ヴェルディ、代表、二次元、女子バレー 他
「ジュニアサッカーを応援しよう!」倉本×坪井対談('19.3.8) 感想
2019年03月13日 (水) | 編集 |
育成年代で「普遍的な戦術」を教えなければ、新しい環境に順応できなくなる(ジュニアサッカーを応援しよう!) より

面白かったので、細々感想を。
"評論"ではないです。僕がよく「本」についてやるようなのを、web対談に対してしてみたということ。


イニエスタの"変化"

坪井 イニエスタってちょっとプレーが変わったと思うんだけど、どう? 日本に来てから。全試合見ているわけではないからわからないけど、むずかしいプレーを“あえて”選択するようになったと思う。多分バルサにいる時はシンプルに味方に預けておきながら、自分が動いてというイメージ。でもヴィッセルだと、自分がやらなきゃいけない。自分で状況を崩さなきゃいけないことが多いから、ちょっとむずかしいプレーを選択しているな、と。(p.1)

やっぱりそうですよね、僕もそんなに神戸の試合見てないですけど。
来日初戦を見た時は、上手いけど正直大勢に影響無さそうだなという印象でした。そこだけクオリティが上がっても、低いよりは高い方がいいけどそれはそれだけのことというか。バルサの時のように"11人の内の1人"という使い方だと周りのレベルとの整合性が取れないので、もっとベタベタに"トップ下"として使うか、"2トップの一角"として9.5番的に使うか、でもそれだと「イニエスタ」じゃなくてただの上手い選手だよな、なんか寂しいよなと悩んでましたが。
結果としてイニエスタ自身が仕事の範囲を広げたこととリージョ監督のもと神戸のプレーがより整備されて来たことで、最近では随分そこら辺が改善されて来たというか、イニエスタが比較的"イニエスタ"のまま、"大勢に影響"を与えられるようになって来たようですね。

坪井 うん。それはでかいと思う。俺がやるしかない。自分でやるしかない。それを変えられるのは本当にすごい。何もなかったかのようにさらっと変えてしまう。適応力の塊なんだよね。(p.1)

という"イニエスタが凄い"という話なんですけど。
ただ別にイニエスタじゃなくても、昔から特にブラジル人助っ人たちが、Jリーグにやって来て意外な変貌を遂げる、9番のつもりで獲った選手がいつの間にか器用に10番をこなしていたり、中盤の守備の要として獲った選手が結局一番上手いのでゲームメーカーとして機能していたりというのは、割りとあることでしたよね。それを見るたびに、彼我の"絶対能力"の違いに暗澹たる思いにかられたものでしたが(笑)。ポジション適性なんて、その"次"の話だなと。
イニエスタの場合はむしろ、バルサという特別特殊な環境で出番の無かった能力が必要に応じて出て来ただけという感じで、そんなに驚きは僕は無いかも知れません。ただそれが(僕が当初想定した)"コンバート"というようなあからさまな形でなく、チーム自体の質的変化と上手く協調しているようなのは、興味深いですが。


「普遍的な戦術」と「プレーモデル」

坪井 今、チーム戦術も一般的な戦術プレーモデルに近い特質性の高いものをきちんと分けて整理しなくてはいけないと思っていて。
 要はプレーモデルというものをざっくりどういうものなのか説明すると、とあるチームAでは機能するけど、違うチームBに対しては、同じプレーモデルは機能しない。だけど、普遍的な戦術というのは、どのチームでも機能するもの。この普遍的な戦術というものを育成年代できちんと教えないと、チームAで通用するものだけを持って、次のチームに行ったときに活きないんです。(p.2)

ふむ。言わんとすることは分かるんですけどね。
では具体的にこの二つをどう区別したらいいのか、逆にいきなり「普遍的な戦術を教えよ」と言われたとしたら、何を教えたらいいのか。そんなものがあるのか。悩ましい感じがするんですが。
例えば、僕がサッカーについて考える時にいつも引き合いに出すお馴染みの顔ぶれですが(笑)、李国秀イビチャ・オシムは、言わば「普遍的な戦術」を、ヴェルディやジェフや代表の選手に教えようと学んで欲しいと、特に努力していた監督(指導者)だと思います。ただ結果としてこの二人のチームが実行しているサッカーが全く違うことから分かるように、結局はある特定の"サッカー"像、あえて言えば"プレーモデル"を前提としてしか、「普遍的な戦術」も決まらないのではないか、少なくとも"教える"ことは出来ないのではないか、そういうことはどうしても思いますね。二人の"普遍"のどちらかが間違っているとか、あるいは共通性が全然無いとか、そんなことは思いませんが。
そうであるならばもしそういう特定のサッカー像・プレーモデルを極力排して教えるとすれば、結局は対人動作などのミクロな局面にどうしても限られることになる、それが「それは技術っていう解釈になっているのでは。(中略)戦術っていう解釈じゃないんだよねきっと」とここで言われているような指導の状況にも繋がっているのかも知れない。

・・・というのは原理的な話ですが、実際は多分、「プレーモデル」というタームの近年の具体的な勃興があって、それとの対比で、それへのリアクションとしてこういう議論が出て来ているのだろうと。だから現場レベルではそこまで悩ましいことでもない可能性があるかなと。ある程度やるべきことは決まっているというか。

と、思いながら読んでいたら。

坪井 今危惧しているのは、日本ではプレーモデルなど特質性の高い話がトレンドになっていて、それを鵜呑みにして小学校3、4年生に対して同じプレーモデルだけやっていたら、その指導を受けていた選手は将来困ることになる。
 スペインがまさにそう。今僕のチームの高校生年代の選手たちが、小学生年代の頃にプレーモデル、特質性の話がすごく流行ったんですよ。で、その子たちが10年間指導を受けてきたのは、そのプレーモデルの話ばかりなんですよ。(p.2)

うん。だからそうなんだろうと思うんですよね。
恐らく直接問題になったのはある特定のないし限られたプレーモデルによるプレーが過度に一般化したことで、それによる具体的な偏りに対する問題意識から、"普遍的な戦術"という視点が出て来た。最初からこの二つが別に考えられていたり、一切のプレーモデルに基づかない中立的な戦術が存在するというよりも。
一方で「プレーモデル」自体の問題ということも考えてみると、例えば我がヴェルディの渡辺皓太選手が、試合によって監督によって、機能性の大小が極端に分かれたりする現象(参考)。一定以上の完成度のあるいは自分に合ったプレーモデルで行われた試合に対しては爆発的な適応性を見せるけれど、そうでない時はまた極端な消え方をする。これなどは選手個人のタイプと共に、"プレーモデル"という高度に具体的特定的な水準に依拠し過ぎる育成の問題の存在を、想像させるものではあると思います。
まあ結局のところ坪井氏が"見た"ものを見ていない僕にははっきりとは分からないものなんですけどね、日本における「プレーモデル」概念の新しさ、使われるようになっての日の浅さという問題含めて。

坪井 カタルーニャのサッカー理論だと攻撃は『深さ』と『幅』と『マークを外す動き』。守備では『マーキング』と『カバーリング』と『ペルムータ(入替・交換)』。これはどこに行っても使える個人戦術なんですよ。(p.2)

"普遍的な戦術"の例。
なるほど。確かに普遍的な要素であるように見えますが、特に攻撃の方は、一定の具体的な攻撃の仕方を想定したスキルのようにも見えなくはない、かな。まあ分からないです。「普遍」と言いつつ実際には、ある程度プレーする舞台が限られて想定されているのかも知れないですし。
余談ですが最初ここを読んでん?と思ったのは、これが"カタルーニャ"の話であること。なぜなら僕らが「プレーモデルありきのスキルの問題」と言われてまず思い浮かべるのは、恐らくその"カタルーニャ"のバルサのプレースタイル、下部組織からトップまで徹底的に同じプレーモデルでするというそれで、それによって例えばブスケツのようなバルサでは欠かせないけれど他クラブから大金で誘われたりはしない(と言われる)タイプの選手が量産されたりするという、そういうイメージだろうから。あんたらが言うのそれ?みたいな。(笑)
まああくまで一例ですし、だからこそ(カタルーニャでは)問題意識が高いということなのかもしれませんが。


日本人の"国民性"問題

倉本 それは国民性もあるかもよ。止まれって言わないと止まらないもんね。スペイン人は。日本人は行けって言わないと行かない(p.3)

ありますよねこういうのは、大きな分かれ目として。"行く"のが前提なのか"行かない"のが前提なのか。同じ状況で。サッカーだけでなく、"対人"関係全般であると思います。(笑)
行く人(国民)はとにかく行く(笑)のでそれは別に目算があるからではないし、行かない人(国民)が行かないのも、必ずしも目算が無いからではない。

坪井 相手のプレーがグレーゾーンのときに『待つ』という言葉が頭の中に残ってしまっていて、相手がドリブルしてきたときに、自チームの2トップが相手を簡単に前進させてしまったのを見たときに、日本人はまず(プレスに)行かせることを覚えさせなきゃ行けないなと思った。(p.3)

同じ状況、あるいはグレーゾーン。行くべきなのか行べきでないのか、明白でない状況。想定練習のしづらい状況。そこで「行く」国民には、「行く」前提の指導をしないといけないし、「行かない」国民には、行かない前提の指導をしないといけない。
例えば去年までのロティーナヴェルディで、"行かない"戦術を取った時に過度に行かなくなる、行くべき状況に見えるのに行かない現象がしばしば起きたのも、そこらへんの匙加減の難しさに、ロティーナが苦労した結果なのかも知れませんね。

木之下 『行かせる』という言葉もむずかしいですよね。僕は「ボールに近い人が守備を決めるから、まず行け」と子どもたちにも指導者にも伝えています。そうすると行くんです。あまり細かいことは決めなくとも前の選手が行けば、後ろの選手は「この人が行ったら、周りの人はこれぐらい行かなきゃあいつだけだと間に合わない」と自然と身につくようにしていく。(p.3)

倉本 (前略)鬼ごっこでは、絶対捕まえようとするでしょう? 「そこにたまたまボールがあるだけだから相手を捕まえに行け」と言ったら、小学校4年生以下の子どもだったらだいたい今までよりも近い距離感でボールを取りに行く。プレッシャーの距離は絶対変わります。(p.3)

指導のごく具体的なノウハウの話。面白いですね。
これは子供の話ですけど、例えば日本代表を率いることになった外国人監督とかでも、結局はこのレベルの問題に、向き合わざるを得なくなることがあるのではないかと思いますし、その時に"分かるだろう"とか"日本人はおかしい"で済ませては、いけないんだろうと思います。"鬼ごっこ"がもし必要なら、代表監督だって自分なりの"鬼ごっこ"を考える必要が、あるだろうと思います。そこまで含めての"能力"というか。
「結果」(を出す)というのは、そういうことだろうと。

倉本 (前略)「あ、もしかしたら取られそうかも。あ、取られた→切り替え」ってなるけど、そういうことをあまり気にしていなくて「あ、取られた。まさか…!あー。→切り替え」という感じになっていると思う。
 逆をいえば「あ、取りそう」も同じ。「取りそう」でゴーするのと「取った」でゴーするのとではカウンターのスピードは変わります。その雲行き探るのが苦手なんだと思う。(p.3)

日本人選手の"切り替え"に連続性が無いという話。予測が足りなくて立ち往生しがち、一歩遅れがちという。
このページの冒頭で「国民性」という言葉を使った倉本氏には、ここでの"苦手"という言い切りにも特性論的なニュアンスを割りと強めに感じるんですが、それについてはどうだろうという疑問が、僕はあります。
"雲行きを探る"とのことですが(これ自体はバクスターの言葉)、あれ?"空気を読む"のは日本人のオハコじゃなかったの?「国民性」じゃなかったの?という。(笑)
それ自体は半分冗談ですが、しかし日本人が特に、本来的に苦手だという前提は、持っているならば少し乱暴な想定ではないかなと。現状"下手"なのは、事実なのかも知れませんが。

と、思っていたら。

坪井 スペイン人もそう考えると、止まるのかなってちょっと思った。ようはボールを取られて「おーい!」のような。それはスペインの場合、指導者は「見てないで続けろ」と言うわけじゃん。(p.3)

スペイン人も"事実"としては苦手で、"探れない""読めな"くて、そしてそれを前提に、スペインでは指導の方が対応しているという話。
この調子で世界各国の事例を集めれば、日本人やスペイン人の"本来"が見えて「国民性」問題を論じることが出来るのかも知れませんが(笑)、とりあえずそこは離れたい。
むしろ「日本」「スペイン」という国名から検討する必要があるかも知れないなと思うのは、日本は今でも、スペインも比較的最近まで、"サッカー先進国"ではなかったという問題、その反映としての"雲行きを探る"能力の全般的な低さという可能性。
例えばイタリア人なりブラジル人なら、そこら辺の能力がより染み付いていて、特に教える必要が無かったりするのかも知れない。これも結局は、事例(研究)の問題にはなりますが。

・・・次のp.4では、ここらへんの話が更に全面的に展開されています。


日本人選手はなぜ"雲行き"が探れないのか

倉本 そういう意味で日本人選手は「こういう取られ方したらやばい」みたいな認識が低いのかもしれない。
 よくあるのは、サイドハーフの人にボールをつける場面。サイドハーフの選手が相手DFを背負っているのに、ボールをつけたサイドバックがそのままオーバーラップする。
 サイドハーフの選手としては「いや、パスコースないじゃん」って。でも行った後に、あーってなってしまう。そもそも相手を背負っている場合は、簡単につけない方がいいだろうし、さらに上がったらダメでしょう。やってはいけないプレーをやってしまうことが多い。

倉本氏の挙げるこういうシチュエーション自体は、とてもよく分かりますね(冒頭の一文の"決め付け"っぽさは若干気になりますが)。よく見る風景というか。普通の観客が見ても分かるような、がっかり案件。Jリーグ駄目案件というか。海外リーグは凄いプレーも多いですけどそれ以上に変なプレーが少ないのが、ストレスが小さい、見る緊張感が保ち易い理由。

倉本 日本の指導者は原則的にやってはいけないプレーに対しては何も言わない傾向がありますね。

木之下 ここはミスをしてはいけない場所だとかタイミングだとか、それを言わない指導者は多いような気がします。

なるほど。これはまた別の問題というか、別の重要な問題ですね。緊迫した状況下での選手のミスよりも、確実な比較が出来そうな事柄でもあるし。指導者自身が教えない
そうだとすればなぜそうなのかというのと、そうした指導が"原因"として、選手の危機認識の鈍さを"結果"しているのかというのと。
なぜそうなのかについてこの対談では"論じ"られるまでには至っていないので、僕の勝手な想像を付け加えると、ある意味指導が"積極的"過ぎるのではないかなと。"サッカー"を教えるというよりも、"素晴らしい"サッカーをサッカーの"理想的"な状態を教えようとし過ぎる、それを教えるのが指導だと思っている、それ以外のことを余り考えていない。
またそうした指導が"原因"となって選手のプレーを"結果"することは当然あるでしょうけど、ただそれは副次的問題で、プレーと指導二つの問題は要するに同根なのではないかと、それが僕の想像。理由は後で。

坪井 当たり前の概念が日本とスペインは違うのかもしれないね。
倉本 それが歴史の違いや「積み重ねてきたものの違い」という話になってしまう。でも本当はそんなもの学べばいいだけのことなんです。この世の中情報がオープンになっているんだから。隠してあるわけではないので、知った上で指導する方とより上達が早いと思います。

しのごの言わずに"お手本"を、知識としての海外の知見をとにかく学べと蓄積しろと、それで空白を埋めろと倉本氏は言うわけですが。まあ"情報がオープンになって"来た現代世界での、倉本氏に限らない一つの代表的な意見ではあると思います。方法として否定はしませんし、やってみればいいとは思いますが。
ただ僕の関心は少しなところにあって、日本人選手が観客にも分かるような変な判断をするのは、それが高度に戦術的なプレーの場合ならばそうしたプレーについての知識や経験・訓練の不足という話になるのかも知れませんが、それこそ倉本氏が上で挙げたような基本的なプレーについての場合は、むしろ"本能"が機能していない、発露が妨げられている、そっちの方が理由なのではないかと、僕は思っているところがあります。
スペースがあって人がいてボールがあって、その場にいる人間の走力等が直観的に計算出来れば、特別なプレー経験が無い人でも容易に出来るような危険の予測成功の目算を、知識や被指導経験があることによって逆に出来なくなっている、そういう状況なのではないかと。

なぜなのか、どういうことなのかというと、要は"知識が足りない"派の人の言うこととは逆で、むしろ日本人(選手)にとってサッカーが「知識」であり過ぎる、その圧迫感やそれへの劣等感が強過ぎる、(未だ)「外来」文化であり過ぎる、それが選手たちの、"本能"とも言うべき当然の自主的判断の発露を妨げ、指導者の指導のバランスや優先順位を歪ませている、そう思えるところが僕にはあるわけです。
常に「手本」を探す、「模範解答」を求める、「素晴らしい」「完璧」なサッカー・プレイではないといけないように思う。それが目が見えれば(笑)誰でも出来るはずの当然の状況判断や危険予測や利害計算を妨げる、当然すべき注意をすっ飛ばして妙に理想的な状態だけを念頭に置いた指導を行わせる。

学びは常に必要でしょうけど、プレーの1から100まで指示してくれる教科書もプログラムもあるわけが無いので、どのみち本能と知識の合算・協働として、プレーは行われるはず。これはどの国においても。
本能が働くのは当たり前で、その上での効率化やバリエーションとして、"知"も構成されているはずというか。
そこらへんのバランスが、どうも歪んでいるように感じる時が、日本のサッカーには僕はあります。そこにいくら知識を投入しても、ざるで水を汲む感があるというか。

まあここ20年なりそれ以上なりの「学習」「輸入」作業の結果、サッカーにおける日本人の"本能"が決定的に毀損されてしまったならば、自分の身体反応への"自信"が回復不能なまでに失われてしまったならば、それはもう、無理にでも「知識」で埋めるしかないわけですけどね(笑)。これから。
それでどれだけ埋まるのか、それで埋めたものが「本能との協働」より強いのか、それについては少なからぬ疑問が僕はありますが。

だから諦めたくないというか、知識の吸収とは別に知識の"受容"の仕方の改善、サッカーの捉え方の正常化、そうしたところに今後も僕の関心はあり続けると思います。いかにサッカーを"自分のもの"にして行くか、引き付けて捉えて行くか。
でももう間に合わないかもしれないなあという思いも、一方ではあります。今更この20年をやり直すわけにはいかないし、やり直しても結果は同じ、こうとしかならなかった気もするし。今後も"情報化"に歯止めはかからないだろうし。むしろスピードアップして行くだろうし。
あるいは"間に合わない"のではなくて、"これから"なのかも。歪んでいようが何だろうが、「外来文化」としてのサッカーに付き合っていく中で、ついに強迫観念や劣等感から解放されて、サッカーが"自分"たちのものになる日が来るのかも。ちゃんと本能を利かせて、プレー出来る日が。妥当なような無責任なような、展望ですけど。


ベースボールも野球になったしね(突然)。その"野球"において日本人選手の状況判断が雑だなんて話は聞いたことが無いのは、希望かも知れませんね。かつての「外来」文化として。"ドジャース野球"あたりの翻訳にいそしんでいた時期もあった(笑)。今はまだその時期か。
と、ちょっと収拾がつかなくなって来たので、強引に締めてみます。(笑)

とにかく色々と考えさせられる、面白い記事・対談でした。


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テーマ:サッカー
ジャンル:スポーツ
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