僕がブログで書いた(ている)ことについて、理解の参考になりそうな他の人の言葉をたまたままとめて見つけたので、今日はその紹介をしてみます。
元記事
「ジュニアサッカーを応援しよう!」倉本×坪井対談('19.3.8) 感想('19.3.13)
ただ僕の関心は少し別なところにあって、日本人選手が観客にも分かるような変な判断をするのは、それが高度に戦術的なプレーの場合ならばそうしたプレーについての知識や経験・訓練の不足という話になるのかも知れませんが、それこそ倉本氏が上で挙げたような基本的なプレーについての場合は、むしろ"本能"が機能していない、発露が妨げられている、そっちの方が理由なのではないかと、僕は思っているところがあります。
スペースがあって人がいてボールがあって、その場にいる人間の走力等が直観的に計算出来れば、特別なプレー経験が無い人でも容易に出来るような危険の予測成功の目算を、知識や被指導経験があることによって逆に出来なくなっている、そういう状況なのではないかと。
なぜなのか、どういうことなのかというと、要は"知識が足りない"派の人の言うこととは逆で、むしろ日本人(選手)にとってサッカーが「知識」であり過ぎる、その圧迫感やそれへの劣等感が強過ぎる、(未だ)「外来」文化であり過ぎる、それが選手たちの、"本能"とも言うべき当然の自主的判断の発露を妨げ、指導者の指導のバランスや優先順位を歪ませている、そう思えるところが僕にはあるわけです。
常に「手本」を探す、「模範解答」を求める、「素晴らしい」「完璧」なサッカー・プレイではないといけないように思う。それが目が見えれば(笑)誰でも出来るはずの当然の状況判断や危険予測や利害計算を妨げる、当然すべき注意をすっ飛ばして妙に理想的な状態だけを念頭に置いた指導を行わせる。
通じるのかな?と当時書いていて少し心配していた(笑)箇所ですが、例えば西部謙二さんは、"鹿島の強さ"に触れたfootballistaのインタビュー(『鹿島アントラーズ常勝の必然。』'17.11.24)で、こんなことを言っています。
日本人には言われたことや決まり事をしっかりやる良さがある半面、今現在の状況を判断するセンサーが働かなくなりやすい傾向があると思います。
鹿島やブラジルのサッカーは良くも悪くもシンプルなので、ピッチ上でプレーしている選手は戦術遂行についてはそんなに考えずに済む。呼吸するようにプレーできるので、試合中は相手を見てサッカーができます。
ただ、(飛び抜けたクラブ規模を持つわけではない)鹿島にこれだけ勝たれてしまうJリーグの他クラブにも問題を感じますけどね。鹿島ならほとんどやらない判断ミスがけっこうあります。
高度な戦術を理解できる反面、基本中の基本が抜けてしまうというのは意外と起こることです。試合の流れを読み間違えない、試合巧者の鹿島がそれで優位性を持っている現状には少し複雑な思いもあります。そうした試合を読む力は、ある意味誰でも身につけられるものだからです。本来、そこはあまり差別化できない部分だと思うんですよね。
僕の文章の"赤"が西部さんの言葉の"赤"に、"青"が"青"に、"緑"が"緑"に、"紫"が"紫"に、"太字"が"太字"にだいたい対応していると読んでもらえれば、言いたいことは分かると思います。
「問題を感じます」「複雑な思い」「本来、そこはあまり差別化できない」といった西部さんの言い方は、恐らく僕と共通するいら立ちや問題意識を表しているのだろうと思います。
こういうのはヨーロッパからいくら"最新の知見"を輸入しても解決しない、下手すると悪化するようなタイプの問題だと思います。知識の個別の"内容"が問題なのではなくて、"受容"の仕方の問題なので。新しいも古いも無いし。
どうも海外に"行った"選手の帰って来てのプレーを見ても、余り変わっていないというか単にそのリーグの「基本」「常識」を身に付けているだけのように思うので、根の深い問題だなあと。
日本では試合をやっていて点差がわからないという選手が普通にいますよ。今、スコアがどうなっているのか把握していないでプレーしているわけです。
マジですか。(笑)
でも否定出来ないです。ありそうです。(笑)
元記事
・・・は特に無いです。僕がいつも書いているようなこと。
関連したつぶやかれた一連のツイートからの抜粋ですが、一応テーマを二つに分けて。
"人格の剛性"
>>RT
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
これ、人のパーソナリティの問題になってくるんだけど、人を集めて集団をまとめ組織をつくるって時に、ある程度「人格の剛性」ってのが必要になるんだよね
常に柔軟に考えようとする、柔軟に考える事に凝り固まって、フラフラとあっちいったりこっちいったりで柔軟に考えられなくなる、みたいな
臨機応変に対応するには、人格に一定の剛性が必要であるのと同じ様に、戦術には気持ちが必要になる。
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
まずは気持ちという剛性がなければ、戦術という柔軟性は身につかない。
「剛性」とは。
簡単に言えば、むしろある程度の「剛(かた)さ」が前提にあるから、"柔軟"になれるという話。曲げやねじりの力に対する、寸法変化(変形)のしづらさの度合いのこと。(Wiki)
柔軟な集団(チーム)を作りたければ、先に剛さが確立されていないといけない。
・・・そういえば上の「鹿島」も、シンプルで不動だから柔軟に戦えるチームの例でしたね。
"戦術"と"気持ち"
戦術と気持ちは順番でしかない。
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
頭で分かっていても感情面でやりたくない事に対して「やれ」というのは非効率でしかないんだね。
だから、まずこれをチームビルディングで整理する。自分達のしたい事(したい努力)とゲームの基準を一致する様にする。
好きな事をやると強くなる
という環境にする
その為には自分達がやりたい事、好きな事という「人格面から発生する感情・主観」という気持ちが不可欠なんだ
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
ゲームに対して抱く気持ちがあって、それに呼応する様に戦術が決まってくる
「気持ち」という主観的な基準こそが努力の方向性を決める。それを客観基準と一致させるのがチームビルディング
【まとめ】
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
「気持ち」は人間の感情面から発生する主観的基準です。
「戦術」はゲームの勝敗という客観的基準に合わせた戦い方です。
チームビルディングとは主観的基準を客観的基準に合致させる作業を指します。
「好きな事をしてたら上手くなった」
という状況を作るのが目標です。
何らかのの意味でやりたいことしか上手く行かないし、知っているだけで得意(つまりやりたい)でないことをやっても強くならないという、どちらかというと「監督」について僕が日頃言っている事を、主に「チーム」について論じている箇所、ですかね。
チームに対して僕がそう思わないわけではないんですけど、ただこれをいきなり言うとどうも"甘やかし"になり勝ちなので(笑)、チームにはギリギリまで努力を要求しつつ、ただより「個人」でありかつ影響力の誤魔化しの利かない監督についてはむしろ早めの見切りを要求する傾向が、僕にはありますか。
このツイート全体については、要は「柔軟性」や「選択肢」の話をしてりゃあ済むと思うなよ?、必ずしもそういうことの優先順位が高くない場面は多いし、そもそもそれ"以前"に必要な、前提となる(あえて言えば柔軟でも客観的でもない)ことが色々とあるんだよという、そういうつまり僕がここ数年馬鹿の一つ覚えのように言っている話。
・・・を、普段特に「日本代表」「日本サッカー」について、鋭い意見だけど今一つ合いそうで合わないなあと、流れて来るツイートを見ながら思うことが多かった人が言っている(ように見える)ので、面白いなと。
そういう話です。(笑)