"島薗進 『ポストモダンの新宗教』"を承けての。
2009年出版。
主に幕末・維新期から明治を経て大正に入るくらいまでの時期についての話で、残りの大正・昭和期については、次の著書で扱う予定とか。
天皇信仰の実際
明治(初頭)の。
p.21-22
各地の天皇陵も荒れ放題(または行方不明)であったし、あくまで「明治の新政策」として、徐々に天皇の神聖化は行われた。天皇が神であるなら、歴代天皇もすべて神でなければならない。ところがその皇霊の祭祀はもっぱら僧侶に委ねられており、皇霊が仏に従属したかっこうになっている。
もっと驚くべきことがある。そもそもこの明治元年の時点では、御所には歴代の皇霊を祀る神殿そのものが、存在していなかったのである。
一般庶民にとっては天皇はただただ遠いないしは無関係・無関心な対象であり、"崇敬""信仰"の対象となり得る"お上"があるとすれば、それはむしろ徳川将軍、"公方様"であった。
教義の形成
p.33
"左院の建議"の第一の内容は、上でも言った"天皇霊の祭祀""葬礼"をどげんかせんといかんという話。さきの左院(政府の立法諮問機関)の建議(明治4年)には、もう一点、注目すべきポイントがある。皇神の位置づけと序列の確定である。
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を以て開元造化の主神とし、
天照太神を以て皇上万世の元祖と仰ぎ奉るべきこと
あまてらすおおみかみはともかくとして、"あめのみなかぬし"なんて現代の日本人にはほとんど馴染みが無いでしょうね。僕も存在を認識したのは・・・『竹内文書』か?ひょっとして!?
でも皇国オフィシャルには天地創造の神なので、お忘れなく。
ちなみに一般には天照"大"神として知られているはずですが、神道思想系の人は"太"の字を使う人が今でも多いですね。細かい違いは、僕にも分かりませんが。
p.33
要は「古事記」、ということですね。戦前の神道家や古神道家は、『古事記』冒頭に「天地初発」の神として登場する天御中主神を、あたりまえのように天地の根源の神、造化の主神とみなして種々の論を立てているが、そのような認識は、明治時代の国民には、じつは少しも「あたりまえ」なものではなかった。
それは伊勢の天照大神についてもいえることで、天照大神は日本を代表する尊い神様だという認識はあっても、天皇と血つながりの皇祖神だといった認識は、きわめて乏しいか、ないに等しかった。
江戸期の本居宣長あたりから連綿と訴えられて来た、(やまとごころを素直に伝える)「古事記こそが正典である」という主張が、明治に至ってついに公式に採用されたという。
一方で天御中主神はともかくとして"天照大神が天皇家の祖である"という設定(?)自体は、意外と現代でもうっすら共有されている知識だろうと思います。そういう意味では、皇国史観は存外勝利しているというか(笑)、明治の日本人より平成の日本人の方が、結果として"洗礼"は濃く受けているというか。
p.34
そして日本書紀。長らくのオフィシャル。『日本書紀』が天地初発の神としているのは(中略)「国常立尊」であり、こちらの神のほうが、天御中主神より天地初発の神としてはポピュラーだった。
なんか習った記憶はあるな、この違いは。日本史の授業(笑)で。
ただいかんせん、「くにのとこたちのみこと」様が余りにも現代ではマイナーなので、左から右に抜けて行ってしまったという。
この明治政府に権威失墜させられた「国常立尊」(神)は、後に一時代を画した民間発の神道系新宗教「大本教」によって復権され、以後はまたちょいちょい印象的な働き(?)を、新宗教シーンで演じるようになります。例えばこの前紹介した"最新トレンド"伊勢白山道の教義でも、天照と国常立は並び立って、重要な役割を担っています。
・・・ちょっと余談に流れましたね。
再び明治期の実情。
p.35
"神道啓蒙書"というのが面白いですね。ベストセラーリストに並んでたりしたのかな。とはいえ、天御中主神が天地初発の神として一般化するのはさきのことで、明治のはじめごろの説明は、まだまちまちだった。そのことは、当時数多く出版された(中略)神道啓蒙書に明らかだ。
(明治)六年の『い教大意』は「それ天地初て開し時の神を国常立尊と申し、又は天御中主神とも号し奉る」と両神並記で紹介し、
例えば古事記/天御中主神派の思想統制に対してあえて"国常立尊を掲げる"(大本教などはそう)というのなら、それはそれで統制が進んでいる証でもあるわけですが、こうヌルく"両神並記"で済まされると、洗脳をかけてる側としてはいかにも歯痒い状況でしょうね。(笑)
まあさっき見たWikiによると、天御中主国常立同一神説というのもそれなりに有力なものとしてあったらしいですから(吉田神道)、上の本はその流れなのかも知れません。
p.36
"人皇"というのは神武天皇以後のことですね。「人皇に成てからの事は日本政記ぐらいの本を読だ者でも、大略は知て居ますけれども、神代の事は、国学者とでも云う筋の人で無いと、頓と知らぬ様子」という、明治三十四年の大内青巒の言葉からうかがうことができる。
"明治三十四年"でもそんな感じかという。
ただしいずれにしても問題はあくまで「天皇」崇拝の確立であるので、主役は遥か"根源神"よりも直接の"皇祖"、つまり天照大神に対する民衆の感情・信仰。
それに関して。
p.38
明治政府挙げての皇祖崇拝キャンペーンに対する、初期の反応。明治七年刊の『開化古徴』に、興味深い話が出ている。近ごろキリシタンの呪物と混同して、神宮大麻(「天照大神」と記したお札、いわゆる神札)を海や川に流したり、焼き捨てたりする不心得者がいるというのだ。(中略)
神宮の大麻は、もともとは御師(おんし)と呼ばれる下級神職によって、暦などといっしょに全国各地の檀那(神宮崇敬者)に頒布されていた。(中略)
新政府は(中略)各府県の地方官をつうじて、大麻を全国民に強制配布するようにしたのである。
元々は"有志"の信仰としてありがたがられていた天照大神のお札を強制配布したわけですが、それに対して信仰不在による無知によって不適切(笑)な扱いをしたか、あるいは強制に対する反抗として、"キリシタン"を口実に侮辱的扱いをしたか。
いずれにしろ、いかにも取ってつけたような存在であったと、天照大神信仰は。(明治の)ある時期までは。
当然それに連なるまたはそれを"根拠"とする、天皇崇拝も。
神道と仏教
ご存知の通り、神道国教化と並行して、明治初期にはいわゆる"廃仏毀釈"運動が巻き起こります。
仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。
「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。
日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の
動きを指す。(Wiki)
・・・ただし最後の一文にも書いてある通り、明治政府が直接的に命じた・進めたのは、あくまで「神仏分離」なんですね。
ではなぜそれが相当以上に暴力的な"廃仏毀釈"運動になってしまったのかというと。
大隈重信侯の証言。
p.59
"便宜"という言い方に込められた、皮肉というか侮蔑というか。(笑)明治初年の廃仏毀釈は、神道者、国学者及び漢学者が主唱したもので、彼等が仏教に対する積年の怨恨をはらそうとしたものだ、・・・・・・彼等はこの機会に方(あた)り、自ら主唱する所を実行する便宜を得たものだ
便乗犯めという。
まあ「革命」が起きる時には、必ずこういう連中が涌いて来るんですよね。単にルサンチマンを晴らしたいだけの連中が。だからやなんだよな、革命は。
ただし"積年の怨恨"自体にはもっともなところはあって、江戸幕府の政策下では「檀家制度」の元、民衆統治は完全に仏教に準じて行われ、冒頭の天皇家のそれも含めて葬礼も仏教の独占状態だったわけです。その制度の下では神官たちはほとんど仏教の下働きのような地位しか与えられて来なかった。その恨みはまあ、あるでしょう、当然。
政府の方も"廃仏毀釈"を表立って奨励はしなかったものの黙認していた部分は勿論あって、神道を上げる為に仏教を下げよう、骨抜きにしようという意思ははっきりあったわけですね。
p.66
ぎょええ。なんちゅう巧妙な。明治元年からはじまった仏教の弱体化は、明治五年にほぼ完成を見る。
この年、(中略)まず、東西本願寺や興正寺、仏光寺などの門主を華族に列することで、彼らをそれまでの俗界を超越した"生き仏"の立場から、天皇に仕える一貴顕に立場を落とした。さらに、(中略)四月二十五日には僧侶の肉食・妻帯・蓄髪を僧侶自身の随意にまかせる旨の太政官布告(第一三五号)を発した。
さすが明治の元勲たちはオツムの出来が違うな。
それにしても、今日に至る「肉食・妻帯」(蓄髪)の一般化が、浄土真宗発でも"戦後の民主化"的な漠然とした陳腐化でもなくて、明治政府の法令というはっきりした起源を持っていたというのは初耳で、驚きました。
『ぶっちゃけ寺』(見てない)の背後に太政官布告があったとは。(?)
実際"けじめ"を失って、仏教は弱体化したんでしょうね。再び大隈候によると、仏教側もむしろ嬉々としてこの"世俗化"政策を受け入れたところがあったとか。
まあ江戸幕府に300年飼い馴らされて、仏教界自体も既に来るところまで来てたでしょうしね。そこを巧妙に、背中を押された。
仏教側の巻き返し
しかしその一方で。
p.72
大教宣布とは。この大教宣布には、神官だけでなく、僧侶も動員された。
神道教育に僧侶の参加が認められたのは、神官のレベルの低さに一因があった。確固とした宗教教育システムのなかで育てられてそれなりに教養があり、説教に長じたものも多く、民衆の暮らしに深く食いこんで下情に通じている僧侶とくらべると、にわかに人の上に立つことになった神官は、(全ての面で)見劣りがした。
明治維新の当初神道によって国民思想を統一し,国家意識の高揚をはかった政策。
神祇官が再興され,教導局,宣教使が設けられ,明治3 (1870) 年1月3日には,
大教宣布に関する詔書が出された。 ・・・コトバンクより。
上で言われているのは、この神祇官中心の初期型の大教宣布の失敗を承けての、(明治5年以降の)てこ入れ時の話ですね。
"革命に便乗"しただけの連中(神道家)の実態というか、「国家神道」の"宗教"としての内実の薄さというか。
ただし仏教は仏教で、これに協力したことでいよいよ宗教としての自立性を失い、国家神道体制に組み込まれて行くわけですが。
その仏教界の巻き返し、または迎合は、キリスト教という"共通敵"を名指しすることで勢いを得ていたのですが、
p.240-241
「神耶混淆説」、と言います。"耶"は"耶蘇"教(キリスト教)ですね。仏教側は、ただたんにキリシタンを批判したのではない。彼らは、国学者やその影響下の神道家が、キリスト教の造物主説をとりこんで自説を立てていると訴えたが、それはかなりの程度、事実であった。
ほかならぬ平田篤胤が(中略)キリシタン文書をほぼ丸写しして『本教外篇』を書いていたくらいで、(中略)唯一絶対の造物主を軸とする整然とした世界観や時空論は、そうした神学・哲学をもたない神道に大きな影響を及ぼしていたのである。
前回図らずも、昭和の準神道系新宗教生長の家の谷口雅春氏の国体論について、"ユダヤ・キリスト教みたいだ"という意味の感想を僕も述べましたが。
やはり、そういうことであるらしい。
我々日本人は"無宗教"と言いつつも、実際には無意識に常に「キリスト教」モデルで漠然と宗教を考えていると思います。"唯一絶対の造物主"(による天地創造)や求心的で絶対的な教義とそれへの服従等々を伴う。・・・例えば"仏教系"や"神道系"と称する現代の(日本の)新宗教ですら、ほとんどはその大枠内で教義形成しているように僕には見えます。
ただそれは成功したモデルではあるけれど"唯一絶対"なものではないし、必ず"自然に"そうなるものでもない。だからこうも近・現代の"神道"系の諸宗教にキリスト教的な臭いや構造が目立つのは、何らか欧米的"国民国家"形成上の有用性必然性(明治政府が意図したのは正にこれですが)や、あるいはキリスト教諸国・諸思想への対抗意識や無意識の模倣などが底流にあるんだろうなとは思ってたんですが、そんなはっきりした模倣があったとは。
まあ、みんながみんなそうではないでしょうけどね。あるいはどこかの時点で、正に平成の我々もそうであるような、「キリスト教モデルの刷り込み」が完成したということがあったのだろうと思いますし、それがいつかということには別途興味はありますがそれはともかく。
とにかく既にそのことは、明治の時点で仏教側は指摘していたということ。これはやはり腐っても仏教は宗教としてプロフェッショナルであったということと、同じことですが"日本古来の伝統"を旗印とする神道/国家神道がいかに急ごしらえの、近代的と言えば近代的、折衷的と言えば折衷的なものだったかを示しているわけです。
まあありていに言って、明治~昭和にかけて「神道」と呼ばれていたものは、せいぜいが江戸時代(の国学・古学や復古神道)に起源を持つ「新興宗教」だと、そう言っていいんだと思います。
"古来"の習俗(非"宗教")を、俄かに「宗教」化したものというか。
ちなみに「古神道」という言葉でたいてい言われているものも、"古い"神道ではなくて江戸期に発明された"新しい"神道なので、お気を付け(笑)を。(Wiki)
・・・国家神道のゴッドファーザー的(?)理論家平田篤胤については、次回 [後編]「国家神道の確立と秘教化」 で再度取り上げる予定なので、そちらで。
すぐ書くつもりです。はい。(笑)