第二章 「人権指令」と「神道指令」
「人権指令」
「神道指令」(後述)は有名ですが、その前にもう一つあったんですね。信教の自由の原則を確立するために連合軍最高司令官がとった第一のステップは、「政治的、市民的、宗教的自由にたいする拘束の除去」と題された一九四五年一〇月四日の「人権指令」の発令であった。
それは日本政府にたいして、「信教の自由の制限を負荷または維持するすべての法律、布告、勅令、政令、規則の廃止および信仰を理由として特定の個人を有利、不利に取り扱う条項またはその適用の即時停止」を命じた。とりわけ戦争遂行のために宗教を効果的に統制し、動員するために用いられた「宗教団体法」および悪名高い「治安維持法」は、とくに廃止の対象として指定されていた。
(p.50)
内容はどこを見てもだいたい上の通りです。
とりあえずおさらいとして、「宗教団体法」とは。(コトバンク)より。
宗教法規の整備統一を図り,宗教団体の地位を明確とし,保護・監督を強化することで,国家の統制下に
宗教団体を置くことを目的に1939年(昭和14)4月8日に公布され,翌40年4月1日から施行された法律。
「治安維持法」は言うまでもないかも知れませんが、一応。
国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。
当初は、1925年に大正14年4月22日法律第46号として制定され、1941年に全部改正された。
とくに共産主義革命運動の激化を懸念したものといわれているが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義
等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。(Wiki)
まとめて何というか、非常に"フラット"に受け止められた様子が窺えると思います。文部省の官吏たちは、「人権指令」の受領後、ただちに全力をあげてその命令の実行を開始した。関係法令の見直し、およびそのなかでの信教の自由を制限するものの洗い出しは、比較的容易であった。
(中略)
神道については本指令では言及されていなかったし、いまだ政府は、神社は宗教団体ではなく神社参拝は宗教行為ではないとする立場をとっていたから、神道にかんしては、なんらの行動もとられなかった。
(p.51)
内容は言わば当然のものだった、つまり信教の自由も含めて本来は旧憲法下でも認められてしかるべきものだったので、法解釈的な困難は無く、ある意味官僚的に(笑)、粛々と遂行された。
下段についても含むところは無いというか、要は公式見解に従っただけであるし、この時点では神道のそういう位置づけに"問題"がある、"国家主義的"な偏向の可能性があるとは、実際のところほとんどの人は考えていなかったようです。
つまりアメリカでは実際に、民法に基づいてある程度一般的に宗教法人についても処理されていて、日本の(後の)「宗教法人法」のような専用の法律は無しでやっているということですね。日本でもそれでやろうとしたところ、宗教界はそれでは困るとここはかなり頑強に抵抗して、決着まで時間がかかったと、こういう話。「宗教団体法」が廃止された後に、宗教団体が法人としてその法律上の地位を保全できるようにするための法案の起草は、かなりの難題だった。
民間情報教育局は、このために、代わりの法律や法令が必要だとは考えなかった。その見解によれば、それは民法で十分であって、法人たる宗教団体は、すべからく民法第三十四条によって法人になるべきだと提案した。
(p.51)
他の事では柔軟な著者(GHQ)も、"民法でいいのではないか"というのはぎりぎりまでこだわっていて、それはそれだけそれが当然だと思っていたからでしょうがそれゆえに少し記述が一方的で、この件に関しては宗教界との対立の実際はちょっと読んでいて分からなかったです。"対立した"ということしか書いていない。
一つの推測としては、前回も言ったようにアメリカでは基本的に宗教の社会的地位が高いので、一番問題となる宗教団体の税制上の優遇なども、さほど抵抗なく"付則"的なものの範囲内で実現出来る。日本の場合はそうもいかないので専用の法律で「これこれこういう理由で宗教活動は特殊だ」ということを明言しないとなかなか受け入れられない、宗教団体の"身分"が安定しないと、そんな事情があったりするのかなと思いますが。
特に根拠はありません。
「ビンセント放送」
米国務省が日本での占領政策について説明する為に、NBCのラジオで質問に答えた放送のこと。"ビンセント"はその時のスポークスマンの名前。
ほぼほぼ、アメリカ政府の立場を言い尽くしている感があります。何せ電波に乗ってますから、逃げも隠れも出来ませんしね。ビンセント 神道にたいしては、それが個人としての日本人の宗教であるかぎり「占領軍」は干渉しません。
しかし、神道が日本政府によって指導されたり、政府による上からの強制の手段になっている場合には、それは廃止しなければなりません。国家神道を支援するために国民が課税されることはなくなるでしょうし、神道が学校教育のなかに位置づけられることもなくなるでしょう。国家宗教としての神道、すなわち国家神道は撤去されることになるでしょう。
(中略)
この面でのわれわれの政策は神道のみにとどまりません。どんな形をとるにしても、日本の軍国主義的および超国家主義的な思想は完全に抑制されることになるでしょう。
(p.54)
それはともかく、
とのことですが、いちいちこんなことを商業ラジオで一般国民に対して説明する機会を持つこと自体が、驚きに感じられます。"民主的"とかいうのもそうですけど、そもそも一般のアメリカ人は、そんなに日本の占領政策に関心があったんですかね(笑)。あるいは知識が。この放送は連合国軍最高司令官に向けた公式の政策にかんするステートメントではなく、アメリカ国民にたいして占領政策をわかりやすく説明するための広報活動にすぎなかった
(p.55)
いくら賠償金を分捕れるとかいう、話ではないわけですから。"シントウをどう扱うか"ですから(笑)。日本人と中国人の、神道と仏教の区別がついてたのかしらんとか思ったりもするわけですが、それとも当時のアメリカ人の民度、ないしは"敵"である日本についての宣伝・教育は、僕の想像を遥かに越えて進んでいたのか。
さてそれ自体としては明確なこのラジオ放送の性格には、実は微妙な面もあったようです。
つまり上にあるように"一般国民向け"のステートメントであったこの放送は、逆に言えば特に現地の総司令部(GHQ)に向けたメッセージではなかった(海を越えて聴かれるとは想定されていなかった)らしいんですが、同時に特段の相談も無しに行われたので、伝え聞いたGHQ側は政府国務省による遠回しな示唆ではないか圧力ではないかと、解釈に悩むところがあったとのこと。
基本GHQはかなり専権的に活動はしていたわけですが、当時の通信環境ではこんな感じのギャップ・時差は、ちょいちょいあったようです。
そしてそういう状況下でウッダードら現地スタッフが読解するに、国務省のステートメントとGHQの方針には、やや無視できない食い違いも見て取れたとのこと。
具体的にはこの部分。
つまりGHQが、はっきりと「信教の自由」と「政教分離」という"原則"の明示・適用を大きくテーマにしていたのに対して、国務省側はもっと実利的に、要は国家神道の影響力を消し去って日本を無害化出来れば良いと、そういう考えにとどまっていたと、ウッダードは言います。第二点は、国家から分離されるべきものは神道のすべてではなく、彼が「国家神道」と名づけたものに限られていたということである。このことは、干渉の理由がかつて国家神道が日本の「超国家主義および軍国主義の普及」の一因になったことによるものであって、政教分離の原則にたいする理論的な関心によるものではなかったことを示している。
この点に関連して、ビンセント放送が、信教の自由にも政教の分離にも全然触れなかったことに注目すべきである。
(p.56)
・・・正直に言うと示された文面だけ眺めていても、僕にはそこまでは読めないんですけどね(笑)。恐らくは日々の本国とのやり取りの中で感じていたギャップを、あるいは他の根拠も併せた形で、ウッダード(たち)はこの放送を読み込んだということなんだろうと思いますが。
別な言い方をすると、あるいはまとめて状況を整理すると、本国の当然と言えば当然の、「いかに日本の占領統治をつつがなく進めるか」という関心を越える形で、「いかに日本をいい国にするか」という目標・理想を、現地GHQは抱いていた燃えていたということ。だから"原則"を大事にしたいわけで。
逆に理想主義的過ぎる、"左"過ぎる、理論的に先端過ぎるとも言われたりしますが。その後の「日本国憲法」の内容も含めて。
ただまあ読んでいて湧き上がってくるのは、素直に感謝の気持ち、ウッダードたちの情熱と誠意と忍耐強くバランスの良い知性に対する尊敬と感動の気持ちですね、前回もポロっと漏らしているように。(笑)
やはり、いい時にいい国のいい人たちに出会えたなあ日本はと、そう思ってしまうんですが。
同じ項に書いてある、戦時中の日本の(神社)神道に対する理解ですが。たしかに戦争の終わりにいたるまで政府は神社を統制していたし、ある程度、神社参拝を強制していたが、こうしたやりかたも、神社神道を呼吸と同様に当然のものと受け止めていた数千万の日本人の宗教的な信仰に影響を与えることはできなかった。
(p.56)
随分よく分かってるなあというか、分かってるからこそ、神道そのものを滅ぼすという施策は、最初から取る気が無かったんだろうなという。単に「国家との結びつき」や「国家神道の戦争責任」という、事実論的刑法論的な区分けにとどまらず、「国家神道」化しても損なわれていない、日本人の(広義の)神道・神社への信仰の、本質的なところ実際のところを、驚くほどよく理解している。
仮にもカソリックの宣教師だった人が。だったからかも知れませんが。いち「キリスト教」の教義・見解を越えて、"宗教"に真剣で敬虔な人だったんでしょうね。
神社の組織化
「神社本庁」については、既に一回説明しているのでそちらを。一九四五年の九月には、神社は、直面した危機を処理するために必要な組織を欠いていた。数十年にわたって、神社は政府機関によって管理され、その問題を処理してもらってきていた。
神職たちは自分たちの全国組織を持ってはいたが、神社の全国組織はできていなかった。
(中略)
一九四五年の秋から一九四六年の初めにかけて「神社本庁」という一つの組織を設立した。
(p.57-58)
まあ要は国家神道制度の廃止で官の方にあった取りまとめ組織が無くなってしまったので、代わりに作った組織。ミニマムには。
"神社"にはないが"神職"の方にはあったというのは、戦前の「全国神職会」あたりを指しているんだと思います。ここらへんの神道界の細かい動き・変遷については、興味深いところもあるので後日まとめて紹介する予定です。
ちなみにこの"組織化"を、著者はかなり好意的なニュアンスで記述しています。「ちゃんと組織が出来て良かった」という感じで。ちょっと驚きというか、単に神道が好きなのかなと思わないでもないです。(笑)
伊勢神宮へのこだわりは神道界の終始一貫したもので、かつ終始一貫、GHQ側はさほど重視していなくて温度差があります。要はいち宗教としての神道の"教義"の問題としか考えていないよう。そこへの不干渉という大方針については、前回説明した通り。彼らの考えの一つに、西欧諸国においては伊勢皇大神宮こそ「カミカゼ精神の根源」という世論が広がっていて、その処分は「占領の最重要課題の一つ」なのであろうというものがあった。
(p.58)
ただ「精神の根源」への攻撃への警戒心、あるいは西欧側の"警戒心"の存在の認識については、本質的には神道側は外してないように思います。"本能"的にというか。ただそれが、「伊勢神宮」をめぐってのものではなかっというだけで。
「神道指令」
バンスというのはウッダードの上司で、実務の総責任者。バンスは、「国家神道」の危険性は、
(1)その国家による主宰、支援および普及、
(2)日本政府および神道国家主義者たちによる、領土、天皇、および国民の起源の神聖性についての、多かれ少なかれあいまいな神話による説明、
(3)その神話を表象する儀式の遵守を強制し、その神話の述べるところを歴史上の事実として受け入れることをすべての日本人に強いた厳格な体制、
にあると考えた。
(p.69)
ウッダードは常にバンスと意見が完全に一致していたわけでもないようなことを書いていますが、とにかく上のようなバンスの認識に基づいて、神道指令は起草されたということ。
(1)は制度的、"政教分離"の原則的問題。
(2)は教義そのものの中にある異常性・危険性の問題。
(3)は(2)が(1)によって固定されたことで、どのような社会が出現したかという問題。
まあ改めての整理というか。
これはつまり、「天皇」について、か。と同時に、「神道」について。彼は、その危険性は天皇と神道との相互関係そのものにあるのではなく、名目上すべての政治的および軍事的権力を一祭司たる天皇に置きながら、実際にはその権力が政府機構を全面的に支配する少数の権力集団によって行使されることを許す特異な政治機構にあることを理解した。
(p.69)
ウッダードいうところの"国体のカルト"(前回)の、名指し出来る"教祖"は天皇ではあるわけだけれど、禍根はそこにあるわけではなく、もっと言えばそれは"宗教"(神道)問題ですらもないと。
それはいいとして、ただ「少数の権力集団」が何を/誰を指しているのかは、この本では名指しされていないし、僕も分かりません。あくまで"政治機構"なので、その時々変わるという書き方にはなっているとは思うんですが、多少は例示が無いと、yesともnoとも言えないところはあります。「十常侍が悪い」とかだと、分かり易いんですけどね(笑)。・・・"軍部"とか"内務省官吏"とか、いるにはいるんでしょうけど。意外と「首相」ではないんですよね、東条みたいな一部の例外を除けば。
アメリカ的にはその"名指し"出来ないところが不気味で、正にそれを解体しようとしていたということではあるんでしょうけど、正直そこらへんについては少し不満です。"犯人がいない"という可能性まで、本当は考えなくてはいけないと思うので。ちょっと言いっ放しかなあと。
前段は上で出て来た「国務省とのギャップ」という話ですね。または「GHQの独自解釈」。バンスが「神道指令」の起草にあたって独特の貢献をしたことは、神道を打破して非国教化するという考えかたを「すべての宗教、信仰、信条を国家から分離する」という普遍的な原則に拡大したことであった。(中略)
しかし、この指令は、一般的に知られるようになったその名前のために、その普遍性は広く認識されなかったのであり、占領軍が神社神道を叱咤するために使う鞭のように受けとられたのである。神職は、一つのグループとしてとらえれば、キリスト教をふくむその他の宗教の指導者たち以上に国家主義的であったことはないという事実にもかかわらず、この事実もまた一般に無視されることになってしまった。
(p.73)
後段の「名前」については、可能ならば「神道指令」ではなくて「国体のカルト指令」と言い換えたいというのが、この人の本意だと思います。名前自体が、一種の誤解であると。
"事実"、ねえ。前の項の「神社の組織化」のところでも出て来たんですが、どうもこの人は、元々の神道への好意に加えて実際に接した"神職"たちに、かなり好感を抱いたようなんですね。そういう背景での記述。
というわけで出された「神道指令」。以前にもまとめましたが、一応、今の観点からもう一回やっておきますか。ソースは同じくWikiとコトバンク。
・1945年(昭和20)12月15日、GHQより「国家神道・神社神道ニ対スル政府ノ保証・支援・保全・監督及ビ弘布(こうふ)ノ廃止ニ関スル件」との標題で、神道・神社を国家より分離することを指令した覚書のこと。
・神社の国家管理制、公教育の場での宗教教育、国家・地方公共団体が宗教儀式を行うこと、また「大東亜戦争」や「八紘一宇」の語や、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用などが禁止された。
・1952年講和条約発効とともに、効力はなくなったが、趣旨は日本国憲法に継承されている。
"覚書"であって法律や法令ではないので、ちゃんとした条文としては残っていない、のかな?
"効力がなくなる"のはこれがあくまで「占領軍」による指令だからで、占領体制の終わりと共にということですね。制度的なもの(禁止)については関連して作られた各種法律や勿論新憲法が有効な限り有効なんでしょうが、個々の「用語」についてはだから、今は使うこと自体の禁は解けてるということかな?形式的に言うと。
「八紘一宇」はともかく「大東亜戦争」は、普通の人は使わないですけどあえて立場を誇示する為に使う人は結構いますよね、それこそ朝生とかでも。
「神道指令」に対する反応
以下まとめて。
ダイクというのはバンスの更に上司です。バンスは、その前にダイクに渡したメモで、日本政府は連合国軍総司令部の示した諸条件に応じる手配をすませているから、彼らは何が起きても驚かないだろうと報告していたのである。実際、何も異常なことはおこらなかった
(p.74)
「覚書」なりに少なくとも政府筋への根回しは済ませていたというのと、その前の「人権指令」で既に基本路線は示されていたというのと。
今回は要するに、前回あえては言及されなかった、かつ「"宗教"ではない」("祭祀"である)という明治以来の慣例・定義により、「宗教的自由」という人権指令の課題の枠外に置かれてしまった神道についての、特化した措置・指令ということになりますかね筋としては。
・・・今確認してみたところ、「神道は祭祀であって(いち)宗教ではない」という明治政府の規定についてはまだ書いていなかったようですね。詳しくはいずれ改めて書きますが、結論だけ言うとそう規定することによって明治政府は、仏教以下諸宗との対立、「信教の自由」の問題を回避していたということです。
話戻してウッダードは特に、「人権指令」と「神道指令」をセットで説明することによって、あくまでこれは信教の自由・政教分離という共通した原理全般についての処置であって、神道を狙い撃ちしたものではないということを強調しているわけですが、それが嘘ではないとしてもやはり"名指し"された方としては、なかなか収まらないところはあるでしょうね。(笑)
"メニュー"一覧。日本政府は、「神道指令」発令後三か月の一九四六年三月十五日に、
神社と国家の関係を除去するため、すべての関連する法律、省令・規則の廃止ないし改定を終了
したこと、
「神道指令」にかんする通達と説明を広く伝達したこと、
地方の役人や神社神道の指導者たちにたいする会議を開催したこと、
予算から神社にたいする支出を除去したこと、
神祇院と伊勢の神職養成機関である神宮皇学館を廃止し、また東京帝国大学から神道講座を
排除したこと、
学校の教科書から神道の教義に関連した記述を削除するとともに、学校で神道の教義を教える
ことを禁止したこと、
公的機関による神道の文書配布を禁止したこと、
使用禁止を命令された用語の使用取りやめを命令したこと、
公的建造物から神棚その他の神道の象徴を撤去するよう命令したこと
などを報告してきた。
(p.76)
これは分かり易い。
多少のお追従はあるでしょうが、「人権指令」の時もそうであったように、なぜGHQがこういうことをするかの意味・意義自体は、比較的スムーズに理解された/理解されていた様子は、窺える気がします。日本の新聞の社説は控えめで、おおむね好意的だったが、その反応には四つのタイプがあった。
(中略)
最後に、最も多くの論説は、「神道指令」を支持し、政府がそうするように命令される以前に国の神道への支援を廃止しなかったことを批判していた。
(p.77)
一方。
"驚愕"したのは、"不干渉"のGHQが、政府と違って宗教界には、直接の根回しや情報提供は行わなかったからか、「人権指令」がその("祭祀"という)特殊な地位を迂回したので、安心していたのか。神社神道の指導者たちは驚愕した。それと同時に、中途半端な状態が終わったという安心感で一息ついた。長らく待たれ、恐れられていた指令は、予想されたほど厳しいものではなかった。伊勢皇大神宮には触れられていなかった。神社は一つも閉鎖されなかった。
(p.78)
まああくまでウッダードの観察ですし、あまり言葉尻にこだわっても仕方ないですが。
そうですよね、明治神宮はともかくとしても、靖国も護国(靖国の地方版)も橿原(神武天皇)も、明治以後に建立された"怪しい"神社の全てが生き残ったのなら、およそ文句を付ける筋合いは無いようには見えますよね。
それでも神道側(の一部)は「言いがかりをつけて弾圧された」と近年は言ってるんですけど、それについてはまた別の機会に。
創設当初の神社本庁には、ある種リベラルというか、教義の求心性や国家との一体性を不要と考えるグループも少なからずいたということは、以前にも紹介しました。ここで紹介されている"小野祖教"という人がそれに当たるのか、つまりやがて主流から外れて行った人なのかはよく分かりませんが、国学院の教授であって、"神社本廳(庁)の名スポークスマン"というリンク先の表現から見ても、少なくともいっときはかなり中心的な人物だったことは窺えます。若干の神社の神職は、「神道指令」によって神社が国の統制から解放され、その干渉なしに神社の事業を発展させることが許されたから、この指令を歓迎した。
(中略)
仏教紙「中外日報」の編集長が一九五〇年七月八日付の同紙に、「われわれは、神道指令が、キリスト教の普及を促進するというけちな考えに基礎をおいているのではないと理解する」と書いたときに、たしかに神道界にも、これに賛成した人びとがいた。(中略)
国学院大学教授で神社本庁講師をしていた小野祖教博士は、(中略)人びとが、「神道指令」にしたがうことによって再生された神道も他の宗教と同様に信教の自由を享受することができるということを認識しないのは不幸なことであると述べていた。
(p.78-79)
多少泥縄になりますがここでされている議論の背景を説明すると、つまり上でも言ったように戦前の日本では(神社)神道は諸宗とは完全に別枠の非宗教・"祭祀"として扱われ、管轄官庁も異なり国家の管理と庇護の対象になっていたわけです。それは一見"優遇"されていたようではあるわけですが、一方で「宗教教団」としての自由な活動は制限され、分かり易いところで"布教"の自由すら無かったわけです。
それがGHQの宗教改革、「神道指令」によって変更され、確かに国家の庇護は失われたけれど同時に活動の自由も取り戻すことが出来た、それを前向きに受け止めるべきだ、あるいはGHQの政策の公平性を正当に評価すべきだというのが、ここで言われている主張。
勿論単純に怒っている人たちも一方ではいて、そういう人たちやその影響下にある人たちが、後年の神社本庁の活動などを通じて"復権"を図り、ある程度は成功しているというのが、今日の状況かと思います。
今回紹介したこの章は、全体として純粋な"記録"というより、そうした人たちの声の高まり始めた時代状況を背景として、それに対する説明・反論というニュアンスの濃い書き方が多くなっています。(この本の末尾にはズバリ「宗教政策への批判に応えて」という一章もあります)
その為ちょっと分かり難いというか、基本飛ばして応用の話になってるようなところがあって、例えば「国務省とGHQの方針の微妙な違い」の話などはそうかと思います。神道指令の具体的内容とかも、もっとあると良かったかなあと感じますが。
まあ見ての通り善意の人、僕からすると神道に好意的過ぎるとすら感じるところもある人なので、その意図が誤解された悪意に受け取られたのが、かなり悔しかったんだろうなあというのは想像出来ますが。
今回はここまで。
(『第三章&第四章』につづく)