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ウッダード『GHQの宗教政策』/信教の自由と「予言者」マッカーサー
2017年03月07日 (火) | 編集 |
前回まで。


第六章 「信教の自由」の奨励

宗教界からの追放はなし

p.220

バンスは宗教界からの追放の実施に反対する議論のほうが、これに賛成する議論を上回っていると判断したのである。彼は、アメリカの世論神道にかんしては追放の実施を支持するだろうと考えたが、もし追放を他の宗教にもおよぼした場合どうなるかについては確信を持てなかった。

日本の宗教人の公職追放について。
はっきりとは書いてませんが、後半を見る限りここでバンスが慮ったのは、日本での「議論」というよりアメリカでのそれのようですね。
それにしても、何度も言いますが当時のアメリカ国民が「世論」のレベルで日本の「神道」にそんな明確な"意見"を持っていた(らしい)というのは、驚きというか違和感というか。現代のアメリカ人だって、どれだけ日本の国内事情に知識を持っているか怪しいものなのに。
それはそれとして、やはりここにおいても当時のアメリカ人の、"宗教"全般についての好意的態度は、見ては取れますね。(元)敵国の宗教人に対してすらも、バンスがこれだけ気にしなければならないほどに、同情が予想されたという。


神社の「宗教法人」化/神社本庁の結成

p.228

神社の連合体形成にかんする提案をバンスが支持するかという重要な問いは、直接には行なわれなかったのである。

これも何度も言いますが、むしろ"指示"を欲しがっていた各宗、ここでは神道側に対して、バンス及びGHQは、あくまで不干渉を貫いたという、そういう話。直接的な"問い"を行うところまですら、行っていない。勝手に腹を探っていただけ。
神社本庁が結成されたというのは、そうした"政府"側の沈黙に対して、自ら完全に民間のいち宗教(法人)として、神社界が再出発することを決めたという、基本的にはそういう出来事なわけですね。神社組織が強化・結束することに、今日見られるように「国家神道の復活」という臭いは感じられるとしても、宗教政策上の原則論としては、あくまでそういうこと。神社界が自ら決める、つまり「信教の自由」「政教分離」


新宗教の温室としての日本

p.247

占領初期の数年間、信教の自由の結果として、多くの新しい教派とカルトが出現した。しかし、(中略)アメリカの政策決定者が予測していたことを、わずかでも示唆するような記録はまったくない。民間情報教育局の誰一人として(中略)日本の宗教に精通しておらず、宗教課は日本の宗教の一場面としてそれらを扱うこと以外には特別な政策を持たなかった。
(中略)
訪問者は決まって、日本人がどのように新宗教に食いものにされているかに注意を向けさせ、しばしば新しい運動を抑圧するように求めた。

へえという感じ。
まあ元々江戸末期以来、近代日本は"世直し"を求める無数の宗教運動("尊王"思想自体が一種の宗教)に彩られては来たわけで、「国家神道」の統制のたがが外れたらそうなるかという感じではありますが。
アメリカ人がそれを予測出来たかと言えば、それは出来なかったかなと。ただここまでのGHQの態度を見て来れば、そういう有象無象含めて"良し"と、恐らくはハナからそういう対処しか可能性は無かったろうなとも。
ちなみに「訪問者」というのは、日本人の宗教関係者たちです。日本人はアメリカ人程には、宗教性善説ではないという。そこまで「自由」を有難がっていないというか。(笑)


信教の自由と検閲

p.273

検閲はたえず非難の的となったが、その非難の多くは、かなり正当性のあるものであった。多くの場合、記事削除は、短い抜粋だけを材料に、電話で決定されていた。(中略)
占領初期の数年間、ある程度の安定が確立されるまで多少の検閲は明らかに必要であったが、一九五〇年についに検閲が廃止されたことは、関係者全員にとって喜ばしいことだった。

これしか書いていないので、検閲の全体像とか経緯とかは分からないんですが。
とにかく実情はそうであったと。
ただまあ、いかにもウッダード自身が検閲が嫌で嫌で仕方が無いような雰囲気なので、"関係者全員"というのは多少偏った言い方かも知れません。(笑)


宗教指導者訪米の大企画

p.273

一九五一年夏に、日本の宗教指導者の再教育のために八人の宗教指導者から構成された代表団をアメリカに派遣し、九〇日にわたって諸宗教の中心地を見学させ、またアメリカの宗教指導者と会談させるという(中略)企画があった。(中略)
文部省の宗務課長と神社神道、仏教、天理教の代表者がふくまれていた。

へえええ。これは初耳。そんなことが。
それはそれとして、天理教の地位高いですね。(そもそも西洋由来で"教育"の必要の無い)キリスト教を除けば、神道・仏教に次ぐ"第三"の宗教と目されていたということですかね。

p.274

仏教徒の日本宗教連盟の代表者は、五月下旬にこの企画書を見せられて歓喜し、宗教課にたいして全力を尽くして最良の代表を選考とする請け合った。

これがねえ・・・。どうなんでしょ。
"屈辱的"という感覚は無かったんでしょうか。まあ無いはずは無いとは思いますが、少なくとも人によっては。
戦前・戦中に統制に苦しんだ、それは分かるんですけど、どうも戦後民主主義に対する日本の仏教界の余りに迎合的な態度は、それはそれで気に入らないところがあります。それはGHQの直接の圧力が去った後でもそうというか、今日ますますそう感じるというか。"民主主義"より遥かに古い思想としての、誇りはどうなってるんだろうという。仏教は好きだけど、坊主は嫌いだ。死んだのはともかく、生きている坊主に説得された試しが無い。
まあ仏教が骨抜きになるのは仏教の勝手ではあるんですけど、でも結局それを含む"受容"する日本人側に何のカウンターも無かったから、(戦後民主主義の)受容自体が安易になって、今日の思想状況を生んでいるとは思うんですよね。ただの反動にも、ろくな反論が出来ない。
まあいいけど。

代表団は、クリスチャン・サイエンス・モルモン教、ファーザー・ディバイン運動などをふくむカトリックおよびプロテスタントのキリスト教ばかりでなく、ユダヤ教の諸団体を訪問した

うーん、なんか香ばしいラインアップ。(笑)
まあメジャーどころは、"ふくむ"以外のところに入っちゃってあえて名前は挙がっていないんでしょうけど、それにしてもそんな連中に教えを請うたのかという。やっぱ屈辱だろう、これ。
クリスチャン・サイエンスは、教勢は大きいもののアメドラなどを見る限り、今日では完全にカルト扱いされている感じですが、書き方からするとこの本が書かれた1972年時点では、必ずしもそういう認識ではなかったようですね。ちなみに日本にも、実は明治の時代から入っては来ていたようです。(クリスチャン・サイエンスWiki)
モルモンは逆に、19世紀には一夫多妻制問題等、アメリカの主流キリスト教社会とかなり血みどろの戦いなども繰り広げていましたが、19世紀末にはユタも州として正式に認められ、半世紀後のこの頃にはすっかり落ち着いてはいたんでしょうね。(モルモン教Wiki)
ファーザー・ディバイン運動は・・・出て来ないですね、検索しても。この本くらいか。


いずれにしても、相当な非主流派も含めたラインアップで、なんか「西洋」なら何でもいいというような感じで、ますます屈辱的です。(笑)
何を教わって来たんでしょうね。

この章はこれで終わりです。


第七章 マッカーサーと天皇 ~予言者と司祭のパートナーシップ

1.「予言者」としてのマッカーサー将軍

p.278-279

マッカーサー将軍は特定の教派の信者ではなかったが、自分流のやりかたでの宗教者であった。(中略)マッカーサー将軍は、必要なときに神に召されたという意識と、神はいつも将軍の側に立っているという確信に満ち、いわばメシア・コンプレックスに陥っていたといえる。
(中略)
ある批評家は、マッカーサー将軍が、教皇がローマカトリック教会の最高指導者であるのと同様に、自分はプロテスタント世界の最高指導者だと考えていたに違いない、といっている。

直属の部下が見た、意外な一面。
結構きつい言い方にも見えますが、それだけ苦労させられたという話が、この後出て来ます。(笑)
間違いなく敬愛はされていたのだけれど、生来の独裁者・独善者という一面も、間違いなくあったという話。
この"宗教者"マッカーサーというイメージを聞いて僕が思ったのは、有名な「天皇の隣でふんぞり返っているマッカーサー」という写真のニュアンスには、単に「征服者と被征服者」という関係だけではなく、「天皇が日本神道の総司祭であるのと同様に、自分もプロテスタントの代表者であるのだ」というマッカーサーの"ナチュラル"な自負が、含まれているのではないかということ。"聖と俗"ではなく、"聖と聖"。そういう"対等"。必ずしも不敬なつもりはない。自分をいち軍人だとは、そもそも思っていない。

p.279

しばしばキリスト教を称賛し、日本古来の宗教をおとしめる発言をしたにもかかわらず、マッカーサー将軍は、仏教、神道その他の宗教家たちからも幅広い尊敬を受けていた。それは、彼の人間主義の精神と宗教の重視のためであった。(中略)
将軍の公けの発言は、少なくとも一時的には官僚、実業家、知識人がいずれも宗教に無関心だった日本の社会における宗教の地位を高めた。

"天然"さんマッカーサーの憎めない人柄と、そして今まで何回も言って来た、「宗教」そのものに対するアメリカ人の高い尊敬心という話。それ自体が、日本人には新鮮だったという。

p.280

少数の例外を除き、宗教にかんする問題について事前の相談があったことはほとんどなかった。助言が求められたことはなく、助言がなされたこともまったくなかった。(中略)
最近の宗教の展開についてマッカーサー将軍に助言するという機能にかんするかぎり、宗教課は存在しないも同様だった

将軍はいつでも一つの答えをもっていて、自分が正しいと確信していた。

p.281

民間情報教育局宗教課は、統計ばかりでなく一般状況の理解にかんしても、将軍の発表とは見解を異にする場合がしばしばであったが、いかんともしがたかった

"苦り切っている"という状態ではありますが、不思議とそこまでネガティヴには聞こえませんね。いかんせん天然さんなので、諦めているという感じ。
マッカーサーはGHQの方針を理解していたし、勿論賛同もしていた。それに真っ向から反する発言・行動を、意識して行うことは無かったし、部下に強いることも無かった。しかしそれ以上に"予言者"としての直観と使命感が強くて、瞬間的にはその場の勢いでしばしば逸脱した言動・行動をとる。特に言葉遣いについて、いちいち"原則"主義的な正しさには顧慮しない。「政治的正しさ」にはというか。(笑)
役所としてのGHQは、粛々と"原則"を履行し続ける。それにマッカーサーは干渉はしないが、定期的に頭越しにそれに反するようなステートメントを公に発してしまうので、その時はしばし部下たちは対応に追われる。その繰り返しという風景。
ただ基本的には善意の人であるし、"正しさ"への情熱を人一倍持っているし、言語的齟齬を越えて他者に感銘を与える高潔な人柄の持ち主ではある。だから許されたし、愛された。勿論前提として、戦争の英雄であるということはあったでしょうが。しかし必ずしも連合軍最高司令官の"権力"に、物を言わせたという感じではない。マッカーサー自身の権威で、愛すべき独裁者であり続けた。
まあ小泉純一郎にしろ川淵三郎にしろ、そういう人はいますよね。"独裁者""独断専行の人"である以外に、あり方を知らない人というのは。トランプなんてのはむしろ、"天然"度合いは低く僕は感じますが。もっとより、"意思"的な人という感じ。


キリスト教をあからさまに支援

そんなマッカーサーの"逸脱"の中でも、特に問題となったのはこれ。

p.281

占領の初期のころ、彼は、公式のメッセージ、新聞発表、インタビュー、個人への手紙などに、キリスト教に有利なコメントをしばしば挿入した。彼は、国際基督教大学設立のための募金委員会の名誉会長をひきうけたし、多忙な日程のなかに西側世界の宗教団体の代表たちに会う時間はふんだんに繰り入れた

多分意図してGHQの方針(「信教の自由」と「政教分離」)に逆らった、わけではないんだとは思うんですけどね。キリスト教が体現している"正しさ"への確信が深くて、いかに文言上の齟齬があろうと、"正しい"意図(キリスト教)と"正しい"意図(GHQの民主主義)が、矛盾しているはずが無いというか問題になるとは、瞬間瞬間感じられなかったということなのではないかと。
あるいはもっと単純に、個人としての宗教的使命感と総司令官としての公式の立場とが、判別つかないような形で表現されていたか。

と、"天然さん"を擁護はしてみますが・・・

マッカーサー将軍が最初に公式に宗教問題に触れる発言を行ったのは、一九四五年九月二日、戦艦ミズーリ号上においてであった。そこで将軍は、平和の維持にかんして、この問題は「根本的に神学的」であり、「精神的再生と人間性の改善」をふくむと述べたのである。

これはいかにもマズい。本当にマズい。
ちなみに"戦艦ミズーリ"というのは日本の降伏文書調印の場で、つまりGHQ設置前ということですが。

p.284

動機はよかったかもしれないが、これは、政治的な目的の達成のために、キリスト教をもふくむ宗教の利用にいたることが日本の過激派の独占物ではないことをはっきりと想起させたのである。

どういうことかというと、"日本の過激派"が行った"宗教の政治利用"が、つまりは「国家神道」で、それに"神学的"に立ち向かうとは要は「国家神道に国家キリスト教を置き換える」ということになるわけです。"日本の過激派"から"アメリカの過激派"へというか。
これもあえてマッカーサーの深意("真意"というより)を慮れば、国家神道の背後にある"非民主主義的精神"を、近代キリスト教の背後にある民主主義精神・・・というより民主主義の"母体"としてのキリスト教(精神)に置き換えるという、そんなような意味ではないかと思います(この後にもそんな話が出て来ますが)。そういう意味での、「キリスト教」化、宗教的神学的、"闘争"宣言。
本質的には僕はこの認識は大きく間違っていないと思いますが、もし「政策」としてこれを表立ってやってしまった場合、結局は宗教戦争・党派闘争となり、「国家キリスト教」樹立の問題に堕してしまうだろうと思います。マッカーサー自身はともかく、実際にそうしたいと思っていたキリスト教者もいたようですし。
だからやっぱりマズいわけです。ウッダードもここについては、"諦め"ずに(笑)はっきりと、「過激派」という強い言葉を使ってまで異議を唱えていますね。

まあ悪意ではないにしろ、着任当初のマッカーサーに、日本人や日本の文化や宗教についての無知や侮りが無かったとは、言えないようですけどね。

ある宣教団体の幹部が伝えているところでは、将軍は、「自分がもっている権力を行使しさえすれば、天皇と七千万人の日本人を一夜にしてキリスト教徒にしてしまうこともできるだろうが、それは悲劇的なことだと承知している」と述べ

ほぼほぼ、誇大妄想ですね。(笑)
「予言者」らしいというか。
だから以下の発言も、かなり眉唾に感じます。

ある時、将軍がビリー・グレアム師にたいして、「天皇が内密にキリスト教を日本の国教にする用意があるといったことがあるけれども、自分は、いかなる宗教でも、それを国民に強要することは間違っていると考えているので、その申し出を退けた」と語ったことがあると伝えられている。

天皇の"日本人的な"控え目さを誤解したか、"プロテスタントの代表者"として身内の前でいい格好をしただけか。酒でも入って。(笑)


日本固有の宗教にたいするコメント

マッカーサー将軍は、仏教についても神道についても、あまり多くのコメントはしていない。しかし何かいったときには、これらが好ましくないものであるという取上げかたをしていた。

p.285-286

仏教と神道の指導者は、とまどっていた。彼らは、将軍がもっていたとされる、仏教徒その他の宗教者の基本的人権はキリスト教の原則が支配するところでこそ最も確かに保障され、キリスト教化された日本においては非キリスト教徒は過去に彼らが享受した以上の安全を得るだろうという押しつけがましいというか愚直な見かたに同感することはなかった。彼らは、しだいに信教の自由と政教分離にかんする占領軍の誠意を疑うようになってしまったのである。

上で言ったように、実際にはマッカーサーの認識は間違っていないと僕は思います。つまり民主主義を支え得るのは、あの時点でキリスト教しかないという本質的意味については。
ただだからと言って文字通り"キリスト教"化を標榜されてしまって、日本の宗教者が納得するはずも無く。だから"愚直"という言葉を、ウッダードは使っているわけですが。


仏教や神道を再認識する

p.286

時がたつにつれて、マッカーサー将軍は、キリスト教にかんする彼の発言が必ずしも適切ではなく、また正確でもないことに気づくようになった。

p.288

マッカーサーは、一九四九年一一月一八日にバンスに会ったときには、「日本は、近い将来にキリスト教化することはないだろう。なによりも民族の自負が日本人のキリスト教化を妨げるだろう」といったというのである。

まあ本来は頭脳明晰な人ですから、改めて考えればいずれこうした"修正"は行われるわけですが。
ただ常に"改めて考える"タイプの人では、なかったということ。(笑)
基本的な信念と直観は、最初から最後まで変わらなかったのではないかと思いますけどね。
ただ為政者としては、改めるべきと認めざるを得ないところは少なからずあったし、また特に"日本人の自負心"については、恐らくは他の過去"キリスト教化"した国々の例では予想出来なかったレベルものがあった、"土人の宗教"と侮って済むようなものではなかった、そういう"計算違い"はあったのかなと。


解任と帰国への宗教界の反応

p.288

賀川豊彦はロンドンで、日本人は、マッカーサー将軍がアメリカ人で、しかも征服者の軍隊の代表であることをほとんど忘れていたと語った。

賀川豊彦は、日本の代表的なキリスト教運動家。(Wiki)
ただしここでは、日本人の代表・・・と言って悪ければ、"GHQ改革に好意的な"日本人の代表として、発言していると感じます。

p.289

ある仏教新聞は、「将軍の解任ニュースに接して日本人が感じた将軍に表現しがたい愛情と惜別の念は、(中略)自分たちの安全に対する恐れからのみ生じたものではない。それは、偉大なる人格者である将軍の高潔な人格にたいする日本人の深い愛惜によるものである」と記した。

神社界の大部分の反応は、(中略)「彼の占領政策は、わが国の政治的、経済的体制のみならず、国民の思想とその国体観念に根本的な変革をもたらした。わが神社神道もまた、歴史上これまで知られたことのない激烈な変化を遂げなければならなかった。(中略)将軍の厚木飛行場到着以来六年の歴史を振り返ると、われわれは感動を覚える。(中略)これらの記憶は、歴史に残るであろう」という『神社新報』の冷静なステートメントによって代表されていたといえよう。

仏教界も神道界も、それぞれにここでは立場を越えて、マッカーサーという特異な人格から受けた感銘を、ごく素直に表現していると感じます。

まあ面白い人ですね。厄介な人ですが。僕は今回これを読んで、マッカーサーに魅力を感じると同時に、その扱いに苦慮して結局解任するに至ったトルーマン大統領に、今まで持たなかった同情の念を感じるようになってしまいました。(笑)
たまんないですよこんな"部下"。ていうか端的に言って、あのままやらせていたら朝鮮戦争で、本当に原爆を使っちゃったんじゃないですかねマッカーサーは、再三本国に打診していた通りに。悪気は無いけれど、とりあえず"やってから"反省するタイプ(笑)。日本の占領政策程度ならともかく、原爆でそれをやられると・・・ちょっと。


マッカーサーが面白過ぎてつい長くなっちゃったので、第七章の後半"天皇"については、次回最終回で。


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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
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