ヴェルディ、代表、二次元、女子バレー 他
"右"と"左"についての個人史的考察 : 小学生編
2019年05月01日 (水) | 編集 |
(はじめに)より。


小学校時代

「計画経済」と「国連軍」 (と、イスラエルのキブツ) 
『太陽にほえろ!』('72~)と『大草原の小さな家』('75~) 
日本SF(星新一、筒井康隆、半村良ら) 
本宮ひろ志『硬派銀次郎』('76~) 
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』('78)への反発 反右


1.「計画経済」と「国連軍」(と、キブツ) ~原始的理性主義・素朴理想主義

今も大して無いですし、増して子供の頃に政治や経済や社会に対する関心は無きに等しかったと思いますが、その中で記憶にある最も古い、関連項目としてはこんなものがありました。
小学校の・・・4年生くらいですかね、学校で歴史の授業が始まる少し前に親が買い与えてくれた、和歌森太郎監修『学習漫画日本の歴史』。(1967年、集英社)



その現代史のパートでソビエト連邦(当時)についての紹介があって、社会主義国ソ連では、「計画経済」というものが行われていて、"三ヶ年計画"や"五ヶ年計画"が次々に施行されて経済が運営されていると。
その成否についての記述はあったのかも知れませんがとりあえず僕は覚えていません(笑)、僕が覚えているのは「計画経済」という響きそのもの、経済を「計画」的に行うなんてなんて素晴らしいんだ、さぞかし上手く行くのに違いない日本もやればいいのにという、とてもとても素朴な感想でした(笑)。(戦後日本の"傾斜生産方式"云々についての記述は、あったのか無かったのか、どのみち覚えてはいませんが)

この時点で僕に何らか予備知識なり何かからの思想的影響があったという記憶は全く無くて、これは本当に純粋に、「物事は"計画的"に行えば上手く行くものだ」という、"理"性的なもの、理性の能力への素朴で無邪気な信頼を僕が抱いていたということを表しているんだと思います。そしてこれは後年の知識ですが、所謂"マルクス主義"的なものへの支持の中心にあったのも、実はこういう正に"子供"じみた信頼・楽観なのだと、僕は思うわけですが。社会(経済)は完全に計画可能であり、そしてその"計画"は概ね善意に基づいて実行されると期待し得るいうことへの。

今"善意"ということを言いましたが、恐らくは同時期か少し前の、別のイメージ。
どこで知ったのか分からないんですけど、世界には「国連軍」というものがあって、どこかに悪いことをする国があったらその「国連軍」が出動して、みんなで協力してその国を懲らしめるらしいということを聞いて、「それは素晴らしい、みんなで協力するなら無敵だね、悪い奴なんてひとひねりだね」とほとんど何の疑いも無く、"国連軍"の絶対的善意と絶対的戦闘力に安心感信頼感を抱いた、そんな記憶があります。
案外素直いいコでしたね(笑)。僕が特別にそうなのか、それとも同時代の(日本の)子供はだいたいこんなもんだったのか、特にこういう話を友達としたことも無いので分かりませんが。

さて"社会"的なトピックスの中でこの時期もう一つ特別な印象に残っているものとして、これは完全に授業でやったんでしょうが、「イスラエルのキブツ」というものがあります。

キブツ (ブリタニカ国際大百科事典)

・イスラエル独特の集団農業共同体
・構成員間の完全な平等,相互責任,個人所有の否定,生産・消費の共同性の原則に基づいて組織
・衣食住など生活に必要なものはすべてキブツが提供,夫婦の家,子供の家,青年の家などが別々にあり,両親と子供は寝食をともにせず,育児や教育も集団で行われる

色々書いてありますが、小学生の僕の印象に残ったのは3つ目の項目のみ、「両親と子供は寝食をともにせず,育児や教育も集団で行われる」の部分。
それに対する僕の反応は・・・「いいな」というものでした。
子供が「親」や「家庭」に縛られないなんて、なんて素晴らしいんだと。素直に。(笑)
"集団"自体がいいとは思いませんでしたが、それに伴うだろう「計画」性の方にも惹かれましたかね。「計画経済」の理想視と、同じ回路で。

ただし、志向としての共通性はあっても、これに関しては若干の偏りや"曇り"が自分で感じられて、「計画経済」や「国連軍」に対する憧憬ほど、純粋で素朴な反応ではなかったと思います。
つまり個人としての(小学生の)僕が「家族」や「親」に余りポジティブな感情を抱いていなかった、そのことが反映されての"偏り"のある反応だろうなと。
だから「計画経済」や「国連軍」に対する子供時代の自分の反応が『思想』だとは特に思わないけれど、「キブツ」に対するそれには幾分かの『思想』性を感じるという。"左傾"化というか(笑)。伝統的共同体(この場合は家族)を忌避する傾向。


2. 『太陽にほえろ!』と『大草原の小さな家』  ~"弱者"への視線と社会的公正性の希求

(1)は一応"理論"的な話ですが、次はもっと感情的に、幼少期の僕の人格・思想に影響を与えたと考えられるTVドラマの話。

『太陽にほえろ!』・・・放送開始は1972年ですが、僕がはっきり覚えているのは"ロッキー"の登場前後からなので、多分1977年以降
『大草原の小さな家』・・・日本では1975年からNHKで放送。

国民的人気ドラマとして、今でも知られる名作刑事ドラマ『太陽にほえろ!』。若い人もゆうたろうによる"ポス"石原裕次郎の物真似や、芸人が好んで引用する"ジーパン"松田優作の殉職シーンなどで、見たことは無くても何となくは知っているはず。先頃亡くなった天才俳優"ショーケン"萩原健一さんも、"マカロニ"役でオリジナルメンバーでしたね。
番組の表の看板は、それこそ松田優作や萩原健一などの若くかっこいい刑事たちの活躍する、やたら"走る"シーンが多いことで知られる(笑)"アクション"を強調した青春ドラマ的性格にあったわけですが、しかし『太陽にほえろ!』がここまで国民的ドラマとなった、別な言い方をすれば老若男女に広く見られる、我が家でもそうてしたが家族団欒のお供的役割を果たすことになった理由は、その生真面目で丹念な"ヒューマニズム"性格の濃いドラマ性にあったと思います。若手刑事たちは毎度イキってぴょんぴょん跳ねるんですけど(笑)、視聴者が見ていた/支持していたのはむしろそれをたしなめるベテラン・中堅刑事たちの慎重な事件・犯人の取り扱いの方だったのではないかと。それは子供の視聴者も含めて。

その『太陽にほえろ!』的ヒューマニズムの軸となっていたのは、一言で言えば"犯罪を犯す側にも事情がある"ということかと。そういう状況へ追い詰められた、あるいは単純に愚かで軽挙な犯人への憐み・同情心、結果としての犯罪という一つの事実よりも、事件の構造や背景を理解する努力、多くは社会の矛盾や不公平への問題意識への視線も含んだそういう"慎重"な態度、"公平"であろうとする努力、それがドラマとしての『太陽にほえろ!』やそこで描かれる"七曲署捜査一課"の刑事たちの行動を貫く基本的な姿勢であったと思います。(勿論違うタイプの事件・エピソードも時にはあります)

ただこれは別に『太陽にほえろ!』のみの特徴ではなくて、米英含めた洋の東西を問わない「警察ドラマ」の王道的パターンであって、それは簡単に言えば、"犯人側の事情"を描かないとドラマとしての必要な葛藤を作り上げるのが困難だからだと思いますが。悪い奴がいた、やっつけろ!捕まえた、わーい!ばっかりでは、継続的にまともなドラマは作れない(笑)。桃太郎にすら、鬼側の事情はありますからね。(笑)
その中で『太陽にほえろ!』が際立つのは、肩肘張らないエンターテインメントドラマという枠の中で、子供も含めた視聴者が自然に納得するような形でそれを行ったこと、同じことですが端的にエピソード・脚本の出来が圧倒的に良かったこと、あるいは上でも言った「若手」と「ベテラン・中堅」の対比が分かり易い構造として非常に有効だったこと、そういうことが挙げられるかなと。
そして結果として"国民的人気ドラマ"であって誰もが見たという、影響力。"時代精神"とまでいうと、少し大げさかもしれませんが。

更にそして・・・山さんかなと。僕が付け加えたいのは。露口茂さん演じる、"山村精一"刑事。

山村精一

彼の特権的な人格的説得力。
同じヒューマニズムでも、例えば"ゴリ"さんだと少々暑苦しくて馬鹿っぽくも見えるし、"長"(ちょう)さんだといくら何でもおじいちゃん過ぎるし(笑)、"殿下"は殿下だしとそれぞれ一つのパーソナリティ傾向、"価値観"でしかないように見えてしまうところがあると思いますが、それが山さんになると、彼の飄々とユーモラスに知的ででも底無しに優しくて、かつそれらが刑事としての圧倒的な現実的"有能"さに裏打ちされている人格的「完成」感は、そのまま彼の体現する『太陽にほえろ!』ヒューマニズムの"正解"感に繋がっていたと思います。山さんが言うんならそうなんだろうなと。難しい所のある問題だけど、とりあえずそこらへんで納得しておこうという。

構造としての『太陽にほえろ!』ヒューマニズムは、山さんという"個人"をとどめとして完成する。それを言葉少なながら常にバックアップする、"ボス"石原裕次郎との「二頭体制」の厚みも頼もしかったですね。
これ以上は単なる『太陽にほえろ!』論になってしまうのでやめますが、とにかくある世代からある世代の日本人にとって、『太陽にほえろ!』が示していた価値観物の見方人間観は、個人差はあれど確実に一つの国民的"基調"として機能していた部分があったと思います。
勿論子供時代の僕も、それを信じていた・・・という程積極的自覚的なものでは多分なかったですが、少なくとも社会的目標としておおまか目指すべき方向性としては、疑う必要を特に感じてはいませんでした。山さんみたいな大人ばかりでないということはそれこそ『太陽にほえろ!』を見ていれば分かるわけですが(笑)、しかし出来ることならば、誰もが山さんのような想像力や優しさを持って(犯罪者も含む)他者に接するべきであるし、大人たるもの出来ればみんな山さん(笑)になるべきだと。

・・・その"当たり前"を後にひっくり返す言説を目にして僕は驚くことになるわけですけど、それはまた後の話。


似たタイプの影響力を持っていたものとしては、米ドラマ『大草原の小さな家』があったと思います。
むしろ『大草原』が代表するアメリカン・ヒューマニズムを手本として『太陽』等戦後の日本のドラマは作られたと言った方がいいのかも知れませんが、大人になってから全話見直した時に、具体的には一つのエピソードも自分が覚えていなかったことが分かってしまった(笑)ので、細かい語りは控えようと思います。見た時に湧き上がる"感情"自体には、確かに覚えはあるんですけどね。子供時代にどの時期の何回目の放送の『大草原』を見たのか、どうにも確定出来ない。

ともかく『大草原』で描かれた、"犯人"ではないですが(笑)"反抗児"ローラ

ローラ・インガルス

の、大人社会の無慈悲や矛盾や不公平に対する怒りや抗議への共感やある種の「正当」性の感覚、そしてその無鉄砲を時にたしなめつつも受け止めるべきは受け止めて、大人の知恵で共に戦ってくれるチャールズパパ

チャールズ・インガルス

圧倒的な包容力と信頼感の記憶は、時期は不確かなれども『太陽にほえろ!』と同様の"原風景"として、確かに自分の中に見出すことが出来ます。

日本に山さんがいれば、アメリカにはチャールズパパがいる(笑)。大人がみんな二人のようであれば、子供はどんなに安心して育つことが出来るでしょう!
比べるとチャールズパパの方は、時代背景もあって結構パターナル(父権的)ですけどね今の観点で見ると。
ともかく山さんやチャールズパパが体現するような思いやりと汲み取りを基本とするヒューマニズムが、時代を代表するストーリーのど真ん中にあって、堂々とモデルであった時代が確かにあったということです。
まあ別に『はぐれ刑事』でも『相棒』でも、人気ドラマの基本はそんなに変わってないんだろうと思うんですけどね、上でも言ったように。ただ影響力というか社会の中での位置は、だいぶ変わった気がします。アメリカなんかの場合は、「警察ドラマ」の作り方自体がある時期以降変わってしまっていますが、その話はまた後で。

いやあ、難しいですよ、山さんやチャールズパパを疑うのは。(笑)
そういう人(子供)もいたんでしょうけどね。友達にはなれなかったでしょうね(笑)。もしくは際立って不幸な子供か。


3.日本SFの影響 ~懐疑主義、(文化)相対主義の目覚め
小学校5,6年になると、友達に教えてもらった星新一あたりを皮切りに、小松左京、半村良、筒井康隆、平井和正ら日本人作家によるSF小説を読み漁るようになります。
恐らく初めての本格的能動的な"知的"体験で、様々に影響は受けましたが一言で言えばそれは"常識"や"権威"を疑うという態度、習慣。言葉にしてしまうと、少し気恥ずかしいですが。(笑)
単に一つ一つを疑うというよりも、「常識」とされているもの「権威」とされているもの全体に対して、まずは疑う、必ず一定の距離を取る、そういう知的習慣。それをこの時期集中的に叩き込まれ(笑)ました。個別には勿論、それまでもやっていたことだったんでしょうけどね。でも明らかに"意識"が一つ、この時期まとめて変わった。それによってエデンの園から、いよいよ追放の憂き目にあった。(笑)

その懐疑の対象は目前のいちいちの通念にとどまらず、「真理」や「正義」という観念そのものやあらゆる"性善説"的な人間の見方をも含んで行きますが、不思議とそれで「太陽にほえろ/大草原の小さな家」的善意への信頼が大きく傷つけられることが無かったのは、あそこで示されていたものが本質的に「努力目標」という性格を持っていたからだろうと思います。"認識"と"目標"は別のものなので、それがごちゃごちゃになっているのが今日の「右」と「左」をめぐる混乱の主因ではないかと結論的に言えば僕は思うんですが、それについては(例によって)また後で。

話戻してこうした知的な"通過儀礼"自体はたいていの人が何らかの形で経験するもので、それ自体としては右でも左でもないわけですが。まあ「懐疑」というのは一般的には"左"サイドのもので、一方"右"サイドの有力な典型に「権威との一体化」があるのは確かですが、でもまあそういう人もたいていは"目の前の現実への懐疑"からそういう態度決定にたどり着くんでしょうから、殊更自分の経験を特別視するのは控えたいです。

とにかく社会から道徳から宗教から様々疑ったり見方が変わったりする中で、一つ印象的だったのは、彼らの"SF"世界の中に時折出て来る「文化相対主義」的な感覚、"風景"。・・・「文化」というのはつまりこの場合、"星"ということですね。異星人。シリアスからコメディタッチまで、様々に異星人との接触・交流が描かれる中で、それぞれの星の人類・生命体がそれぞれの生活様式や価値観や思考・感情習慣で生きている様が、"SF"であることを活かした相当に突飛なものまで含めて描かれる中で、自然と"それぞれ"という前提的感覚が植え付けられたというか、"宇宙規模の"果てしない「相対性」に慣らされたというか。(笑)
言わば宇宙スケールの文化人類学。

あくまでエンターテイメント小説なので、「文化」も「相対」も「価値観」すら、言葉としてはあからさまに出ては来なかったと思います。実際僕のボキャブラリーに「相対」という語がはっきり加わるのは、遥か大学生になった後です(笑)。ただ内容的には既に十分にそういう内容に(知らず)接していて、これまた大学の時に駆け足ながら一応系統的に文化人類学の研究史を学んだ時も、ぶっちゃけそれほど驚くようなことは無かったというか、感覚的には既に知っていることばかりだったという記憶があります。

そこらへんを特に加味すると、やはり僕にとってのこの時期の日本SF読書体験は、比較的"左"的色彩の濃い経験だったと、言えるかと思います。
まあ"性善説"的"ユートピア"的人間観の破壊というのは、微妙なところなんですけどね、思想内容的には。後には"右"方向に回り回って利いている形跡も、見て取れなくはない。少なくとも「計画経済」や「国連軍」を信じることは、この時期にはもう出来なくなっています。


(4) おまけ:本宮ひろ志『硬派銀次郎』と映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』 ~それぞれへの反応

まあそんな大した話ではないんですが、当時の僕の"思想的揺れ"の垣間見える二例。

まず孤高の中学生"番長"の物語、『硬派銀次郎』



好きでしたね。それも"共感"ではなく、"憧れ"方向で。よりはっきり言うと"無いものねだり"。劣等感からの反動的一体化
「硬派」であること、「男らしい」こと、時に「暴力」も辞さないこと。実際には主人公山崎銀次郎は、むしろチャールズパパに近い平等的博愛的情性の持ち主(不干渉主義だけど結局助けるツンデレ)で、強きをくじき弱きを助けるナイスガイなんですが、それでもまだ"ヤンキー"という文化すら無い平和な子供文化の中で、彼の荒々しく「男らしい」"正義"のあり方シンプルな生き様は特異なものとして目立って見えました。憧れました。「相対」や「相手の立場」のまだるっこしさ価値観的不安からの、一気の逃走の誘惑に駆られたというか。
こうした心情は今日の評価未だ定まらぬ"若者の保守化・右傾化"(そこから更に世代的にもう一巡している感じですが)のある部分にも恐らく共通するもので、日々『太陽にほえろ!』や『日本SF』の教育を受けながらも、やはり(小学生の)僕の中にもそういうものはあったということですね。
何よりも"シンプル"であることの誘惑は、強かったですね。


一方の大ヒットSFアニメ映画、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』



僕も夢中になって見たTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の劇場版第二作・続編で、前作を上回るスケールの仕掛けの中、ヤマトの乗組員たちが地球を守る為に壮烈な"聖戦"を戦うこれも傑作とされる作品ですが、これについてはどうも僕は、子供ながらに引っかかるものがありました。余りにも煽情的過ぎる、"聖戦"過ぎる。泣くか泣かないかと言えば多分泣いたと思いますけど(笑)、その"泣かせ"方含めてどうしても"戦争賛美"の臭いは感じましたね。
特にコスモタイガー隊の山本隊員がかっこよく敬礼を決めてある種颯爽と「特攻」して行くシーンには、かなりな抵抗を感じました。別段「特攻」について何か知識があったわけではありませんが、どうも特攻ありきで様式美的にセットされた舞台のありように、不潔なものを感じたというか。
人の命をそうあっさりと「駒」にするなというか。盛り上げれば済むと思うなよというか。
対して直後('79)の『機動戦士ガンダム』における"スレッガー中尉"の同じく「特攻」シーンなどはだいぶ違う性格を持っていたと思いますが、僕自身が実際にそのシーン(ガンダム)を見るのはかなり後年になるので、別に比較して思ったわけではありません。


まあシーンの評価については色々とあり得るでしょうが、とにかく小学生の僕は、そういう感性を持っていたということです。
銀次郎の"硬派"には憧れる、でもやっぱり軍人的正義を積極的に肯定する気にはなれない。そういう"揺れ"(幅)


・・・ここらへんで、小学生編は終わりです。
次回は中高すっ飛ばしての、大学生編


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ジャンル:政治・経済
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