"音響監督"というお仕事 ~アニメ監督は灰皿を投げない?!

先にやった「資料編」こちら
こっちが本論。・・・ま、論というほどのものでもないんですけど、そもそもが。ただの状況説明。
こっちが本論、あっちが本体というか。(笑)

とりあえずWikiの定義を再掲。

音響監督Wiki

主にアニメーションやゲームなどの作品において音声面の演出を行うスタッフのこと。

虫プロダクションがテレビアニメ『鉄腕アトム』を開始した際、過密スケジュールにより音響演出が時間的に不可能だったため内部に音響演出スタッフを別に置いたのが始まりとされる。
その後の虫プロ系や、人材的に虫プロの系譜を汲む制作会社の中にはアフレコなどを完全に音響監督に任せ、アニメ側の演出家が全く立ち会わないこともあった。それ以外では監督、演出家、ときには脚本家、原作者も立ち会うのが一般的となっている。


僕がアニメの世界を知る為に始めた、各期のテレビアニメの主要スタッフのメモ。
始めてから・・・何ともう10年目(!)になるわけですが、そこで割りと早々に気付いてかつ現在でも解決はされていない問題、実写(映画)に比べて「アニメ監督の"名前"と作品の質や傾向との関連性が、著しく低いと感じられる」問題。
その大きな鍵の一つと考えられるのが、この「音響監督」という日本のアニメ界独特の職分の存在にあるらしいという、そういう話です。

具体的にはどういうことかと言うと、僕がアニメをジャンルとして意識的に見出したのはかなり最近、もういい大人になってからなんですが、一方で僕がそれまでにそれなりに知っていた実写(映画)での経験では、ある映画を見てある監督を見て気に入って、それで同じ監督の別の映画を見ると、当たり外れ好き嫌いは別にして、一定の期待にはほぼ必ず応えてくれていたわけです。(だからこそ"監督"で見る)
その"期待"というのを更に細かく言うと、ある監督が作り出す"劇"空間、会話のテンポや間合い、言い回しのトーンやそこにこめられた人間観や価値観、それを表現する俳優の演技のニュアンス、そうしたものが、一種の"癖"として、作品のテーマ・内容や結果的な出来不出来とは別の次元で、否応ない共通性として存在する。その"癖"や"共通性"を僕(観客)が好んでその監督の(他の)作品を見た場合は、個々に好き嫌いはあっても最低限その監督の作品らしい、満足感は得られる、それがつまりは「期待」なわけですね。
逆にそこを裏切られると、"らしくない"と怒る。変節したか、大人の事情に魂を売ったか、創作をコントロールする力を失ったか。

で、こういうのはまあ、"ポリシー"として意識されている場合もまあ無くは無いわけですが、上で「癖」「否応ない」という言い方をしているように、そもそもはその監督自身が気持ちいい、そうでないと気持ちの悪い「空間」を作る為の作業なわけで、つまりはいいとか悪いとか以前にいかにその監督がその作品の「監督」であるか、最初の言い方で言えば(高い)「関連性」があるか、シンプルに言えばそういう問題。
芸術論というより、仕事論・作業論というか。

だからこそアニメでも、同じ人間同じ日本人が作っているなら、基本的な事情は同じだろうと当然のこととして想定して、"スタッフ"の名前を調べ始めたわけですが・・・


それが違った、ということですね。アニメ、より具体的には、大部分の現代のテレビアニメにおいては。
"あの"(素晴らしい)作品の同じ監督が、何をどうしたらこんな(しょうもない)作品を作るんだ、言われなければ同じ監督だと分からないし、言われても尚信じられない、こういうことが頻繁にあった。余りにも頻繁にあって、その内慣れた。(笑)
監督の「名前」は、作品の傾向を示すというよりその作品がどれだけあるいはどのように期待されて製作されているか、それを示す業界的なサインという以上のものではないと、そう理解する習慣がついた。
勿論"傾向"が無いわけではないですけどね、萌え系が得意な監督だとか熱血男臭い系で決まって起用される監督とか。ただそれは上の言い方だと「テーマ・内容」的な言わば可視的外面的なレベルでの意識的な区分であって、僕が気にしている"癖"的なものとはレベルが違う。"萌え"をやってもその監督、"熱血"をやってもその監督、そういう共通性の事を、僕は言っている。あるいはその仮に"萌え"なら萌えの同系統の作品の中でも、同じ監督の名前で実写では経験したことの無いレベルの、作品ごとの落差や似て非なる違和感を感じることがしばしばある。

これはいったいなんだろう・・・と、悩んでいる内に知ったのが、「音響監督」という"職業"、職域。前から何となくそういうクレジットは視野の端で見てはいたのだけど、せいぜい"SE係"くらいだろうと見過ごしていた。(笑)
それが要するに、(他にも仕事はありますが)声優の吹き替え・アテレコ作業の"監督"、言い換えれば「演技指導」だということを知った時は、驚きました。
なぜってそれは実写(や舞台)の常識では「監督」の仕事演出家の仕事、というかイメージ的にはむしろ"正に"「監督」の仕事であって、"アクション"と言い、"カット"と言い、駄目出しをし、怒鳴りつけ灰皿を投げる(笑)、それこそが監督・演出家の一番の仕事というか、「監督」が仕事をしている姿の一番のイメージであるわけです。・・・"一番"かどうかはともかくとして、"演技指導"をしない「監督」って、いったい何よというのは、常識としてどうしてもあるわけです。
(ちなみにアニメ界では「演出」という言葉も独特な使われ方をされますが、ややこしくなるので今回は割愛)

その疑問を更に深めるのが、洋画や洋ドラの吹き替え版における「演出」の仕事の存在で、あんまり注意している人もいないかも知れませんが、放送の最後に出て来る、『日本語版演出・○○××』というクレジットですね。
あそこでクレジットされている「演出」家つまり「監督」がやってるのも、正に"声優の演技指導"なわけで・・・つまり事の性格上「絵」をいじるわけは無いわけで、他に"日本語版"スタッフに残ってる仕事はそれだけですから、当然と言えば当然ですが、とにかく同じ"声優"が関わる業界でもこちらの方では僕が実写で身に付けた常識通りの慣行が通用しているので、尚更アニメ界はどうなってるんだという疑問が沸いたわけです。

なぜ「監督」は演技指導をしないのか、なぜ「音響監督」という専門の人が別にいるのか、「監督」はいったいそれで満足出来るのか、"自分の"作品だと胸を張れるのか。
・・・つまり一般論に立ち戻って、劇系作品における分業を考えた時に、監督が自ら脚本を書く場合もありますがそれでも"脚本家"が別にいる場合の方が圧倒的に多いわけで、そうして既に出来上がった"他人"の書いたものを作品化する時に、その文言そのものではなくてそれを演じる俳優の演技(だけではないですが)のニュアンスを自分の生理や意図に従わせる、"演出""指導"するという作業を通さずに、いかにしてある"監督"がそれを"自分の"作品にしていくことが可能なのか、"自分の"作品だと思えるのかという、根本的かつ素朴な疑問ですが。

根本的かつ素朴だからこそ、テーマや内容いかんに関わらずそういう"生理"や"癖"は作品に表れて、それを信頼して僕は監督の「名」で作品を見ていたわけですが、それが(テレビ)アニメでは通用しなかったのでびっくりしたという、そういう話です。


・・・と、煽っておいてあれですが(笑)、実はそんなに大スケールの"問題"ではないだろうと、結論を先取りするとそう思います。要は成り行きと慣習で、それ以上のものではない。

まず・・・どっちから行こうかな、"実例"の方から行くと、アニメはアニメでも劇場用映画を主舞台とする"名"のある監督の作品の場合、宮崎駿でも高畑勲でも細田守でも、そういう意味での「演出」には十分な一貫性・共通性があって、好き嫌い別にして(笑)"あの"監督のものだというのは程度の差はあれすぐに分かる。あるいは言われてなるほどなと思える。
テレビの方に重心を移しても、富野由悠季には富野節が、押井守には押井節が時にうんざりするほど(笑)濃厚に存在しますし、庵野秀明監督はオリジナルのエヴァンゲリオンでも原作付きの彼氏彼女の事情でも、同じように庵野秀明ですし。そこまで"作家"性の強い有名監督でなくても、あしたのジョーとエースをねらえとベルばらが出崎統という同じ監督だというのは、大いに納得出来ることでしょうし。他にもこどものおもちゃと浦安鉄筋家族の大地丙太郎監督のような、強烈な"生理"的共通性を示す監督なども。もう少し最近で言えば、新房昭之さんなんかも、非常に記名性の強い"生理"の持ち主ですよね。

それぞれの監督のそれぞれの作品における仕事の進め方、分担の仕方については細かく見ていけばきりがないわけでしょうが、とりあえずこういう作品ばかりだったら、僕も特に実写との違和感に苦しむ(笑)こともなかったでしょうし、逆に「音響監督」という職業の存在に気付くことも無かったろうと思います。

更に話を進めて、一つの説明ではあるでしょうが上に掲げたWikiによる「歴史」
それを見ると、日本のテレビアニメにおけるこの独特な分業形態は、ある種の歴史的偶然というか苦肉の策というか、行きがかりに近い性格を持っていることが分かります。
言い換えれば日本のテレビアニメ監督も、手塚治虫も(笑)、出来れば、なるべく、自分で全部やりたかった、自分の直接的な支配力を作品の隅々にまで及ぼしたかった、勿論声優の演技指導もしたかった、そういう"本能"については特に実写の監督と違わないと、そういうことは言えると思います。

あるいはその前の"例"に見られるように、その後分業が慣習化した業界においても、作家性の強い、特別に自分の生理や世界観に確固としたものを持っている監督たちは、それぞれの立場で努力してあるいは否応ない影響力・カリスマによって、声優の演技も含めた作品に関わる全ニュアンスの個性化を成し遂げている、そういう意味でもやはり実写映画との現在ある"違い"は、単なる既成事実的なものでそれほど積極的なものではないと、そう言えるのではないかなと。


とはいえその"単なる"既成事実にも必然的な部分はあって、それは虫プロの例にも正に表れているように、アニメの特に「絵」作りの作業の、実写とは比べ物にならない膨大さ。・・・逆に俳優を怒鳴ってれば、"音響"と同時に"絵"もとりあえず出来上がってしまう、実写の楽さというか。(笑)
それがあるから、スケジュール的に分業の必要が出て来る。
・・・というのと。ここからは推測ですが。
"絵"の独立作業性が量的にも質的にも余りにも独特なので、「監督」の仕事内容、あるいは備えるべき資質の重点が、分業の慣習化の時間経過も相まって、どんどん「絵」の方に傾斜して行ったのかな、"演技"や"劇"については間接関与が自然なくらいに、そういうことは思います。
最初は作業の慣行として、次には「監督」になる人間のタイプとして。

実際のところ、実写で監督になる主なルートは"助監督"や"脚本家"ですが、アニメの場合は絵描きですよね。
現実的に、絵の素人が現代の一定水準以上のアニメ作品の監督をやるのは、ほとんど不可能でしょう。
やるならそれこそ、"総監督"的な立場ででもないと。仮に指示出しだけにしろいいスタッフに支えられていても、自身が知っておかなければならないことが多過ぎる。"演技指導"だけなら、感覚で出来ないことはないでしょうが。(笑)

加えて言うなら現状ほとんどのテレビアニメは原作付きであって、しかもそれとの距離が平均して凄く近い、二次元から二次元への移し替え(漫画)か、"アニメ"的な小説のアニメ化(ラノベ)である、そこらへんも"細工"の余地として実写とは大きく違う、「監督」の"劇""ダイアローグ"部分への関与が小さいと、そういうことは言えるかも知れません。


という事情を鑑みても、やはり少し、"分離"が進んでいるなあと感じる部分はあります。"分解"というか。
本来「監督」がもたらすはずの、作品の求心性の平均的欠落。(の、常態化)
作業実態としては、ほんと様々だとは思うんですけどね。基本的な録音の技術的職能とかもあるでしょうから、「音響監督」がいるのはいいとして、監督が「監督」たる支配力を発揮する為に自ら音響監督をやる必要があるのか(そういう人、そういうケースもある)、それとも「音響監督」の存在も含み込んだ、作品全体の監督のマネージメントの意識の問題なのか、一般化は難しい。

それについてはある程度、世代的な問題ではあるのかなとは思います。
つまり今まで正に僕がして来たように、こうした議論は基本的に、"実写"映画の経験・伝統を、背景にしているわけです。"映画"における「監督」の支配と、それとの"対話"の経験、それを同じ「映像劇」ジャンルとして、(テレビ)アニメにも求めている。少なくとも映画から入った人は、そうなるでしょう。
例えば(前に書いたと思いますが)上で挙げた出崎統監督は、ある番組で自らの制作姿勢として、「自分はいち職業監督でお仕着せの本意でない作品も沢山作って来たけど、それでもどんな作品でも、それを"自分の"作品として、観客との一対一の対話関係が作れるように努力して来た」と、語っていました。(その1対1関係の典型的な指標として、監督の生理・世界観のダイレクトな表出としての、演技やダイアローグの"癖""個性"があるわけですね。)
そういう枷を、責任感を、ある世代までの監督は自然に持っていると思います。仮に実行していなくても、理想としては。

新しい世代の監督、多くはアニメそのものを栄養として育った監督たちが「責任感」を持っていないなんてことはないわけですが、その「責任感」の、作家性の、"形"が既に変わっているのかなと、常識としての。
"こだわる"部分というか。


・・・と、諦めてしまえばいいのかも知れませんが(笑)、しかし上で言ったように、「監督」の本能自体に大きな変化は無いように思えるし、何より僕自身が"困って"いるので(笑)、何かいいアングルは無いかなと、探しているわけです。
例えば「映画」ならばこの監督ならばこれくらいの作品が、「音楽」ならばこのバンド/アーティストならこれくらいの曲がアルバムがと、自然につけられる"当たり"が、テレビアニメの場合つかない、"監督"の名前では。では"音響監督"ならばつくのかというと、そこまでは無理だろうと思うんですけど。
なぜなら事態は、単純に監督の職域が一部音響監督に移譲されたというだけではなくて、"分業"による作品への参加意識自体が変化しているということだと思うので、「監督」の"代わり"に、「音響監督」が作家性を発揮しているわけではない。さすがにそれでは、バランスが崩れるでしょうし。
どちらかというとそれぞれがやや"薄く"自分を表現している感じで、だからこそひとたび監督が強烈な指導力を発揮すれば、例え"分業"体制下でも"音響監督"を挟んでも、監督の生理・個性は力強く発揮されることもあるわけでしょう。

とにかく不十分だろうとはいえ、「音響監督」という要素も加味することで、「監督」だけでは現状把握し切れない、"その"作品がその作品である理由、"あの"作品があの作品である理由、あるいはある作品のある要素について、その「監督」に理由を帰することが出来るのはどれくらいなのか(逆に「音響監督」はどれくらいか)、そこからその監督の別の作品のある要素についてどのように理解すべきなのか、そこら辺をもう少し高い精度で理解出来る、当たりを付けられるようになりたいなと、そういう話です。
その為に、手始めに音響監督の名前でも憶えてみようと。(笑) →(資料編)
・・・特に"原作の面白さが損なわれている"パターンについては、原因解明の必要性が強く出て来ますかね(笑)。作画とかは別にするとして、メイン脚本家を含めたこの3人の中に、"劇"面については責任者がいるはずですから。(笑)


しかしほんと、気持ち悪くないのかなあと、どうしても思っちゃうんですよね、俳優の演技を他人に任せる「監督」業って。全員に"総"の字でも上にくっ付けて考えればいいのかな。それも言い過ぎな気がするけど。
とにかく僕ならばやっぱり、灰皿は自分で投げたいですね(笑)。そうして泣かした女優を、夜旅館の自室に呼んで説教して、ついでに口説きたいですね。それが監督ってもんじゃないですか?!違うんですか?笑


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ちょうどアニメイベントで監督に質問できる機会があったので聞いてみました。知ってるよって話で参考にはならないかもしれませんが。

演技指導が必要な時、監督→音響監督→声優という形でする。音響監督のほうが声優のことを知っていて演技を引き出しやすいから。
しかし、それでも必要な場合は監督が直接ブースに入って指導する人と入ってまではしない人といる。と。

スタジオで5時間とかでとらないといけないから効率重視になるんですかね。
場合によってはベテラン音響監督だと言いにくいとかもあるのかも。

ただ東映だと音響監督がいない場合が結構あってオペレーターはいるけど監督が直接やることがあるとか。(スタジオ4℃での仕事ではそうだったようです。)

取材ありがとうございます。(笑)

ブースに入る人と入らない人がいるというのは、結構具体的で重要な情報な気がします。やはり基本は"音響監督の"領域だということですよね。必ずあるのは、ブース"外"or"前"での、監督から音響監督への意思伝達であって、いったん収録が始まればそこは音響監督と声優たちの"フィールド"というか。

今朝の『ガーリッシュナンバー』では、監督はブースに入る派でしたが、各声優たち&そのマネージャーが相談に行くのはあくまで「音監さん」で、なるほどなと思いました。

>東映だと音響監督がいない場合が結構あってオペレーターはいるけど

作業の具体性としては、この"オペレーター"、音楽なら"エンジニア"というのが基本の職域なんだと思います。技術職。それが慣行的に、"演出"の役割を果たすようになったと、そういう感じではないですかね。
虫プロの例で言えば、無かったのは"演技指導"をする暇というよりは"録音作業"をする暇で、やはり「絵」と「音」(声)を同時には作れない作業の二重性が、実写との根本的な違いだという。
今週の所長さん


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