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人を”食べる”ということ。 ~ドラマ版『ハンニバル』
2017年05月15日 (月) | 編集 |
"海外ドラマ"ネタですが、割りと普遍性のある内容なので、こちらでも。





『ハンニバル』(AXN) (ドラマ版Wiki)

内容

世界を震撼させた連続猟奇殺人犯、ハンニバル・レクター。語られなかった"空白の過去"が今、明かされる…。

ある日、若い女性ばかりを狙う連続殺人事件が起き、FBI捜査官のジャックは、FBIアカデミーで教鞭をとるウィル(グレアム)に協力を依頼する。彼は、殺人犯に共感し、頭の中で犯行を再現できるという特殊な能力を持っていた。そして、不安定な彼の精神状態を心配したジャックは、著名な精神科医であるハンニバル(レクター)を招聘する。

映画「羊たちの沈黙」シリーズにインスパイアされ、史上最悪の殺人鬼の“空白の期間”が、描かれる! (AXN公式より)

ハンニバル・レクター

『羊たちの沈黙』等、作家トマス・ハリスの複数の作品に登場する架空の人物。
著名な精神科医であり猟奇殺人犯。殺害した人間の臓器を食べる異常な行為から「人食いハンニバル」(Hannibal the Cannibal、ハンニバル・ザ・カニバル)と呼ばれる (ハンニバル・レクターWiki)


感想

映画版



の方も見てはいますが、余り覚えていないのでほぼドラマ版オンリーの感想になります。シリーズ全体については、ハンニバル・レクターWiki を参照。
一番有名な映画『沈黙』では、ハンニバル・レクター博士は既に収監・拘束された状態で登場しますが、最終的にそこに至る、博士が"シャバ"にいて殺しまくっていた時代が、主に描かれています。

"ドラマ"としては、とにかく演技&俳優陣、及び演出の圧倒的な"クラス"感で押しまくる作品で、余りにも"押され"るので面白いのか面白くないのか、時々よく分からなくなる作品。(笑)
多分、面白いんですけど、全然面白くないという人がいても、それはそれでそうかなとも思う。(笑)


それはそれでいいとして、ではそもそもこの作品は、何を言おうとしている作品なのか。言いたいことが、あるとして。無いかも知れない、"クラス感"自体が、目的である可能性も。(笑)
でもまあ、あるんでしょう、多分。それが何かと言えば・・・

 なぜ人を殺してはいけないのか。より正確には、なぜ人"だけ"、殺してはいけないのか。

ということかなと。
で結局、作品的な"答え"としては、

 別にいけなくはない

ということになるんだろうと思います。
"答え"というか"主張"、"問題提起"ですかね。レクター博士の。


ここで「殺人」そのものの是非・意味に焦点を当ててしまうと、人類の中で歴史上何千回何万回と繰り返されて来ただろう、抽象的ないしは感情的議論・対立に収斂してしまって、収拾がつかなくなる。

ドラマ的ないしフィクション的妙味としては、そこに「食人」という要素が加わること、"殺す"ことよりも"食べる"ことに中心がずれる、そのことによって"抽象"や"感情"が回避されるところに、巧妙さというか面白味があるのだと思います。
つまり、我々現代人は、日々(意識的に)生き物を殺したりはしていませんが、しかし生き物を殺したものを、食べてはいるわけですよね。日々
そこに"食通"であり、"料理の達人"であるハンニバルが、丹念に、他の生き物に対するのと全く同様の手順と意識で「食材」化した人肉・人体を提供して来ることで、「食事」という行為の日常性を通してその"前処理"としての「殺人」が、倫理的慣習的抵抗をスルッとすり抜けて日常化してしまう、受容可能なものになってしまう、そういう危うさ、知的葛藤が、このドラマの中心にあるだろうと思います。

同じ「食材」、同じタンパク質、何も違わないだろう。出て来ているのはほらこのように「料理」であり、日々食べているものであり、その背後には常に、そういう"前処理"プロセスがあるのだ。人と他の生き物と、何の違いがある。なぜ人についてだけ「殺人」という禁忌が成立するのだ、なぜ人"だけ"殺してはいけないのだ、そうハンニバルは語りかけて来る、こちらを揺さぶって来るわけです。

そうしてハンニバルが破壊した禁忌、開けてしまった"地獄の窯"は、ハンニバル自身をも飲み込もうとします。
そういう本質を持っているというか。
シーズン3で、かつてハンニバルに顔を"食われ"、その復讐に燃える大富豪メイスンが、多額の懸賞金をかけたハンニバルを晴れて捕まえたらどうするかという話題になった時に、彼を「北京ダックにして食う」とうそぶき、その"残酷"な"調理"プロセスを嬉々として語る場面は秀逸でした。

元々ねじくれた性格ではあったメイスンですが、しかし彼を食人に"覚醒"させた、(不要な)禁忌を取り去ったのは正にハンニバルの論理の普遍的な説得力であったわけですし、またハンニバルに対して施されると想像するといかにもゾッとさせる"調理"プロセスも、しかし「ダック」に対しては日々実際に行われているものなわけで、そのことが頭をよぎると果たしてメイスンを非難していいのか嫌悪していいのか、観客は立場に窮するわけです。
メイスンの人格や"復讐"という動機の正当性の問題は、おくとしても。


勿論ハンニバルは動物愛好家などではありませんし、ベジタリアンなどでも全くない、バリバリの美食家です。だから決して、そのことで人類の残虐性を「告発」しているわけではありません。
・・・強いて言えば人「だけ」を除外する、人についてだけ"残酷""禁忌"を言い立てる、その人間の偽善と矛盾は、「告発」しているかも知れない。
ただいずれにせよ彼が求めているのは「正義」ではない、"論理的整合性"という意味での"正しさ"は求めているでしょうが、それでもってもっと"素晴らしい"世界を何か構想しているわけではないでしょう。

言っているのはただ論理的にはこうなるよということであって、その禁忌には根拠が無いよと言っている。後の面倒は特に見ない。目的は若干の悪戯心を含んだ人心のかき乱しと知的優越/正当性の誇示と、だからつまり"間違った"ことはしていない、俺の殺しと食事の邪魔をしないでくれという、言ってしまえばそれだけのことだと思います。

この"収拾"のつけなさ加減が、彼を"カリスマ"的ではあっても「教祖」ではなくて「犯罪者」にとどめおく要素だと思いますが(笑)、とにかくそういう人。一見いかにもサイコパス風の"犯行"ではありますが、果たして彼は"欠落"しているのか、それとも人並み以上の情操は備えつつ、その上で人間が抱える論理的な矛盾を意志と知性で"克服"した卓越した人なのか、そこらへんが作品内的にも、評価の分かれるところ。

実際には"禁忌"の"廃棄"という消極的な主張だけでなく、お得意の「食」に加えてその近隣にある「性」、更に「愛」や「友情」のそもそもについてより積極的な主張も行っているようではありますが、特には取り上げません。
結局どうして欲しかったんでしょうね、ハンニバルは。親友であり心の恋人であり宿敵でもあるウィル・グレアムに、何を求めていたのか彼の何がそんなにハンニバルの心を捉えたのか、そこらへんは終始分かるような分からないような、深堀りしてもドツボにハマるだけな感じ。

ちょいちょいウィルの窮地を助けに入る、"殺人鬼"ハンニバルの「味方」としての頼もしいこと頼もしいこと。(笑)
ドラマとしては、そんな感じです。


以下はおまけですが、ハンニバルの「問題提起」に従って・・・というわけでもないんですが、「殺人」が禁忌である、これもより正確に言えば、殺人だけが特に禁忌である可能性、その論理について、少し検討してみたいと思います。

1."魂"説

主にキリスト教世界で広く流布している説。
("神の創造"のもと)人間には魂があるが動物や他の生き物には無い。だから人間を殺すことと動物その他を殺すことは全く別の行為であり、魂を持っている人間を殺すことのみが、道徳的に悪であるとする説。
随分断定的で乱暴な論理には思えますが、日本も含む今日ほとんどの社会システムは、実際上この論理の上で機能しているわけです。"動物愛護"のようなものは、その緩和・補償的な機能でしかない。
だからこれは単に"キリスト教の影響"ということではなくて、それなりに普遍的な感じ方と必要性が反映された、それを"後付ける"論理であるというのが、その性格の把握としては正当なように思えます。

2."自己防衛"説

誰でも殺されたくはないわけです(例外が無いとは言いませんが(笑))。僕が殺されたくないように、あなたも殺されたくない。それぞれはエゴイスティックな存在であっても、その部分については一致している。
だから"殺されたくない"どうしが一種の「協定」として、お互いが殺し合わない、人が人を殺すことを禁忌とする社会を作った、作っている、「倫理」を形成している。そういうことです。

しかし他の生き物少なくとも高等動物だって殺されたくないとは思っているはずなわけで、ではなぜその禁忌が動物には適用されないかというと、それはそのことを「主張」する能力の差ですね。差し当たっては言語。
思いは同じでも、有効な主張が出来なければ無視される。「社会」的に取り上げられなければ。
ちなみにこれは「人間」と「動物」の間にとどまらず、「人間」内部の社会的あるいは暴力的「力」の"差"においても見られることで、人間と動物の間に生じているのに似た差が、"階層"が、見ようによっては無限に存在しているわけです。法律というのは原理的にその「差」を無効化するものではありますが、そこにおいても"有効な主張をして社会的認知を得る"能力やプロセスは必要で、それが無いとやはり声は無視されるわけですね。・・・逆にだから、動物愛護家が有効な主張を"代弁"出来れば動物の"権利"も守られ得るわけで、現実にそれは一部起こっていることですね。

とにかくこうした形で人と他の生き物の命の価値をめぐる"差"は成立しているわけですが、こうした"事情"、自己防衛ないし(「人類」という)自己集団防衛という「政治」は、1の"魂"説の普遍的通用にも、何割か食い込んでいる話だろうと思います。必要性があるから、理由が与えられた("魂"という)。

3."自己愛"説、"投影"説

2と似た構造ではありますが、それより心理的心理学的な説。
出発点は同じで、自己防衛、自己保存、そしてその元にある自己愛。
人間が人間という種・集団を守ろう(動物より)優位に置こうとするのは、人間が自分を守ろうとする自己愛、その"拡張版"としてである。
言い換えると、「自分」に近しい、自分と似た"生き物"の方を、人間はより守ろうとする、贔屓しようとする。
人に最も「近い」のは勿論人そのものであるので、"人類"の優位性はそうそう揺るがないけれど、ただこの論理だと他の生き物との差は"絶対"的なものではなく、グラデーションが生じ得る。つまり人に「近い」「似ている」段階に応じて、殺し難さ、命の(人間目線での)価値の高低が生じ得る。

ある程度は感じ方や文化環境による個人差はあるでしょうが、一般的にはやはり、原始的生物よりは高等生物の方が、昆虫よりは哺乳類の方が、ゴキブリよりは犬猫の方が、普通人は近しさを感じて殺し難いでありましょう。
こうした"差別"は「人類」か「それ以外」かという、"2"的な政治的二分法論理のみに立つと、"矛盾"であり"偽善"であるとされてしまうかも知れませんが、そもそもの「人類」の特別視そのものが単なる利益計算だけではなくて"自己愛"の自然的投影に基づいていることに着目すれば、そう仮定すれば、至極当然のことであり別におかしくはないわけです。近い方が、愛し易い。大事にし易い。殺し難い。それでいい。

ここらへんに関連して考えてみたら面白いかもしれないのは、"クジラ・イルカ"を巡る欧米諸国と日本との間に長らく見られる対立で、欧米諸国のそれが根底的にある種の"感情"に基づいているのは明らかなわけですが、それはそれとして日本側の"論理"というものも、どのように評価出来るのか。「牛や豚は食うのにクジラやイルカ(イルカは普通日本人も食べないですけど)だけ特別視するのは矛盾している」という類の反論をよく日本人はするわけですが、もし「牛や豚」より「クジラやイルカ」をより人間に近しいと感じる感受性が広範に存在するのなら、それを理由として「クジラ(やイルカ)を食うな殺すな」とする主張は、満更正当化出来なくはないのではないかということです。・・・なぜならその種の"感受性"を一つの暗黙的な根拠として、日本人も人間に「近しい」動物、つまり「人間」を殺して食うことを禁じていると考えられるからです。「近しさ」が問題であるならば、「牛や豚」と「クジラやイルカ」の間に、禁忌の"強さ"に差が設けられる可能性はある。

勿論食人種にはこれは通じません。「牛も豚もクジラもイルカもヒトも、全部おんなじタンパク質だ」と主張する(正に"ハンニバル的"な?)権利が、彼らにはある。しかし現状ヒトを食べていない日本人には、それは無い(笑)。人を食べないという"差別"を容認するならば、他の差別を容認する余地もあるはずというか。
犬すら食べませんしね(普通は)。夫婦喧嘩も食わない。結構選り好み多い。


以上は要は余談ですが、言いたいのはつまり、(神が与えた)絶対的"道徳"のレベルと、相互的利害の擁護という"倫理"的レベルとは別に、心情・感情移入のレベルが、殺人の禁忌の根拠として存在しているということ。出来るということ。
平たく言うと、「いけないとされているから殺さない」「自分も殺されると困るから殺さない」「殺したくないから殺さない」の3つのレベルがあるということ。

3つ目を"宗教的慈悲心"のレベルまで一気に一般化すると話がどん詰まりになってしまうんですが、そこまで行かずに、日常の論理の範囲で、つまりはあくまで"エゴイズム"を基準とした範囲で論理化してみると、こんな感じになるかなということです。

これら3つの観点でハンニバルの問い("なぜ殺してはいけないのか")に答えてみようとするとどうなるかというと、まず「神の命令」に関しては、ハンニバルは神は「いるかもしれないけれど眠っている/もう人間に関心は持っていない」という立場のようなので、あっさり無視しますね。ついでにだから、人と動物のキリスト教的区別も、無視するわけですけど。
次に「殺されたくないから殺さない」原則については、(自分も)「殺されてもいいから殺す」という返しで、ハンニバルは振り切ります。
最後の「感情移入のグラデーション」理論も、それ自体でハンニバルを押しとどめるのは無理でしょうが、ただハンニバルは上で言ったように「動物を殺しても(食べても)いいのならば人も殺しても(食べても)いいはずだ」という、"原則"の反転、"平等"の主張というのを一つの力・推進力にしているところがあるので、それに対して「動物と人が平等なのは当たり前じゃないか、最初からグラデーションだよ程度問題でしかないよ」という返し、つまり「そんな鬼の首を取ったように"原則の引っ繰り返し"を誇るのは野暮じゃない?ガキっぽくない?」と指摘してみたら、プライドが傷付いて勢いが鈍るかも知れないと思います。(笑)
自分の殺しの"事業"に、興醒めしてくれるかもしれないというか。ついでに食われるかも知れないですけど。(笑)


まあそう簡単に片付く問題ではないですね。人と動物の間の垣根が低いという時点で、僕自身にも、「ハンニバル」になる素質が十分にあるわけですし。
いっそ「いけないからいけない」で押し通す方が簡単な気もしないではないですが、しかしそのことに対する知的な"不満"が、その限界が、こういう作品も生んでいるわけでしょうし。
何らか答える努力は、必要だろうなと。答えられるかどうかは、分からないとしても。


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