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F・アルベローニ『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』(つづき)
2015年12月26日 (土) | 編集 |
というわけで(?)つづきです。
今回は少し長くなりましたが、これで終わりです。






第6章 ニヒリズムの効用

p.73-74
しかし、そのような"土台"がもはや存在しないということは、私たちが信じるものをもたないということではなく、私たちが価値観や高貴と思えるような目標をもっていないということでもない。私たちが道徳を失ったということでもない。

"土台"が存在しないというのはつまり、前回期せずして(笑)僕も言ったようなことです。

  「宗教の社会の表面からの退場や、"民主主義"や"価値相対主義"の一般化によって絶対の基準を
  奪われた状態」

言ってみれば知的な側面からの、強制力を持った道徳の排除ということですが。
根拠の明示出来ないものに、公的な力を与えないという。

ただそれでも

p.74-75
私たちも、良いこと、より良いことを信じ、夢見、願っている。
(中略)
私たちの司法組織は無数の権利を認め、擁護しているし、つねにその裾野を広げようとしている。

少なくとも西側社会を実際に動かす動因として、ある種の"道徳的"な(あえて言いますが)バイアスが強く存在しているのは確か。理論的根拠が希薄であるにも関わらず。
・・・今「権利」と言い、「西側」と言いましたが、ここに"自由"という概念を絡めて行くとまた論じ方は変わって行くんですけど、ややこしくなるので今は止めます。


ニヒリズムのあとに登場する新たな価値観

p.76
実際、まったく虚無的な文化というものはかつて存在したことがない。(中略)
ニヒリズムは少数者、概して、批判的少数者、あるいは革新的少数者の贅沢なのである。

p.77
今日、ニヒリズム的文化はまったくニヒリズム的でなく、自分が深淵に立っているなどとはつゆほども感じていない人々からなる社会に、居心地よさそうに存在している。

切羽詰まっていないから、追い詰められていないから、ニヒリズムなどを言い立てられるのだという。
絶望していないからこそ。
かつて西部邁が、浅田彰とその友人たちを、"えせニーチェ主義者"と切り捨てていたのを、思い出したりしましたが。(笑)
坊ちゃんたちのお遊びだろう?と。

また仮に知的エリートによる言説上の問題に限ったとしても、

p.76
そして、この場合でも、否定のあとには価値をもつものへと続く肯定的プロセスが存在しているのである。

p.77
ロシアのニヒリストたちは平等主義的革命を夢見ていた。マルクス主義者たちは(中略)すぐに新しい社会主義的人間が生まれると考えていた(中略)
ハイデッガーは、一九二九年から三〇年にかけての講義のなかで、哲学的省察を生むことになる根本的な精神状態を模索し、それを"深い倦怠"のなかに見出したのである。しかし、それから数年後、ドイツが危険な陶酔の時代を迎えると、「ドイツの文学の自己肯定」という論文で、彼の言葉は熱狂的になり、予言者的になるのである。

結局主張している当人でさえも、実際には"ニヒリズム"などというものに耐えることは出来ないのだ、必ず希望と理想を求めるのだという、そういう話。
・・・前回第4章で言った、悪に耐えられる人などいないという話と、似ているかもしれません。
元々強く"求め"るタイプだからこそ、一回は失望して、"ニヒル"になるのだと、そういう可能性もありますが。
それにしてもハイデッガーってみっともない。何人かいる"ナチスに同調した"と後に批判されたドイツ圏の思想家の中でも、際立って見苦しいという印象。基本の性根が、甘く出来てる感じ。

そして勿論、事実としても、ニヒリズムが完遂された社会など存在したことが無いし、学者たち(マルサスやマルクスやジョージ・オーウェル)の虚無的な予想が当たったことも無いと、著者は言います。

p.79
もし仮に、まったくの利害関係やまったくの競争しかなかったなら、社会組織はばらばらに分裂したかもしれないし、資本主義も自己崩壊していただろう。しかし、そうはならなかった。そのわけは、ある程度まで混乱に陥ると、再編成する力が出現したからである。

p.80
そして、一九八四年(*)のヨーロッパには、過去数十年にも勝る民主主義と個人主義が存在した。

で、結局章題の「ニヒリズムの効用」とは何かというと、それが流行することがむしろ、我々がいかに根本の部分で道徳的であるかニヒリスティックではないかを再確認する手段となり、また一方で我々の道徳を洗練させて社会をリニューアルして固める為のいい機会となっていると、そういう話。

ふむ。どうですかね。
ちょっと楽観的に過ぎる感もありますが。
"人間はニヒリズムには耐えられない"という意味で"道徳的"であるというのは、消極的ながらその通りだと思いますし、価値観が稀薄化する一方で長期的には人類社会が高度に道徳的な方向に向かっている、それもまあ、事実だとは思います。(少なくとも今までは)
ただ(道徳についての)理論的難点はそのままですし、だからこそでもありますが要は"本能による揺り戻し"に期待するという折衷的な態度は、何らか最終的なものと言えるのか。
・・・例えばそれこそ日本型の"社会主義"、資本主義や自由の自主規制的な不徹底みたいなものは、この著者はどう考えるのかなとか。ポジティブに評価するのだろうか。
つまりあれは、西洋型の弱肉強食(日本からすれば)というニヒリズムに対する、日本人の本能による「道徳的配慮」であると言えると思うので。



第7章 過去にどんな意味があるのか

p.92
イエス・キリストは、過去との関係を保つことにつねに努めていた。彼はなにも失われることを望んでいない。彼の伝えたいことは明白である。律法を廃するためではなく、それを完成させるために彼はやってきたのだ。

えらいところから入って来ましたが。(笑)
まあ、確かにそんなようなことを言ってはいました。あるいは"キリスト教"をユダヤ教から"独立"させてあまつさえ対立させるように仕向けたのは、弟子たちの勇み足(または陰謀(笑))だという主張も、まま聞くものではあります。
ユダヤとキリストとイスラムが、無事"一つの宗教"に収まっててくれたら、どんなに世界は平和か!(笑)

p.92
ところが、新たな愛、新たな信仰、新たなイデオロギーが、完全に過去との関係を絶つとき、新たな人間はもはや、義務も責務ももっていない。(中略)
そして、限界に対する完全な拒否に向かって、抑えがたい征服の欲求に向かって、不寛容と狂信に向かっていく。

結局ね、"過去との関係を絶つ"という形で新しい何かが主張される時、そこに隠れている動機は、そうして"切り取った"「正しさ」を「独占」したい「私有」したいということなわけですよね。・・・あらゆる"革命"を望む気持ちの中に、特有の卑しさがあるというか。
そして勿論、正しさを私有したと確信した人間は、"正しくない"他者に対してどんなことでもするわけです、出来るわけです。
それを防ぐのが、つまりは"過去"とのつながり。章題に従えば、"意味"
・・・何か今回持ち上げるようですが(笑)、西部邁が自らの立場を「保守」と位置付けるのも、こういう意味の、"新しさ"や"革命"に対する構造的根本的な不信によるわけですね。新し過ぎる福音は、全て間違っていると。構造的に。道徳的に。
勿論そんな態度はダルいですから、好き好んで西部邁も取っているわけではないわけで。意図して、努力して、自制している。「自覚的な」保守とは、そういうものですね。「保守」思想を「革命」的に熱狂的に標榜している類の連中は、また違いますが。

p.93
絶対であってほしいと願うあらゆる再出発や、絶対的で無条件に純粋であってほしいと願うどんな法則にも、道徳性はまったくないことを私は断言する。
道徳性は、ただ、このような過去の放棄や、棄教や、単純化が容認されない場合にのみ生じるのである。

"絶対"の批判を"断言"するということに、微妙な齟齬感を感じなくはないですが(笑)、それだけつまり、著者が熱を入れて語っているということ。
道徳を強く激しく求める人間の営みこそが、最も確実に効率的に道徳を破壊するというパラドックス、飽きもせず繰り返される"パターン"の虚しさ、繰り返す人間たちの哀しさ、それを眺めているしかなかった今までの悔しさ、そうしたものが込められているのを感じますが。
これに気付かない限り、"誰か"が持ち出す"新しい"道徳(運動)は必ず失敗するし、ひいては「道徳」そのものが信用を失い続ける。


第9章 なんのために進化するのか

p.108-109
道徳の領域には、したがって、二つのタイプの力が存在する。まず第一のものは、現行の社会をそのまま維持していく力である。(中略)
個々人はいずれも、自らの社会と結びついており、組織を構成する細胞のように、その社会に有利になるように行動する義務感を抱いている。彼の行動は、主観的には利他主義であるが、実際には、つねに集団のエゴイズムの内部に包含されていて、そこから抜け出ることはできない。

p.109
第二のタイプの道徳がある。生の飛躍が、既存の種や社会を乗り越えて新たなものをつくりだすように、開かれた道徳は社会の利害関係の境界を乗り越える。そのとき、この道徳は、個人のなかに形をとって現われる。
(中略)
ソクラテスの場合がそうであったし、イエス・キリストの場合も同様であった。彼らの開かれた魂は、普遍的理念に向けて、生命を超越して存在している。

またこれは少し別の話、ではありますが。今までとは。
"あるべき道徳"論の。
でも実は一番シンプルな話でもあって、"道徳"を"集団的暴力"に飲み込ませない為の、基本的な心掛け。
常に「個人」であること、「個人」としての自分の内心を問い続けること。・・・まあ前回の「"役割"に甘んじない」という話とは、重なるところが多いかもしれません。
集団的道徳不在の現代において"道徳的"な人というのは多かれ少なかれこういう人であろうと思いますが、同時にだからこそ"集団"的な"閉じた"道徳への忌避感は強くなって、結果道徳への"攻撃"もやまないという。
道徳心が強いからこそ"非道徳"に見える人というのは、実はとても多い気がします。特に現代では。

一方で前章で言ったように、「過去」「伝統」との繋がりという意味での"集団"性も必要なものなのでややこしいんですが、言葉としては「集合」性という言葉もあって、そういう区別でも設ければ、多少は理解し易くなるかなと。
目の前の"集団"の意識ではなくて、その背後(の更に背後)にある"集合"の無意識の方に、を降ろす。
故きを温ねて新しきを知って、それでも足りない部分について発明する、"飛躍"する。くらいのバランス。
まあ単純に「集団」の動きは常に遅いので、探求の成果はまず「個人」の中に現れるわけですね。歩調を集団の方に最初から合わせていると、イノベート出来ない。


第15章 献身することの意味

p.168
男性も女性も私たち人間は、誰もが他の人に、あるいは他のなんらかのものに尽くしたいという、やみがたい欲求を抱いているということである。私たちは、自分自身を愛や関心や配慮、留意の対象とすることができないということでもある。

p.169
単純かつ明瞭な事実は、私たち人間がどうしようもなく道徳的な存在だということである。
 このことは、私たち人間が善良であることを意味するのではなく、ひたすら自分自身のためだけにする行為は道徳的価値をもたないし、私たちの心の奥底には満たされない思いが残るということなのである。
 またについても、私たちは、なにか他のものを口実にして正当化しなければならない。

ナチス党員には"千年王国"という口実があり、、共産主義者には"プロレタリア革命"が、セルビア人には"大セルビア"があったと、そう著者は続けます。

まあ一応の、まとめ的な章。
人間が「欲求」として、「衝動」としての道徳を内側に持っている、欲求や衝動の「抑制」という消極的な意味ではなくという主張については、一つ個人的に印象的な記憶があります。
大学生の時に通学電車の網棚で拾ったゲンダイに載っていた(笑)ある本の書評で、その後探してもこれかなというのが見つからないんですが。
それはある時期(以降)アメリカを席巻した"ダイエット"ブーム('81オリビア・ニュートン・ジョン『フィジカル』、'82ジェーン・フォンダ『ワーク・アウト』)についての研究書で、その著者が主張するにはそれは"ミーイズム"的な思潮の全面化によって公共道徳を失ったアメリカ人が、行き場を失った「道徳衝動」自分の体に振り向けた結果であると、そういう話でした。
なんか分かる気がした、というのと、道徳自体が「衝動」であるという指摘にどきっとしたというのと。
まあダイエットなり嫌煙運動なりに、その実効性とは別に深層のモラリズム、自己(ないし他者)処罰的な要素があるというのは、明らかなことだと思いますし。"PTA"的なものや"言葉狩り"の類が、要するに内なる道徳的な強迫観念が"叩き易い"ところを見つけて食らいついているものだというのもまた明らか。"道徳的"ではない自分からの、逃避というか。
だからこそ著者も、「善良であることを意味するのではなく」と言っているわけですね。単なる欲求の満足でしかない、部分があると。


こんなところですかね。
"全体"としては、分かったような分からないようなところもありますが、「道徳」についての考察集としては、かなり行き届いたものだと思います。
僕はまあ、要は自分が道徳的に生きられればそれでいいので。人類にはあんまり期待していないというか。(笑)
そういう意味では僕も、「私有」とは違うつもりだけど、"正しい"側にいたいと、それだけなのかも知れない。
いい人が増えればいいなとは思ってますけど、でもあえて"増やそう"とすると失敗するのも、目に見えてるし。過去の人類史から。"道徳"の闇は深い。

著者の名誉(?)の為に言っておくと、実は僕は、著者の非常に重要な、中心と言ってもいいかもしれない論点を、あえて割愛しています。
それは進化論的、生命論的に、「道徳」衝動の必然性を理論づけたものなんですが・・・。
ちょっと手に余るので。この小さくて結構おしゃれな(笑)本からも、はみ出して見えるし。
興味がある人は、読んでみて下さい。


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テーマ:本読みの記録
ジャンル:本・雑誌
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