前に取り上げた本の、こぼれネタ集みたいな。
ミケル・アンジェル ビオラン 『グアルディオラ・メソッド―勝利に導くための61の法則』
p.105
「まったくそれはありません。これまでになく絶好調です。未公開の練習を見学してもらいたいくらいです。これまでにないエネルギーがチームに充満しています。SFのようなプレーを練習していますからね。」(シャビ)
'09.5月ということですからバルサの初年度、三冠達成した08/09シーズンの最後の方。
取るもの取って、一年間のハードスケジュールをこなして、さすがにそろそろモチベーションの維持に苦労する頃ではないかと問われてのシャビの言葉。
よく思うんですけど、"戦術"というのは何の為にあるのかというと、勿論直接的には勝つ為敵を欺く為翻弄する為にあるわけですけど、ある意味それ以上に味方の「モチベーションを掻き立てる」高める為、その為の"ツール"としてあるという面があると思うんですよね。簡単に言うと、"好奇心"ということですけど。知的刺激。その為には「何かある」ということが大事なのであって、それが何かということは二の次とは言いませんけどある意味別の問題。現実に選手がやる気になっていればそれでいいというところがありますし、逆にやる気になっていなければかえってモチベーションを低下させていたりすれば、それがどんなに"トップモード"だろうと"合理的"だろうと、それは"機能"していない戦術ということになる。敵と対する前の段階でね。
監督の仕事自体、要するに選手を"結果"としてやる気にさせてまとめ上げて全力を尽くさせることが仕事だと言えるわけで、「戦術」というのもその手段の"一つ"、他の方法の方が得意な人もいればあるいは少なからず重視はしていても仕事上の配合自体は色々であり得る。
ただ毎日毎日毎年毎年(笑)仕事としてサッカーをやっているプロ選手の場合は、ただやらせたって飽きる流すという方向にはどうしても行き易いわけで、既に生活なんかみんなかかっている以上"好奇心"というのはかなり重要な"モチベーション"で、そういう意味ではやはり戦術は大事だとは言えると思います。"何か"あるということが。・・・見てる方もね。書く方もというか。(笑)
アレックス・マルティン『大切なことはみんなピッチで教わった』
p.169
グアルディオラにとって、その場所とはカンプ・ノウの地下にある、窓のない小さなオフィスだった。なかばグアルディオラの"私室"と化した、その絨毯とランプのほかには飾りもない部屋で、彼は対戦相手のDVDを観ながら、相手の強みと弱点をひたすらメモしていく。
「すると魔法の時間が訪れて、『これだ、明日はこれで勝てる!』とひらめくものだ」
ひらめくのか。ほんとかしら。こんな行き当たりばったり?(笑)
本自体多少情緒的で怪しい内容も多いものなので、どこまで真に受けていいものやらというところはありますが、ここまでドラマチックではなくても、何らかこういう場所こういう風景はあったんでしょうね。
一応「」で括られていますし(笑)。そんなようなことを言ったは言ったんでしょうね、ペップが。
p.179
イギリスのチェルシーFCのフランク・ランパードは、ずば抜けた頭脳に恵まれている。(中略)
ある日のトレーニングのこと、選手たちを対象に知能テストを実施する、とチェルシー専属のドクターが言いだした。(中略)
ドクターを大いに驚かせたのは、ランパードの知能指数だった。なんと天才物理学者のアインシュタインと同じ160だったのである!
ああ、なんか分かります。
当時余りプレミアを見ていなかったのもあって、正直チェルシー時代のランパードには、「パワフルに守ってパワフルにシュートを打つ」という、いかにも"イングランド人"らしい選手という以上の印象はありませんでした。それが晩年、NYCに移籍する前の腰掛けでマンチェスターシティに来た時に、その万能なテクニックと柔軟なポジション適性や気の利きまくったプレーに、「こんなにサッカーの上手い選手だったのか」とびっくりして、いっぺんにファンになりました。
いやあほんと、もう少し見ていたかったですし、もっと言うと例えばもう2,3歳若くてタイミングが合えば、それこそ"グアルディオラ"下でも問題なくプレー出来たのではないかと、そういう詮無いことを考えたりもします。グアルディオラの下でプレーする、"進化"したランパードを見てみたかったと。今のフェルナンジーニョの地位を奪っていた・・・かまでは何とも言えませんが、少なくともギュンドアンなんかに頼る羽目には、ならなかったのではないかと。(笑)
全く意味の無い想定ですけど。ただただ、見てみたかったなあと。
いっそ"パワー寄りのデブライネ"とか。褒め過ぎ?(笑)

加部究『日本サッカー「戦記」』 2018.2..9
p.118-119
古沼はいきなり試合前日にフォーメーションの変更を告げる。
それまではセンターフォワードの早稲田を軸に、両翼にウィンガーを配す4-3-3で戦って来たが、この試合は2トップで臨むというのだ。選手たちは面喰った。
「おい、2トップって、なんだ?」
1977年の、帝京高校サッカー部の風景。そんなもんかね。(笑)
今だとより"ナチュラル"に日本人がプレー出来るのは2トップの方で、3トップの方がより高度で戦術的、戦術理解が必要と、そういうイメージだろうと思いますが。
ただその更に"一周"前だと、"センターフォワード"と"ウィング"の「役割分担」の方が簡単で"自然"で、4-3-3が最もポピュラーなフォーメーションだったらしいことが、この本でも随所に出て来ます。
多分"2トップ"が可能になる、言い換えると"2トップのコンビネーションで崩す"というようなことが可能になるには、一人一人の日本人選手の"一芸"に留まらない総合的な技術及びサッカーアイの向上が必要だったと、そういうことでしょうね。
ちなみに"2CB"については、実は未だに"2トップ"並みの成熟は日本人は達成していないのではないか、マークとカバーの3バック的な分業を4バックでも誤魔化し誤魔化しやっているだけなのではないかと、そういう印象が僕にはあります。
p.205
石井(義信)はライバル中国が強力な2トップを用意して来ることを想定し、3バックの導入を決断した。
「最終ラインで1人余らせるという発想ではなく、守備で余裕を作りたかった。でも当時の私にとって3バックは未知のものでした。そこでマツダの監督を務めるハンス・オフトに、どういう概念でどういうシステムなのかを聞きに行った。」
p.206
選手たちには4バックから3バックと、新しいフォーメーションに変わったという意識は希薄だったようだ。例えば、堀池も「まったく攻撃には出ていかない右SB」のイメージで、相手のエース格をマンマークすることに専念していた。
"フォーメーション"問題続き。
こちらは1987年、ソウル五輪アジア一次予選での風景。監督は当時"気鋭"の石井義信監督。先頃お亡くなりになられましたね。
どういう意味でしょうね。一人余らせるわけではないけれど守備に余裕を持たせる3バックって。3人で交互に2トップを見るということ?
オフトにわさわざ聴きに行ったということは"システム"としての3バックをちゃんとやろうという気はあったわけでしょうね。ただ選手(堀池)にはその意図はあんまり伝わっていなくて単なる4バック+1というか、形としては多分そこまで"5バック"ではなかったのではないかと想像しますが、発想は完全に5バックというか。
・・・でも(エースの)"マーク"と言っていますね。3バックでサイドの一人がエースのマークというと、アトランタ最終予選の白井博幸とか思い出しますが。
あれも今思うと、どういう並びなのかイメージしづらい。当時はそこまで気にして見てませんでしたけど。
p.132
「ニッポン!チャ、チャ、チャ」(中略)
1979年、当時の日本には、まだ観客がスポーツの会場で声を揃えて応援する習慣がなかった。その3年前のモントリオール五輪で女子が金メダルを獲得し、球技では最も世界に近い実力を誇ったバレーボールの関係者たちが、この光景を見て羨んだ。
若きマラドーナが来日したことで有名な、1979の東京開催ワールドユースの風景。
へええ。
それで"見習った"成果が、現在のほとんど"マスゲーム"的な、バレーの国際試合の集団応援なのか。(笑)
まさかサッカーが先とは。
p.134
平均点の選手は見当たらず、明らかな特長を持つ個性派集団だった。監督の松本が解説する。
「私たちの時代は、高校でサッカーを始めて10年後に五輪で戦った。そのためには並外れた運動能力が必要だったわけです。むしろサッカーしかしてこなかったという選手はいなかった。」
同じく東京ワールドユースの、日本代表(候補)選手たちの話。
"岡野"みたいなのがいっぱいいたということですかね。(笑)
でもなんだかんだ、岡野を越える"スピード"選手は、未だにいないですもんね。
p.178
当時(日産の)主将の清水が述懐する。
「実は(木村)和司は足が速いんです。ウィンガーをしていたので、ドリブルも上手くて相手を抜き切るテクニックがある」
関連して。
"育成"が充実していないからこそ、「代表」まで行くような選手は本当に化け物揃いだったみたいな話。
それにしても和司さん俊足情報は初です。(笑)
どうしても晩年の"おじいちゃん"のイメージしか無いですけど。(笑)
"運動量"はプレースタイルの問題もあるにしても、"スピード"ねえ、意外。
ヒデも俊輔も、ウィングなんて出来ませんもんね。凄いじゃん。
p.145
この日本の若い世代のテクニックを見て、韓国は危機感を抱いた。実際後に都並は韓国の関係者たちからも、裏話を聞いている。
「だからこそ韓国は日本に追いつかれないように先手を打った。それがプロリーグの創設だったそうです」
こちらは何かというと、1982年スペインワールドカップの予選の話です。
"若い世代"とは具体的に、都並敏史、風間八宏、金田喜稔、戸塚哲也、木村和司などのこと。
このエピソードは何というか、"日本人選手のテクニック捨てたもんじゃない"案件というよりも、"韓国のサッカーに対する真面目さ日本よりもだいぶ先を行っていた"案件とすべきかなと。
プロリーグ作っちゃうかね、その程度の"気配"で。
p.224
だが鮮明に覚えているのは、アマチュア時代でもユニフォームやスパイクなどの質では、日本が王国ブラジルを凌いでいたことだった。(中略)
「それがなんだか恥ずかしかったですね」(名取)
1989年、ひょんなことで実現した日本代表の南米遠征の時の話。
"名取"というのは、元浦和の名取篤。
まだアディダスとかじゃないですよね、多分。(笑)
日本代表に金があったわけはないから、日本の国産メーカーが優秀だったということなのか、それともブラジル・南米の方の環境がまだまだだったということなのか。
"恥ずかしい"という気持ちは、なんか分かります。(笑)
以上です。
これで一応、『日本サッカー「戦記」』も、60年代から全年代についてレポしたことにはなります。
今回取り上げませんでしたが、讀賣クラブにドイツ人監督グーテンドルフが来た時の摩擦と葛藤の話とかも面白かったですし、ほんとおすすめですねこの本は。
日産あたりも含めて、結局Jリーグ以前はほとんどの日本人チームが3トップだったんだなあというのが分かったというのが、ある意味今回一番の収穫でした。
当時を語るときに韓国は日本の最大の壁みたいな書かれ方してて、日本側からしたら実際そうだったんだろうとは思うんですが、韓国は韓国でメキシコW杯まで30年以上W杯出場できてなかったことを考えると、もともと危機感はあったのかなと。
リップサービスとして言った……と考えると都並さんが切ないので、まあ、最後の一押しとして日本の台頭(っぽい何か)でそう言ったとかも考えられそうです。
>Jリーグ以前
メキシコ五輪とメキシコW杯予選はまあ別として、バイエルン呼んだりペレ呼んでみたり意外と企画はあったんだなあと驚きましたね。あとその企画で何万単位で人が集まるんだと。
当時の事情は単純に僕も知らないんですけど、韓国が直接的に"脅威"とまで感じたとはあんまり想像しづらいんですが、逆に実力差があった「(東)アジアの王者」としての本気のプライドがあったのならば、日本ごときでも侮らずに些細な"逆転"の気配を重く見たと、そういうことはありそうだなあと思いました。
>協会の企画
昨今の"代表人気"の話とかもそうかも知れませんが、当時はともかく今でも「代表戦のチケット収入」が大きな比重を占めているらしい収益体質が、ひょっとしたら問題なのかも知れませんね。他の国と比べてどうなのかは、分からないですけど。