最後です。ちょっと長くなりましたが、内容的には割りとあっさりしてると思います。
第七章 マッカーサーと天皇(つづき)
2.「司祭」としての人間天皇
天皇の"人間宣言"
p.292
今回の"世論調査"は、日本でのということでしょうね。いつどのように行なわれたのかは、分かりませんが。この問題にかんして世論調査を行なったアメリカの専門家は、「神」である天皇は危険であり、当時存在していたような天皇制は変更もしくは廃止すべきであるが、それは外部からではできないとの意見で一致していた。
外部からは変えられないと、思われるくらい日本人の根源に根差した存在であり、一方でだからこそ"危険"でもあるので、変える必要もあるという。
となると是非とも、日本側天皇側からの、自主的な動きを期待したいわけですが・・・
p.296
分からないというのが、要するにウッダードのここでの結論・認識。天皇は、どのようにしてこの提案(注・"人間宣言")を思いつかれたのだろうか。それはご自身の発案だったのか、それとも誰かが勧めたのか。もし、それがご自身のものでないとすれば、そして、たぶんそうではないのだろうが、それは宮中の誰か、それとも外部の誰かからのものか。政府からか。占領軍の介入はなかったのか。もしそうだとしたら、どのようにしてか。
諸説はあるし、それについて仮説や推論は展開されていますが、とにかく確かなことは知る限り関係者の誰も、掴んではいない、または沈黙を守っている。
いくつか手がかりとなる、ウッダードが把握している事実。
p.297
ふむ。なるほど。天皇は、一九四五年九月半ばという早い時期に、二人の外国人記者から直接に、ご自身が神格の所有者と思っておられるかどうかという質問を受けられたことがあったので、この問題が西欧では重視されていることを承知しておられたのである。
それにしても、時期も早いし、よくこんな"取材"が行われた/許されたものだなという。
既に"神"じゃない感は無くは無いですが。(笑)
p.299
これがまあ、分からないことはありつつも、言わばウッダードが"信じる"、アメリカ側の「関与」。マッカーサー将軍をふくむ総司令部は、公布の二四時間前にコピーを受領したことを除けば、詔勅宣布の提案が実行に移された後から、一九四五年一二月中旬まで、いっさい関知も関与もしなかった
一方で日本側の諸事情。
p.311
"幣原"というのは、昭和天皇の意を承けて、いわゆる「人間宣言」と呼ばれる詔勅を実際に起草した(参考)、幣原喜重郎当時内閣総理大臣のこと。この拝謁の際に、天皇が幣原に、日本においても民主主義の思想と実践の先例があったことを示すために明治天皇の五箇条の御誓文に触れたいとおっしゃったといわれている。
"拝謁"というのは、1945年12月24日の晩("年内に出す"という目標のもとに、作業が急がれていた)に行なわれた、「人間宣言」詔勅に関する昭和天皇と幣原の打ち合わせ。
"五箇条の御誓文"
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
まあ明治維新も、そもそもは「四民平等」を目指した"民主主義革命"ではあったわけですけどね。
これはただ、占領軍の"押し付け"に反撃したというよりは、昭和天皇自身の(一面の)"念願"、積年の思いを、この際表現しておきたかったと、そういう感じかと思いますが。
p.312
"英文"が草稿なのは、幣原自身の習慣で、広く外国の要人に読まれることを想定した文書については、誤解を避ける為に最終的に日本語で出される文書でも原文を英語で書くようにしていたから。この詔勅の場合は、第一に英文の草稿をもとにしたこと、第二に天皇がとくに従来のような硬い文体でなく、やさしい言葉で書いたものをお求めになったために、ことにむずかしかった。
そうして書かれた詔勅の、「人間宣言」と呼ばれる部分。
「人間」とも「宣言」とも書いてはいないので、あくまで"汲み取った"意味ではあるわけですけど。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
要は"起源の神聖性"が、天皇が天皇である理由ではないという宣言ですね。
そしてそれによって同時に、その"起源の神聖性"を盾にした、日本民族の特別性という正に大東亜&太平洋戦争を主導した(とアメリカ側が考えていた)観念をも、否定したという。
ややこしいのは「現御神」という言い方なんですけど、これは原案の"divine"(神聖な、神の)をそのまま訳すと、皇統を支える神話体系そのもの(またはそれと現天皇との繋がり)を否定してしまうので、それに変えて当てられた日本側発案による用語で、簡単に言うと「"神の子孫"ではあるけれど"神そのもの""生き神"ではない」というような、そういうニュアンスですかね。(参考)
そういう意味での、「人間」「宣言」。
3.天皇と宗教をめぐる微妙な問題
靖国と天皇
p.314
p.315天皇が望むいかなるとき、あるいは場所での礼拝も、連合国軍最高司令官が権限行使の対象にしない天皇の個人的な事柄だと考えられていた。
ただ一つの例外は、一年に二度行なわれる靖国神社の例大祭に参拝できないことだった。
「例大祭」・・・神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされるもののこと(例祭Wiki)連合国軍最高司令官の政策にかんするかぎり、天皇が例大祭の際に参拝してもいっこうに構わなかったのだが、中国とソ連が反対を唱え、東京の連合国対日理事会やワシントンの極東委員会で国際問題化する可能性があるのに危険を冒すほどのことはないと考えられた。
特に"靖国"についての用語ではなくて、靖国のサイトを見ても"重要だ"ということしか書いてありません。
とにかく当時も今と同じように、あくまで「外国が反対するから」、天皇の参拝は行われなかったということ。
ただしこれは、「公式」参拝ではなくて、天皇個人or天皇家の私的宗教行為として行われる場合についての話です。より正確には、GHQは天皇家の宗教行為に、「私的」意味合いしか認めていなかった、言い換えれば"信教の自由"一般の問題としてしか見ていなかったということ。
ちょっと無理があるような気は、しないではないですが。それが昨今の国家主義的神道復活の温床となったのだというのが、例えば島薗進氏の主張。
天皇家と諸教
p.316
いい話ですね。(いいのか?そんなまとめで(笑))戦前期にも、仏教、キリスト教および神道の公共福祉機関にたいして定期的にご下賜金が与えられていた。このことは、キリスト教が公的には低い評価を受けていた第二次世界大戦のあいだにおいてさえ継続していた。
まあ天皇家が直接的に「国家神道」的であったとは、やはり思えないというか思いたくないというか。
そういう意味では、やや色々と寛容に過ぎる感もあるアメリカ側の態度も、"影響"としてはともかく"原則"としては、正しいのかなという。
天皇とキリスト教
p.317
・京都「都新聞」一九四六~四九年ころには、天皇がキリスト教徒になる可能性について多くの噂が流れ、公然とそうした見込み記事が出たりした
・読売新聞
・スペルマン枢機卿、天皇との会見後の記者会見
・東京の新聞二紙
・AP通信
・賀川豊彦
といった媒体及び人物の記事・発言の例が挙げられています。
p.318
p.318-319バンスが一九四七年の五月に記者にたいして、間違いなく、「プロテスタントもカトリックも天皇を自分たちの宗教に改宗させようとしている」と語ったのは、大多数の人びとの意見を正しく反映したものだった。
まとめていうと、天皇家に対するキリスト教側のアプローチはあったし、天皇家側も色々と"勉強"は行っていた。マッカーサー将軍が、天皇のキリスト教への改宗の可能性を考えていたことは疑いがない。
(中略)
しかしマッカーサーが天皇にキリスト教を信仰してほしいと希望したであろうとの疑念にかんしては、状況証拠は否定的である。
しかしそれについて何か強制力が働いていた痕跡は無いし、実際の"改宗"の可能性もシリアスなものとしては無かったであろうというのが、ウッダードの認識。
関連して、天皇家の"改宗"の可能性一般についての、面白い発言。
p.321
まあ仏教に「帰依」した天皇自体は、聖徳太子の時代からこっち沢山いたわけですからね。仏教系の月刊誌「真理」の自由主義的な編集者、友松円諦師(中略)は、仏教徒が有利な立場にありながら、天皇に仏教に改宗していただくことに失敗してきたことを恥じるべきだという。
というよりもむしろ、いつから天皇(家)は自動的に『神道』の「信者」と見なされるようになったのか、言い換えれば「個人」である権利を奪われた存在となったのか、そのことの方にむしろ、"歴史"的興味はありますが。
この章終わり。
宗教政策への批判に応えて(補章)
p.323
GHQの解散が1952年。それから7年後の話。一九五九年に、日本の宗教界の指導者たちからの占領軍の行なったことにたいする諸々の批判に論評を加えるように求められた
早くもというか。
以下、ウッダードによる自己評価。ちなみにこの本の執筆作業自体は、1960年代後半くらいです。
信教の自由と政教分離原則
p.326
信教の自由の原則は、堅固に根づいていると思われる。全国的な宗派も地方的な宗教団体も、いかなる形のものも、警察の監視や介入を受けることなく自由に活動している。(中略)日本ほど完全に守られている国はほとんどない。
政教分離の原則は、これまた尊重はされているが、信教の自由ほどではない。公金その他の公の財産を宗教上の組織や団体の便益や維持のために用いることを禁止した憲法第八九条の規定については、宗教課は、初めから、それは極端に過ぎると考えた。(中略)この規定は迂回され、「解釈」を加えられることになろうと思われたが、事実そうなっている。
(中略)
原則が根本的に揺らいでいるわけではない。具体的にいうと、神社神道は国家による支援を受けていないし、その他のいかなる宗教も国家による支援は受けていない。
祝祭日改革
p.329
そう、なんですかね。だったらなぜGHQの下では、制定されなかったんでしょう。建国記念日の復活には、たぶん国民の誰一人驚かなかったろうし、宗教課に奉職して者もまた例外ではない。唯一驚くべきことは、その復活に、それほど長い時間がかかったということである。
学問的に"根拠"が無いという性格自体は、今も昔も変わってないはずですが。
制定は1966年。僕はまだ生まれてないですが(笑)、もしその時学童年齢に達していたら、多分抵抗感違和感は、感じたのではないかと想像します。
靖国と反動勢力について
p.329
後で出来る「宗教法人法」の問題とも、関連する話。もし、靖国神社などが社団または財団などの民法上の法人になっていたとしたら、それらは宗教団体ではないという彼らの主張は、もっと現実的に展開できたのではなかろうか。宗教法人であるかぎりは、その可能性はないように思われる。
靖国についてウッダードが問題にするのは、"A級戦犯合祀"云々では全くなくて、それがいち宗教団体・法人にとどまったまま、国家的公的性格を持とうとしているように見えることのようですね。
つまりあくまで、「政教分離」の問題であると。
p.330
今とほぼ状況は同じというか、既に約50年前に、現在と同じような思想状況は基本的に生まれていたというか。少数の反動的な人びとは、すべての改革を破棄してしまいたいと思っているようである。彼らは、「明治憲法」の復活さえ望んでいる。しかし大多数の人びとは、多少の変化は希望しているが、おおむね現状に満足しているように思われる。
GHQと諸教の関係
p.330
p.331私個人の仏教界の指導者たちとの関係は、(中略)いつでも最高の水準にあった。(中略)
私が宗教課に奉職した六年間を通して、スタッフの誰一人からも、仏教をおとしめるような発言を聞いたことはない。
要はキリスト教特にプロテスタントは、GHQが十分にキリスト教を"優遇"していないという不満を、常に持っていたということですね。ある日、私は日本基督教団の友井師に、彼からも他のプロテスタントからも助けが得られないと苦情をいった。そのとき、彼は「あなたがその仕事をしていらっしゃるかぎり、私たちが気にする必要はないでしょう」と答えたが、これは、助けにもならず、健全ともいえない態度だった。
p.331
次の項でもすぐ出て来るように、いち「宗教」としての神道については、出来る限り最大限にまたは至って公平に、GHQは対処したと、とりあえずは見えます。神社神道の指導者たちは、ほぼ全般的に、連合国軍最高司令官は神道に不当な圧迫を加えたと信じていた。この圧迫は日本の「精神的なバックボーン」を弱めるための謀略だと考える者もいた。他方それは、意図的ではないのではないかという気のよい人びともいた。
結局はこれは"政策"の問題というよりは"思想"の問題、「国家神道」("国体のカルト")だとなぜ悪いのかという、そういう根本的なものの見方をめぐる食い違いに見えます。
まあ前にも言いましたが、"神道"側の言い分については、次のシリーズでまとめて取り上げる予定です。
GHQの「失敗」
p.332
p.333宗教課が、天皇は「現津神」であると教えることはできないと命じたときに、神道の批評家が、神道の信奉者の信教の自由権が侵されていると主張したのは理屈が通っている。
つまりいち宗教としてなら、神道が「国家主義的」内容を持つのも"国体のカルト"的思想を維持するのも、それは自由だというのが、ウッダードの見解。それらが国家・政府と直接的に結びつくことのみが、禁止・否定の対象。一九四八年に、神道の祭式のマニュアルの編集者が、国家と皇室の繁栄の祈願を入れることに宗教課が反対した(中略)
この種の祈願は、問題にすべきではなかったのである。
・・・という、「信教の自由」と、「政教分離」。
政策的にはやはり、もう少し干渉的・抑制的に、ならざるを得なかったわけですが。
以上は「失敗」というよりも、理論的な「間違い」ですが。
これがウッダードが認める、やろうとして出来なかった、政策上の"失敗"。その一つは、宗教課が文部省宗務課を廃止しようとした試みである。
宗教団体が民法上の法人になるようにしようとした試みも、もう一つの失敗であった。
まず「宗務課の廃止」について。
"宗務課"というのはGHQの「宗教課」とは別に、日本の文部省の方に(戦前から)継続維持された宗教管掌部門ですが、そもそもなぜ"維持"されたのかと言えばそれは日本側に宗教団体に対する"管理"能力を温存したいという底意があったからで、それをくじく為にも「宗教法人課」として要は"法的事務"を執り行う為のみの部署であるという性格を明確にしたかったというのが、ウッダードの言っていること。課の名称を、実態通り宗教法人課に変更すること、その職掌をそれに合わせて縮小すること、そしてそれを法務省に移管すること
p.333-334
こちらは「宗教法人法」について。要はそういう"苦情"が、実際に各教団からあったということみたいですけどね。とくに残念なのは、「宗教法人法」の草案から合併と離脱にかんする条文を削除することに失敗したことである。(中略)
この法律が離脱を日常茶飯事と考え、離脱を促進するものであるような印象を人びとに与えることを懸念するから
ウッダードはとにかく、根本の部分で「宗教」に好意的なので、分派・独立を活発化させて、宗教界に混乱や荒廃をもたらすことは全く本意ではなかったと非常に悔いているわけですけど、正直僕らにはどうでもいいことのようにも見えます。(笑)
p.334
これもまあ、どうなのかな。バンスがマッカーサー将軍に、仏教および神道の信者たちが、平和的、民主的な国家の発展に貢献することができることを将軍が認知する声明を出すように提言した覚書きを届けることができなかったことは、私の考えでは、重大な失敗であった。
"キリスト教を贔屓しているわけではない""宗教は(民主社会の見地からも)良きものである"というメッセージをマッカーサーの口から発して欲しかったということみたいですが。
何というか、「宗教界」の身内に対してのみの、配慮という感じもしないではありません。
まあこの章の冒頭で言ったように、ここは全体が"宗教界からの批判"に答える形で書かれているので、当たり前と言えば当たり前なんですが。
以上です。
長らくお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
僕からのまとめは、「国家神道」研究全体のまとめの時に、やってみる予定です。

W・P・ウッダード『天皇と神道―GHQの宗教政策』(1972)