2017年12月30日 (土) | 編集 |
(中間感想)はこちら。
『宝石の国』
何もかも素晴らしかったと思いますけど、僕的に最初から最後まで変わらず一番衝撃力があったのは、主役のフォスフォフィライト


役の・・・演技ですね。
あの総じて少し能天気なくらいに伸び伸びとした演技をする"宝石"たちのなかでも、ひときわ安定して(更にそこからも)はみ出しまくる調子っぱずれな、調子っぱずれではあるけれど自然でもある独特な演技は、どこから来るものなのか。
声優の個性なのか、監督の狙いなのか、それとも原作

の延長上に自然に発生する演技スタイルなのか。
とにかくただでさえ素晴らしい、独創的で美麗で残酷なくらいに率直で洞察的なこの傑作を、更に"特別"なものに感じさせていたのが、あの演技でした。もっと普通でも"成り立つ"とは思うんですけど、あれがあることによってより積極的に、"破綻"の危険すら感じさせるほど(笑)積極的に、こちらの心を揺さぶる作品になっていたと思います。
・・・何かこう、ほとんど「物理」的に揺さぶられているような感覚がありました。声自体が気持ちがいいというか。いやあ、凄かった。
とりあえず非常に、「主役」的な演技ではあると思いますね。
「主役」だけに許されるタイプの、逸脱というか。
以前取り上げた、小見川千明さんによる『ソウルイーター』の"マカ"役(『棒読みロックンロール』)


の場合は、声優さんがそもそもこうしか出来ない、"下手"なのをあえて活かしたというそういう構造だったわけですが、今回の場合はもっと積極的な"あえて"、他の形もあり得たのに演出としてああ演技させているという感じが濃厚なのでね。どこから来た発想なんだろうと、見るたびに唸ってました。(笑)
原作読むかあ。でもアニメはアニメとして見たいんだよなあ。続きあるのかなあ。
『魔法使いの嫁』
これも何か、変わった作品でした。
大きく言えば、最近増えて来たというか"明るみ"に出て来ることの多くなった、女性用の萌えアニメ(漫画)なわけですが(男性用のが溢れ返っているのは言うまでもないです)、ただそういうストーリーで用いられる様々な"胸キュン"シチュエーション・パターンが、単に羅列されているわけでは全くなく、それを巧妙に使いながら/自らの欲求を満たしながら(笑)、しかし人と人との関係性や絆というものを、かなり根源的に追究した作品にもなっているという。
紛れもない"純愛"ストーリーではあると思うんですけど、同時にそれら全てが"擬装"であるようにも見える、擬装と言って悪ければ「方便」、「方便としての恋愛」。
萌えと哲学と、どっちが"主"なのか本当によく分からないというか、多分同時にどちらも"主"なんだろうとは思うんですけど。
そういう二重性を例えば『まどマギ』のように"練りに練った"感じではなくてさらっとやってる、ほとんど感覚だけでやっている感じが、面白いなあと思います。
テーマは「信じる」ということ。主題は「恋愛」。動機は「萌え」。みたいな作品。(笑)
ブラックドッグ君の、「"エリアスを愛しているちせ"を俺は愛する」とさらっと言ってそれ以上気にしない感じ好きですね。"犬"らしいと言えば犬らしいですけど。(笑)
その他。
『キノの旅』
特に追加で語ることはないですが、最後まで本当に納得感に満ち溢れた、アダルトな作品でした。
ほんと、外さない。"感情"を煽りつつ、必ずそれをきっちり回収して見せる。
リメイクらしいですが若いファンはどう思うんでしょうこういうの。少し淡々とし過ぎと感じるとか?
『少女終末旅行』
最後の最後に、設定が明かされましたね。
ただなんか、割りと色んな"装置"をつまみ食いしている感じの印象で、要は「二人」のシチュエーション、"絵"を描きたかっただけという感じもします。またはそう"見せて"、リアルな追求を回避しているか。
『Dies irae(ディエス・イレ)』
あんまり熱中はしませんでしたが、面白いは面白いと思います。
"熱中"出来るシチュエーション(それこそ「ゲームとしてプレイしている」とか)でなら、この世界観はハマるんだろうなというのは、想像出来ました。
『クジラの子らは砂上に歌う』
"泥クジラ"というイメージの独創性や喚起力からすると、どうにもドラマ部分が平凡な印象というか違和感が、最後まで拭えなかったですね。泥クジラ出オチというか。(笑)
正に「宝石」"ならでは"の世界が、期待通りに展開されていた『宝石の国』などと比べると。
「"泥クジラ"の設定」と、「"超能力"や"感情"をめぐるディストピア展開」が、同じ人の脳みそから出て来た感じがしないというか、少なくとも別々に構想されたものなのではないかという感じがどうしてもするんですが、特に根拠はありません。
例えば"泥クジラ"のようなものを、昔のアニメでたまたま見たとか。
以上です。
よいお年を。
『宝石の国』
何もかも素晴らしかったと思いますけど、僕的に最初から最後まで変わらず一番衝撃力があったのは、主役のフォスフォフィライト


役の・・・演技ですね。
あの総じて少し能天気なくらいに伸び伸びとした演技をする"宝石"たちのなかでも、ひときわ安定して(更にそこからも)はみ出しまくる調子っぱずれな、調子っぱずれではあるけれど自然でもある独特な演技は、どこから来るものなのか。
声優の個性なのか、監督の狙いなのか、それとも原作
の延長上に自然に発生する演技スタイルなのか。
とにかくただでさえ素晴らしい、独創的で美麗で残酷なくらいに率直で洞察的なこの傑作を、更に"特別"なものに感じさせていたのが、あの演技でした。もっと普通でも"成り立つ"とは思うんですけど、あれがあることによってより積極的に、"破綻"の危険すら感じさせるほど(笑)積極的に、こちらの心を揺さぶる作品になっていたと思います。
・・・何かこう、ほとんど「物理」的に揺さぶられているような感覚がありました。声自体が気持ちがいいというか。いやあ、凄かった。
とりあえず非常に、「主役」的な演技ではあると思いますね。
「主役」だけに許されるタイプの、逸脱というか。
以前取り上げた、小見川千明さんによる『ソウルイーター』の"マカ"役(『棒読みロックンロール』)


の場合は、声優さんがそもそもこうしか出来ない、"下手"なのをあえて活かしたというそういう構造だったわけですが、今回の場合はもっと積極的な"あえて"、他の形もあり得たのに演出としてああ演技させているという感じが濃厚なのでね。どこから来た発想なんだろうと、見るたびに唸ってました。(笑)
原作読むかあ。でもアニメはアニメとして見たいんだよなあ。続きあるのかなあ。
『魔法使いの嫁』
これも何か、変わった作品でした。
大きく言えば、最近増えて来たというか"明るみ"に出て来ることの多くなった、女性用の萌えアニメ(漫画)なわけですが(男性用のが溢れ返っているのは言うまでもないです)、ただそういうストーリーで用いられる様々な"胸キュン"シチュエーション・パターンが、単に羅列されているわけでは全くなく、それを巧妙に使いながら/自らの欲求を満たしながら(笑)、しかし人と人との関係性や絆というものを、かなり根源的に追究した作品にもなっているという。
紛れもない"純愛"ストーリーではあると思うんですけど、同時にそれら全てが"擬装"であるようにも見える、擬装と言って悪ければ「方便」、「方便としての恋愛」。
萌えと哲学と、どっちが"主"なのか本当によく分からないというか、多分同時にどちらも"主"なんだろうとは思うんですけど。
そういう二重性を例えば『まどマギ』のように"練りに練った"感じではなくてさらっとやってる、ほとんど感覚だけでやっている感じが、面白いなあと思います。
テーマは「信じる」ということ。主題は「恋愛」。動機は「萌え」。みたいな作品。(笑)
ブラックドッグ君の、「"エリアスを愛しているちせ"を俺は愛する」とさらっと言ってそれ以上気にしない感じ好きですね。"犬"らしいと言えば犬らしいですけど。(笑)
その他。
『キノの旅』
特に追加で語ることはないですが、最後まで本当に納得感に満ち溢れた、アダルトな作品でした。
ほんと、外さない。"感情"を煽りつつ、必ずそれをきっちり回収して見せる。
リメイクらしいですが若いファンはどう思うんでしょうこういうの。少し淡々とし過ぎと感じるとか?
『少女終末旅行』
最後の最後に、設定が明かされましたね。
ただなんか、割りと色んな"装置"をつまみ食いしている感じの印象で、要は「二人」のシチュエーション、"絵"を描きたかっただけという感じもします。またはそう"見せて"、リアルな追求を回避しているか。
『Dies irae(ディエス・イレ)』
あんまり熱中はしませんでしたが、面白いは面白いと思います。
"熱中"出来るシチュエーション(それこそ「ゲームとしてプレイしている」とか)でなら、この世界観はハマるんだろうなというのは、想像出来ました。
『クジラの子らは砂上に歌う』
"泥クジラ"というイメージの独創性や喚起力からすると、どうにもドラマ部分が平凡な印象というか違和感が、最後まで拭えなかったですね。泥クジラ出オチというか。(笑)
正に「宝石」"ならでは"の世界が、期待通りに展開されていた『宝石の国』などと比べると。
「"泥クジラ"の設定」と、「"超能力"や"感情"をめぐるディストピア展開」が、同じ人の脳みそから出て来た感じがしないというか、少なくとも別々に構想されたものなのではないかという感じがどうしてもするんですが、特に根拠はありません。
例えば"泥クジラ"のようなものを、昔のアニメでたまたま見たとか。
以上です。
よいお年を。
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