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日本アニメの客観描写と主観描写 ~高畑勲による
2016年05月26日 (木) | 編集 |
BSスカパー

『民主主義の逆襲 高畑勲×アーサー・ビナード  「きもちいい!」と「むかつく!」のハザマで』

より。

"反・安倍、反・戦争法案"的な趣旨で企画されたイベントの一部として行われた対談で、対談自体ははっきり言って余り噛み合わないグタグタなものになっていたと思いますが、その中での高畑勲監督の発言にいくつか創作論的に面白いものがあったので、僕なりにまとめてみます。


全体としては、一種の日本文化論。
日本人の自己中心性、または自己中心的「主観」的描写への、親和性。
日本人は"天動説だ"、なんて言い方もしてましたね。
そしてそこから、「客観」的判断によるストップがかからずに、感覚だけで一気に一つの方向へ、具体的には"戦争"へもひた走る、ひた走ったと、そんな感じの論理展開でこの「反戦集会」の趣旨に乗っかって来るわけですけど、それに関してはいささか飛び過ぎ雑駁過ぎという印象も強いので、とりあえず無視。

ただ「客観」描写と「主観」描写と、高畑監督が表現するような問題、傾向自体は、確かに存在していると、僕も思います。

ディズニーなんかの方が客観性があると思うんですよ、表現に。
日本のは主観性をそこに持ち込んだから、十分な描写が出来なくても、人を動かすことが出来たんですよ。
日本のアニメって全然動かないのに、ディズニーのテレビアニメなんか全然流行らないんですよ。なかなか、日本では。
心情に食い込むんですよ、日本のは。それは主観的だからなんですよ。
動かなくたっていいんですよ。動くか動かないかによって、あるいはその人間がちゃんと描写出来てるかどうかは関係無いんですね。
それより、ダイレクトに訴えかけた方が。そうなっちゃうんですね。

ディズニーとの直接比較、あるいは言わんとしている日本のアニメの特徴を"動かない"ということに集約し過ぎると、例えば以前こちらで取り上げたこういう技術論で済んでしまう話にもなりかねないと思いますが・・・

当初からの懸念は、虫プロから送られてくるフィルムは動きの作画枚数が極端に少なかったことだ。
(中略)
作画枚数を少なく抑えるやり方、すなわちリミテッド・アニメーションの技法が、『鉄腕アトム』やその後に続く日本製アニメーション番組の基本になった理由は、制作予算を日本の放送局がたくさんは払っていないからだった。(中略)リミテッド・アニメーションにせざるを得ない事情のなか、作り手たちは新たな表現技法もいろいろ編み出していった。


・・・鉄腕アトムのアメリカでの放送に尽力した、アメリカ人プロデューサーの当時の感想。

ただその前段で、高畑監督はこんな例も挙げています。

ついでに言っちゃえば宮崎駿の作品っていうのは途中までは笑えたんだけど、ずっと後になると(中略)笑えなくなったんですね。
それはあのう、そうやって巻き込み型になっちゃったわけです。

笑えないというのは、笑いに必要な客観性が欠落しているということ。
"巻き込み型"というのは、「主観」描写の別の言い方です。観客に(客観的に)状況を俯瞰させるのではなく、主観的に、一人称の視線で"体験"させる一本槍のという。
結構な宮崎批判ですね(笑)。僕は高畑監督のも宮崎監督のも、どちらも余り熱心に見ていないので、具体的にどこらへんの(時期の)ことを言ってるのかは、分かりませんが。
言いたいのは、これは宮崎監督の後期またはある時期以降、つまりは十分に売れてからの話なので、まさか上の『鉄腕アトム』の話と同様な"予算"に強いられての仕方なくなんての話ではなく、純粋に表現技法的思想的な問題として、(高畑監督の言う)"主観"的描写が選ばれているのだ、はずだという、そういうことです。それを高畑監督は、問題にしていると。

技法の具体的な一例としては、こういうエピソードも。

アニメでですね、アメリカの下請けをした時に、日本の我々は、映画と同じように"なめ"というのをやったんですよ。
背中を向けて向こうに人物がいて、背中向けの人物に観客が寄り添って、その視線で見る主観性を持ってるんですね。
ところが向こうから来たディレクターはですね、背中なんか映してどうするんだマンガで、と言ったんですね。もっと舞台でその両方とも顔が見えるようにしなきゃおかしいって。全然わきまえてないわけですね、"主観的"な効果がいかなるものかということを、アメリカのディレクターは。

なるほどね。
ここでいう「映画」(と同じように)というのは、"実写"と言い換えた方が多分分かり易いと思います。それがつまり、後段の"マンガ"と対応しているわけですね。
"技法"論としては、少し曖昧になる気もしますけど。つまり高畑監督が日本"アニメ"の特徴として批判的に語っていた「主観」的描写は、実写の方では日本もアメリカも含めて普通に行われていて、"効果"を上げていて、それをアニメについて限定的な認識しか持っていないアメリカの当時のディレクターは理解していなかったという話ですから。貶してるかと思ったらここでは褒めてるという。
増してその演出をしたのは、宮崎監督ではなくて(笑)高畑監督自身なわけですから。どうなってるんだよという。

まあ実際はそこまで四角四面にとる必要は無くて、要は(アメリカより先に)アニメにおける「主観的」描写を開発したのはいいとしても、それに偏してしまったのがいけない、「客観」性がどこかへ行ってしまったのがいけないという、そういう話なわけでしょうけど。
ここではともかく、「主観的」描写の一例として(複数いる人物の一人の)"背中向けの人物に観客が寄り添って""その視線で見る"という表現が、一方の「客観的」描写の一例として(舞台で)"両方とも顔が見えるように"撮るという典型的手法が示されているという、そういうことです。
更に遡って付け足すとすれば、"動き"で全部説明する、描写するアメリカに対する、"動かない"絵に主観性を乗せて想像させる日本、ということでしょうか。元々は作画枚数の絶対的な違いという、物理的理由に恐らくは主な起源を持つ。
その意味の"技法"の開発自体には、日本という環境で仕事をしていた高畑監督自身も、当然関わっているわけでしょうけどね。

余談ですが高畑監督の見立てによると、アメリカでも『ジョーズ』('74)の登場あたりを契機に、全体的に主観描写の傾向の強い映画が増えているとのこと。ふむ。どうなんでしょうね。まあ"ニューシネマ"の個人主義が、"主観性"を引き寄せるのは分かる気はしますが。
あるいは別の視点で言うと、『ジョーズ』も含まれるスリラーorホラー系の"脅かし"系の映画が主観的である、"体験"型"巻き込み"型なのはある意味当然のことなわけで、アメリカ映画が全体的にそういう傾向のものが増えて来た、一方で日本は元々の主観表現の歴史もあって、ある時期以降あらゆるタイプのストーリーがそういう表現を取るようになったと、そういう話か。
それらが根本的に"悪趣味"だという批判が、(高畑監督の嫌いな言葉である)『「きもちいい!」と「むかつく!」のハザマで』という対談タイトルにこめられているわけですが、それについては次回以降に書きたいと思います。(続くらしい)

とにかく高畑監督が見るに、日本人・日本文化は「主観的」描写に親和性がある、

それほど日本は、そういう主観性に一遍のめりこむことになったら、ものすごい勢いでそれを習得するんですね。

だから危ない、その"勢い"でまた戦争になだれ込みそうだと、そういう企画趣旨。

それはまあ、繰り返しますが置いておく(笑)として、最後に面白いことを言ってました。

世界名作劇場日本を舞台に。

世界名作劇場というのはご存知の通り、

主に日本アニメーション(以下、日アニ社)が制作して『カルピスこども名作劇場』や『ハウス食品・世界名作劇場』といった名称で放送されているテレビアニメシリーズ(Wiki)

ハイジ、フランダースの犬、母をたずねて三千里、その他諸々。

で、前後からすると要するにあの当時の日本アニメには、きちっと「客観性」が生きていた、それを思い出す為に、またその後発展した日本アニメの力を示す為に、往時のような海外古典原作の力に頼らずに、日本を舞台にした「名作劇場」を作ってみたらいい、作ってみたいと、そういう話のようです。

ふうむ。この例示だと、一つ分かるような気はします。特に「客観」描写(またはバランスの取れた描写)というものの中身が。
というのも僕自身、あのシリーズはまあ人並みに好きで、しかし比べてそこから旅立って行ったほとんどは宮崎駿作品ですが、"ジブリ"の作品群はどうもピンと来ない部分があるので。中途半端な"名作劇場"ぶりがというか。あれが"客観的"でジブリが"主観的"というなら、分かり易くはあります。
まあそこまで単純ではないんでしょうけどね(笑)。それだと余りにも、日本アニメの発展拡大、オリジナル化を全否定してしまうわけですし。
とりあえずはだから、宮崎作品のどこらへんから"駄目に"なって行ったと思うのかというのを、高畑さんに改めて訊いてみないといけませんが。
コナンなのかカリオストロなのか、ナウシカなのかラピュタなのか、もののけなのか千尋なのか。


今日はここまで。


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