦場でどうするかという、問題はありますが。つまり戦場には結局玄人しかいないなら、暴走を防ぐ効果はほとんど期待出来ないでしょうし。何か素人層の仕事を作らないといけないでしょうね。
とまあ、難題は山積みではあるんですが、「徴兵制」をこういう観点で見たことは全く無かったので、新鮮ではありました。
ただどちらかというと、これはこれで別の本で(笑)やった方がいい主張だとは、やっぱり思います。(笑)
以上です。