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中村隆資『堯帝春秋』その1 ~"皇帝"の「公」と「用」
2016年04月07日 (木) | 編集 |




定期的に来る、"中国歴史もの読みたい"病への処方として(笑)、てきとうにまだ読んでない人の中から手に取った一冊でしたが、とんだ奇書でした。
いい意味で。(笑)
世の中にはまだまだ変な人変な才能が隠れているものだと、嬉しくもなり、自分の平凡さを反省させられたり。(笑) 中村隆資Wiki

小説です。一応。
一応というのはですね。
以前中国の殷王朝を題材とした宮城谷昌光さんの『天空の舟』




について、「東アジア人(漢字文化圏人)の精神の始原を"幻想"させる作品」紹介しましたが、その殷の前の夏(か)・・・の更に前の神話的時代、所謂「三皇五帝」の一人"堯(ぎょう)帝"(または"堯""舜""禹"三代の聖帝の最初)の時代を舞台にしたこの作品も、幻想性は更に更に高まって何か元になる史実伝説があるのかどうかすら不明ですが、基本的には同様の、「始原を幻想」させる作品の好例として、とりあえずは読むことが出来ます。・・・少なくとも途中までは、そう読んでました。

で、後半はそれを越えたとんでも展開をして"奇書"であることを僕に認識させるに至るんですが(笑)、それについては次回に書きます。前半だけでも十分に読み応えがあって、かつ既にけったいな人だなあという感慨は与えられていたので。(笑)
特徴としては、その異常な明晰さというか、明快さというか。見ようによっては学術的でもあって、これ小説なのかなあという疑問も感じながら読んではいたんですが、ただ決して"研究"の"解説"などではなく、飽くまで"衝動"に近い強い本人の内部論理、思弁、そういったものの展開なんだろうと思います。
"アマチュア"精神に基づいたしかし"異様に厳密・精密"な記述というのは、「奇書」と呼ばれるものの代表的な形だと、以前もどこかで言ったと思いますが。この組み合わせはほんとに変なものが出来るんですよね、読んでて落ち着かない気分になる(笑)。アマチュアが大らかに書くのは当たり前だし、プロが厳格に書くのも当たり前ですけど、それらを半分ずつ組み合わせると、どうもおかしなことになる。(笑)

比較すると、『天空の舟』を一番中道的な(中国)"始原幻想"小説とした場合、それを学問寄りに展開したのがこの『堯帝春秋』、逆にファンタジー寄りに展開したのが、酒見賢一『陋巷に在り』



ということになりますかね、僕の中の地図としては。


そろそろ本題に入りましょう。
今日、つまり本の"前半"のテーマは、「公」と「用」「公」(おおやけ)とその「用」(はたらき)、または「用」(はたらき)としての「公」(おおやけ)
公共秩序ということ、国家権力ということ、王・皇帝ということ、それらの本質と形成と根拠ということ。
具体的には古代中国において、地域共同体が連合して原初的な国家を形成して、そこに皇帝とその手足となる公人≒公務員という身分が発生した、その時に起きていたことという話です。

恐らく多分に独断的ないし仮想的なんでしょうが、妙に説得的・・・少なくとも魅力的な説明ではあると思います。
特に"思考の整理"という意味で。


神(カミ)と上(カミ)

p.7
公(かみさま)の事を為ている。天の代理である。今年で二十と二年になる。

ほぼ冒頭にある、皇帝・堯の述懐。
「公」を「かみさま」と読ませているのはここだけなで、飽くまで象徴的な記述なんでしょうが、それゆえ結論的でもあります。
伝統的日本語でも「お上」(かみ)とは言いますし、その意識が現代においても独特の従順な国民性を形成しているとよく言われますが。
まあ王の権力が祭祀の代行能力を背景にしているというのは世界的に共通していることなので、それだけでは特にどうという話でもありません。その内実の分析が、この人の真骨頂。


「存在」と「はたらき」(用・働)

p.8
帝は人格によって成るものではなく未来の働きによって為すものである。
吾が氏族の<存在>を守るため水利・地権その他で近隣諸氏と角逐を続けて来た私利私欲の徒が、吾が氏族を守る役務を解かれ、(中略)今度は全氏族の<存在>を守るため、これまで<私>に注いでいた精力を<公>に傾注しその<用>を為す。

「存在」と「はたらき」。
構造と機能・・・とは少し違いますが、"機能"の部分は「はたらき」とほぼイコール。その非実体性は。
帝が帝であるのは、そのはたらき、機能によるのではあって、人格的に崇高だからでも個人的に徳があるからでもない。勿論血統によるのでもない。
実体的「存在」たる「私」の立場から切れて、誰でもないみんな、「公」の用に専心することによって、存在としては非実体的な"機能"に純化することによって、特別な存在となる。
"崇高"さや"徳"は、その結果として生じるのであって、根拠ではない。
・・・逆に為政者の"徳"に望みを託す倒錯や絶望については、後半部分で説明されています。

とにかくその意味で、皇帝を筆頭とする公人は、人間ではない。
少なくともその役に就いている間は。
現代日本語では皮肉にしか聞こえないかも知れませんが(笑)、「公僕」と言えば確かにそうかも知れない。
"僕"、しもべ、奴隷には、働きがあるだけで人格も人権も無い。
むしろ畏れ多くも(笑)皇族の方が実際のそのイメージには合うでしょうが、正に皇族も公務員も本来同じ存在だ、同時に発生したのだというのがこの本の説明。


「公」と「私」

話戻して具体的には、ばらばらに存在していた地域共同体・氏族共同体が防衛と治水という共通の目的の為に連合して、その長の一人を皇帝として選出する、その過程での話。

p.74-75
後者は生身の人間でありながら、<自然人>たる自己を一時超越して<公人>すなわち<法人>の用(はたらき)を為す者である。
それは<存在>であるより前に<運動>(はたらき)であり、個々の<氏族共同体>を<存在>あらしめるためにのみ<存在>するものである。


元々対等の存在であったからこそ、「特別」である為には"私"をいったん捨てて"公"という特殊存在にならねばならなかった。そうでないと働けないし、認められない。

p.75
それが純然たる<気>であって、<吾が>氏をよく存在あらしめるがための用(はたらき)であるなら、空気を戴くが如くその<霊的存在>を戴するに吝かではない。

「霊的」という言い方は積極的なものではなくて、人でなければ何か、霊であるという、そういうニュアンス。
または人であるとは即ち肉体存在であるということであって、それを止めるとはどういうことかと言えばそれは「気」になること、「霊」の部分が抽出されるということ。
この構造が固定されると、だから皇帝は人"以上"のものであるのだ、至尊の存在であるのだという、後代の(中国)の論理になるわけですけど、元々は要するに、人"でない"ものという正にそういうことで、それ自体は上でも下でもなかった。
本文に戻れば、人でない、(肉体)存在ではないので、自分たちの競争相手とはなり得ない、だからこそ他の長たちも、皇帝に特別な権限を認めたという、そういうプロセス。

p.76
黄さんは軒轅氏の族長の地位をその息(そく)に譲り、吾が氏との<血縁>を断って<私人>から<公人>へと変易した。<生身の黄さん>はこに消滅し、<鬼>だけが<無名の首長>の地位についた。(中略)
役人も<天子>に倣い、各人が下土との縁を断って<公人>としてその役職を遂行した。

"黄さん"というのは、中国最初の"帝"とされる正に「黄帝」のことです。(笑)
諸族連合の発案者であり、権力者というより調整役であり、気のいい爺さん(笑)であると、この本では描写されています。
だからこそ「空気」として諸族の上に立てたのだというのはいささか我田引水の説明になるでしょうが、とにかく重要なのは、皇帝自身もその直属の役人たちも、いったん出身氏族との絆を断ち切って、奉職したということですね。

p.76
この当時の物の考え方として、それはごく自然なものであった。
<氏族>の長は、<血縁>という肉体的条件に立脚して<長>である。しかし<姓氏相異なる族を網羅する長>は<血縁>という<自然条件>を足場とすることは出来ない。よって<肉体>を超越した<霊>に易わるしかない。

「霊」については既に説明しましたね。
なお前段の「鬼」、「気」とほぼ同じと考えていいでしょう。
具体的には中国独特の言い方で、説明が必要でないことも無いんですが。儒教の源にある重要思想であると、『陋巷に在り』では詳しく説明されています。
ちなみに日本の卑弥呼「鬼道」を能(よ)くしたというのも、この流れでしょうね。中国側(倭人伝)の言い方ではありますが。


ごちゃごちゃちょっと分かり難いかも知れませんが、要は「公」(おおやけ)ということの説明です。
その特殊性の。
ただの"権力"者、世俗権力とは違うし、成り立たない。
狭義の「王」、地域権力の長から、いかに差別化して行くか、そこから中国的「皇帝」というものが生まれて行くわけですが、こういう権力の二重性というものは世界的にもかなり共通の構造であるし、他ならぬ日本でも、「大王」(おおきみ)としての天皇家はそうですね。

それどころか・・・というか実は最も適切な例かも知れませんが、現代のアメリカ合衆国の「大統領」制は、非常に模範的な「皇帝」かも知れない。
つまりそれ自体として成り立つ「州」というシステム、地方権力があって、それに"付加"するものとして「連邦」政府と、その長としての大統領がいる。・・・"FBI"と"警察"なんて分かり易い二重構造もありますが。
日本人には、大統領が変わるたびに「連邦職員」がごっそり入れ替わるのは不思議なシステムに見えてしまうかも知れませんが、しかし彼らは固定された身分でも普通の意味の職業人でもなくて、大統領という「公」と共に発生した一時的な特殊身分なわけですね。大統領が辞めれば、存在の基盤も必要性も無くなって、元の「人間」に戻るわけです。
堯帝以下の古代中国の皇帝とその配下たる"国家公務員"たちも、帝が退任ないし死去すれば、そこで改めて出身氏族に復帰して、いつもの生活に戻ります。

比べると、むしろ近年(?)の日本の統治形態の方が不思議で、古の「天皇」統治はその構造は明らかであるし、世界史的にも恐らくノーマルな部類のものであったでしょうが、武家政権、"幕府"というのは誠に奇妙な形態。天皇家が天皇家として聖別・特殊化、「公」化されているのに対して、源氏(後に乗っ取られましたが)にしろ徳川家にしろ、源氏や徳川家のままで、「私」のままで全国の地方権力の上に立っている。言ってみれば純粋な"軍事独裁"、力ずくの統治であるわけですが、それがかくも安定して継続したというのは・・・
「征夷大将軍」などというのは朝廷のいち役職、しかも「夷」を「征」する為の一時的なものですからね。どういう根拠があるのか。

現代の目には奇妙に見える明治の国家神道、"現人神"天皇を中心とした統治理論も、要はこうした意味不明を断ち切る為の論理化整合化の試みではあったわけです。実態はともかく。

・・・「戦後」の話は余りにややこしいので、また別の機会に。(笑)
とにかく「皇帝」のいない「公」というシステムはむしろ不思議、少なくとも分かり難くはあると、これは日本には限らないかも知れませんが、言えるかも知れない。彼らはどのように「公僕」たり得るのか、あるいは実際にたり得ないのか。
党の書記長が首相より偉かったりする、共産諸国の不思議を笑えるのか。(笑)


まあ本当に古代中国がそうだったのか、そう作者が思ってるかは何とも言えないところがありますが。
恐らくは「理想的」であるというよりは「理念」的にこうであって、そういった「公私」の別が、予告的に言いますが商業・市場経済・"資本主義"の興隆によってどのように破壊されて行くのか、それを(後半)で説明するというのが、この人の目的だと思います。
ただ"前ふり"と言うには余りにも熱のこもった原始の「公」の情景で、僕は読んでいて感動してしまったんですが多分上手く伝わっていない。(笑)
文章の力が独特なんでね。抜き出しちゃうとなんか違くなっちゃうんだよな。

p.78
就位三十四年で<天子>は崩じた。
<鬼>は完(まった)く天に帰り、<器>は壊れた。唯の<物体>であるから、<崩>じたという。

p.79
<天子>は飽くまで謙虚であった。(中略)自らを「帝」と称した。
「帝」は天を祀るとき捧げ物を載せる折り畳み式の大きな几(つくえ)のことである。(中略)連合のために用(はたら)く唯の道具に過ぎぬのだと明言した。

語源論としての、「帝」の「公」性。
そもそも"機能""はたらき"の名であったという。

p.174
公人公用の塩を盗む。
副食によって公人が生命を維持し、時に馬匹家畜の薬用ともなる塩を私する。
それは神が風を私するようなものである。

これも予告的ですが、"経済"の興隆によって、「公」が「公」でいられなくなった時、"公私混同"が起きて来た時に起きた事態。


後半も出来ればお付き合い下さい。
ちなみに堯帝は実は勝ちます。"経済"に。
この時点ではね。
「公」の論理が、商人たちの「私」に完全勝利します。
そこは小説として、非常にダイナミック。
アクロバティックというか。
"時の流れ"を、古代の聖帝は押し返して見せた。

・・・アメリカは若い、"原始"的な国だから、逆に古代中国のような(うぶで)クリアな政体が作れる?
そんなことも無いんだろうけど。(笑)

とにかく、続きます。


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テーマ:歴史小説
ジャンル:小説・文学
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