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武田知弘『教科書には載っていない!戦前の日本』
2016年10月25日 (火) | 編集 |



「国家神道」絡みで読んだ本ではあるんですが、内容的には"トリビア"程度で、「読書日記」向け?
何かの時に、参考になるかもなというくらいの話。
さくさく行きます。


家族

p.142-143

戦前の家族制度では、「家の存続」が第一に考えられた。(中略)
これらの家族制度は、江戸時代の武家の家族制度を踏襲したものだった。
そのため、制定当初から「時代遅れ」だとして反対する意見もあった。
旧民法の起草に携わった法学者、梅謙次郎自身も「家族制度は封建の慣習であって到底、今日の社会に伴わないので、二、三十年後には廃止すべき」と主張していたほどである。

"戦後"の観点から見て"時代遅れ"な"戦前"民法が、その時点でもそれよりさらに前の"江戸"との対比において既に"時代遅れ"とは。つまり"戦後"から見ると二重に時代遅れということになるというか、現民法成立までは"江戸時代"の民法でやってたということ?(家族法については)
ちなみに"現"民法とは言っても別に憲法のように新しく作られたわけではなくて、明治29年以来の「旧民法」を、新憲法の趣旨に従って部分的に改正したものを、今でも使っています。
また上の"梅謙次郎"云々について補足すると、ああ書かれるといかにも梅氏が旧民法に反対しているようですが、「民法典論争」と呼ばれる旧民法制定・施行時に巻き起こった大論争においては、梅氏はむしろ推進派です。"反対派"はそもそも西洋式に「法律」化すること自体が、"日本古来の超法規的原理"としての家父長制を限定化し、揺るがすものだと、そう反対しているんですね。(笑)

p.145

戦前は早婚だったと思われている。だが意外とそうではなかった。(中略)
明治初期はたしかに婚期は早かったが、その後になって晩婚化が進み、昭和15(1940)年頃には、男性28歳女性24歳が初婚の平均年齢だった。現在と比べてもとりわけ早かったというわけではないのである。

へえ。へえへえ。
"見合い"が基本、かつ上にあるように家長の管理下という条件付きではありながら、既に「三高」志向的なものや、それによる「晩婚」化のような問題も起きていたということ。


デパート

p.171

デパートの登場は、日本の小売業の形態を大きく変えた。
それまでの日本の小売店は、特定の品物だけを扱う専門店ばかりだった。
その販売方法は独特で、店に行っても商品が陳列してあるわけではない。客は自分の欲しいものを店員に伝え、それに見合ったものを店員が奥から持ってくる、という実に回りくどい方法をとっていた。
しかも、商品には値札がない。店員は客によって値段を上下し、お得意さんには安く、一見さんには割高で、ということが公然と行われていた。
しかし、デパートの登場によってそれは変わった。

ほんとかしら。
"デパート"と"専門店"の対比は分かるんですけどね。今日でも"大型スーパー"と"商店街"というような形で、日々目にしているギャップですから。
ただここで言われている「日本の小売店」の"販売方法"が余りにも原始的というか、そことデパートとの間の"ジャンプ"が激し過ぎるので、にもっと何か色々あるんじゃないかとは、どうしても思ってしまいます。
とりあえずまあ、今日では「恐竜」産業扱いされている日本の"デパート"が、ある時期最先端であった・・・それは単にラグジュアリーということではなくて本当に革新者であったというのは、見える気はします。

・・・Wikiを見てみると、(欧米の)百貨店が「定価販売」を始めたこと、(三越・高島屋等の呉服系の)百貨店が日本における「陳列式」販売の走りになったことが、確かに書かれていますね。ほんとにそうなんだ。
上の"疑問"とすり合わせをするとすれば、今あるような完成された形態の"デパート"を考えるのではなくて、その移行形態というか"プレ"百貨店みたいなものをイメージして、それが"間"を埋めていると考えると、収まりがいいような気がします。特に日本の場合、"デパート"ありきというより「呉服屋のイノベーション」として始まったというような解説がされてますから、それがある程度漸進的に移行してやがて"デパート"という完成モデルを見出したと、そういうイメージ?

p.172-173

日本のデパートには、欧米のデパートにはない独自の文化がある。
それは、家族連れで買い物をする、ということである。
昭和初期にパリのデパートを調査した三越社員のレポートでは、「デパートの客の99%は婦人客であり、日本のように家族連れでくるのはクリスマスのときくらい」だと報告している。また、当時のヘラルド・トリビューン紙の記者も、日本のデパートが家族全員を顧客としていることに驚いた、などと語ったという。

これはほんとにトリビア。(笑)
"三越社員"の口ぶりからすると、やってみたら「家族」が集まって、その後改めて欧米視察してみたら全然違うんでびっくりしたという、そういう流れでしょうか。
日本の百貨店Wikiを見ると、欧米でも日本でも、巨大で豪華な建物によるラグジュアリーな空間として同じく基本的には成立したものの、一方で日本については「大量販売による廉価販売」という側面も強くあったと書いてあるので、その流れで家族が気楽に遊びに来る"そこそこ"の場所に収まったのかなあとは一応思いますが、どうして先行した欧米ではそうならなかったのかは、ちょっと分からないですね、そこらへんの構造は同じに思いますが。
"家族"で行く場所自体がそもそも日本は少なかったので、同時にそれも担った、とか?


ハチ公

p.179

この記事にもある通り、除幕式にはハチ公自身も参列している。

そうなんだ。
今ならば、SNSで拡散されまくりでしょうね。(笑)
ちなみに渋谷のハチ公像がつくられた経緯としては、新聞記事等でアイドル的人気を博していたハチ公をだしにして、怪しげな便乗商法が流行りまくって、その流れで銅像まで作られそうになったので、有志がもっと「正式」なものをということで、急いで作られたという話。
ハチ公オフィシャル。(笑)


日本人移民

p.233

他国の移民たちのようにギャンブルで身を持ち崩したり、闇社会に沈んでいくようなことはほとんどなかったといわれる。アメリカでは、移民たちによる犯罪集団がしばしば生まれているが、日本人移民によるギャング団というのは、ほとんど見られなかった。

日本人移民は真面目だったという話。
そう言えば"ジャパニーズマフィア"って、比喩以外では聞きませんね。("イタリア"や"アイルランド"はあっても)
「マフィアvsヤクザ」とか、リアルにあったら絶対映画化されてそうですもんね。(笑)

p.233-234

しかし、日本人移民たちはその勤勉さと閉鎖性が災いして、現地の人々からはあまりよく思われていなかった。(中略)
そのため、国によっては日本人移民の受け入れを拒否するところも出てくるようになった。

むしろ"マフィア"でも形成した方が、土地への馴染みとしては有益だったのかも知れない。
"日本人移民"と言えば戦時中のアメリカでの強制収容の話が有名ですが、排斥されたのはアメリカでだけてはなく、かつアメリカでのそれも戦争が起きて急にというよりは、その前からじりじりと進行していた果ての話という面が、あるということ。


徴兵(逃れ)

p.241

当時の北海道や沖縄では、労働力を確保する必要から徴兵を行っていなかった。(中略)
夏目漱石も、徴兵を避けるために本籍地を北海道にしていたという。
(中略)
映画監督の黒澤明は、徴兵検査の担当官がたまたま父親の教え子だった。そのため、彼は徴兵を免れている。

まあ、軽くゴシップ的な。(笑)
夏目漱石の時代で、既に徴兵制があったのか。
まああったんだろうけど、あんまりイメージ無いですね。やはり昭和の戦争時の"赤紙"のイメージが強烈。
・・・その前の戦争は"勝った"から、あんまりネガティブイメージが伝わってないということかな。

p.242

もっともシンプルな手段は、逃亡である。これは"行方不明者"にならなくてはいけないため、社会生活上、大きな制約を受けることになった。それでも「兵隊に行くよりはマシ」ということで、この方法をとる者が絶えなかった。
(中略)
より極端な方法に「犯罪を起こす」というものがあった。
徴兵令では「6年以上の懲役、禁固を受けた者は徴兵しない」決まりだった。(中略)満州事変以降、国内では刑期6年前後の犯罪が急増している。

みんながみんな、心からお国の為に勇ましく戦地に赴いたとは勿論思っていませんでしたが、ここまで広範に徴兵逃れが試みられていたとは、思っていませんでした。
逆に「戦前戦中」の日本の代名詞的な"非国民"的圧力は、ある時期まではそこまで強くはなかったということ。
・・・むしろ"SNS"時代の方が、ニュートラルには徴兵逃れは難しいかも知れませんね(笑)。情報網的にも、道徳的相互監視傾向的にも。


以上です。
なんか久しぶりに"軽い"本で、逆に不思議な気分でした。(笑)


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テーマ:読書メモ
ジャンル:本・雑誌
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