ヴェルディとマンチェスター・シティという形で、最近やたらと僕に絡んで来る。(笑)
『スペインの歴史を知るための50章』立石博高・内村俊太編
前回は、中世以来のカタルーニャの独立志向が、非イベリア性、ローマ及び西欧志向という基礎を持っているらしいという話をしましたが。
p.326
言うなれば、11世紀頃の時点で、共通の過去と理念をある程度は共有していたイベリア半島の諸国家が、時代を経るにしたがって各々固有の道筋を選択していったことを暦の利用状況が示唆している。
何の話かというと、スペイン中央政府(カスティーリャ)がヨーロッパで制定された新しい暦(グレゴリオ暦)を導入して国家的統一性の強化を図ろうとしたところ、それまで曲がりなりにもまとまっていた"スペイン"がそれに対するリアクションで分裂して、かえって統一性が緩んでしまったという、そういう話。
僕が特に注目したのは、「共通の過去と理念をある程度は共有していた」の部分。古来分裂し続けて来たものが近代になって一応「スペイン」としてまとまって、それがまた最近危機に瀕しているみたいな一本道的な歴史をイメージしていたんですが、そうではなくていくつかピークがあるというか、まとまる/ほどけるみたいなプロセスを繰り返して来たんだなという。
p.335
19世紀末にヨーロッパがナショナリズムの時代に入った時に、スペインでは、国家の一体性を不可欠の前提とするスペイン・ナショナリズムへの対抗として、地域ナショナリズムが誕生し、両者の対立構図は現在まで続いている。
これもまたスペイン「統一」の"挫折"の歴史。
"ナショナリズムの時代"(参考)に日本を含む各国が中央集権的国民国家形成へと動く中で、同じように影響を受けたは受けたスペインの場合は、カタルーニャを筆頭とする"各国"がそれぞれにネイション意識を高めた為、かえって地域化が進んだという、笑い話のような真面目な話。
日本も「江戸幕府」ではなくて「豊臣政権」くらいの緩い統一を前提とした時代にナショナル化が進んだとしたら、そういう可能性もあったのかも知れないですね。各藩それぞれが"国"化するという。やっぱり前提としての「統一」のイメージがあるか無いかでは、大きく違うと思うんですよね。フランスも要は"ナポレオン"(の強力な指導)によって、国民国家を形成して行くわけですし。
まあ天皇もいたし、スペインのようには多言語でもなかったので、根本的に違うと言えば、違うのかも知れないですけど。とりあえず明治政府が"頑張った"ということは、善悪別にして言えるとは思いますね。
その後結局スペインは、20世紀の「フランコ独裁」という特殊な一時期を除いては、他の西側各国並みの強力な中央集権国家は形成しないまま現在に至るわけですが。
通して読んで逆に持つ疑問としては、「スペインはどうして分裂しているのか」ではなくて、むしろ「なぜスペインは"スペイン"という統一性を一応は持っているのか」という方の疑問。
それについてこの本では主題的には取り上げられてはいませんが、それでも拾い上げてみるとまずは
1.「西ゴート王国」という"統一政権"の始原的イメージ
というものが挙げられます。
西ゴート王国とは、415年 - 711年にかけて
現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国(Wiki)
であり、それがともかくもイベリア半島に統一的な王権を確立したこと、またキリスト教国家であったそれが後にイスラムのウマイヤ朝に滅ぼされ、それに対する"レコンキスタ"の過程で郷愁的に美化されたことによって、それ自体非ラテンの征服王朝であったにも関わらず神話的な共通イメージとして定着したと、そういうことです。"かつてスペイン(イベリア)は一つであった"と。
もう一つは、それこそこの本にはあえては書いてありませんが、要は
2.イベリア半島の僻地性
ということだろうなと。
大陸ヨーロッパと海に囲い込まれた「半島」という地理的な隔離性によって、好むと好まざるとに関わらず域内の緩い統一性共通性は意識せざるを得ず、またヨーロッパの方からは近代に至るまで常に異郷視・野蛮視を受け続けていた為、対抗上も団結せざるを得ない部分はある。仲は悪くても。(笑)
そういう言わば"消極的なアイデンティティ"としての「スペイン」は常に存在していて、ただそれゆえそれ以上には、なかなか高まらなかった。これがまあ、僕の目に映った"スペイン史"ですが。
面白かったですね。もっと色んな国の歴史を、改めて見たくなりました。
とりあえず次はイギリスか、フランスか。
「世界史」より「各国史」の方が、どうも面白い気がします。
『グアルディオラ・メソッド―勝利に導くための61の法則』ミケル・アンジェル・ビオラン
図書館にあったので読んでみました。期待したような戦術的な本ではなかったですが、"文化論"的にはまあまあ面白かったです。
作者はカタルーニャ人で、カタルーニャ人として、"カタルーニャ人"ペップやスペインを、語っています。
p.18
生粋のカタルーニャ人が持っていたコスモポリタニズム(世界は一つの共同体だという考え)は、スポーツのジャンルにおいてもタレント性とコミットメントの融合を可能にした。
これ以上は特には書いてませんが、やっぱりカタルーニャ人は、「コスモポリタン」なんですね。
僻地イベリア半島に閉じ込められながら、だからこそ逆に、切に「世界」を思う。
スペイン/国を介在させずに。
後半部分が具体的に何についての話なのかはちょっと忘れてしまいましたが、ここらへん全体として筆者が言おうとしているのは、「スペイン」や「バルセロナ」の"成功"として今日語られていることの多くは、実際には「バルセロナ」単体や「グアルディオラ」個人に負うところの大きい性格のもので、「スペイン」のと言ってしまうのは問題がある、特にペップの飽くなき先進性やある種のグローバリズムは、優れてカタルーニャ的なものであって"スペイン"ではないと、そういうことのようです。
まあ"スペイン"と"カタルーニャ"の手柄争いについて口を出す立場には僕はないですが(笑)、ただ"バルサ"があくまで"バルサ"であること、そしてペップの個人的天才が余りに突出していて、「典型」として扱うのは無理があることは、ある程度は誰でも感じるところだろうと思います。
「スペイン」の中での「カタルーニャ」の突出と、更にその中での「ペップ」の突出と、二段構えの構造。
そしてそういう筆者による、"スペイン"評。
p.85
スペインでは自分たちの力やポテンシャルを信じない。(中略)
簡単に説明するとまったく何にも賭けをしない国。それがスペインだ。
スペインは「情熱的でない」ところに、特徴のある国だという。(笑)
かなり挑発的な感じはしますが、ただし見た感じ所謂"情熱の国"スペインという国際的定評を、意識しての記述には見えないんですよね。だから国内的には、実は通じ易い話なのかもしれない。定番の自虐ネタというか。またここでは必ずしも、"カタルーニャ人"として"スペイン"を叩いているようにも、見えません。
まあ日本人が明治維新を誇るように、逆にスペイン人はついに近代的集権国家を築けなかったことを、その自己変革力の無さを、恥じているのかも知れない。
スペイン文化全般も、基本的には暗いですよね。"フラメンコ"とか"闘牛"とか(笑)、明るい"情熱"というよりも暗い"情念"というタイプの文化。魅力的は魅力的ですが、"妖しい"魅力の方。
明るく建設的な"情熱"というよりも、虚無と無力感の淵から立ち上がる"狂気"に近いんですかね、スペインのそれは。ハンター×ハンターでも、「強化系」には分類されないタイプの"熱"かもしれない。(笑)
p.130
スペインはチームワークによって自分たちの能力を活性化させるのが困難な文化だ。集団意識が希薄で、誰の目にも明らかなリーダーシップに乏しい。
これはまあ、"バルサ化"して欧州と世界を席巻する以前のスペイン代表を覚えているサッカーファンなら、割りとすんなり納得出来る評価ではないかと思います。
あの時は「国内事情で代表チームに対する忠誠心が乏しい」のが理由と、概ね理解されていたと思いますが、この筆者によるとそれは代表チームに限ったことではなく、"スペイン人による集団"に共通に見られる体質だと、いうことのよう。
そしてそれを改革した克服させたのが、個人の「タレント性」(↑)を集団への深い「コミットメント」(↑)に導いたのが、カタルーニャとバルサの("コスモポリタン"な?)文化だと。
まあ起源や手柄(笑)の問題はともかくとして、とにかく"集団"が苦手だったスペインが、今日では組織プレーの一つの手本として各国から研究されるようになるに至ったわけですから、仮に元が苦手であるなら尚更学びたい、日本人に何かしら伝授してもらいたいものではありますね。「自己変革」のプロセスの再現というか。
いつ見ても"鉄の掟"で動いているイタリアとか、逆に学べるのかなと思うところもありますし。
p.87
"ペップ"グアルディオラが新たに導入したことの多くは、彼がイタリアでプレーしていた時代に学んだことである。
ペップの"非スペイン"性の、ちょっと次元の違う(笑)補足。
脱スペインしてユニバーサルに学んだからこそ、ペップはあるんだと。まあ、それはそうかもしれない。(笑)
ただ正直ペップのバルサを出てからの放浪については、少し冷ややかに見ていたところがあって、いちいち本当に学び切っているのには驚きましたね。"プレイヤー"としては結局は(スペイン)ドメスティックな選手だったと思うので、どうも効果を危ぶんでしまったんですが。
さて最後にこの本のタイトルですが。
グアルディオラのメソッドとは何か。「無い」というのが実はこの本の答え。
そうではなくて、"グアルディオラ"そのものが"メソッド"であるという。言い換えればその人格が。
参考として挙げられているのが、心理療法における「クライエントセンタード」という考え方、手法。
この療法の基本的な考えは、「来談者の話をよく傾聴し、来談者自身がどのように感じ、どのように生きつつあるかに真剣に取り組んでいきさえすれば、別にカウンセラーの賢明さや知識を振り回したり、押しつけたりしなくても、来談者自らが気づき、成長していくことができる」ということです。
人間は、成長・自律・独立等に向かう「実現傾向」を持つと考えます。カウンセラーは、自らの体験・意識・表現が一致していること、来談者に無条件の肯定的な関心を持つこと、共感的に理解することを大事にします。
(「来談者中心療法・カウンセリング」日本臨床心理士会のサイト)
ペップの指導もこの考え方に立っているというのが、この人の解説。
「カウンセラーの賢明さや知識」というのが、所謂"メソッド"にあたる部分。ある特定のそれを押しつけるのではなく、ペップがペップとしてチームや選手に向き合う/立ち会うことによって、対象が自ら気付き、"実現傾向"を現していくのに任せるのが、ペップの方法だと。
程度問題は分かりませんが、実際にペップがこの理論を学んで参考にしているのは、確かなようですね、この本によると。それにしても具体的な監督業をイメージすると、さすがに綺麗事な印象は否めませんが。
ただ僕自身も、「ペップには戦術が無い」ということは言いました。
それはつまり、原則は提供するけれど「こうしろ」とは言わない(のではないか)ということ。"絵"に向けて集約させることも無い。その原則を踏まえた上で、でも具体的には"クライエントセンタード"に、個々の選手やチームがその内側から「実現」させて行くものに任せている、それを管理・微調整するのがペップの仕事(の仕方)なのではないか、と、今回の話と合わせるとまとめられないことはないかなと。
もっと言うと、ペップの「願い」は確かに個々の"発露"そのものであって、「組織」というのはあくまでそれを助けるもの、決して"完璧な組織"を作るようなタイプの監督的エゴをモチベーションとはしていない、それは本当に思います。
100%フリーで出来るなら、本当にやらせるんじゃないでしょうか。そういう意味では、「教育者」なんでしょうね本質は。「カウンセラー」でもいいですけど。(笑)
こんなところです。
結構な量になりましたね。(笑)
もう一冊読んだんですが、それはまた今度に。