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F・アルベローニ『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』
2015年12月17日 (木) | 編集 |





この(↑)本で日本でも有名になったらしい人(コトバンク)の、かなり哲学的なタイプの本。
「道徳哲学」というか。
タイトルからすると、科学主義的な"全ては人間の思い込み"的な本か、逆に"心がけ次第だ"という説教臭い本のどっちかという感じですが、どっちでもないです。
「道徳哲学」とは言いましたが、"道徳的"な哲学ではなくて、"道徳を哲学する"という感じ。
肯定でもあるし、否定でもあるし。


第3章 「役割を演じる」ことの害悪 より

『平気でうそをつく人たち』 ~「軍隊」編で言っていた"「専門化」と「モラル」"問題が、つまりはこれ(この章)です。
逆にあちらを引くならば、"兵士"という役割演技の元、上官の命令一下個人としてはとても出来ないような残虐行為を平気で行ってしまう、そのような状態を一つは言っているわけですが。

p.37
私たちは、職業的な役割体系の上に身を置いているわけだが、その理由は、それがもっとも簡単であるからである。

宗教の社会の表面からの退場や、"民主主義"や"価値相対主義"の一般化によって絶対の基準を奪われた状態で、道徳的判断や責任の回避や留保、あるいは代用の為に職業倫理や時に職能そのものに頼るという行動に無縁でいられる人は、恐らく現代社会ではいないでしょう。
その方が、"賢く"も見えますしね。道徳を正面から問うより。
一種の知的な「市民権」の証明というか。

p41
私たち各人は、数々の役割を演じ、さまざまな方法で習得したいくつもの社会的仮面をまとい、さまざまな自我を生みだしながら、別の役割を演じている自我が行っていることについて無知であるように見える。しかし、これらの分離されたそれぞれの自我のあいだでの接触あるいは一致なしに、道徳が存在しうるだろうか。

"無知"というか、"無視"でしょうね、実際には。
勿論分離がこじれて"無知"になっちゃってる人も、中にはいますが。知的能力的に矛盾した複数の状態を一遍に視野に入れることに耐えられないか、あるいは「役割」への没入の結果得られた「力」「権力」への執着後戻りの出来ないレベルに達して正気を失ってしまった人か。
ほとんどの人は、内心では分かっている。「接触」や「一致」の欠落が問題であることに気付いている。そのことに、"良心の呵責"を感じている。・・・感じている"瞬間"がある。(ただしすぐに忘れる)

p.42
二十世紀のすべての過誤、さらにおそらくは歴史のすべての過誤を許したのは、この役割道徳、細分化された道徳、私的、公的、政治的な領域間の分離、家族とイデオロギー間の分離、分裂した自我だったのである。

うーむ。"原因"論としては分かる気がするけど、ちょっと疑問もある。
つまり我々の自我や道徳感覚が分裂している、そのことに社会の高度化巨大化による役割分化が大きく関わっている、それ自体は確かなことだと思います。・・・加えて言うならば、そのことを「正当化」する諸"理論"の洗練も。著者が(後に)挙げる、ナチズムやマルクス主義を筆頭とする。
ただその「二十世紀」のそれが、"統一"されたものの"分裂"なのか、かつて存在した天国状態からの"堕落"なのかというと、それは一概にはどうなのかなと。
むしろ自然状態では一種生態学的に各生活環境に対して緩やかに"分離"していたものが、人間の社会や思想の「進歩」によってそれ以上のもの、それ以上の正当性を持った「統一」を志向し始め、「一致」が観念され、それによって現代的な問題としての"分裂"が意識されることになったのではないかと。
我らの可愛い飼い猫たちは(笑)、飼い主の前でと巡回中に出会った哀れな獲物たちの前では違う"自我"を示すでしょうが、それはただそうなのであってあるべき「統一」が「分裂」したものでも増して"堕落"したものでもないわけでね。
だから特に「歴史のすべて」とまで言ってしまうと、それは遡っての断罪に過ぎるというか、人間に期待し過ぎというか。
"これから"の問題としては、分かりますけど。

一方で、動物ならぬ人間の子供を見てると、積極的に統一はされないまでも、"分裂"はしていない、つまり「大人」の"使い分け"が理解出来なくてしばしば戸惑うわけで、そういう意味での原初的統一状態というものは、無いわけではないんでしょうね。またそれに類するある種の「田舎の素朴な人々」という類型も、満更嘘ということでもない。
ただじゃあ、彼らが積極的に「道徳」的なのかというと、いざ何か選択を迫られた時に意志的に道徳的に振る舞えるのか、その為の基準を持っているのかというと、それもまた期待し過ぎだろうという。
併せて言うと、つまりは「統一」や「一致」を意識出来るような知性を獲得したり、あるいはそういう段階の社会・文化に属している人々が、にも関わらず怠惰や妥協や権力欲やその他様々な理由によってそれを無視するような行動を取る、更にはそのことへの内心の良心の呵責から、それを正当化する詭弁を編み出してより徹底的に逆方向に行って被害を極大化する、それが問題・事態の本態であると、そうまとめていいような気がしますが。

p.43
分離された自我は無責任の根源である。私たちは、道徳が"統一された自我"を要求することを知らなければならない。それゆえに、自我の統一を否定したり、それをおとしめるようなすべての理論を、道徳の見地から警戒する必要がある。

事態としては、まあその通り。
"自我"と言ってしまうと人によっては少し遠く感じるところがあるかも知れませんが、"セクショナリズム"「無責任の根源」であるというのは、分かり易過ぎるほど分かり易い話でしょう。前掲『平気でうそをつく人たち』 ~「軍隊」編では、「良心の分散化」などという言い方もされていました。
結局まあ、ある種の"覚醒"以来、「どの」道徳を取るかという選択を人類は争って来たわけですよね。ユダヤ・キリスト教から、マルクス主義まで。その他諸々。
その闘争自体は今も続いているわけですが、どうやら"どれ"を取っても駄目らしい、結局同じような惨状を招く、失敗を繰り返すらしいという認識から、一方では道徳的判断自体の拒否・廃棄を標榜する思潮がうっすら広まってはいるわけですが、一方では数々の失敗を繰り返して来たからこそ、道徳の「構造」を可視化する材料も揃っては来ていて、それに基づいて再度、今だからこそ「道徳」をきちんと人類文化の中に位置づけし直そうという思想的営為も可能ではあって、それをこの人もやっているということですね。
ただの「復権」ではない、ということです。既存の道徳体系の、"選択"の問題ではないというか。
他方、"統一の否定"というのは、ある意味では正当なリアクション、"ある"大文字の道徳に大きな力を与えない為の安全策でもあるわけですけど、しかし「理論」的には間違っていると、この人は言います。


第4章 悪人とは

p.52-53
政治闘争の場でもずっとそうだった。なぜなら、誰もが、自分たちの敵対者を不快で悪意を抱く者であり、残酷で、非情な存在とみなしているからである。
(中略)
政治闘争はすべて、背徳であるという非難の下に行われた。道徳という観念そのものを軽蔑し、それを愚弄したマルクス主義者やナチスさえもが、敵対者(資本家とユダヤ人)が寛容、同情、兄弟愛、弱者や無防備な者たちへの援助といった価値観を侵犯していると糾弾したのである。

これは本当にそうでねえ。傍から見ると、お笑い草だったりはしますが。
半ばプロパガンダではあるでしょうが、半ばは常に本気でもある。
相手を道徳的に劣位であるとみなした時ほど、人は徹底的に残酷になれると、これもよく言われることですが。・・・というより残酷になる為には、前提として相手を(無意識にでも)道徳的に断罪するプロセスが必要なんですよね、実際には。
章タイトルは「悪人とは」ですが、つまり結論的に言うと、"悪人"はいないんです。
みな"善"なんです。主観的には。
「自らが悪であるということに耐えられる程、人間は強くない」と、ヤン・ウェンリー

ヤン・ウェンリー

言ってました。(笑)
だから結局、「道徳」という問題から逃れることは、出来ないんですよね。人は。
ならば立ち向かおうと、立ち向かう為の思考を続けようと(それがこれだと)、著者は言うわけです。


以下更に縷々続きますが、今日はこれくらいで。
こういうシリアスな題材は、本当はむしろ一気に書いてしまった方が読む方も書く方も疲れなかったりするんですが(笑)、まあオフシーズンでネタ枯れ気味でもありますので、今回は小出しで失礼を。
よろしくお付き合い下さい。


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