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(書評)島薗進 『ポストモダンの新宗教』  ~参院選の予習としての?
2016年06月27日 (月) | 編集 |



"(書評)"とわざわざ銘打ったのは、いつもの抜粋中心の羅列的なレポではないという意味です。(笑)
あくまで総括的紹介。

島薗進Wiki

・日本の宗教学者。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授。上智大学神学部特任教授・グリーフケア研究所所長。
・宗教を基盤に社会的・文化的事象への興味を持つ。多数の著書・論文等があり、フィールドワークも積極的に行っている。
・(専門分野) 宗教社会学、近現代日本宗教史、近現代宗教理論
・1948年生まれ

かなり有名な宗教学者ですが、例えば中沢新一的に宗教の"内容"にどんどん入って行くタイプではなくて、あくまで「社会」学の一分野的なニュアンスの濃いアプローチをとる人のようですね、少なくともこの本の範囲では。

本の内容としては、"ポストモダン"という冠からも想像出来るように、「新宗教」と総称される中でも更に新しい方、執筆当時(2001)の勢力図で最新に近い世代のもの、具体的には幸福の科学やオウム真理教(既に地下鉄サリン後ですが)、その少し前の統一教会やエホバの証人、それにGLAあたりへの関心を中心に、しかし全体としては明治以降の広い意味での「新宗教」を総攬した歴史の中にそれらを位置付けて、海外の同時期の類似の動きとの関連性にまで言及した、かなり欲張りというか"一冊"読むには便利な本になっています。

といって別に大部な本でもないので、一つ一つへの言及は至ってコンパクト、"淡泊"と言ってもいいくらいで、"学"というより"ジャーナリズム"的な印象が強いというか、「高級な別冊宝島」みたいな感はなくはないです。(笑)
その分読み易いですし、そうはいっても(別冊宝島と違って)"学"的中立は十分に保たれているので、宗教の「中」の人にも受け入れられる書き方になっているんじゃないかと思います。
ちなみに某K福のK学の某総裁(隠してない)も、何回か比較的好意的なニュアンスでこの人に言及しているのを見たことがあります。

参考までに主に言及されている"新宗教"の名前を抜き書きしてみると・・・

新しい方から

・幸福の科学、オウム真理教、ワールドメイト(深見東州)、法の華三法行、日本ラエリアンムーブメント、大和の宮
・統一教会、阿含宗、GLA、真光(系教団)、山岸会、エホバの証人、ESP科学研究所、大山祇命神示教会、ほんぶしん
・創価学会、立正佼成会、世界救世教、PL教団、生長の家、霊友会、真如苑、顕正会、妙智會教団、一元の宮
・天理教、金光教、大本(教)、如来教

といったあたり。
何らかあらかた知ってはいましたが、聞いたことがないものも多かったし、昔の宗教の内容が今の宗教の内容に思いのほか反映している、もしくは先駆けになっていることを発見しておおとなったり。とにかく"入門"としては、十分過ぎる内容になっていると思うので、そういう意味ではお勧め出来ます。
なお細かいことを言うと、教団や教義の途中からの変化がかなり顕著なGLAと幸福の科学については、いずれも"初期"の内容を対象にしていると、但し書きがついています。おおよそGLAは教祖(高橋信次)在世中、幸福の科学は"講談社フライデー事件"(1991)前後まで。


以上が"紹介"ですが、その中で僕が特に興味を持って読んだ箇所はどこかというと、全三部の内の第二部ナショナリズムの興隆です。
それはつまり何というか、参院選を控えて(笑)安倍自民の"宗教"的バックボーン(「日本会議」等)をどう考えたらいいのか、あるいはそれを筆頭とする、宗教・神道と微妙に関連したここ十数年(?)の現代日本における"ナショナリズムの興隆"をどう考えたらいいのか、なぜ未だにしぶとく神道的ナショナリズムが一定以上のリアリティを持てるのか、そこらへんについて知りたい、考える材料が欲しいと、別にその為に読んだわけでもないけれど、あえて言えばそういうことですね。

安倍自民は究極どこまでやる可能性があるのが、それを踏まえてどのような投票行動を取れば、後世に対して恥ずかしい思いをしないで済むのか、大げさに言えばまあそういう問題。

今回内容を細かく紹介する余裕は無いですが、それでもピンポイントで抜き書きを試みてみると。

p.95
ポストモダン的な宗教的潮流
 ところが一九八〇年代に入ると、新たに多様な形態の宗教的ナショナリズムの高揚がみられるようになる。それらは戦前の伝統を引き継ぐものであるとともに、世界的な反世俗主義の潮流を反映するものとも見ることができる。

簡単に言うと、むしろ新しい/最近の新興宗教ほどナショナリスティックであるし、またそれらは世界各国におけるそれぞれの宗教的原理主義の台頭とも通底する性格を持っていると、この人は判断しているということです。
その具体例。

p.100-101
真光のナショナリズム
真光の教えでは日本という国は世界発祥の地であり、世界人類は日本から広がっていったとする。(中略)
日本文化はさまざまな外来文化の影響を受けた雑多なものであるというような、日本人の主体性を見失った歴史観は誤りである。今後、世界を破滅から救う役割が日本人に課せられている。

p.101-102
ワールドメイトの霊的国防論
一九九五年の二月三日には、神武天皇と国常立大神の様の降臨により、「今年は、日本の国始まって以来の危急存亡の時である。蒙古襲来の時の二倍危険な事態となる」という知らせを受けたという。(中略)
まずは、「日本の未だ眠れる、国の守りをなす神域を早急に開き、そのご神霊を神起こすべし」。すなわち、「緊急国防神業」として、熊野大社、伊勢神宮、芦別岳、蔵王、岩木山、気比神宮、宗像大社の七つの神域で眠っている神を「熱誠の祈り」をもって揺り起こそうという。

・・・ここだけ見ると馬鹿みたいにしか見えないかもしれませんけど(笑)、つい最近でも上の二つを合わせたような教義を持つ「伊勢白山道」というブログとそれを書籍化したものが、人気を博しているようです。



僕も読んでみましたが、確かに魅力はあります。・・・"法螺話"の部分を抜いても。
というか正確には、"魅力"(説得力)があるから、"法螺話"の部分もセットで受け入れられるということでしょうね。だから遠巻きに見てるだけではなかなか分からないんですよね、これは他のどんな宗教にも言えることでしょうが。

続き。

p.103
仏教系の教団の場合
一方、(神道系のようには)日本文化の優位の主張はそれほど強くないが、今後の世界の危機を救う動きは日本から起こるだろう、その意味で日本人には世界を救う使命と資格があると説く教団もある。阿含宗や幸福の科学にそうした言説がみられる
p.131
これらは一般的な傾向を代表するものではない。たとえば、真如苑やオウム真理教や幸福の科学は神道系とは言えない。むしろ仏教に親近感をもつ教団が多いかもしれない。
p.132
幸福の科学の大川隆法(一九五六~ )は神道の民族神を中心にした民族宗教の時代は終わったと見なしている。日本の民族神は西洋や他の地域の神々に敗れた。しかし、いまや、日本から生まれた新しい宗教が世界の宗教を統一するときが来たという。(中略)
「いったん日本的論理は彼らの前に屈辱を喫したわけでありますが、今、第二弾として、日本的論理がもう一度世界を制覇する時代が来て」いる。

と、著者的なまとめとしては、「神道系を典型とはしつつも、より広範な傾向として"日本優越"論的傾向は新新宗教の間で見られて、"神道"はバックボーンとしての一つの代表例でしかない」というあたりに落ち着いているわけですが。

ただ僕の直接的な関心は"神道"なので話をそちらに寄せると、やはり神道系と非神道系では、論の基盤と立て方に違いがあると思います。
それは例えば上で幸福の科学(大川隆法)は、「民族神」の話として神道とその神々について判定を行っているわけですが、上述した伊勢白山道もそう、ワールドメイトもそう、生粋の神道系宗教思想の多くでは、高天原の神々はそもそも「民族神」ではないんですよね。ズバリ、『神』なんです。つまり、宇宙そのものの。天地創造の。理論構成はそれぞれ微妙に違いますが。
だから世界中に"色々"いる中で「日本の」神が偉いと言っているのではなくて、日本もくそもない、『神』だから偉いと言ってるんです。要は、"ヤハウェ"や"アラー"と同じです。
その『神』に最も近しい、あるいは最も純粋に直接に『神』の御心・性質etcを表現しているから、日本に優越性や"資格"があるのであって、単に民族神の力比べをしている(た)わけではないわけです。(幸福の科学はその立場)

・・・今回一緒に借りて来た本でこういうのがあるんです(笑)が



戦前からの"神道系新宗教"の大物/源流の一つ、「生長の家」の谷口雅春氏の主著"生命の実相"シリーズ・・・の内、戦後にGHQから削除命令が出ていた皇国史観・神国思想を中心的に述べた部分の復刻という、なかなかクラクラするような由来の本。
これを見ると、表題にあるように古事記の独自の丹念な読解を通じて、日本神話の"神々"が大文字の『神』であること、あるいは例えば「国生み」神話が"日本の"国生みではなくて「天地創造」そのものであることが、既にはっきり主張されています。

僕もまさか全部見てるわけでは全くないですが、島薗氏が論じる"新新宗教の共通傾向"という「横」の文脈とはまた別のものとして、戦前の生長の家(上のオリジナルが書かれたのは開戦前です)から21世紀の伊勢白山道までを結ぶ、"神道"を通じた「縦」の理論的共通性が、確実にあるんだろうなということは窺えると思います。
・・・実際には「生長の家」は、近代神道系宗教のむしろ"中興の祖"的な位置にあるはずですけどね。だからほんとの起源は更に推して知るべしというか。

ちなみにこの本ではアラーはともかくヤハウェやそれにイエスについてもちゃんと扱われていて、つまり「聖書」の「聖書」性をちゃんと認めつつ、それがいかに日本神道と合致するか、特に旧約の創世記と古事記がいかに"同じこと"を言っているかということが、滔々と、それなりに理路整然と、説明されています。"本気"なんですよ、ほんとに。


言いたいのはだから、「日本が神国である」的な主張・観念は、戦後の我々が思う以上に遥かに深い意味を持っている、単なる"自己愛"のレベルにとどまらない、"理論的一貫性"を持っているらしいということです。そのことにどうも、最近気付いたという。

そして恐らく、前回の"敗戦"でも、その信念の根幹は実はそれほどダメージは受けていないのではないかと。それは戦後の僕らがそれらについて実に無知である、真意や真価をかなり気安く見積もって来たこととの、背中合わせの事実として。"舐めて"たから、批評も否定も、ほんとには届いていないわけですよ。
そうして"温存"されて来たそれらが、例えば島薗氏が指摘するような"最近の"傾向と結び付いて、思ってもみなかった力強い思想的生命力を、今示しかけているのではないかと、そんなイメージ。

少なくとも戦前戦中とさほど変わらない本気度で思っている人たちは、確実にいるんだと思います(安倍首相の背後にも?)。必ずしも「狂気」や「無知」と、随伴しているわけでもなく。
更に言うと、言ったって本当の"戦中"派はもうあらかたこの世にいないわけですから、新たな世代にも、それなりの説得力布教力、魅力を、持ち得る/持ち得ているんだろうなと。

だから安倍自民は恐ろしい・・・のかも知れないし、あるいは逆に、それなりに確かな文化的背景or正当性を、持っているとも言えるのかも知れない。例えば欧米社会でキリスト教道徳が、未だ一定の正当性を持っているようにね。
勝手に"捨てた"と思っていたけど、別に捨てられてはなかったのかも知れない。少なくとも"決着"は、ついていなかった。
まあ分かりません。後はそれぞれが判断して下さい(笑)。僕も分からないし。

実際には政治家が本当に"信念"で活動をしているとみなすのはかなりの可能性で現実離れしているとは思いますが、ただ背後に"本気"の人が少なからずいるという方の可能性は、想定してもおかしくはないらしいなというのが、とりあえずの今の感触です。単に権力奪取の"陰謀"というだけてはなくね。(笑)


果たしてこんなんで参院選に間に合うんでしょうか。(笑)
もっと勉強しないと。(笑)


(参考)
戦時中の日本人の"本気"については、こんなのも何か参考になるかも。

 『小説 陸軍』、中空の桃源郷

手前みそですが。


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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
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