2017年12月06日 (水) | 編集 |
サッカーのチーム/組織プレーにおける原則ないし原理と戦術の関係、及び区別。
主に「ポジショナル」の語で昨今語られている、理論的場をめぐって。
僕の語感だと「原理」に行きかけたんですけど、この方面のリーダーの一人結城康平(@yuukikouhei)氏
に合わせて、僕も「原則」で話を進めることにします。
・・・別に結城氏の威を借りなくても語れるは語れるんですけど(笑)、あった方が分かり易いので。
上のツイートは割りと走り書き的なものに僕がたまたま特に目を留めたものでしたが、11/24に書かれた総論的コラムにおいても、その問題意識が継続しているのが分かります。
ここはちょっと僕は「下位」に置いちゃうかなあ、どっちかというと。「基礎」なわけだし。
まあいいですけど。
では本題。
所謂「コンテ式」と、今季の東京V&徳島のサッカー
『’17ロティーナヴェルディの幻想的予想』('17.2.20)で書いたことのおさらい的内容ですが。
'17年のJ2シーズン開幕前、及びその開幕前に行われたいくつかのプレシーズンマッチをめぐって語られたこの 羊@GP_02A 氏らによる一連のツイート
東京Vvs浦安 TM現地雑感&343でのボール前進と崩しの解説
によって、
・ロティーナ監督がヴェルディに"ポジショナル"なるプレー原理を持ち込んでいるらしい。
・それは今正にプレミアリーグを圧倒的強さで制しつつあるコンテチェルシーと同じものらしい。
・またどうやらロティーナ同様スペイン出身の徳島のリカルド・ロドリゲス監督も同じようなことをやっているらしい。(そう言えば既にプレシーズンマッチでの好調は聞こえていた)
という前評判が俄かに高まりました。
蓋を開けてみるとどうだったか。
結論的に言うと、蓋を"開ける"直前の僕の「コンテチェルシー」についてのこの直観に、ほぼ沿うような結果だったと思います手前味噌ですが。
ロティーナもリカルド・ロドリゲスも確かにスタートの時点では、3-4-3で低めの位置で構成したポジションの優位で相手を引き出して"罠"にはめ、理想的にはノーリスクで相手の逆を延々突き続ける"コンテ"的な手法を取っているように見えました。
特に奇しくもいきなりこの両者が激突した開幕戦で、リカルド・ロドリゲス監督率いる徳島が披露した完成度は予想を越えて素晴らしく、"ポジショナル"はともかくとして"イタリア"サッカー好きだった(笑)僕の羨望を誘ったものでした。
しかしその後の徳島/リカルド・ロドリゲスが、そういうイメージとはむしろ真逆の、多分に前のめりな攻撃サッカーの方向に"進化"して行ったのは周知の通り。
一方のロティーナも、基本性格としてはセーフティ志向、リカルド・ロドリゲスよりは"コンテ"に近いイメージは残しつつも、かなり早くから「それにとどまるわけにはいかない」というはっきりとした意思を見せて、(せっかく)安定していたバランスの崩れや自ら決めに行く為の人材の不足を危ぶまれながらも、意外なほど分かり易く"理想主義的"に「能動・攻撃こそが"良い"サッカーである」という姿勢でチーム作りを進めていたと思います。
それらの良し悪しは措くとして、言えるのは「ポジショナル」という同一の原則・原理に立脚しつつも、更に言えば今回の場合はむしろ珍しいくらいにかなりはっきりと"意識"しながら用いつつも、結果志向されるスタイル表現される戦術は、3人3様別々のものになっているということです。逆に言えば、「原則」が「戦術」を一義的に決定するわけではない、ここに少なくとも二つの、考えられなければならないサッカーの組織プレーの異なる次元が存在すると、そういうことです。
だからこそ結城氏も、特に注意喚起しているというか。
では何が決定しているのかと言えばそれはまあ、ケースバイケースというかパーソンバイパーソン(そんな言葉あるのか?)なわけですが。コンテについてはまあ、行きがかり上「イタリア」ということで片付けてしまいましたが、勿論そんな簡単じゃないと言えば簡単ではない。じゃあロティーナは「スペイン」なのかいという話になってしまいそうで(笑)、それも嘘ではないと思いますが勿論それだけではない。
個別の監督についての考察はそれぞれ縁があった時にまたやるとして、今回の話で面白いというか肝なのは、こういう「原則」と「戦術」の区別・分離のようなものは、実際にはあらゆる監督メソッドに含まれているものだと思いますが、たいていは区別されていなかったり事実上"同時"に表れていたりする。ただ今回は「原則」の方が異例なほど明確に言語化されているので、それによって(同じ原則に基づいた)「戦術」の違い、二つの"分離"が鮮やかに見えている、そういうことだと思います。
まとめると同じく「ポジショナル」プレーの原則に基づきながら、コンテはコンテなりに、ロティーナはロティーナなりに、リカルド・ロドリゲスはリカルド・ロドリゲスなりにそれぞれ異なる「戦術」を実現していると、実現せざるを得ないと、彼らの個性に従ってと、当たり前と言えば当たり前ですがそういう話です。
「原則」は重要ですが原則だけで戦術・スタイルは決定されないし、監督やサッカーを見るのも正しくないと。これもまあ言葉にしてしまうと随分当たり前ですが。
・・・そうですね、前に僕がハリルホジッチをめぐる(特に擁護・賞賛系の)「論」について、
とクレームをつけていたのも、そうした「区別」の問題に関わっているわけですね。
原則("「理」や「相対観」")は原則、戦術("作戦サッカー")は戦術であると。ある原則から引き出せるものには様々な可能性がある以上、あるたまたまの一つの戦術の必然性を誤認させるような説明の仕方(例えそれが成功したものであったとしても)は間違っているし、また原則に関する議論とその監督の仕事全体の評価は別にすべきであるし出来ると、そういうことをまあ、言っていたわけです。
主に「ポジショナル」の語で昨今語られている、理論的場をめぐって。
僕の語感だと「原理」に行きかけたんですけど、この方面のリーダーの一人結城康平(@yuukikouhei)氏
ポジショナルプレーは戦術ではなく原則に近いので、その辺りも説明を困難にする一因なのかもしれないが…
— 結城 康平 (@yuukikouhei) 2017年10月12日
に合わせて、僕も「原則」で話を進めることにします。
・・・別に結城氏の威を借りなくても語れるは語れるんですけど(笑)、あった方が分かり易いので。
ポジショナルプレーは「原則」として様々な戦術的事象を理解する基礎となる。
(「ポジショナルプレー総論。現代サッカーを貫くプレー原則を読み解く」"VICTORY")
上のツイートは割りと走り書き的なものに僕がたまたま特に目を留めたものでしたが、11/24に書かれた総論的コラムにおいても、その問題意識が継続しているのが分かります。
戦術に意味を与える上位概念としての「原則」として、ポジショナルプレーは現代フットボールを理解する為の重要な鍵になる。
(同上)
ここはちょっと僕は「下位」に置いちゃうかなあ、どっちかというと。「基礎」なわけだし。
まあいいですけど。
では本題。
所謂「コンテ式」と、今季の東京V&徳島のサッカー
『’17ロティーナヴェルディの幻想的予想』('17.2.20)で書いたことのおさらい的内容ですが。
'17年のJ2シーズン開幕前、及びその開幕前に行われたいくつかのプレシーズンマッチをめぐって語られたこの 羊@GP_02A 氏らによる一連のツイート
東京Vvs浦安 TM現地雑感&343でのボール前進と崩しの解説
によって、
・ロティーナ監督がヴェルディに"ポジショナル"なるプレー原理を持ち込んでいるらしい。
・それは今正にプレミアリーグを圧倒的強さで制しつつあるコンテチェルシーと同じものらしい。
・またどうやらロティーナ同様スペイン出身の徳島のリカルド・ロドリゲス監督も同じようなことをやっているらしい。(そう言えば既にプレシーズンマッチでの好調は聞こえていた)
という前評判が俄かに高まりました。
蓋を開けてみるとどうだったか。
結論的に言うと、蓋を"開ける"直前の僕の「コンテチェルシー」についてのこの直観に、ほぼ沿うような結果だったと思います手前味噌ですが。
コンテチェルシーの試合を改めて見て思ったのは、そうは言ってもやっぱり「イタリア」だよなということ。つまり単体としてのコンテチェルシー、その"先端"性の裏にあるあるいは"強さ"の地盤になっているのは、やはりイタリア伝統のカウンタースタイルであって、「3バック(3-4-3)ボゼッション」戦術は、その職人芸をより効率的にやる徹底的に洗練させる為の"方便"みたいな部分があるよなということ。
(中略)
要はコンテチェルシーは、あくまで"コンテ"のものであるということ。
(上記『’17ロティーナヴェルディの幻想的予想』)
ロティーナもリカルド・ロドリゲスも確かにスタートの時点では、3-4-3で低めの位置で構成したポジションの優位で相手を引き出して"罠"にはめ、理想的にはノーリスクで相手の逆を延々突き続ける"コンテ"的な手法を取っているように見えました。
特に奇しくもいきなりこの両者が激突した開幕戦で、リカルド・ロドリゲス監督率いる徳島が披露した完成度は予想を越えて素晴らしく、"ポジショナル"はともかくとして"イタリア"サッカー好きだった(笑)僕の羨望を誘ったものでした。
しかしその後の徳島/リカルド・ロドリゲスが、そういうイメージとはむしろ真逆の、多分に前のめりな攻撃サッカーの方向に"進化"して行ったのは周知の通り。
一方のロティーナも、基本性格としてはセーフティ志向、リカルド・ロドリゲスよりは"コンテ"に近いイメージは残しつつも、かなり早くから「それにとどまるわけにはいかない」というはっきりとした意思を見せて、(せっかく)安定していたバランスの崩れや自ら決めに行く為の人材の不足を危ぶまれながらも、意外なほど分かり易く"理想主義的"に「能動・攻撃こそが"良い"サッカーである」という姿勢でチーム作りを進めていたと思います。
それらの良し悪しは措くとして、言えるのは「ポジショナル」という同一の原則・原理に立脚しつつも、更に言えば今回の場合はむしろ珍しいくらいにかなりはっきりと"意識"しながら用いつつも、結果志向されるスタイル表現される戦術は、3人3様別々のものになっているということです。逆に言えば、「原則」が「戦術」を一義的に決定するわけではない、ここに少なくとも二つの、考えられなければならないサッカーの組織プレーの異なる次元が存在すると、そういうことです。
だからこそ結城氏も、特に注意喚起しているというか。
では何が決定しているのかと言えばそれはまあ、ケースバイケースというかパーソンバイパーソン(そんな言葉あるのか?)なわけですが。コンテについてはまあ、行きがかり上「イタリア」ということで片付けてしまいましたが、勿論そんな簡単じゃないと言えば簡単ではない。じゃあロティーナは「スペイン」なのかいという話になってしまいそうで(笑)、それも嘘ではないと思いますが勿論それだけではない。
個別の監督についての考察はそれぞれ縁があった時にまたやるとして、今回の話で面白いというか肝なのは、こういう「原則」と「戦術」の区別・分離のようなものは、実際にはあらゆる監督メソッドに含まれているものだと思いますが、たいていは区別されていなかったり事実上"同時"に表れていたりする。ただ今回は「原則」の方が異例なほど明確に言語化されているので、それによって(同じ原則に基づいた)「戦術」の違い、二つの"分離"が鮮やかに見えている、そういうことだと思います。
まとめると同じく「ポジショナル」プレーの原則に基づきながら、コンテはコンテなりに、ロティーナはロティーナなりに、リカルド・ロドリゲスはリカルド・ロドリゲスなりにそれぞれ異なる「戦術」を実現していると、実現せざるを得ないと、彼らの個性に従ってと、当たり前と言えば当たり前ですがそういう話です。
「原則」は重要ですが原則だけで戦術・スタイルは決定されないし、監督やサッカーを見るのも正しくないと。これもまあ言葉にしてしまうと随分当たり前ですが。
・・・そうですね、前に僕がハリルホジッチをめぐる(特に擁護・賞賛系の)「論」について、
例えば同じ「理」や「相対観」を前提としていても、どの程度"作戦"サッカーになるかはそれぞれの監督の個性によるわけですし、あるいはそれは「スタイル」構築型のサッカーと、別に矛盾しているわけでも共存不可能なわけでもないわけじゃないですか。
(『帰って来たハリルホジッチ(?)/ロシア最終予選ホームオーストラリア戦』)
とクレームをつけていたのも、そうした「区別」の問題に関わっているわけですね。
原則("「理」や「相対観」")は原則、戦術("作戦サッカー")は戦術であると。ある原則から引き出せるものには様々な可能性がある以上、あるたまたまの一つの戦術の必然性を誤認させるような説明の仕方(例えそれが成功したものであったとしても)は間違っているし、また原則に関する議論とその監督の仕事全体の評価は別にすべきであるし出来ると、そういうことをまあ、言っていたわけです。
そしてペップ
などと偉そうに言いつつ自分自身も、ポジショナルという原理とそのかつてあったオランダ的な実現を、過度に同一視してしまったりしたことがあったりもするんですが、それはともかく。
さて"ペップ"グアルディオラが今日言われているところの"ポジショナル・プレー"の原則の、発明者ではないにしてもシンボリックな推進者であるのは言うまでもないわけですが、ではこの場合で言う彼の「戦術」は、どうなっているのか。
バルサではまあ、"あれ"なんでしょうね。あれが余りにも鮮やかだったから、その時はむしろ「戦術」自体がクローズアップされて、原則を理解しないままのフォロワーが多く生まれたと、まあそういう話。対してバイエルンでは、例のサイドバックのMF的運用やらウイングのより"ウィング"的な人材起用やらというアレンジ的な話はよく聞こえて来ましたが、要するに何をやってるのかということについては少なくともバルサの時ほど我々一般人にはクリアではなかった。バルサ(のクオリティ)を"再現"しているわけでも、それに匹敵する何かを"発明"したわけでもないようだなと。そこらへんで一回、(誤解も含んだ)"メシア"的期待は少なからずしぼんだところで、次にシティ。
一年目のペップ・シティについて、今までのメソッドをおさらいしただけで"セルフコピー"的だなんだといちゃもんも僕は付けましたが、それはまあもういいんです(笑)、今回のテーマではない。
問題は今のところほぼ天井知らずの快進撃を続けている、二年目の今季。
思うんですけどね、戦術無いんじゃないですかね。いや、マジで。(笑)
例えば再び権威を借りる(笑)と、上の"総論"で結城氏はこんな表現をしています。
それ以上は書いていないので、僕が勝手にニュアンスを感じ取っているだけなんですけど、なんか分かるなあという感じの書き方。結構。
「何か」を"やろう"としている感じではないんですよね。"こういう"サッカーをしようと、ある最終形的なものに近付けようと。
やっているのは"ルール"をセットしていることだけで、その先はある意味成り行き。勿論"予測"はしているでしようけど。ただ"導こう"とはしていない。
そこらへんの"放置"感が、蒸し返しますが(笑)僕が「割りと選手本位というか、オープンな感じを考えているのかなあと思わないでもない」という第一印象を今季のチームに抱いた(ツイッター引用部分)理由かもなと、改めてまた思っています。(一回別な形で説明をつけてしまいましたが)
"戦術"が無いというのはつまりどういうことかというと、"原則"と"選手"(の個性)だけで成り立っているということです。
"戦術"という介在物なしに。"原則"剥き出しで。
そんなことが可能なのか。上のコンテやロティーナやリカルド・ロドリゲスについての自分の説明だと、それはほとんど彼らの"人格"そのものが帯びているバイアスと同義のようになっているわけですから、じゃあペップには人格は無いのかという話になりますが(笑)、それは・・・無いのかもねと、思わせるところはありますね(笑)。少なくとも薄そうではある。
ただ(そういうことが)あるとしてもそれはさすがに主因ではなくて、何らか「原則」自体の極め方の問題なんだろうと推測はしますが、ちょっと現時点では僕にははっきりとは分かりません。
・・・実は僕はこの「原則(と選手)だけ」という意味の表現を別の監督のサッカーに対して使ったことがあって、それが他ならぬオシム。(誰かのブログのコメント欄だったので、ちょっと見つかりません)
オシムのあの走り込む→預ける→追い越すというプロセスを延々繰り返す、見ようによってはとてもシンプルなサッカー、逆算的帰納的ではなく、ある原理原則をひたすら演繹していく、違いはそこに携わる選手だけみたいなスタイル。逆にだからそれは選手本位のオープンなサッカーとも見える部分があるわけですが、とにかくそうオシムのサッカーを、定義してみました。
その考えの根本は今でも変わっていないんですが、しかし今季目にしているペップのそれとの比較においては、そうでもないなというか、やっぱり「オシムのサッカー」というものはあったよなと、あくまで比較の問題としては思います。終着点、帰納先が一応イメージ出来るというか。
ペップは本当に"無い"んですよね。いくつか攻撃パターンのようなものはあるにはあるんですけど、ただそれが何か"ペップのサッカー"の重要部分を構成している感じはしない。あくまで小技・方便のレベルというか。
あるのはやっぱり優位なポジションで相手に苦しい選択を迫り続ける"構造"そのもので、そこから先は要は成り行き、選手の能力と特性に応じた偶発&個別要素。
以上がだいたい僕が今、「原則と戦術」ということについて言いたいことです。
一番言いたいのは、「区別しようぜ!」ということそのものなんですけどね、実際には。
後はまあ、要するに例示。
「ポジショナル」自体も含めて、例示に過ぎないと言えばそう。(かなり際立った"例"ではありますが)
などと偉そうに言いつつ自分自身も、ポジショナルという原理とそのかつてあったオランダ的な実現を、過度に同一視してしまったりしたことがあったりもするんですが、それはともかく。
さて"ペップ"グアルディオラが今日言われているところの"ポジショナル・プレー"の原則の、発明者ではないにしてもシンボリックな推進者であるのは言うまでもないわけですが、ではこの場合で言う彼の「戦術」は、どうなっているのか。
バルサではまあ、"あれ"なんでしょうね。あれが余りにも鮮やかだったから、その時はむしろ「戦術」自体がクローズアップされて、原則を理解しないままのフォロワーが多く生まれたと、まあそういう話。対してバイエルンでは、例のサイドバックのMF的運用やらウイングのより"ウィング"的な人材起用やらというアレンジ的な話はよく聞こえて来ましたが、要するに何をやってるのかということについては少なくともバルサの時ほど我々一般人にはクリアではなかった。バルサ(のクオリティ)を"再現"しているわけでも、それに匹敵する何かを"発明"したわけでもないようだなと。そこらへんで一回、(誤解も含んだ)"メシア"的期待は少なからずしぼんだところで、次にシティ。
一年目のペップ・シティについて、今までのメソッドをおさらいしただけで"セルフコピー"的だなんだといちゃもんも僕は付けましたが、それはまあもういいんです(笑)、今回のテーマではない。
問題は今のところほぼ天井知らずの快進撃を続けている、二年目の今季。
思うんですけどね、戦術無いんじゃないですかね。いや、マジで。(笑)
例えば再び権威を借りる(笑)と、上の"総論"で結城氏はこんな表現をしています。
グアルディオラが幾つかのシンプルなルールを組み合わせ、ピッチ上に複雑な崩しを描くことに成功しているように
それ以上は書いていないので、僕が勝手にニュアンスを感じ取っているだけなんですけど、なんか分かるなあという感じの書き方。結構。
「何か」を"やろう"としている感じではないんですよね。"こういう"サッカーをしようと、ある最終形的なものに近付けようと。
やっているのは"ルール"をセットしていることだけで、その先はある意味成り行き。勿論"予測"はしているでしようけど。ただ"導こう"とはしていない。
そこらへんの"放置"感が、蒸し返しますが(笑)僕が「割りと選手本位というか、オープンな感じを考えているのかなあと思わないでもない」という第一印象を今季のチームに抱いた(ツイッター引用部分)理由かもなと、改めてまた思っています。(一回別な形で説明をつけてしまいましたが)
"戦術"が無いというのはつまりどういうことかというと、"原則"と"選手"(の個性)だけで成り立っているということです。
"戦術"という介在物なしに。"原則"剥き出しで。
そんなことが可能なのか。上のコンテやロティーナやリカルド・ロドリゲスについての自分の説明だと、それはほとんど彼らの"人格"そのものが帯びているバイアスと同義のようになっているわけですから、じゃあペップには人格は無いのかという話になりますが(笑)、それは・・・無いのかもねと、思わせるところはありますね(笑)。少なくとも薄そうではある。
ただ(そういうことが)あるとしてもそれはさすがに主因ではなくて、何らか「原則」自体の極め方の問題なんだろうと推測はしますが、ちょっと現時点では僕にははっきりとは分かりません。
・・・実は僕はこの「原則(と選手)だけ」という意味の表現を別の監督のサッカーに対して使ったことがあって、それが他ならぬオシム。(誰かのブログのコメント欄だったので、ちょっと見つかりません)
オシムのあの走り込む→預ける→追い越すというプロセスを延々繰り返す、見ようによってはとてもシンプルなサッカー、逆算的帰納的ではなく、ある原理原則をひたすら演繹していく、違いはそこに携わる選手だけみたいなスタイル。逆にだからそれは選手本位のオープンなサッカーとも見える部分があるわけですが、とにかくそうオシムのサッカーを、定義してみました。
その考えの根本は今でも変わっていないんですが、しかし今季目にしているペップのそれとの比較においては、そうでもないなというか、やっぱり「オシムのサッカー」というものはあったよなと、あくまで比較の問題としては思います。終着点、帰納先が一応イメージ出来るというか。
ペップは本当に"無い"んですよね。いくつか攻撃パターンのようなものはあるにはあるんですけど、ただそれが何か"ペップのサッカー"の重要部分を構成している感じはしない。あくまで小技・方便のレベルというか。
あるのはやっぱり優位なポジションで相手に苦しい選択を迫り続ける"構造"そのもので、そこから先は要は成り行き、選手の能力と特性に応じた偶発&個別要素。
以上がだいたい僕が今、「原則と戦術」ということについて言いたいことです。
一番言いたいのは、「区別しようぜ!」ということそのものなんですけどね、実際には。
後はまあ、要するに例示。
「ポジショナル」自体も含めて、例示に過ぎないと言えばそう。(かなり際立った"例"ではありますが)
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