東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
イスラム教について
2016年02月15日 (月) | 編集 |
ふと思ったこと。
特に独創的ではないかも知れませんが。
でもなんか一つ、自分的に"風景"が見えた気がしたので。


戦後民主主義教育を受けた"無宗教"な日本人を勝手に代表して言うと、「宗教」としてのイスラム教の総体としての印象は、比較的新しい(新しく広まりつつもある)宗教として、熱心ではあるし、熱狂的でもあるし、行動として厳格な信者の比率が多いのは確かだと思うんですが、一方でそれはある意味"行動"としてであり、行動の不寛容性として"宗教"的ではあるけれど、折々に伝え聞く教義そのものは、何と言うか非常に実際的というか、現世的というか、直接的というか、さほど"深遠"であったり"難解"であったり、"形而上"的な印象は受けないわけです。
ただそれらの戒めや命令の、"根拠"づけとしての神/アラーの持ち出し方、"あの世"の生活の説明の仕方に、非常に厳格性強制性があって、それをもって「宗教」となっているという感じ。

主張の内容というよりは主張の構成の仕方に、"宗教"性の本質があると。
ただ「目的」としては、それ以前の例えば儒仏道やユダヤ&キリスト教に比べて、それほど「宗教」的ではない、つまり"宇宙の真理"を掴むことや、道徳・倫理の究極的基盤や無謬性を目指すことなどは、それほど目的とされていない。していないわけではないんでしょうけど、「本気」度が低いというか。
それよりはそのそれなりに一貫した思想体系を梃子に、社会を作ること国家を作ること、民族の興隆を図ることの方が、(無意識下の)目的。
勿論先輩宗教/古代思想も、結果的に社会・国家・民族等々に大いに関わってはいるわけですが、それはあくまで結果論というか広がり方受け入れられ方の一側面でしかないのに対して、イスラムの場合はその密着度が非常に高いということ。目的手段性というか。


それがいけないと言っているのではなくて(民族主義を問題にしたいのではなくて)、何が言いたいのかというと、イスラム教が(他の大宗教との比較において)優れて"行動""実際"的、"社会"的宗教だということ。ここまではいいですね?

イスラム教のそういう性格から僕が連想するものとしては、例えば儒教における「陽明学」

陽明学は”物を格(ただ)す心”の学問ともいわれており、
・心即理
・致良知
・知行合一
を説き、朱子学の主知主義に対して実践を重視しました。
(「朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!」)

や、あるいは仏教における、日蓮宗を筆頭とする法華経系の宗派、

日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
(日蓮宗Wiki)

があります。
念仏系も"庶民の生活に密着"はしていますが、ただあの盲目性にはキリスト教の"愛"にも似た逆説的な哲学性・現世超越性があって、影響力はともかくとして必ずしも「社会」的とは性格付けし難い部分も強く感じます。"行動"ではあるけれど、その行く先が"逃避"的というか。(笑)
とにかくその本義はともかくとして、しばしば革命・改革運動の基盤理論とされた陽明学や、単に(鎮護仏教的に)体制に取りこまれたのではなく自ら積極的に「国家」を問題にした(戦中戦後の右翼思想の一つの中心も形成した)日蓮系の仏教教派の優れて"社会"的な性格には、イスラム教と比較し得るものがあると思います。

ただ大きな違いもあって、それは例えば陽明学は、儒教の改革運動であり、特に朱子学とは激しく対立しましたが、しかしそれはあくまで「内部」の問題であるという限定はあって、つまり「儒教」そのもの、あるいは遡って「孔子」まで否定するというところまでは、行かないわけです。
内心個々にどう思っていたかは分かりませんし、あるいは古過ぎるのであえて問題にしなかったのかも知れませんが(笑)、ともかく少なくとも"争い"としては、「儒教」の枠内で、儒教という枠を尊重する形で、収まっているわけです。
一方の法華も、なるほど日蓮は「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と四方八方仏教各派に喧嘩を売りましたが(笑)、しかし「仏教」そのものや釈迦までは、否定しなかったわけです。「仏教」という枠は担保したまま、革命運動をしたというか。

対してイスラムは、勿論ハナから独立した宗教であって陽明学や日蓮宗のような"一派"ではないと言えばそうなんですが、そうは言っても周知の通り、所謂"旧約聖書"をユダヤ教と共有しており、またイエスもキリスト教が言うほどではないにしても偉大な先達的預言者の一人として認めているわけで、例えばそれこそ「儒教」と「仏教」のようには、完全に別の、独立した宗教でないのは確か。
だからもしユダヤ教が世界宗教化したり、あるいは儒教や仏教のように該当地域の普遍的な尊敬を集めていたり、ないしは「バイブル教」とでも言うべき一つの大きな流れや枠組みを想定した場合には、その"一派"として「イスラム教」があったとしてもおかしくなかったはずです。
・・・「イスラム派」なり浄土(経)宗ならぬ「コーラン宗」、または"日蓮"に倣って「ムハンマド宗」とか。"大ユダヤ教"なり"バイブル教"の一派としての。

実際教えの規模というか、狙いの根本性としても、そのくらいのものだと言えば最初からそうなのだと思います。陽明学や日蓮宗が、"そもそも"については孔子や釈迦が説いたことを前提として、自らは実践編応用編を担ったように、イスラム教も"天地創造についてはバイブルにお任せ"した上で、日々の生活規範社会規範を主に説いたように。
というかムハンマド自身は、少なくとも最初はそのくらいのつもりだったかもというか、その可能性が高いというか。それが色々な行きがかりで、キリスト教も含めた先輩"バイブル"宗教と決定的に決裂対立して、独立した「宗教」の地位を期せずして得てしまったというか、放り出されて独力でやって行かざるを得なくなってしまったというか。・・・"本山に破門された"とは言いませんが。(笑)

もっとざっくり言えば、イスラム教は陽明学や日蓮宗に"似てる"と言うよりも、ある一つの大きな思想の流れが、一定の期間と広がりを経た後に当然起きる"現代化""現世化"(または"現地"化)の、それぞれある種自然な形態であって、そういう意味では特段儒だから仏だからユダヤだからという、そういうことでもないと言えばそうなのかも。
・・・その文脈だと、キリスト教における所謂"プロテスタント"も、同列に並べられるかも知れませんが。

とにかく言いたいのは。
陽明学が"儒教"の枠内に、日蓮宗が"仏教"の枠内に収まっていたように、もしイスラムが"大ユダヤ(仮)"なり"バイブル"教の「枠内」の改革運動として収まってくれていたら、人類は随分、あったよりは平和な歴史を持っていたかもな、現代社会の悩みは大幅に減っていたかもなあと、そういうことです。(笑)
その喧嘩、もう少し何とかならんかったのかと。("儒教"や"仏教"のような)"ルール"ある喧嘩の枠内でも、言いたいことは言えたのではないかと。


なぜそうならなかったのか、ということですが・・・。

そもそもの一つとしては、ユダヤ教がその名の通り、純然たる民族宗教であって、儒教や仏教のような普遍性やいい意味での抽象性(とそこから来る包容力)はハナから持ち合わせていないということは、勿論あるでしょう。
まあ儒教だって元は"ザ・中国思想"でありますし、シャカ族の王子の始めた仏教に民族的性格が皆無ということもないんでしょうが、ただ究極の目的が民族の興隆にあるわけではないのは確か。

そうしたそもそも論は別にして、イスラムの場合ややこしいのは、間に「キリスト教」が挟まっているということですね。
つまり仮に(枠内)改革運動だとして、それは「ユダヤ教」に対するものなのか「キリスト教」をメインターゲットとしたものなのか。基準が既に分かり難いという。準拠"枠"が。

まああえて選ぶとすれば、「ユダヤ教」なんでしょうけどね。(ユダヤ教の根本教典である)「旧約」は認めるけれど(キリスト教の根本教典である)「新約」は認めないイスラム教が、キリスト教の"枠"内の改革運動である可能性は、論理的に難しい。
ただそう単純に割り切れないところもあって、なぜかと言えばイスラム教の成立またはありようは、直接的には明らかにキリスト教との対比において出来上がっているという部分が少なくない。

それは大きくはやはり「メシア」の問題で、"十字架にかかって処刑されることによって人類を救った"というキリスト教的な倒錯的メシア像に対して、"地上の王として(その神を奉ずる)民族に繁栄をもたらす"という、ユダヤ教・旧約宗教本来の「メシア」像、思想の、言ってみれば"正統"的立場から不満・違和感を抱いて、「これが本物のメシアだ、どうだ!」と民族英雄ムハンマドの勇姿を誇らしく掲げているのが、イスラムの基本的なありようなわけです。よく言われるように。
だから地上権力との関係も、ローマの首脳を洗脳して乗っ取る(笑)という、キリスト教のようなトリックに頼る必要は無く、ずばり「イスラム帝国」を作れるわけですね。むしろあれが王道。

直接のライバル関係としても、近代になって突然現イスラエルが天から降って(笑)来るまでは、専らキリスト教との間で、理由はさておき争いを続けていたわけで、今回の論考で原理的に問題にしているのはあくまでイスラム教とユダヤ教の関係ですが、現実にはキリスト教との"問題"もそれと同じかそれ以上に問題なのは、言うまでもないところ。
「原理」にこだわるならば、ユダヤからすればキリストもイスラムも、同じく"異端"外道なわけですけどね。


儒仏の例で考えるならば、ではイスラムとキリストの関係は、「陽明学」と「朱子学」、「法華」と「真言、禅、念仏、律」のそれに当たる、ある種並列的な関係なのかというと・・・。
"ユダヤ"の立場からすれば、そうかも知れません。あえて言えばね。
ただそれを言う為には結局は、儒が陽明を、仏が法華・日蓮を"包"んでいるように、ユダヤがキリスト(&イスラム)を包んでいないといけないわけですが、実際にはそうなってはいない。キリストはユダヤから出てはいても、あくまで"別宗教"として、歴史的に発展し、分派し、イスラムを筆頭とする他宗との対立関係も結んでする。・・・"結んでいる"というのは皮肉に聞こえるかも知れませんが(笑)、逆に言うと対立するくらいに、認められているということでもあるわけで。独立した宗教として。

そう、つまり「ユダヤ・イスラム」問題以前に、ほぼ同型の「ユダヤ・キリスト」問題があったわけで、本当はこの論考も『キリスト教について』とセットでないと、不公平なのかも知れない。(笑)
まあ実際にはユダヤとイスラムとの間には、ユダヤ・キリストとイスラムとの間のような規模の争いは少なくとも現在は存在していないので、執筆のモチベーションとしての差はあるけですけど。
ただ原理的には、なぜ陽明学や日蓮宗が"一派"であるように、キリスト教はユダヤ教の一派であれなかったのかという、問いを立てることは出来る。

ここにイスラムが加わるとややこしいのは、それが単なる"繰り返し"、"最新"版のユダヤ教改革運動ではないからで。
つまり「キリスト教」との関係においては、上で言ったように主に"メシア"像をめぐって明らかにイスラム教はキリスト教の"歪曲""詭弁"を「修正」して、古流に復帰している、ユダヤの正統に戻しているわけで、実際自分たちこそが"まとも"だという自負は、特に力みもなく、当然のこととして初期イスラム教者たちは(も)持っていたのではないかと想像します。

であるならばユダヤ教本流としてはそれを歓迎して仲良くしてもいいもののはずですが、そうはなっていない。「敵」(キリスト教)の「敵」(イスラム教)は「味方」にならずに、更に強大で攻撃的な「敵」になってしまっている。
別な言い方をすると、今日のような「ユダヤ・キリスト教」「イスラム教」ではなくて、「ユダヤ・イスラム教」「キリスト教」という対立軸もあり得たはずなんですが、そうはなっていない。
まあこれに関しては、なってどうなるというものでもないので、飽くまで好奇心・話のタネの範疇ですけど(笑)。誰かそういうシミュレーション小説書いてというか。
冗談はともかく、ムハンマドが"アブラハム"(やモーゼ)と"イエス"のどちらにイメージが近いかと言えば、明らかに前者と親近性があると感じられるのでね。誰と喧嘩してんねんというちぐはぐ感は、無くは無い。君たち同類だろうという。

繰り返しますが、実際ムハンマド的には"砂漠の正統"を継いでいるという自然な自負は、あったと思いますね。なんだあのキリスト教とかっていう、変なの、という。

それがどうして今日のような状況になったか、イスラムが必要以上にユダヤ教やバイブル宗教の源流から乖離した形で存在してしまっているのかというのは、一つはイスラム立宗当時既にまとまった形での「ユダヤ教」勢力というのは無いも同然で、結ぼうにも結びようがなかった面があるということ、それからユダヤ教に成り代わったキリスト教が発展したヨーロッパ地域との、(宗教的というより)民族的人種的距離が、更にイスラムに自立を要求したと。それはひいては、今日においてある種の"差別"として、教義の正当性などよりも遥かに大きな支配力をもって、現実を決定していると、まあ大まかに言えばそういうことかなと思いますが。

先にキリスト教がもたらした混乱を、収拾したつもりが余り歓迎されずに、結局新たに混乱要因となってしまったイスラム教という。
ユダヤ・キリスト・イスラムの、ねじくれまくった三角関係という。


と、主に教義の面から見た"歴史"的経緯としてはこんなところかなと思いますが・・・。
やはり最終的に問題にしないといけないのは、「儒教」や「仏教」と、「ユダヤ教」との、そもそもの性格やポテンシャルの違いで、前者の"成功"を基準に後者の"失敗"を言挙げすることに、どこまで意味があるのか。
とりあえずは「教義」のポテンシャルの違い。更に言うならばそういう奥行きのある教義を成り立たせる、東アジアの「文化」の問題。そしてひょっとしたら、当該地域どうしの「民度」ないし「民族性」といういささかヤバい(笑)問題も、あるかも知れない。
・・・つまり結局、争うのが"好き"なんじゃないのかあそこらへんの人たちはという疑問も、偏見かも知れませんが抱いてしまうところはあるわけでね。(笑)
ムハンマドは日本に生まれていたら、"日蓮"で済んで(?)いたかも知れないし、日蓮は中東に生まれていたら、"ムハンマド"になっちゃっていたかも知れない(笑)。王陽明も同様?(笑)

構図が錯綜しているから争うのか、争う気持ちが強いから構図が錯綜してしまうのか。


まあ、こんなところです。
後ろ半分は蛇足だったかも知れません。
とりあえず同じ"現実主義的改革運動"としての、「イスラム教」「陽明学」「法華or日蓮宗」の対比の方を、気に留めておいてもらえれば。
あったかも知れない、ユダヤ(キリスト)教とイスラム教との、円満な関係という。仮想大ユダヤ教(仮)内の、イスラム派としての。
"風景"、見えましたか?(笑)

まあ何せサンプルがそんなに多くはないのでね。「儒」「仏」対「ユダヤ」では、たかだか2対1ですから。多数決にしてもお粗末。(笑)
といって歴史に残っている地球の宗教で、それほど他に有力なサンプルがあるわけでもないので。「キリスト教」とその改革運動としての「プロテスタント」とかですかねえ、やっぱり。ただ今回の論考の範囲だと、そもそも「キリスト教」の位置自体が、少々ややこしいので、使い難い。(笑)

後は・・・宇宙人に聞くしかないですね。おたくの星ではどうなってますか?と(笑)。多数来訪されているという話ですから。
軍事技術も結構ですけど、人文・社会科学方面にも是非、お知恵を。宇宙規模の比較宗教学の確立に、ご協力を。(笑)

細かいことを言うと、例えばヒンズー教においても、古流バラモンは引き継ぎつつ、イスラムにおけるイエスのようにブッダの地位は相対化されているようなので、構造的にはイスラムと似ていて、今後のインド文明の発展の仕方次第では、同じような問題が起きて来る可能性も無きにしもあらず?
まあ分かりません(笑)。イスラムへの"公平"性の配慮から、付け加えてはみますが。


とにかくみんな、喧嘩が悪いとは言いませんが、なるべく仲良く喧嘩して下さいという、話?
人間の考えることは、そんなに大きく違うわけはないというか。
ま、それについても、宇宙人さんへのヒアリングを済ませてから、結論を出したいですかね?(笑)


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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
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