そろそろ佳境、"ラス前"あたり。
第五章 超国家主義と軍国主義の一掃 ~国体のカルト解体への対策
1.新しい祝祭日の制定
p.172
"二月一一日"の問題はともかくとして、どれが「国民の祝日」かとか改めて考えたことが無かったので、とりあえず書いておきます。両院の委員会の合同会議を重ねた後で、じつはそのなかの一回においてバンスは、二月一一日(紀元節)は、たとえ国会で承認されても、これを許可することはできないと述べたのであるが、以下の九つの日を国民の祝日とする法案が六月一七日に国会に上程され、七月五日に可決された。
一月一日 元日
一月一五日 成人の日
三月二一日 春分の日
四月二九日 天皇誕生日
五月三日 憲法記念日
五月五日 こどもの日
九月二三日 秋分の日
一一月三日 文化の日
一一月二三日 勤労感謝の日
今はこれに、
二月一一日 建国記念の日
五月四日 みどりの日
七月の第3月曜日 海の日
八月一一日 山の日
九月の第3月曜日 敬老の日
一〇月の第2月曜日 体育の日
が加わり、昭和→平成への交代に伴って
四月二九日 → "昭和の日"へ
"天皇誕生日" → 一二月二三日へ
と変更されているわけですね。(国民の祝日Wiki)
結構増えたなというのと、"連休"作りの為の名目的なものを除けば、付け加えられたのはやはり「建国記念の日」「敬老の日」「体育の日」と、戦前回帰的な色彩が強いなと、それは思いますね。
・・・「体育の日」が"戦前回帰"的だというのは、それを"国"が定めるのがどうしても"軍事教練"とかを思い出させるからですし、そもそもを言えば「体育」という用語自体が、起源として兵隊育成を意識したものですからね。
じゃあ「スポーツの日」ならいいかと言うと、それはそれで余りにも"西洋"的ニュアンスが強いというか、"スポーツ"という言い方自体が、一つの「思想」であるというか。"スポーツ柔道"なんて言葉もあるように。
意外と難しいんですよね、ここらへんは。
「敬老の日」を加えてもいいんですけど、それならば「こどもの日」は、もっと意味づけをはっきりさせるべきだと思いますね。漠然と"すくすく育てよ"ということではなくて、(大人と経済社会からの)「保護」の対象であるということを。それならば、釣り合いは取れる。
2.戦没者のための記念碑と式典
p.173
ふむ。面白い。いま回顧してみると、連合国軍最高司令官が、日本の政府および民間団体が軍国主義的ないし超国家主義的と解される活動もしくはそのような傾向を促す活動に従事することを防ごうとした努力は、やや行き過ぎであったと思われよう。(中略)もう当時の総司令部が、いかに深い反戦感情が日本人の心の奥底に生まれるかを予知できたとしたら、本件にかんするアメリカの占領政策はずっと緩やかなものになったろう。
まず"行き過ぎ"だったとは僕は全然思わないですし、実際(天皇制と神道に対して)手ぬるいという批判が本国からも日本の他宗教からも当時あったということがこの本にも書かれていますが、それはともかくとしてその後(占領終了後)主に神道界からの「ゆえなき弾圧を受けた」という反撃・批判が、思いの外筆者にはこたえていて、それへの対応としてこの本が書かれたという側面が少なからずあるということですね。前にも言ったかも知れませんが。
"こたえて"いたのは一つには、今まで述べて来たようにGHQの担当部署が、全体として神道に敵意を持って対処してはいなかった、だから心外だというのと、もう一つはその後の後段を見ても、どうやら神道界及び右翼勢力による批判をかなりの部分"日本人の総意"として受け取っている、受け取り過ぎているらしい、そういう面があるということですね。
その"後段"はまあ何というか、日本人がここまで従順に自分たちが提示したものを受け入れるとは、当の担当者たちも思っていなかったという、そういう話。(笑)
一つには、("世界征服"をもくろむ)「好戦的な国日本」という戦中の宣伝が、前提として深くアメリカ人の中に浸透していたというようなこともあるのかも知れない。そういう意味で、意外だったと。分かりませんがしかし「予知」していたとして、どう変わったんですかねえ。正直あれ以上に"寛大"な占領政策って、ちょっと僕にはイメージ出来ないんですけど。
結局もう一方のドイツの"戦後"を見ても、一回は思いっ切り"逆"に振れるのは、不可避なプロセスのように見えますが。気にすること無いよ、ウッダードさん。(笑)
・・・とにかくそういう"反省"も含めての、各種戦前的軍国主義的記念碑の撤去問題。
p.180
この時期2年間で約8000件に及ぶ、各種記念碑や像の撤去・移転・書き換えなどがあったそうですから、結構大変なことのように思いますが、全くと言っていいほどそういう記憶や意識は無いですね。・・・一瞬「二宮尊徳像」などが浮かびましたが、あれ(の撤去問題)はもっとずっと後、1970年代とかですしね。(二宮尊徳Wiki)宗教課が差し支えないとみなしたものでも、撤去された事例がかなりあった。
(中略)
現状のままで差し支えないと認められたものは少なかったが、それらは無害であると見なされたもの、本質的に芸術品としての価値をもつと考えられたもの、例外にしてもよいだけの歴史的価値があると判断されたものなどであった。
それは推測ですが、上にあるように日本側がむしろ積極的にというか時に過剰な自主性をもって(お得意の"自粛"?)政策遂行を行なったので摩擦が少なかったのと、あとはこれも上にあるように"歴史的"建造物などは慎重に残したので、そんなに「破壊」的な印象は残さなかったのかなと。
しかし"式典"の方はそう簡単には行かず、今日に至るまで火種が残っているという。
p.180-181
p.183時が経つにつれて、政府の戦没者にたいする無関心な態度に国民が不満を持っていることがはっきりしてきた。
(中略)
政府も一般大衆も戦没者を記念するための正常で非宗教的な手段を与えられていないために、これらの神社を私的というよりは公的な施設とみなしがちで
(中略)
占領軍が戦没者を適切に記念することに反対しているという印象は、払拭することが望ましいと考えられた。
GHQは戦没者一般の慰霊に何ら異存は無かったし、むしろ積極的に推進・推奨したい立場だったという話。バンスの意見では、戦没者の遺族と戦友を満足させることができるものは、政府が死に追いやった人びとへの責任を果たし、政府高官が参列して十分に意を尽くされた死者の追悼と記念のための公的式典以外にはないのであった。さらにバンスは論を進めて、過去の戦争の戦死者にたいする正当な表彰が行われなければ、新設の保安隊における式典も完全に受容できるようにならないと主張した。
多少言い訳がましく聞こえないことは無いですが、"アメリカ人"の基本的な態度としては、これは嘘ではないでしょうね。兵士や戦争犠牲者に対するリスペクトというのは、アメリカの文化の中でかなり重要な地位を占めていて、かの"何でもあり"のトランプでさえ、選挙運動中に"退役軍人に対する侮辱"ととられる発言をしてしまった時には、支持者も含めて大きな批判を浴びて、致命的な失点になるだろうと言われていたわけで。(なりませんでしたが(笑))
それにしてもこの「保安隊」(自衛隊の前身)についての言及は、少し驚きかも。要するにこれは、"軍隊"として筋を通せという話ですよね。前の戦争で死に追いやった人たちに対するけじめもつけずに、まともに軍の再建なんか出来るかと。むしろ"右"の人が口にしそうな苦言というか。
まあ言ってもGHQも基本"軍人"ではありますし、日本人の基準で言えばアメリカ人は、全体として中心が「右」に寄ってはいるわけですけど。
それはそれとして、細部の検証。
まず「国民が」不満を持っているというのは、あくまでGHQがそう見ていたという話で、具体的にはちょっとよく分からないところがあると思います。つまり前の項で見たようにGHQないし著者ウッダードは、占領政策に対する日本人の「反」感をやや過剰・過敏に受け止めているところがあるように思うので、ここのところも本当に当時そう思っているのか今(執筆当時)の観点が混じっているのではないか、あるいは"GHQ"というより"ウッダード"個人の感想ではないのかという疑いを、少し僕は持っています。
さっきのバンスの"憤慨"ではないですが、良くも悪くも戦後の日本人は、ここらへんの感覚はだいぶ鈍い気がしますしね。問題にするのは、特別に右な人と、それへのカウンターとしての特別に左な人だけで。
戦争?戦没者?何それというのが、むしろ普通の人。他国に比べて、生き残ったおじいちゃんたちがその時代のことを積極的に語らないという傾向も、ある気がしますし。余り"伝達"もされていないというか。
もう一つ、「非宗教的」なのは「正常」なのかという、問題。
勿論"特定宗派"に拠って国民的慰霊を行なうのは不可能か「国家~」になってしまうので避けなくてはいけないわけですが、一方で全く「非宗教的」にそれを行うというのも、机上の空論ではないかと。要はアメリカがそういう時大雑把に「キリスト教」に拠るように、日本も何かに"拠"らざるを得ないのではないかその有力候補として「神道」を排除は出来ないのではないかという、今日でも"千鳥ヶ淵"(の有効性)などをめぐって、実際に問題になっている問題。
まあ別にこの問題を、GHQ/アメリカ人に解決しろと言っているわけではないんですけどね。ただ書き方がいかにも"軽い"なというか、恐らくは前に"クリスマスツリー"問題でも顔を出した、キリスト教の"普遍性"についてのアメリカ人のごくごく一般的な"驕り"みたいなものが、ここでも顔を出しているなと、そう感じたという話です。
こういう時のキリスト教徒は、ほんとカチンと来ますよね(笑)。イスラムのように血相変えて"主張"しない分、余計傲慢な感じがします。本質的にはやはり、我々"異教徒"を人間だとは思ってないでしょうね。(笑)
3.戦没者をまつる神社
例えば第四代宮司である鈴木孝雄は、元陸軍大将であるなど。靖国神社は特別のカテゴリーに属していた。戦没者のための神社をふくむその他の神社と異なって、それは内務省の管轄の下に置かれたことはなかったのである。靖国神社は、いつでも陸軍および海軍、通常は陸軍の管轄の下にあった。
"A級戦犯合祀"云々以前に、最初から"違う"神社であったと。
p.188
岸本(英夫)は、前にも紹介したGHQと日本の宗教界との橋渡しに努力した、東大の宗教学者。岸本のみたところ、神社では、軍人がすべてをとりしきっており、神官は自分たちだけでは何も決定できなかった。岸本はまったくの部外者、新来者であったから、神社に入ったときに彼を迎えた雰囲気はきわめて緊張したものだった。
この時も岸本は、詳細は省きますが靖国の危機を伝え、それを回避する交渉の為に訪れたのですが、雰囲気としてはこうだったと。
雰囲気はともかくとして、普通に軍人が神社内にいるんだと、それ自体が僕には驚きでしたが。
なんか凄く"秘密結社"っぽいというか、いざとなったら立てこもって応戦するのではないかと、そういうイメージ。
p.189
公平というかリベラルというか。バンスの取り組みかたは、いつものように慎重であった。バンスは、これらの神社の宗教的な性格も否定しがたいことを配慮して、この問題は用心深く処理する必要があると感じていた。これらの神社が真の宗教的信仰を具現するかぎりにおいては、これらの神社も他の宗教施設に与えられるとまったく同じ</span>保護を与えられる権利をもつと思われた。
正しいと言えば、全く正しいと思いますけどね。
でも案外伝わらないんですよね、こういうのは。「敵」にも「味方」にも。(笑)
結局のところ、「味方」以外は「敵」と思われるんで。「靖国」のように感情的なトピックスは、特にそうですけど。
とにかくこれがGHQの方針であり、それは常にそうであったと。今までも見て来た通り。
こういう態度は個人的には好きですけど、ただ「政治」的にはいずれにせよ手ぬるいというか、例えばどうせ靖国の宗教的な正当性を否定しないのなら、いっそ積極的に"戦後"政府の機構の中に組み込んでしまって、"戦前"勢力の手からなし崩しに取り上げるとか、それくらいのことをした方が良かった気がします。
勿論彼ら(バンスたち)は政治家ではなくて役人に過ぎないですし、どうやっても自ら掲げる厳密な政教分離の原則には、反してはしまうんでしょうけど。
p.190
これはまた、何というか。民間情報教育局はまた、たとえ個人としての立場のみでという主張があっても、靖国神社の公式の式典に天皇が出席し、あるいは弊使を差しかわすことは認めないことに決めた(式典のとき以外の日ならばいつでも、天皇が「個人として」靖国神社にいくことは希望すれば自由であった)。
まず前半部分については、"決めた"というのが面白いなと。最初からそれほど自明ではなかった。
「靖国」についても「天皇」についても、それぞれに位置づけが揺れていたということだと思いますが。
そして後半ですが、「個人としての天皇」というのは、これは無理筋な。他のことならともかく、"靖国"なんて問題について。
・・・天皇が「個人」として靖国に参拝する様子なんて、イメージ出来ます?"人間宣言"一発くらいじゃ、無理でしょ。それが出来るくらいならいっそ天皇制なんて、やめてしまえばいいというかやめられるというか。
まあ絶対行ってないとは、言いませんけど(笑)。この通りGHQの許可は下りているわけですし。(笑)
とりあえずここはまあ、GHQが天皇に対しても靖国に対しても、あくまで理論的に原則主義的に、その意味で"フェアに"対していたことを、示す個所ではあるわけでしょうね。例え多少浮世離れはしていても。
p.192
"この方法"云々は気にしないで下さい、また別の各論の話です。民間情報教育局はこの方法によって、神社本庁が戦没者のための神社へ書簡を送って、かつて陸海軍の将校であった宮司をすべて解職することや帝国軍人遺族会の廃止などを勧めていたことを知った。これらのことは神社の存続のための「絶対的必要条件」だといわれていたが、宗教課はそのような判定基準について関知していなかったし、またそれらが決定的条件だとは考えていなかった。
とにかくここで言われているのは、神社本庁、つまり戦後作られた神社神道の全国組織(の中枢)が、自主的にこうした過激ともいえる防御策を講じて、靖国を筆頭とする軍と近い関係にあった神社群を守ろうとしていたということ。
あくまで「自主的」であって、GHQの意向とは、結果的に無関係であったわけですが。
こうした両者の"温度差"というか噛み合わなさというのは一貫して存在していて、それは要するに、一定の明示的な原則をフラットに敷衍しているだけのGHQに対して、神道側や戦前勢力側はそこに何か"一物"あるはずだと"腹"を探り続けるんだけど探られている方には結局何も無いという、そういうすれ違いですね。
自分たちには"ある"から他人もそうに違いないと思うという、正に"下衆の勘繰り"だという言い方は、意地悪過ぎるかも知れませんが(笑)。ただこういうのを見てて思うのは、占領終了後にGHQやそれに導かれた戦後社会に対して彼らが言い立てた被害者意識は、おおよそが妄想だろう、独り相撲だろうと、そういう推定ですね。
まあここらへんについては、つまりは"神道側の言い分"については、この本が終わったら、改めてまとめて述べてみたいと思っています。
4.超国家主義の表象の除去
教育勅語
p.194
内容的にはかなりの程度普遍的な道徳ですし、更に言うと「神道」であるよりは遥かに「儒教」なので、それほど直接的にホットなわけでもないんですよね、実は。占領軍のスタッフや顧問のなかには「教育勅語」を許容しうるものとみなした者もあったが、学校での「教育勅語」の扱われかた、すなわちその由来も性質もともに神聖であるかのような扱われかたにたいしては、すべての者が異議を唱えたのである。
それをもって"勅語復活"を口にする論者もいなくはないわけですけど、問題は「神聖視」という"扱われ方"なわけで、だから仮に学校教育の中に明確な道徳的指針を盛り込むにしても、「復活」という枠組み自体が最初からヤバいわけですね。作るなら「教育勅語」という"枠"(とそれが持つ歴史)は一回完全に廃棄しないと、中身が何であれ同じような悪影響が"復活"してしまうという。
p.195
そう、なんですかね。日本国民の大部分は「教育勅語」が超国家主義的に運用されていたことに気づいていなかった
むしろ今言ったように、「内容」自体よりもその利用のされ方、"悪名"のみが残っている感じですが。
ここらへんはまあ、終戦直後と今では、ギャップはあるわけでしょうが、田原総一朗等、何人かのその世代の人たちの話を聞く限り、"特別"扱いされていたという自覚ははっきりあったように感じますが。
"御真影"と皇居遥拝(文部省の抵抗)
p.198-199
"奉安殿"とは、各学校に配布された、主に天皇の肖像写真(御真影)を収めておく為に作られた専用の建物。(Wiki)多くの奉安殿が、小さな神社の形に作られていた。(中略)そして、奉安殿がもつ超国家主義的な意味合いよりも、むしろこのことを大きな理由として、一九四五~一九四六年の冬に、奉安殿の処分問題が持ち上がったのである。
明らかにそれ自体が天皇の過剰な神格化そのものなわけですが、『神道指令』を承けた文部省は、論点をずらして"神社"風の作りが「政(公)教分離」に反するという理由で、各学校からの撤去を命じたということ。先手を打って、"天皇"(崇拝)を逃がしたというか。
p.200
"遥拝"。遥かに拝むこと。一九四五年一二月末に文部省が「神道指令」を遵守するよう通達したときには、神道の神社にたいする遥拝の禁止が告げられたのに加えて、とくに理由もなかったのに、「遠方からの皇居への表敬は禁止されていない」と付記されたのである。
"皇居(宮城)遥拝"。皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝)すること。この場合は特に、各学校で毎日のように集団でおこなわれたそれを指す。
とにかく文部省は意図的かつ強引に、神道と天皇を切り離して、『神道指令』から天皇を逃がそうとしていた。
大部分のことでは文部省を筆頭とする日本の官僚は、GHQに対して時に過剰とも思えるほど協力的だったわけで、要するに戦前(派)の日本人が何を守りたかったのか何が大事だったのかが、よく分かりますね。
神道なんか、ぶっちゃけどうでもいいんですよ。天皇です。あくまで天皇。
天皇の"権威"
p.203
明治天皇ゆかりのもの・事跡に対する、特別扱いの禁止・・・というより文部省による指定の撤廃。たとえば、旅館主たちは、この処置の結果、すべての客間を使用できることになったので喜んだ。
従来、彼らは、明治天皇が休息した部屋または宿泊した部屋を、博物館に陳列するようなものとして保存することを義務づけられていたのである。
といって別に「明治神宮」が存亡の危機にさらされたわけではないので、あくまで"過剰な"神格化の、禁止ですね。民間にも及ぶ、些細な一つ一つの。馬鹿げたというか。
p.206-207
ほええ。天皇を格下げする努力の一局面は刑法の不敬罪条項の廃止案にも表れたが、これは民間情報教育局によって却下された。宗教課で用意されたと思われる一九四六年六月二七日付の草案の覚書きでは、国家がその最高責任者を特別な措置をもって無責任な批判から守るのは国家が遂行する通常の行為である、と論じられている。
GHQは、「不敬罪」を守ろうとしていたのか。勘弁してくれよ。
これはどう考えたらいいんでしょうね。
"宗教的"国家(アメリカ)として、「権威」一般に対して本質的に優しいところがあるということなのか、一方で「神社」に対する不敬罪条項はさっさと廃されているので、既に存続の決まっている天皇制の、その権威を守ろうとした、つまり"利用価値"を傷つけない為にと、そういうことなのか。
この件に関してはウッダード自身は当事者ではないようなので、それ以上は書かれていませんが。
そもそもアメリカには制度上「王」は存在しないので、ぶっちゃけよく分からないというか、天皇制が存続なら不敬罪も存続でいいんじゃね?と、その程度の判断だった可能性もあると思います。ウッダードの書き方の距離感などからすると。
とにかく結果として、GHQが天皇制に対して攻撃的でなかったということは、分かる箇所だとは思いますが。
・・・タイトルが仰々しい割りには、意外と淡々とした章でしたね。(笑)
事実の記述に努めたというか。
特にそう心がけたのかも知れませんが。
上手く行けば、次がラストです。