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『この世界』と『片隅』
2017年01月31日 (火) | 編集 |
基本メガヒット作品には(色々と面倒なので)あんまり近付かないようにしているんですが、今月期限の株主優待券に背中を押されて、とうとう見て来ました、『この世界の片隅に』と『君の名は。』。

『君の名』の方はそうでもなかったんですが、『この世界』の方のカップル率が高くて、少し意外でした。(笑)






まずこのせか感想。 (公式) (原作Wiki) (映画Wiki)


日本の漫画って、ほんと凄いよね!
間違い無く"人類"の文化史に残るジャンルだし、残すべきだと思う。
大丈夫、「未来人」からすれば"日本語"のハンデなんて、逆に大した意味無いから。英語も日本語も、時が経てば、"分からない"という意味では同じになるから。(笑)

能年さんの"役"との「相互侵食」率って、独特のものがあるよね。
芸名変えなきゃいけないほど女衒の親方(たち)に意地悪されてるなら、いっそクレジット出さずに声だけでゲリラ出演しまくるとかどうでしょう。(笑)
あれも能年、これも能年。みんな後で、でもすぐ分かって、それはそれで伝説になる気がする。Wikipedia作る人が大変だけど。(笑)
真面目に基本、役を選ぶ必要なんか、無い人だと思います。"駄作"含めて、手塚治虫ばりに多作でもいいようなタイプの人。根本のパワーが、普通の人とは少し違う。

好きなシーン。
・哲が北條家に寄った晩に、ずーっとこうしたかったとすずが告白するシーン。(の意外性)
・ずずが敗戦を受け入れずにキレるシーン。(の、これまた意外性)
・原爆遺児の子の自然な受け入れ方と、受け入れた家族の住む家の、少し壊れてるけど概ね無事な外観を引きで見せる最後の絵。(の、"家族"の説得力)

最後の3つ目は、今思い返しても軽く泣きそうになります。まあ"ほのめかし"に弱いんですよ僕は。(笑)
"右手"の喪失の嘆き方も、意外と言えば意外でしたね。辛いのは当たり前なんですけど、あんないちいち思い返してまで執着する(場面が出て来る)とは。

全般的描写としては、"ボーっとしている自分"及びその周囲の評価の受け入れ方と、しかしだからといって骨が無いわけではない、主張する時、譲れないもの(例えば"右手")がある時は断固としてそれを表現する、その幾分タイミングが遅めではあるけれど(笑)"反転"の瞬間のインパクトが、"タイミング"の意外性もあいまってボディに重く深く突き刺さる感じでそれが好きですね。
まず「受け入れ」があるところがミソで、それはある意味、"戦前"的な日本人のありようではあるんだと思いますが。昔の女性というか。一回受け入れた方が、"パンチ"(笑)は重くなりますよ。それは現代でもね。(笑)

二つ("反転"の前と後)の中間的な表現として、「うーん」と困る表現とかも好きですね。「みんな優しいから安心して」と妹に言った後に、「お義姉さんも?」と聞かれて「うーん」と微妙な顔をするシーンとか。(笑)

あと"娼婦"というのはやっぱり昔の女性にとっては、別世界の"華やか"な存在ではあったんだなあという。「女」を"表現"する習慣の、無かった時代の人たちにとっては。善悪以前の憧れというか。
今は(別に悪い意味ではないですが)"平均的"に、みんな「娼婦」ですからね。


個別にはこんなところですが。

まあこういう話、こういう作品を見てると、人間はいったい何をやってるんだろうと、考えてはしまいますが。
なぜ戦争なんてものが起きるんだろう、なぜその戦争において、非戦闘員を意図的に殺すんだろう。なぜせめてものその戦争の信じた"意味"が、敗戦によってあっさり無意味とされてしまうんだろう、そんなことが起きるんだろう許されるんだろう。(あの時のすずの心境)

それらに意味や理由を考え続けることは可能でしょうが、いっそ「無い」と割り切ってしまった方が思考の経済としてはひとつ賢明で、全ては要するにただ"起きる"、この世("この世界")はそういうものでこの世の起きること一つ一つに意味を求めるのは無駄な作業で、あるいは意味が"ある"とすればそれはその時それを求める側にあるので。
・・・仮に"神"がいたとしても、それはそれらこの世の出来事の起きる前提にある"初期条件"の設定者としてのみいるので、それを(人間が)用いて起きた一つ一つに特に「思し召し」は無いと、そう考えておいた方が無難で。あるいは世界を理解し易くて。

だから一人一人の人間に出来ることがあるとすれば、そうした「この世界」の「片隅」に、自分なりの"意味"を見出して行くこと作り出して行くこと、自分と自分の愛する人(たち)とその周りに。
それを"家族"と呼んでもいいし、呼ばなくてもいいし。(あえて呼ばない方が無難な気はしますが、それがしっくり来る人も、いるでしょう。)

「片隅」だから、それが作れる(「世界」に普遍化するとたちまち"無意味"に吞み込まれる)というのと、あるいはこの広大&荒廃無辺な「この世界」で、よくぞ見出された見出してくれた、「片隅」の愛おしさと。
あえて定式化すると、そんな話ですかね。

・・・そうですね、「家族」というより「家」の方が、相応しいかも知れませんね。「片隅」というタームの、"空間"性"場所"性からすると。だから"決め"のシーンは、"人"ではなくて"家""建物"だったと。
あるいは「家」に集まる人、それを「家族」と呼ぶというか。これはちょっと、括り過ぎかな?(笑)


ま、そんなような。
"実存主義的"と言えば、そうなのかも知れない。あえて分類すれば。
ただそれが「漫画」という、優れた表現ジャンルを通して表現されることによって、勿論こうの史代という優れた作家の手によってなされることによって、独特のリアリティと精彩が、そうした分類とは別次元の問題として生み出されている。それがまあこの作品の、ひいては日本の「漫画」作品全般に共通する魅力でしょうね。「映画」だと、割りと簡単に"思想"や"分類"に吞み込まれる。

もう一方の「反戦」はどうでしょう。確かにこれ以上は無い「反戦」作品ではあるでしょうが、ただ"戦争"というのは「この世界」の悪や荒廃や"無意味"が分かり易く極大化された代表なのであって、仮に戦争が無かったとしても人は(すずは)そのままでは幸せなわけでも救われているわけでもない。やはり「片隅」に、何かを見出さなくてはならなかったでしょう。
そういう意味では戦争は、ある意味良い"覚醒"要因でもあって、"戦争"に刺激されたすずが「この世界」の奥底の洞察(あるいは直面)に導かれ、「片隅」という"真実"を自覚する、そういう作品としてこの作品(と"戦争")を理解することは可能かと思います。

別にしたくはないですけどね(笑)。ほんとはただ見ていたい。(笑)


ちなみに僕はすずさんは、エロいと思います。
とてもとても、エロいと思います。(笑)
あのちょっと首を傾げた曖昧な笑顔が、たまりません。(笑)


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テーマ:アニメ
ジャンル:映画
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