女子バレーに押されてすっかりどっかに行かされていたこのシリーズですが(笑)、再開です。
再開・・・というか、これ(神道側からの視点)だけは一通りやっておかないと、バランスが取れないというか事態の解明に重大な手抜かりになるので、少なくとも書いておきます。その後言い残しがあるかは、またその時に。
1."救済"思想としての神道 (または宗教としての神道)
小沢浩『民衆宗教と国家神道』 より
p.35
具体的には幕末の金光教や天理教、少し下っての大本教などの、多くは神がかり教祖による民衆の生活に根ざした、しばしば体制&近代批判的な宗教のこと。幕末から近代にかけて成立した民衆宗教は、民衆の祖神に対するあらたな信仰の確立によって、同時期の社会変動に根ざした物的・精神的な不安から人びとを解放しようとする「あらたな救済論」として立ちあらわれたものであった。
そうした類型からは少しずれたものも含めた「教派神道」系の宗教群については、多分次回まとめて取り上げることになると思います。とにかく例え体制批判的ではあっても、この時期のそうした宗教群は揃って、広い意味の神道的日本神話的な"神"像を信仰のよすがとしながら、民衆救済を目指していました。
p.45これに対して、のちに国家神道に受け継がれていく水戸学や復古神道の尊王思想・国体論も、ある意味では従来の神道説を「革新」することで、個人や社会や国家の直面する危機を乗りきろうとする一種の「救済論」であったとみることができる。
水戸学は遠くは江戸初期の水戸光圀による国史編纂事業に始まる、水戸藩で独自に発展した尊皇思想を中心とした学問の総称で、明治維新の実行者たちに大きな影響を与えたことで有名。復古神道の「救済論」がいかに荒唐無稽なものであれ、民衆宗教と同じく「自由」な競争にさらされていた幕末までのあいだは、それも国民の選択肢の一つであったことを認めねばならない。
しかし、明治維新をへて、国家がその崇敬を国民に強制し始めたときから、事情は一変する。
復古神道は本居宣長・平田篤胤らの国学者による、日本の古来・固有の姿を探る研究から江戸後期に生まれた、学問的宗教というか宗教的学問というか。水戸学と同じく、明治維新の思想的バックボーンを形成しました。
それらがどのような「救済論」を持っていたかは次の項に譲りますが、特に復古神道は学者や武士階級だけでなく、民衆レベルでもかなりの浸透を見せていたようです。
子安宣邦『国家と祭祀 国家神道の現在』 より
p.102
取り上げられているのは、幕末水戸学の代表的論者、会沢正志斎の主著『新論』です。『新論』が国家の大経として立てる祭祀的国家の理念はこの安心論的課題を吸収している。(中略)
国家が人民のそれぞれに死の帰するところを明らかにし、死後の安心を人民に与えることは、彼らの心底からの国家への統合を可能にするはずだと会沢はいうのである。
今日に至るまで右翼&天皇主義的思想上欠かせない概念である「国体」という語を発案した本として認識していましたが、こんな内容も含まれていたんですね。
p.103
こちらは復古神道の完成者、平田篤胤。篤胤独自の国学思想の成立を告げるものとされる『霊能真柱』という著述とは、古学の徒に求められる大倭(やまと)心を堅固に保持するには「霊の行方の安定(しずまり)」を知ることが不可欠だとして、日本神話による宇宙生成過程の再構成を通して「霊の行方」の問題の解決をはかった書である。
この人は「寅吉」少年の神仙界探訪の記録を熱心に書き留めた話(『仙境異聞』)が有名なので、さほど意外ではないと言えば意外ではないですが。
とにかく"国家"と"天皇"にしか関心が無いような印象のある水戸学や復古神道に、言ってみれば普通の「宗教」らしい側面もあったと、そういう話です。
より公平に言うと、視線が「民衆」にあるか「国家」「天皇」にあるかの違いはあっても、江戸の安定が徐々に崩壊に向かい、対外的にも国内経済的にも(後に言う)「近代」の到来の予感の中で、何らかの危機感や不安感という時代の気分は確かにあって、それについては民・国派問わず、「神道」は鋭敏に感じ取って時代の要求に応えようとしていた、そういう面はあったわけです。
・・・一つ僕なりの言い方を加えると、例えば仏教などに比べると、「神道」というのは要するに"新宗教"なんですよね、実質。だからこそ"時代"にも敏感というか、「国民の選択肢」(小沢)として求められた選ばれた、そういうある意味ではよくある風景でもあったろうと思います。
2.大塩平八郎と"神道"的思想
そういう言わば「必然」としての"神道"の、ある種先触れ的な例として、大塩平八郎の思想について少し取り上げてみたいと思います。
大塩平八郎
こうして書いているだけで軽く涙が出て来そうにもなる、まことに印象的な歴史上の人物ですが。・江戸時代後期の儒学者、陽明学者。
・大坂町奉行組与力として活躍後隠居、私塾を開き弟子を育てる。
・天保の大飢饉(1833~37)の際、再三奉行所に救済を進言しまた自らも私財を投げ打って窮民の救済に奔走するが、動こうとしないどころかそれを邪魔する大阪奉行所・幕府に反旗を翻し、所謂「大塩平八郎の乱」(1837)を起こすが失敗、自決する。
こうした激烈な行動の背景に「知行合一」の陽明学思想があるという話は、僕も学校教育の範囲で習った記憶はあるわけですが、その一方で大塩が蜂起の際に書いたとされる檄文には、こんな内容が含まれています。
神世への復帰、天皇親政への願いを語る大塩平八郎。「神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では堯舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである」
「天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がない」
(「崎門学研究会」より引用)
僕がこのことを知ったのは、また全然別の調べ物をしていた時のたまたまだったんですが、でもこれを見た時に、何か腑に落ちたというか、一つ「風景」が見えたような気がしました。
差し当たって"神武帝"や"天照皇太神"の名を郷愁をこめて口にする大塩平八郎が、"右翼"なのか'"国体"主義者なのかというと・・・どうでしょう。僕にはむしろ、違う時代に生まれていれば幸徳秋水と一緒に獄に繋がれていてもおかしくない、そういうタイプのパーソナリティのように見えるんですが。彼の起こした「反乱」も、後の「倒幕」運動というよりはアナーキズム的テロリズムなどの方に、近い性格を感じます。まさか本当に私塾の私兵で幕府を倒せると思っていたとも思えないですし。
ではなぜ彼が「神武」や「天照」を持ち出して来なければいけないかというと・・・。それしか無いからだと思います。現実の幕藩体制とその行き詰まりを前にして、「世直し」や「救民」を志向した時に、救済原理として使えるリソースが、打ち立てるべき「政治理論」が。当時の時代状況では。(だからもし彼が「社会主義」を知っていたならば社会主義者になっていたのではないかと、僕は空想しているわけですが)
そしてこうした"大塩平八郎"が抱えたようなジレンマや限界は、現代の発展途上国や非西欧諸国でも同じように存在していて、それらの国で頻繁に湧き上がる多くは宗教に根を持つ"ナショナリズム"も、それ自体が本当にいいと思って担いでいるというよりは、他に無いから選択されると、そういう面が大きいのではないかと、そう感じるわけです。分かっていても引っかかる罠、見えていても進んでしまう隘路。
不幸な民衆が過去や神話にユートピアを求めるのを、止めるのはなかなか難しい。
逆にだから後に倒幕原理として担がれる「尊皇(王)」も、一部特殊な情熱による宗教思想(家)を含みこみつつも、基本的にはカウンター原理、政治理論的オルタナティヴとして、不可避的に選択されている方便として利用されている、そういう面は当然にあるわけですね。
ただその範囲での"必然性"はあったと、そうは言えると思います。
次にでは各国における"大塩"的事例、不可避の原理としての「宗教」の振る舞いを、見て行きたいと思います。
3.「近代化」と「宗教」と「民族」
イランの例
p.111-112
"パフラヴィー"というのは"パーレビ"のことですね。呼び方変わったみたいです。(笑)一九二五年にイラン国王に即位したレザー・シャーはイランの近代化を強力に遂行した。(中略)
彼はイランの近代国家としての形成をイラン社会の非イスラーム化として遂行していった。イランのナショナリティーを非イスラーム的に、ペルシャ・アイデンティティーによって作り直そうとしたのである。ペルシャ語が国語あるいは共通語として教えられた。イスラーム法に代えて近代的な民法、刑法、商法が制定された。
(中略)
この上からの近代化は二代目国王となったモハンマド・レザー・パフラヴィーによって(中略)さらに強権的に遂行された。
パフラヴィーの代で行われた西欧寄りの近代化を、特に「白色革命」などと言います。
p.112
それに対する反動・反撃として起こったのが、ホメイニ指導によるイスラム革命。その結果、イラン社会は急速に変化し、首都テヘランに農村から流入する民衆はスラムを形成し、大量の都市貧困層を生み出すことになった。こうした民衆にとって近代化とは、「それまで安定していた伝統的な生活、地域共同体を破壊し、貧富格差を拡大させる混乱以外のなにものでもなかったはずだ」と小川はいっている。
p.112-113
イスラム抜きの(世俗主義的)近代化を推し進めようとしたシャーたちに対して、それを倒したイスラム派は、近代化そのものを否定するのではなくて「イスラム入りの」近代化に作り直した、やり直したということ。イスラム国家ではあっても、必ずしも"反近代"ではない。このイスラーム革命はたしかにイランの世俗主義的近代国家化に対する宗教的オルターナティヴとして遂行されるが、それは近代国民国家そのものの否認というよりはイスラーム的国家としての新たな統合をめざすものというべきだろう。ユルゲンマイヤーもイスラーム反乱派について、「彼らの思惟方法の奇妙な結果の一つは、近代国家のもっとも顕著な要素の多くをイスラームの準拠枠に流用したことであった。」(中略)といっている。
同じく"宗教による近代化"(ないし近代の補完)であっても日本の(尊皇の)事例と異なるのは、日本では天皇/神道という形で「宗教」と「民族」が一体となっているのに対して、イランでは「イスラム」と「ペルシャ」は敵対的な位置に置かれていたということですかね。
インドの例
p.114
一九四九年にインドが独立したとき、ネルーはインドは世俗主義国家であることを宣言した。世俗主義(Secularism)とはインド憲法のもっとも重要な基本原則である。
p.114-115
戦前の日本も「国教は無い」、(国家祭祀を司っている)「神道は宗教ではない」と"世俗主義的"主張をしていましたから、"陰の国教"たる神道の支配に他宗が不満を抱き、一方で正式に国教にはしてもらえない神道は神道で不満を持ち続けていた(後述)日本の状況と、強引に言えば似ていないこともないかも。インドの世俗主義的国家は宗教勢力との緊張関係をもち続けていくことになる。ムスリムやシーク教徒などインドの宗教的マイノリティーからすれば政府の掲げる世俗主義はヒンドゥー的マジョリティーの隠れ蓑にすぎないとみなされた。他方、ヒンドゥーの側からすればそれは宗教的マイノリティー諸派を援助し、擁護し、インドのヒンドゥー的統合に分裂をもたらすものとみなされたのである。
p.115
ネルー、インド政府としては、どの宗教も平等に扱うことによって国民の融和を図ったわけですが、どっこいそれは各勢力「全員が不満」という状況を作り出し、近代国民国家としての統合性からはどんどん離れて行く結果に帰結したということ。世俗主義的な政府の施策が実際にインド社会に実現していったのは統合というよりはむしろ分裂であり、
(中略)
カーストや宗教をアイデンティティーの基礎とした民衆は、獲得した参政権を行使しそのカーストや宗教に基づいた地位・権利の獲得要求を活発化させた。これによってインド人内部の断片化・分節化はよりいっそう促進され、
それに対してホメイニ革命よろしくヒンドゥーアイデンティティーによる再統合を目指した動きも出ているらしいですが、実現するかどうかはどうなんでしょうという感じ。本当に起きたら世界はまたえらいことになりそうですね。
日本の例
p.152
比較すると、ヨーロッパの世俗的国家もキリスト教による国民統合をもった国家であることは、日本の政治指導者によっても認識されていた。
(中略)
明治国家は個別宗教を立憲的な政教分離的政治体制のレベルに置き、国家自身は天皇制的国家祭祀をもってその究極的な中心化と全体的統合化をはかったのである。
1.イランは「世俗主義」と「宗教主義」の、"二段階"の近代化のプロセスを踏んだ。(踏む必要があった)
2.インドは「世俗主義」一本でやろうとしたが、国民統合の不十分に苦しみ、これから「宗教的民族主義」による第二段階の近代化のプロセスが訪れるかもしれない。
対して
3.i日本は最初から「世俗主義」と「宗教的民族主義」の二本立てで近代化を推し進め、十分に統合された近代的国民国家を一気に作り上げた。(と、一般には評価される)
ほら見ろやっぱり天皇主義明治日本は正しかったんじゃないかと、そういう話にはなりそうですが。(笑)
少なくとも戦略的に周到だったことに関しては、評価して間違いないだろうと思います。
するとその後の歩みは・・・。"二本立て"の片方たる宗教的民族主義が肥大して一人歩きしてしまったと、そういうこと?
ともかく"近代"のトップランナー西欧(米)にはキリスト教があり、それに次ぐ成功者日本には天皇教があり、それらを追うイランにはイスラムが、中国とソ連(ロシア)には共産主義と指導者の個人崇拝という擬似宗教があり、実際問題「宗教」抜きで"国民"の統合ないし"創出"は可能なのか、世界史的事例的には、大いに疑問なところはあると思います。
逆に宗教があれば近代化出来るということは全く言えないので(笑)、言い過ぎ厳禁ではありますが。
まあ大塩平八郎の事例などを見ても、国内統治の問題としてその国の宗教的民族主義が持ち出されることについて、それをいたずらに"国粋主義"として問題視したり他国が何か言うのは、見当違いな部分は大きいのかなと。
視点を転じて「他国」と対峙した時に、その"国内"的常識をそのまま持ち出そうとすると大きな問題になる、あるいはそこで初めてそれが"問題"になるというか。大塩平八郎の目に特に外国は映っていませんからね。昭和の話と一緒には出来ない。
書いていて余り納得したくない結論も含まれていますが(笑)、とりあえずはこんなところです。
「統治」は治まることが、まず優先なわけです。ある意味手段は問わない(問えない)。かもしれない。
今回はここまで。
次回の予定タイトルは、『神権国家の挫折と神道の組織化』あたりかな?(笑)