最初にお断り。
なるべく"本流"に繋がるよう努力はしましたが、少なからずこじつけ臭くて結局はただの「渋谷陽一論」でしかないようにも思うので、「番外編」とさせていただきました。
無くてもこの先の話は通じるはずなので、興味がある人以外は読まなくても(笑)いいです。
大学生編目次
PMRCとポリティカル・コレクトネス 左?右?
上野千鶴子とフェミニズム 左
( 渋谷陽一の音楽批評 "左""右" 双方 )
栗本慎一郎と現代思想 左であり右
呉智英の「封建主義」 右
大本教への興味 右
"市民運動家"との出会い 反左
[番外] 渋谷陽一の音楽批評
"BURRN!"が出たからにはロッキングオンも!と繋げたいところですが(笑)、実際には僕はいきなり渋谷陽一の"著書"(評論集)を読んでしまったので、雑誌ロッキングオンを読むようになったのはその後というか、その流れというか。ついで(笑)というか。
きっかけは覚えてないですねえ。何らかロックへの興味だとは思うんですけど。ネットの無い時代、昔はほんと行き当たりばったりで店頭で本を"買って"、学生の時は金が足りなくてしかたなかったですね。
それぞれ初版1980年、'82年、'84年。
どれかが古本屋でたまたまあった、という可能性もあるかな?(きっかけ)
ちなみにメタル以外の(普通の?)ロックを聴くガイドに最初にしたのは、別の人です。
本題に入って。
渋谷陽一。雑誌『ロッキング・オン』や『CUT』の、創刊編集長。1951年生まれ。(Wiki)


前回で既に"上野千鶴子"という本格的な"学者""思想家"の名前が出てはいるんですが、しかしより直接的に僕に「思想」的な「覚醒」、刺激をもたらしたのは、こちらの一介の(?)ロック評論家、本人に言わせると"本業はあくまで編集者"な人の方だと思います。
まあ上野千鶴子の"女性学"は、結局思想・哲学というよりも「個別科学」として読まれてしまったということではあるかと思いますね。そのスケールのインパクトだったというか。
さりとて渋谷陽一がそこまで大した哲学者であったとか包括的な思想内容を持っていたというわけではないわけですが、要はタイミングとポジションの問題でしょうね。ある種の「洗礼者ヨハネ」のような役割を、僕に対して果たしたという感じ。(ただし"救い主イエス"には未だに出会っていない(笑))
でも実際なかなかだと思いますよこの人は、読み返しても。自分の頭と体を使った「意識的思考」の、本当に出来る人。もっとつまらない哲学者や無内容なプロ評論家は、腐る程いると思います。有名な中でもね。
1.渋谷陽一の"左"的影響 ~「対象化」論
(1)「批評」と「対象化」
その渋谷陽一が展開する、直接的にはロック/音楽批評の中で、口癖のように出て来ていたワードが、「対象化」というもの。渋谷陽一の「批評」の内容はほぼこれ、あるいはこれの必要性を訴えることに尽きると言ってもいいかもしれない、中心的な概念です。
対象化。文字通りには、何かを「対象」として捉えること、あるいは捉えられるようにすること。特に特殊な概念ではないので耳慣れている人もいない人もいるでしょうが、とりあえず具体的な使い方を見て行きましょうか。
典型的には、所謂"プログレッシブ・ロック"をめぐるこういう記述。
プログレッシブ・ロックとは、ロックがロックそのものを対象化し始めた最初の動きと言える。(中略)
それまでのロックは、一種の初期衝動のみによって突き進んでいた。走り出したいという欲求があれば、すぐに走り出し、そこには対象化の努力も何もなかったのである。
(『ロックミュージック進化論』 p.113)
衝動の"対象"化、違和の"対象"化。ロックとはもともと現実との違和を徹底的に増幅し、そのひずみを音にして来た音楽である。その違和を対象化し、原因を露にしていくのがプログレッシブ・ロックであった。
(同上 p.125)
簡単に言えば、感覚に形や名前を与える行為で、そこから例えば"原因を露に"することも可能になる。
今のはどちらかというと内面的事柄に特化した説明ですが、より外面的な事象だと、こんな感じ。
ここでは他人の目に映る"自分自身"を自分に対して客体化するみたいな意味ですかね。そもそも"イギリス的"という言い方自体に、「対象化」のプロセスが入っていますが。("アメリカ市場"という舞台において)
アメリカのバンドにとってアメリカ自身はあえて批評したり、対象化したりする必要のないものであった。(中略)
イギリスのバンドは自分たちのイギリス的な部分を対象化し、インターナショナルなスタイルを獲得しようとするのである。
(同上 p.145)
客体化して「対象」として扱う。扱えるようにする。内側にぼんやりあったものを外側に引っ張り出すという意味で、"外化"などという言い方をすることもありますね。対象化・客体化・外化、全てほぼ同じ意味。
"客観"化・・・だと"主観"として意識されていたものを客観として意識し直すみたいなニュアンスが強いので、少し使いづらいかなと(使えなくはない)。むしろどういうものとも意識"されていなかった"ものをされている状態にするのが、対象化や客体化。批評の種類(客観か主観か)の問題ではなくて、批評の"無い"状態からある状態にする行為。その最初の一歩というか。
とにかくこの「対象化」というプロセスが渋谷陽一の批評の中心であり、中身であると、そう言っていいと思います。(少なくともこの時期の)
それ以上のことは、その「対象化」の具体的中身からの論理的延長。
(2)「対象化」と相対性
で、ここからが少し分かり難くて、この稿を「番外」と位置付けざるを得なかった由縁ですが。(笑)
こうした渋谷陽一の音楽をめぐる論が、僕に何をもたらしたかというと。
一言で言えば、かつて日本SFがもたらした"懐疑"(相対性)の、「その先」かなと。
世間や慣習や伝統が押し付けて来る意味や価値を、疑って相対化して差し戻す受動的なプロセスにとどまらず、逆に自分から意味や価値を能動的に見出して確定して行く、あえて言えば"押し付け"返す(笑)反撃のプロセスというか。"対象化"作業によって。
つまり"懐疑"というのは、知的にはある種の密かな優越感を持たせたりはするんですけど、一方で"信じる"力を失う分、心理的に"弱"くもさせるわけです。それだけで終わると。
その"後"の、それ(慣習的な価値と意味)に代わるものを作る作業が必要で、その手本が例えば渋谷陽一の言う「対象化」というプロセスであったわけですね。
実際渋谷陽一は、ある種の"サバイバル"戦術として、「対象化」プロセスを位置付けていたりもします。
自分がやっているものは関わっているものは、あるいは自分が自分の中に感じているものは要するに何なのか。それを理解・確定する(対象化する)ことによって、それを抱えながらあるいは利用しながら、社会(世界)の中でどう生き延びて行くかのプランが立てられるようになると、そういうことですね。ジム・モリソンやジャニス(ジョプリン)が死んでしまったのは、彼等が自らの内なるロックを対象化し得なかったためだ。ある意味で生き延びるしたたかさを持ち得なかったために死んでしまったといえる。
ただロックなるものが本当に言葉として対象化され、語られるには少々時間がかかったのである。社会とのかかわりの中で戦略戦術が考えだされるまでには時間が必要だった。
(同上 p.73)
・・・そう、「批評」的態度というものを学ぶと同時に、「戦略」的思考というものに触れたのも、多分渋谷陽一が初めてだったですね僕は。「性格が悪くなった」と、ごく端的に母親に言われた記憶がありますが(笑)、この時期。
そういう意味でも明らかに影響は大きいんですけど、ただその"影響"の中身を論理的に確定する(それこそ"対象化"する(笑))のは、なかなか難しいんですよね。
それは渋谷陽一のそもそもの記述が断片的なもの(音楽雑誌の投稿原稿)であるというのもありますが、それ以上にその影響が論理的に一つ一つ"教えられた"というよりも、渋谷陽一の(主には"対象化"という)言葉遣いをきっかけとして、僕の中に潜在していた諸々の思考や感情が一気に寄り集まって形を得たという、そういうタイプのものだからです。
何か全く新しいことを知ったというよりも、既に持っていたものの使い方の、手頃な例を示してもらったというか。
・・・そういう意味では別に渋谷陽一でなくても良かったんでしょうが、でもまあ"渋谷陽一"で良かったかなと思っています、結果的には(笑)。十分というか。(笑)
で、"中身"はともかくとして、問題は"影響"の「方向性」なわけですが、この論のテーマとしては。
上で"日本SF的相対主義の「次」"だという言い方をしましたが、「次」である、受動的相対化から、能動的意味確定・発見の作業に移ったという意味ではある意味変貌・転向のプロセスとも言えるわけですが、しかし僕の中の"風景"としては、この2つはどうも同カテゴリーというか、延長線上に位置しているんですよね。
あくまで結果的感覚的なものでしかないんですが、しかしそれはそれとして選びようのない一つの(心理的)"事実"として、それを前提に渋谷陽一的「対象化」を位置付けてみると。
「対象化」によって「相対化」による"心理的弱化"という問題を一部補強出来たことによって、相対主義路線での生存可能性がより高まった、つまり路線堅持と、そういう"効果"(笑)かなと。
実際のところは当の渋谷陽一の論全体が、圧倒的に「相対性」を前提として出来上がっているので、そもそもの「対象化」概念の生息環境自体がそうだったということはあります。そういう意味では、自然な位置づけ。
とにかく結果として"風景"が変わらず意識される"路線"も堅持されているので、これに関しては一応「左」的影響と、そういうことにしておきたいと思います。
2.渋谷陽一の"右"的影響 ~認識と「身体」性
そしてそれらの議論に対する(当時の)僕の反応から、僕自身の思想的位置もある程度確定出来るという、そういう話です。
(1)リズムと時間認識
渋谷陽一が音楽において最も重視している、"リズム"についての議論。
いままで読んだ本の中で一番リズムというものに対して定義づけた中でおもしろいと思ったのは、リズムというのは時間認識のパターンだというもの。
時間をどのように自分自身が認識していくかというそのパターンだというわけ。
(『ロックミュージック進化論』 p.173)
客観的数学的な「拍子」と区別されるものとしての主観的な「リズム」は、その人の「時間認識」のパターンそのものだという話。要するに拍子とリズムはいかに違うかと。
拍子というのはメトロノームでもいいわけね。(中略)それに対してリズムは非常に人間の側の主観に属するものだというわけね。
(同上)
「認識」というのはこの場合つまり、そのままでは無限無意味な"時間"を有意な区切り・単位で切り取って、パターン的に把握していく意味づけて行くということですが。分かり易いところでは"一分"とか"一秒"とか"一年"とか。音楽で言えば、それこそ四拍子とか八拍子とか。
ただここでは「拍子」とは違うものとしての「リズム」が問題にされるているので、仮に四拍子なら四拍子として、それがどんな四拍子なのかが問題なはず。・・・分かり易く言えば、ノれるかノれないか(笑)。あるいは落ち着くか落ち着かないか。好きか嫌いか。
そうしたものの個人的差異(としての"リズム")を、「時間認識のパターン」と。
・・・逆から言うと分かり易いかな?つまりその人の落ち着く/ノれる時間の認識の仕方パターン化の仕方に沿った「音楽」的リズムが、その人の落ち着く/ノれるリズムでもあると。
更なる引用。
ロバート・フリップはバンド"キング・クリムゾン"のリーダーで、ロック界屈指の知性派ギタリスト。(Wiki)[ロバート]フリップは音楽におけるリズムの復権というひとつの論理的結論を得た。
しかもリズムが単なる先天的な生体反応などではなく、あくまで後天的な時間認識パターンであり、世界観である事を知っていた。
(『ロック微分法』 p.195)
まず"先天"性と"後天"性。
「リズムの先天性」そのものは、かなりストレートにサイエンスの問題だと思われるので、寡聞にして知らないけれど最近の研究はどうなってるのかなとしかそれ自体としては言えませんが。ただ仮に"先天"性の部分があっても(or大きくても)、要は"後天"性の部分がある後天的に変わり得る部分があるのであれば、渋谷陽一の議論としては成り立つものだと思います。
だから多少(後天性を)断言し過ぎな気はしますが、実際にはさほど問題となる箇所ではないだろうと思います。
そして「世界観」という言い方。
広義には「時間認識」≒「時間観」と同じことだと思いますが(世界観の一部としての時間観、あるいは時間観に伴った世界観)、ただあえて言い換えられているのには、そこにある種の"精神性"のようなものが含意されているんだと思います。つまり例えばのんびりしたリズムを好む、"自分の"リズムだと感じる人には、それ相応の何か精神性が、逆にせわしないリズムを"自分の"リズムとして好む人にも、やはり同様にそれ相応の精神性が存在すると(ちょっと例が単純過ぎるかも知れませんが)。そこらへんをひっくるめて、「世界観」と。それぞれの精神の形が、それぞれの時間の切り取り方(時間認識)を選択すると。
この場合において、"影響"の因果の方向、つまりのんびりしている(せわしない)からのんびりした(せわしない)リズムを好むのか、それとものんびりした(せわしない)リズムに囲まれているからのんびりした(せわしない)性格になるのかは、それ自体難しい&面白い問題であると思いますが、とりあえず"音楽評論家"として渋谷陽一が力点を置く、注目するのは、専ら後者の方、リズム(音楽)"が"世界観を構成・規定する方のベクトルの話。
例えばレゲエのような十分に強力な音楽のリズムは、その影響力で聴き手のリズム感、リズムの好みを、ある種強制的に変えてしまうことがある。基本的な時間認識のパターンそのものを。[レゲエについて]
あのリズムをちゃんと聞いて、もしこのリズムは自分自身心地よいとあのリズムによって思う人が出たとしたら、もうその人にとってリズム感というのは抜本的に変わってきてると思うんだよね。もしあれを心地よいと思って、それを自分のリズムにするとするんだったら演歌は聞かないし歌謡曲は聞けなくなるんだもの。
ぼく自身がそうだったから。自分自身の時間認識のパターンというのはどんどん変わってると思うんだよね。
(『ロックミュージック進化論』 p.175)
そしてその時そのリズム(時間認識パターン)に伴う精神性・世界観も変化を遂げているはずであり、つまり音楽(リズム)は人を変え得る、人は音楽(リズム)により変わり得るというのが、究極的には渋谷陽一の言いたいことだろうと思います。
まあ余り"変える"ということに力点を置き過ぎると、怪しい議論にはなりますけどね(笑)。ただ実際かなりの部分、音楽(リズム)の好みで人となりは分かると思いますし、自分のことを考えても音楽の好みが大きく変わった時には間違いなく内面も変わっているので、現象論としてはそれほどおかしな話ではないだろうと。"変わった"から聴けるようになった経験、"聴いて"いる内に変わって行った経験、どちらもそれぞれに僕はありますかね。
こうした渋谷陽一の議論が全体として大きなインパクトを僕に与えたという形跡は見られないんですけど、ただそもそもの「リズム」という直接的には身体的なものが、「認識」や「世界観」といった観念(精神)的なものと密接に関連させて語られるというその発想・語り方には、それなりの強い印象はあって今でもよく覚えています。
次。
(2)「感覚」と「感情」の区別
現在巷にはびこっている音楽は、ほとんどが感情の対症療法的な機能しか果たしてくれない。
悲しい時、うれしい時に聞くとぴったりする。いわば気分の音楽である。(中略)
もっと感覚の対症療法的な機能を果たしてくれる音が欲しいといつも思っている。音として透明で湿気のない気持ちのいいものがほしい。
(『音楽が終わった後に』p.101)
(音楽における)「感覚」と「感情」の区別。より深層の「感覚」と、より表層の「感情」と。音の意味性とか技術を超えたところでとても気持ちのいい音というのがある。これは非常に表現のしにくいことなのだが、つまり私達の感覚のツボをきちっと押えてくれる音のことである。
感情や気分への対症療法的でなく、感覚あるいはもっと深いところへの対症療法的な作用をする音があるのだ。
(同上 p.104)
そして(渋谷陽一にとって)音楽の本体は、「感覚」の方にあると。
これだけで分かる人には分かると思いますが、更に説明すると、補助的概念として「意味性」というものが挙げられていますね。これがニアリーイコール「感情」というわけ。
要は多くの場合は"歌詞"が担う、音楽の良くも悪くも具体的な部分、"内容"やメッセージやイメージの部分。それこそ悲しいとかうれしいとか。愛は地球を救うとか。会いたいとか。お前たちを蝋人形にしてやるぞとか。
歌詞以外の有力なものとしては、"ジャンル"や"スタイル"というものもありますね。ハードロックなら激しいとか、フォークなら優しいとか、ブルースなら渋いとか、カントリーならのどかとか、パンクやヒップホップなら反抗とか、バラードなら大人とか。
歌詞は無くても"意味性"というものはあって、ワーグナーなら煽情的とか、チャイコフスキーなら情緒的とか、たいていはあんまりいい意味では使われないですが。ジャズなんかも、丸ごと"お洒落"で済まされることがありますね。"フュージョン"は結局、"歌の無い歌謡曲"?
こうしたものは音楽の"外"向けの顔として、ある程度不可避的について回るものではありますが、しかし渋谷陽一が求めるのは、そういう感情的意味的表層を突き抜けた("透明"な)より深部の「感覚」を、直接刺激してくれること。そういう音楽。音楽のより構造的な部分や、あるいは個人的な部分。
"構造"というのは、それこそリズムとか。メロディーに対する。"個人的"というのは僕がかなり勝手に足したものですが、つまり四拍子であるか八拍子であるか、そういう拍子が一般にどういう効果を狙うかという"ジャンル"の問題ではなくて、"どういう"四拍子かどうか八拍子かどうかという、そういう意味での個人性・個別性。上でも言ったような。
ちなみに「気分」という渋谷陽一の用語法は僕は余りぴんと来なくて、これはむしろ「感情」より「感覚」サイドの言葉だと思うんですよね。
例えば精神医学では昔、所謂"躁鬱病"を「感情」障害と言っていたんですが、それだと患者が表す一つ一つの感情に意味を与え過ぎる、つまり躁の時の"明るい"感情や、鬱の時の"暗い"感情に実体を与え過ぎるので、そうではなくてもっと意味中立的な「気分」のレベルの問題だと意味性のレベルの問題ではないと病気の実態を判断して、「気分」障害と定義し直したりしているんですよね。より生理的構造的な病気だと。
それはともかく。話戻して。
こうした区別が何を意味しているかというと、一つには勿論単純に、音楽の好みの問題ですね、聴き方の問題というか。音楽を感情や(歌詞の)意味性やたいていはメロディーのレベルで、ほぼ完結して聴いて満足出来る人と、より「感覚」的なリズムや演奏や"音"そのものでのフィット感や快感を求める人と。
これらは大きくは"ジャンル"の問題、(渋谷陽一がよくいう言い方に従えば)"演歌や歌謡曲"や大量生産的なポップスと、ロック以降のある程度インデペンデント/パーソナルなポップミュージックとの違いという区別がとりあえず出来ますが、実際には"ロック"ならロックの中で、更にこういう二極は存在しますね。渋谷陽一が"怒って"いるのは、むしろそっちでしょうし。(笑)
あるいは一つのバンド・アーティストの中でも、"メッセージ"ソングや"政治的"な曲をやる時は、断然直接的な感情や意味性が、メインになって来るでしょうし。"ヒット"狙いの時も、そういう傾向はあるかな?(笑)
そして究極的にはやはり、音楽のある種の"変革"能力、人を変える能力というものを、渋谷陽一は問題にしているようですね。
これ(感覚への対症療法的な作用)は音楽というものを考えて行く上でものすごく重要なことであり、僕たちの感覚や認識を根底的な所でひっくり返すヒントになるような気がする。
(『音楽が終わった後に』 p.104)
ここらへんの問題に関して僕自身がどうかというと、以前
『歌詞で音楽を聴くということの衝撃 ~"乃木坂"世代の音楽の聴き方?』
という記事で愛する乃木坂の面々に心を鬼にして駄目出ししたように(笑)、"歌詞"や"意味性"の運搬機能に音楽が還元されるのには断固として反対な人です。だから渋谷陽一のこうした議論には大いに我が意を得ましたし、「感覚」と「感情」という分け方にはなるほどそう言えばいいんだと感心しました。・・・割りと「感覚」と「感情」って一緒に使われがちですからね。特に「理性」みたいなものとのコントラストだと。
実際は別、というか別なものとして扱い得る。例えば心理学では全く別の専門ジャンルですし、生理学でも概ね。
最終的に、この議論全体をどう位置付けるかですが。
端的には、「感覚」という基本的に身体的生理的、非言語的な概念・観点を中心に、音楽を見る見方。「リズムと時間認識」の話と同じで。
と同時にそうは言っても少なくとも渋谷陽一が直接扱う"ポップミュージック"というジャンルにおいては、どうしたってまず"口実"としての言語(歌詞)や意味性が必要となるので、そうした意味的言語的領域を、身体的非言語的立脚点から視野に収めながら、何らか統一的総合的思考が要求されるわけです。
そういうタイプの思考・"思想"の一つのモデルとして、この時期の僕の中に強い印象を残しました。
(3)渋谷陽一とユング
若干余談的な話ですが、渋谷陽一の「思想」問題として、一つ書き留めておいた方がいいかもなと、今回読み直して気が付いたこと。
(1)の"リズムと時間認識"の話の最初の引用部分は、実はこう続いていました。
ユング?そうなのか?そういうソースの話だったのか。要するに個々の人間の時間認識のパターンの差であるし、それに対していかに意識的に向かっている、いないかの差であるというのを、何とかというユング派の心理学者が言ってるわけ。
(『ロックミュージック進化論』p.173)
そんなことを言ってたんだ渋谷陽一。昔読んだ時は気が付かなかった。
確かに、例えばこういう箇所ですが、
渋谷陽一が何度か口にしたと記憶しているこの「"個"を掘り下げて(ると)"普遍"に達する」式の論法は、どこかユングの『集合的無意識』論を連想させるなと思ったことはあるんですよね。自分の個人的なテーマに執拗にこだわり続ける事により、逆に作品は普遍性を獲得することができたのである。ジム・モリソンが優秀な表現者であったひとつの証拠といえる。
(同上 p.66)
何だか分からないかもしれませんが、上のジム・モリソン(ドアーズ)の話に直接繋げると、要は個々人は内部で普遍領域と繋がっているので、個人であることを真摯に掘り下げて行くといずれ普遍と繋がって、その表現も普遍性を持つということです。対照的にその時々の「社会」や「一般」(つまり他人や外部)にマメに対応し過ぎると、かえって「普遍」から遠ざかって表現がすぐ古くなるという。(集合的無意識)
・人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域
・個人のコンプレックスより更に深い無意識の領域に、個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な元型の作用力動
まあいくらでも雑に使える危険な概念ではあるんですが、とにかくちょっとユングっぽいなとは思っていたものの、偶然だろうと流していたので、今回こういう箇所を発見した時はあれれとなりました。
随分直接的積極的に、"ユング"なんだなと。それが「答え」なのか?僕はよく表現にしろ、科学にしろ、人間の想像力による営為は、人間存在という巨大な謎、あるいは神という犯人を求める、とんでもなく長い推理小説の謎解きではないか、という気がする。
(中略)
特に新しい科学である精神分析学など、そんな例の代表のような気がするのだ。ユングの提唱した集合的無意識という概念は、実にスリリングな神の残した手掛りである。
(『ロック微分法』 p.171)
どうでしょうね、僕もそれなりに色んな人の文章は読んで来て、何かの"影響"や"翻訳"や"真似"で書いているものとそうでないもの、あるいはそれらの"程度"は読み取れる自信があるんですけど。だから渋谷陽一はあくまで渋谷陽一自身の観察・直観・思索に基づいて書いているのであって、別にユング理論の"応用"者というわけではないと感じますが。
まあ言ったってそこまで系統立った理論的な文章でもありませんし、若き零細出版社社長として奮闘を続けて来た渋谷陽一が、そんな学究的生活を送っていたとは思えないですし。(笑)
あくまで援用というか、自分が直観的に言っていた考えていたことを、ある程度まとめて言ってくれている有名な学者がいた、わーいという、そんな感じではないかと思うんですが。(笑)
そしてその方が僕も望ましいですかね。ただの"ユングの弟子"の話は、必要があった時にまた別に読みたい。あくまで"渋谷陽一"は、渋谷陽一(という個人)であって欲しい。
"2."の[まとめ]
(1)リズムと時間認識、(2)感覚と感情の区別、及びそれらのバックボーン"候補"としての(3)渋谷陽一とユングを合わせて、何が言えるか言われるべきか。
まあ答えはもう実は冒頭&途中で言ってしまっているんですが、要するに「身体」性ということですね。
"認識"や"世界観"や"音楽/芸術"の価値やリアリティを考える時に、必ず一回「身体」性という要素を噛ませる。身体感覚的なものをむしろ基盤として、抽象的なもの想像的なものも考えるという、そういう態度・習慣。
"ユング"の件に関する若干の疑惑はあるものの、基本的にはそう"しよう"としてしているわけでもそういう哲学的"立場"を意識しているわけでもなく、どうしてもそう"なる"から、単なる観念や言語や意味性のレベルでは満足出来ないから、"違和感"を感じずにはいられないから渋谷陽一はそうしているんだと思いますが。
僕自身もそういう傾向は当時からあって、そういう言語化し難くまた個人性の高いものを抱えて不安に陥りそうなところを、渋谷陽一というそれなりにその筋では"権威"とされることもあるような人の議論の中に似たものを見つけて、一つ安心したというか自信を得たというか、そういうところはあったと思います。
で、やや先取り的な結論を言うと、この「身体」性(あるいはもっと俗に"肉体"性)というのは、一つ"左"と"右"を分ける鍵的な要素だと思うんですよね。"左"とは「頭」のことであり、"右"とは「体」のことである。ごく簡単に言うと。
"左"が理屈と建前で突っ走ろうとするところを、身体/肉体がストップをかける。一定の留保をもたらして現実との接続を保ったり、あるいは時に行き過ぎて居直り的な"本音"主義、過度の肉体性/欲望の肯定主義に至ったりする。功罪別にして、こうしたものが一つ、"左""右"それぞれの振る舞いの特徴。
当時の僕に"右"という意識があったわけでは全く無いですし、渋谷陽一をそのように見ていたわけでもこれも全く無いですが、思考・思想における共通する「身体」性へのこだわりを、理論的に位置付ければそういうことになると思います。
だから僕を勇気付けて難しく言えば身体性、簡単に言えば自分の感覚へのこだわりを持ち続ける事をサポートしてくれた渋谷陽一のこの方面の影響は、僕を"右"に追いやりはしないけれど元々持っていた傾向を強化・固定したという意味では、"右的影響"と言えなくはないだろうと、長々と書いて来ましたがそういう話です。
渋谷陽一自身はどうなんでしょうね。あそこまで"ユング"を意識していたということは、ユング自体の置かれているどちらかというと右寄りの思想家(反理性主義者)としての位置づけを考えると、自分の思想についてもそういう意識はあったかも知れません。読んでてそう感じるということではないですが。
というわけで全体のまとめとしては、渋谷陽一は僕に「対象化」論で"左"的影響を、身体性重視の立場からの音楽論で"右"的影響を共に与えた人物と、そういうことになります。
リアルタイムでは、前者の影響の方が圧倒的に大きかったですね。ただ後知恵で考えると、後者の影響の理論的意味、この時期から既に出ていた僕の中の"右"的傾向の痕跡の確認という意味で、後者の面白みがじわり効いて来る。(笑)
以上。
(大学生編[2])へ。