
加部究『日本サッカー「戦記」』 2018.2..9
加部究さんの日本サッカーの歴史本読んでて驚いたのが、2006年北京五輪本番前に参加したトゥーロン国際で、各国の監督がMVPを投票するのに、当時チリを率いていたビエルサが書いた選手が森重だったこと。
— ぶんた (@s_bunta) 2018年4月11日
これを読んですぐ探してAmazonで買った本。
やけに高い(ていうか定価)と思ったら2月に出たばっかりの本だったんですね、知ってたら実店舗で買ったのに。(笑)
本自体は60年代から始まっていますが、とりあえず僕も体験している90年代から読み始めました。
一応いつもの通り面白かったところを抜粋はしてみますが、普通にそれぞれが買って読んだ方がいいと思います。日本サッカーに興味がある人なら、全く損は無い本だと思います。"戦術"・・・とかはまあともかくとして。
"ドーハの悲劇"
p.238
イラクがカウンターに出る。CKを取った。しかし何も問題はないはずだった。主審も近づいて来て、『これで終わる』と[ラモスに]囁いたのだ。
そんな"コミュニケーション"が。(笑)
これってOKなんですかね、意外と普通なんですかね。(笑)
この本では繰り返し、ドーハでイラク代表に対して不利なジャッジングがなされたことが書かれていますが、まだ僕もナイーブだったので(笑)特に覚えていません。
あの"ショートコーナー"に関しては後に蹴った方だか決めた方だったかが来日して、「残り時間を知らなかったからやっただけで、知っていたらやらなかった」と証言して我々の衝撃を新たにしてくれましたね。(笑)
電光掲示板の(不備の)馬鹿野郎。
「讀賣」と「日産」 ~なぜ讀賣は日産に勝てなくなったか
p.240-241
「僕がいなくなってからですよ」
ひとつのヒントを提示してくれたのが小見幸隆である。
「確かに・・・・・・、汚いヤツがいなくなった」
(中略)
とりわけ小見は、日産の攻撃を操る木村和司に絶対の自信を持っていた。
"潰し役"小見幸隆の不在、引退。('85)
対して日産はというと。
p.242
「オスカーは、いわゆる1-0の美学を持っていました。(中略)押し込まれてもGK松永(成立)さんを中心に踏ん張り、逆に攻撃にはあまり人数をかけなくなりました。」
元ブラジル代表キャプテンのオスカーが加入して('87)、リアリズム、勝者のメンタリティを植え付けた。
それまでの"加茂日産"は、木村・水沼・金田らの大学出のスター選手たちが奔放に個人技を発揮して、それを「親分」加茂監督が見守るだけの、基本的にはそういうチームだったと別の本で読んだ記憶があります。
実に対照的な変化、大きな分かれ目。
もう少し"サッカー"的な面。
p.241
「ジョージ(与那城)が引退したことで、読売のパスの出し手がラモス(瑠偉)一枚に減った。」
「ジョージは(中略)長短のパスが自在で、自分でドリブル突破もできる。(中略)
でもラモスは、5~10mのパスは抜群でも、30mのパスはない。気持ちよく持たせておいても、最後はワンツーに絶対に飛び込まず、3人目の飛び込みをケアしておけば良かった」
証言者は清水秀彦。なるほどねえ。
なぜラモス中心でメロメロだったJ初年度のヴェルディが、ビスマルクの加入で2ndステージで復活したのかが、非常によく分かる記述ですね。
単純にパスの出所が増えたのに加えて、細かいだけのラモスに対してシンプルで剛直なプレーも出来るビスマルクが、言わば「ジョージ与那城の穴」を埋めたということ。
現象としては理解していましたが、ジョージさんがそういうタイプの選手だとは知らなかったので、改めて大納得しました。
上の"リアリズム"の話と合わせると、要は日本リーグ末期~J草創期のヴェルディ(讀賣クラブ)が、いかに「自分たちのサッカー」に陥っていたのかがよく分かります。
なぜ僕があのチームを嫌いだったのか、更に言うとラモスのプレーを余り評価出来なかったのか。
はっきり言えば、ラモスに任せるとそうなっちゃうと思います。いい選手ではあるけれど、功罪常に相半ば、それが「ヴェルディにおけるラモス瑠偉」と、「日本代表における本田圭佑」ということで。構造的にはよく似ていますね。
ちなみに代表でのラモスは、オフトはぎりぎりまでラモスの比重を相対化しようと努力して成功(最後の最後は結構丸投げしましたが(笑))し、加茂監督はお情け的な起用ではありましたが試しにラモスのチームを作ってみて、てんで駄目ですぐにやめてましたね。
更に言えば、ザッケローニとの間で主導権に混乱をもたらした本田と、(最終年の)ネルシーニョの指揮権に口出しして方針を曖昧にして、結局は追い出した(と僕は認識しています)ラモスと。その後ハリルホジッチには本田の方が追いやられ、レオンに対してはラモスが先手を打って逃走と、そういうコントラスト。(笑)
いや、面白かった。(笑)
ジェフと城彰二
p.247
ジェフの対応は、あまりに素っ気なかった。
「ジェフは獲る気など、さらさらないという姿勢だった。予算も決まっているし、他に行った方がいいんじゃない?とまで言われました」
高校ナンバーワンストライカーで、ルーキー年に結果的にデビューから4試合連続ゴールの活躍を見せた城彰二のジェフ(市原)入団の経緯。
あれはあくまで「あえて弱小チームで出場機会を」という城自身の意思による選択で、他チームが1500万を提示して来たのを蹴って500万のジェフを選んだという、あっぱれな話。
結果的には大成功でしたね。リアルタイムで僕自身も、何でジェフになんか(ごめん(笑))行ったんだろうという思いと、それにしてもハマった選択だよなという思いを同時に抱いていた記憶がありますが。
p.259
当時サテライトの監督を務めていた岡田武史が週末以外は泊まり込み、食事や休養などピッチ外の部分にも目を光らせた。
ああ、ここで既に岡田さんとの接点が。
それもあって、「カズを外してまで城」という、あの"決断"があったんでしょうね。
悲運の怪物岩本輝雄
p.264
「ジーコからは2度もオファーをもらいました」(岩本)
p.265
「左SBの都並(敏史)さんが故障をした。そこで同時日本代表のハンス・オフト監督が僕の試合を見に来て『どうだ』と声をかけられたんです。」
まだベルマーレ(フジタ)がJリーグにも上がっていなかった時代の話。
オフトに声をかけられたというのは、実際に江尻篤彦のようなほとんど守備の出来ない選手を"都並の代わり"として選んでいたオフトの志向からすると、ある程度は分かる話。あのチームに岩本テルが入るというのは、なかなかの違和感ですけど。(笑)
ジーコというのは初耳でした。確かに"ブラジル伝統の超攻撃的左SB"という類型はあるわけですが、しかし草創期鹿島(住友金属)のチームカラーからすると、マジかよというところもあります。"ジーコジャパン"ならともかく。(笑)
ちなみに子供の頃に讀賣クラブとの接点もあって、だから後に李国秀のチームにもちょっとだけ(笑)呼ばれたのかあと。
p.274
「ブラジルというと、ボールを使うイメージかもしれないですが、物凄くフィジカルをやる。昼間1000m走や10分間走が3~4本入り、その後に1時間半ゲームというか」(岩本)
こちらはファルカンジャパン裏話。
ファルカンジャパンが"個人の育成"(&伸びしろ)を極端に重視していたのは周知のことだと思いますが、それがフィジカル面にまでここまで及んでいたというのは、驚きというか再認識というか。(お試し起用の)自分の立場分かってたのかなファルカン。分かっていたとすれば、逆に凄いいい人だなという。(笑)
p.278
しかし解任されたファルカン以上に深い傷を負ったのは、左サイドを担った若い2人のタレントだったかもしれない。
岩本テルを"抜擢"するのは素材的に当然だと思いますが、いきなり10番背負わせてゲームメーカーを、それもサイドバックとして招集しておきながらなし崩し的にというのは、余りに配慮が無かったと思います。"素直な期待"と言えば素直な期待なんですけど。
そしてオフトが見出してFWからコンバートしたばかりの、同じく左サイドバックの"エンマサ"こと遠藤昌浩(雅大)。オフトとファルカンに評価されただけあって、素材的には後のトゥーリオあたりとも比べたいくらいの超弩級のものではなかったかと、僕は思っています。大きくて柔らかくて、左足の技術があって、かつその大きな体を素軽く使える運動能力。後の理屈っぽい解説(笑)を聴いても、頭も悪くなかっただろうと思いますし。結果左ではまだ使い物にならなくて、その後はCBやもう一度FWとして使われたりもしていましたが、気持ちは分かるけれど「まずクラブでやれ!」という感じでした。
勿体ない素材でした。本人は責められないです。岩本テルはまあ、多分あんなもんだったと思いますけど。どう使っても。子供過ぎてね。
ベンゲルグランパス
p.280
早速今時[靖]は、名古屋にヴェンゲルの招聘を提案した。だが返答は「他に候補がいるから」と素っ気なかった。
実は名古屋は既にフース・ヒディンクとコンタクトを取り、本人の来日も決まり十分な手応えを得ていた。
ぎょええ。すげえ時代だ。(笑)
多分名古屋フロントは、あんまりその価値を分かっていなかったろうと思いますが。(笑)
ちなみに結局ヒディンクはオランダ代表の方に取られてしまって、仕方なくベンゲルに。(笑)
p.282
「ミーティングの際に『みんなに謝れ!』と[ベンゲルは]怒鳴りつけました。ピクシーは小さな声で汚い言葉を吐きながら、渋々謝りましたよ」(森山)
カードをもらいまくるピクシーへのベンゲルの癇癪。
shit!fuck!sorry!と応えるピクシー。(笑)
p.285
「自分でも、やばい、と思ったんですが、もう間髪を入れずに交代でした。戻ってきたら物凄い形相で言われました。『I kill you』って」
こちらは小倉の軽いプレーに対するベンゲルの容赦ない一言。(笑)
昔から案外"面白い"人だったんですね、ベンゲルって。
加茂周という人
p.305
「戦術は大会に入る前に必死に考える。始まったらもう最後まで戦い方を変えません。」
「人の持つ運というのは大切にしなければならないと思います。だからチーム作りの過程で選手を勧誘する時も、(中略)高校や大学で日本一を経験してきている選手を考えてきた。」
加茂周談。
この人について僕が特異に印象に残っているのは、その独特の"不動さ"というか"取り付く島の無さ"というか、そういう部分。
サイド攻撃とショートカウンターで当時の日本代表の構成力不足を補った、そこまではいいんですけど一方で「中央突破」の捨て方が余りに徹底していて、少しでも中央で"細工"をしようとする前園はもとより藤田俊哉の創造性も早期にあっさり捨ててしまったし、"ポストプレー"すら「取られると危険だ」とやらせなかった。では「引かれた時はどうするんですか」という問いには"高木琢也の頭"(に放り込み)という身も蓋も無い答えで、実際実戦でもそうした。単に"頑固"という以上の極端なのれんに腕押し感で、なんなんだろうと感心と違和感を同時に感じていました。
あるいはある時の解説で実況に「ゾーンプレスの完成には何が必要ですか」と問われた答えが、「世界で最高の11人を揃えること」。ボケ混じりかと思ったら完全なマジレスで、アナウンサーもしばし言葉の接ぎ穂に困っていました。(笑)
そりゃそうだろうけども・・・。(笑)
ある意味トルシエ以上にハリルホジッチに似ていたのは、この人かも知れませんね。(笑)
で、今回の二つの記述に感じたのは、ある種"運命論"に近い、独特の"割り切り"方。"工夫"とか"抵抗"とか、そういうのをまとめて気休めと切り捨てて、何か"幹"だけでやっていたような人だったんだろうなという。
あーあー、川の流れのように。(?)
"キャプテン"柱谷哲二
p.353
誰かが全員の意思統一をさせなければいけないんです。(中略)
取り敢えずリーダーが[例えば]引いて守らせる。それからワンプレー、ツープレー終わった後に、監督が引かないでプレスをかけろと言うなら、それでいいんですよ。とにかく間違ってもいいから同じ方向を向かせる。それが大切です。
柱谷哲二が考える、"キャプテンの仕事"。
大いに納得。
「誰か」がということ、監督の意向と違っていても「いい」、「間違っていても」いいという割り切り、これがある種神髄かなと。
関連して僕がずーっと日本のスポーツ界でサッカーに限らず腹に据えかねているのが、"キャプテン"に指名された選手が余りにも簡単に「自分は(声で)引っ張るタイプではないから」と言ってしまうこと。いや、引っ張れよ。声出せよ。その為のキャプテンだろうが。"プレーで引っ張る"タイプがいてもいいけど、それはあくまで例外だろ。当たり前のように言うな。
こういう発言が出る背景には、"どう(orどっちに)引っ張っていいのか分からない"という不安というか日本人らしい生真面目さ(笑)があるんだろうと思いますが、「別に間違っててもいい、とにかくその場をまとめればいいんだ」というこの柱谷"キャプテン"の金言は、役に立つかなと。
p.356
僕がトルシエを一番評価するのは、そこです。眠っていたものを呼び起こす能力。小突いてでも叩いてでも走らせるみたいな。
その"キャプテン"柱谷が評価するトルシエのポイント。
"モチベーター"としてのトルシエ。意外というか、納得というか。
まあ上と合わせると、キャプテンだけではなく"監督"についても、要は方向性なんてどっちでもいいから、とにかく「まとめ」て「頑張らせ」るのが、一番の仕事だと、そういうことかも知れませんね。
その為に(その)「戦術」が役に立つなら使えばいいし、立たないなら使うべきでない。
(別にそう言っているわけではありませんが。(笑))
次回は「2000年代」の予定です。
冒頭に紹介した"北京五輪直前トゥーロン"の話もそちらで。(笑)
ファルカンの左サイドについてですが、1994年のJリーグのサイドバック事情を調べたことがあって(何のためかというと、"オフトジャパンがワールドカップ本戦に出場していたらどんなメンバーになっていたか"という益体もない妄想のため……)思ったんですが、この時って本当に左サイドバックがいないんですよね。都並(と、たしか勝矢も)はケガで使えないし、サントリーシリーズに限って言うと相馬も中西も中村忠もレギュラーじゃない。アトランタ組(服部、路木、菊池利)はまだ完全に控え。Jリーグでレギュラー張ってて、なんとか代表で試される可能性があったかな、と思える人材が、マリノスの鈴木正治と広島の片野坂知宏くらいしかいない、という……。
なので、半端な本職を呼ぶくらいならエンマサ、岩本テル、というのは、誰が監督でもそうなるとまでは言えないにしろ、ことさらにアグレッシブな選択ではなくて、当時においてはある種必然的に行き着かざるをない答えだったのかな、という気がしています。
長文失礼しました。
"左サイド不足"自体はご存知の通りオフトの時からの問題で、都並がこけたら皆こけた、江尻を呼んだり、それからこの本では岩本テルにも早くも声をかけていたという話が載っていますが、なまじ都並の攻撃力が貴重だっただけに"夢"を見て迷走して、諦めて勝矢で手堅く落ち着くまでに随分遠回りをしましたよね。
ファルカン時代になってからは、僕は普通の監督なら片野坂が第一候補だったのではないかと思っているんですが、ほとんど顧みられた様子もなく岩本テル、エンマサにいきなり行っている。で、左サイドの人材不足はおっしゃる通りなんですが、右サイドのメインも攻撃的MFからのコンバート組のガンバの今藤なんですよね。そっちもそっちで十分に危なっかしくて(笑)、この両方一緒に冒険しちゃってるところがファルカンがファルカンたる所以というか、批判されたポイントだったと思います。
ただファルカンは他にも浦和でもろくに出ていない長身FW佐藤慶明をいきなり代表に呼んだり、沢登をボランチで使ったり、要するに人材が現状"不足"しているかいないかは特に気にせずに、とにかく最高到達点の高い、スペックor素質最優先の"育成"的な選手選択をしていたということだと思います。「半端な本職」を呼ぶ気が無かったのは確かでしょうけど、それは"本職"の現在の実力不足というよりは、将来性不足の方が理由かと。(ブラジルor世界基準での)
要は「全ポジションアグレッシブ」(笑)で、その中で特に疎漏が目立ったのが左サイドバックという、そういう絵かなと。発想としては夢がありましたけど、さすがにやり過ぎというかこれでは伸びる選手も逆に落ち着いて伸びられないだろうと、そう思いながら見ていたものでした。