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読書日記(’16.1.4) ~冲方丁『光圀伝』他
2016年01月04日 (月) | 編集 |
去年の残り的な。
一回取り上げた本の、それ以外の部分。





読了。
"格さん"はちらっとだけですけど、"助さん"に当たるらしい人は、結構活躍していました。(笑)

p.311
蔵書の一覧作りに、光圀は安らぎを感じていた。様々に生きた人々の記録を扱うことで、現在の己の困惑が少しずつ収まってゆく。
(中略)
一覧の穴を埋めてゆくうち、おびただしい数の生の記録には、確かにがあるのだと実感するようにもなっていた。人の心を平穏にさせる力、自分の人生を客観的にとらえる視点をもたらす力だ。

「歴史」というものの、根本的な力というか。
時に"孤立"しているとも感じられる自分の生が、何かすぽんすぽんと、あるべきところにハマっていく快感というか。(笑)
"教訓"とまで言ってしまうと、積極的過ぎるというか作為的過ぎる感じになりますが。
おっさん度が増すというか。(笑)

"歴史"の力、歴史の"罠"。(笑)
とにかくこういう感慨も込めて、かの水戸光圀公は所謂『大日本史』を編纂したということ。
そもそも「国史」を編纂するという習慣自体が(記紀以来)日本には無くて、言わば朝廷や幕府の代わりに水戸家がやったのだという指摘は、なるほどと思いました。
何でかな?とは思ってたんですよね、確かに。
なお実際は一方でそういう"私的"な国史編纂の試みというのはこの前後に一つの文化的ブームでもあって、例えば朱子学の林家などとも競い合う形で、光圀はこの事業を行っていたということ。

p.523
こうした法整備において、論拠を明らかにすることができるというのは、ある種の特殊技術である。
法の研究も、その制定も、まだまだ組織化されておらず、多くは恣意的にならざるを得ず、その全責任を誰が背負うのかといったことがたびたび問題になった。

大名、御三家の当主という立場にありながら、若くしてたいていの学者以上の並み外れた教養を身に付けていた光圀は、しばしばこの「論拠」を与える存在として幕閣や武士社会に頼られて、それもあって(天下の)"副将軍"的扱いを受けるようになったという、そういう話。

余談ですが最近、なぜ世の政治家たちがしばしば宗教家や霊能者・占い師などの怪しげな人種に頼るのかという理由が分かって来たような気がして、つまり彼らには"自信"が無いんですよね。"根拠"が。論拠が。政策を決定する上で、法律を提案する上で。我々が思ってる以上に。
宗教家には教義に基づいた信念がある、官僚には前例に基づいた知識がある。では政治家には?何も無い。多くはただの人。
"法律を作る"というのは、場合によってはかなりクリエイティブな作業で、ほとんど「世界」を作る、無から秩序を作るというような性格を持つもので、それに耐えるような拠り所を、普通政治家は持っていない。
宗教家には曲がりなりにも世界観があるし、官僚ならその"クリエイティビティ"の危うさを避ける為に、前例に逃げ込むことも出来る。でも政治家は。
だから多分、真面目な政治家程、やる気のある人程、不安に駆られて根拠を求めて、怪しげな権威に近づくと、そういうことはあるのかなあと。その意味で、"政教分離"は、言う程簡単ではないというか。
神のお告げに任せられたら、楽でいいなという。(笑)





しつこく、道徳について。(笑)

p.137
ローマ帝国の官僚機構のように、キリスト教においても(略)カリスマは世襲制によって引き継ぐことはできなかった。(中略)
何世紀ものあいだ、教会は聖職者の地位を世襲制にしようともくろむ国王や封建勢力と懸命の闘争を展開した。("聖職叙任権闘争")
この問題を最終的に解決するために、グレゴリウス十世などの改革派法王たちは、司教の叙任権を自己の手中に握り、聖職者の独身制義務化したのである。

何のことかよく分からないでしょうが、純潔を重んじるキリスト教の性道徳が形成された過程についての説明です。
・・・つまり、聖職者の地位を(その土地の世俗権力の影響下の)世襲制にしない為に、聖職者に跡継ぎが出来ないようにする、その為に独身制を義務化する、その理由付けとして純潔が神聖化されて行ったという、そういうこと。
まあ勿論それだけではないんでしょうけどね。(笑)
なかなか意外な背景でした。

p.75
このような道徳の前提条件はすべて、(中略)むしろ、一般的な感じ方、考え方である。しかし、それらは人間の精神と心に深く根を下ろしているものである。(中略)
 私たち誰もが、良い社会とはどのようなものなのかという理念をもっている。各個人が敵意や嫉妬心を抱くことことなく、知性や愛情で処遇されるような社会。誰もが他者の必要とするものを理解して、知恵と知性でそれに応えるような社会。

「一般的」であり「根を下ろして」いる。それが肝。
前回述べたように、今日道徳には理論的根拠が欠けていて、ここの後段で述べられているような「良い社会」についての理念というのは、あくまで一般的な感じ方として共有されているに過ぎないわけです。だから「"人権"には根拠が無い」などと言い出す人も出て来るわけですけど。
しかしむしろその"一般"性こそが、"根"であるという話。
ちょっと分かり難いか。

つまりですね、この世界一政治的に呑気な国日本でも、近年は"左右"の対立がかなり定式化されて、こうしたリベラルな理想も「左」として、「右」から攻撃されることが増えて来たわけです。
ただね、この種の理想というのはことここに及んでは必ずしも政治的なものではない、理論的なものではない、つまり別に"マルクス主義"へのシンパシーから、現代の我々は(あえて言えば)"リベラル"な理想を、社会目標を抱いているわけではないので。そういう"経験"も無い。
むしろ「マルクスなんて大嫌い」「リベラル」というあり方が一般的なのであって、それは理論的にはある意味意味不明で、最終的な社会像としては"考え無し"な部分もあって、そこを「政治的」な敵には衝かれるわけですけど。
ただだからこそ、普遍的でもあるんですよね。
政治的方法論的な択一の問題としてではなくて、例え元はマルクスを筆頭とする欧米の政治思想家たちがそれぞれの文脈で言い出したことであったとしても、その内容や結論の妥当性・究極性自体を人類は、大衆は直観して、様々な時々の政治闘争の空中戦とほぼ無関係なレベルで、共有して定着して行ったと、そういうことだと思います。また欧米においてもそうであるということを、ここでアルベローニは言っているわけですね。

言葉というのは予め根拠があって主張されて、その論理的整合性によって認められるということもあるけれど、一方で言葉にされたその言葉が、結果として何かを「言い当てて」、その言い当ての的確性や力強さそのものが事実としての"根拠"になって定着して行くと、むしろそちらの方が割合としては多いような気がします。
言葉に限らずですが、何かが「流行る」というのはそういうことではないかと。
だからつまり、「人権」やそうしたリベラルな理想というものは、最早政治闘争とは別の次元で定着している普遍的な目標であり、人類が全体として認めて選び取ったものであり、「道徳」そのものであると、そういう話です。
いち政治思想ではない。元はそうであったとしても。

それをどう、社会システムとして全体的にマネージして行くかという技術的問題は今後もあり続けて行くだろうけれど、「目標」としては、方向としては、もうそれしか無いんですよね。
知ってしまったからには戻れないというか。気が付いてしまったからには。
偏りとしての"左"を攻撃するついでに、それまで押し流す権利は"右"には無いということですね。
例え"右"そのものに、今日主張すべき何らかの政治的妥当性があったとしても。

その部分の折り合いというのが、今後しばらく、多くの社会で問題になって行くだろうなと、そういう感じ。
勿論日本でもね。
左右共に、余り雑駁な議論をして"世界遺産"を破壊してしまわないように、気を付けなければならない。
戦争は外でやれというか。(笑)
左は遺産を盾にしないように、右は中の人のついでに遺産そのものを攻撃対象にしないように。


今日は以上です。


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