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いくつかのフォローアップ
2019年05月27日 (月) | 編集 |
ヴェルディの最近二試合については、書きたいことが余り無いので先送り。("固まらない"のかも。)
僕がブログで書いた(ている)ことについて、理解の参考になりそうな他の人の言葉をたまたままとめて見つけたので、今日はその紹介をしてみます。


元記事

「ジュニアサッカーを応援しよう!」倉本×坪井対談('19.3.8) 感想('19.3.13)

ただ僕の関心は少し別なところにあって、日本人選手が観客にも分かるような変な判断をするのは、それが高度に戦術的なプレーの場合ならばそうしたプレーについての知識や経験・訓練の不足という話になるのかも知れませんが、それこそ倉本氏が上で挙げたような基本的なプレーについての場合は、むしろ"本能"が機能していない、発露が妨げられている、そっちの方が理由なのではないかと、僕は思っているところがあります。
スペースがあって人がいてボールがあって、その場にいる人間の走力等が直観的に計算出来れば、特別なプレー経験が無い人でも容易に出来るような危険の予測成功の目算を、知識や被指導経験があることによって逆に出来なくなっている、そういう状況なのではないかと。

なぜなのか、どういうことなのかというと、要は"知識が足りない"派の人の言うこととは逆で、むしろ日本人(選手)にとってサッカーが「知識」であり過ぎる、その圧迫感やそれへの劣等感が強過ぎる、(未だ)「外来」文化であり過ぎる、それが選手たちの、"本能"とも言うべき当然の自主的判断の発露を妨げ、指導者の指導のバランスや優先順位を歪ませている、そう思えるところが僕にはあるわけです。
常に「手本」を探す、「模範解答」を求める、「素晴らしい」「完璧」なサッカー・プレイではないといけないように思う。それが目が見えれば(笑)誰でも出来るはずの当然の状況判断や危険予測や利害計算を妨げる、当然すべき注意をすっ飛ばして妙に理想的な状態だけを念頭に置いた指導を行わせる。


通じるのかな?と当時書いていて少し心配していた(笑)箇所ですが、例えば西部謙二さんは、"鹿島の強さ"に触れたfootballistaのインタビュー(『鹿島アントラーズ常勝の必然。』'17.11.24)で、こんなことを言っています。

日本人には言われたことや決まり事をしっかりやる良さがある半面、今現在の状況を判断するセンサーが働かなくなりやすい傾向があると思います。
鹿島やブラジルのサッカーは良くも悪くもシンプルなので、ピッチ上でプレーしている選手は戦術遂行についてはそんなに考えずに済む。呼吸するようにプレーできるので、試合中は相手を見てサッカーができます。

ただ、(飛び抜けたクラブ規模を持つわけではない)鹿島にこれだけ勝たれてしまうJリーグの他クラブにも問題を感じますけどね。鹿島ならほとんどやらない判断ミスがけっこうあります。
高度な戦術を理解できる反面基本中の基本が抜けてしまうというのは意外と起こることです。試合の流れを読み間違えない、試合巧者の鹿島がそれで優位性を持っている現状には少し複雑な思いもあります。そうした試合を読む力は、ある意味誰でも身につけられるものだからです。本来、そこはあまり差別化できない部分だと思うんですよね。


僕の文章の"赤"が西部さんの言葉の"赤"に、"青""青"に、"緑""緑"に、"紫""紫"に、"太字""太字"にだいたい対応していると読んでもらえれば、言いたいことは分かると思います。
「問題を感じます」「複雑な思い」「本来、そこはあまり差別化できない」といった西部さんの言い方は、恐らく僕と共通するいら立ちや問題意識を表しているのだろうと思います。

こういうのはヨーロッパからいくら"最新の知見"を輸入しても解決しない、下手すると悪化するようなタイプの問題だと思います。知識の個別の"内容"が問題なのではなくて、"受容"の仕方の問題なので。新しいも古いも無いし。
どうも海外に"行った"選手の帰って来てのプレーを見ても、余り変わっていないというか単にそのリーグの「基本」「常識」を身に付けているだけのように思うので、根の深い問題だなあと。

日本では試合をやっていて点差がわからないという選手が普通にいますよ。今、スコアがどうなっているのか把握していないでプレーしているわけです。


マジですか。(笑)
でも否定出来ないです。ありそうです。(笑)



元記事
・・・は特に無いです。僕がいつも書いているようなこと。

関連したつぶやかれた一連のツイートからの抜粋ですが、一応テーマを二つに分けて。


"人格の剛性"


「剛性」とは。

曲げやねじりの力に対する、寸法変化(変形)のしづらさの度合いのこと。(Wiki)

簡単に言えば、むしろある程度の「剛(かた)さ」が前提にあるから、"柔軟"になれるという話。
柔軟な集団(チーム)を作りたければ、先に剛さが確立されていないといけない。
・・・そういえば上の「鹿島」も、シンプルで不動だから柔軟に戦えるチームの例でしたね。


"戦術"と"気持ち"


何らかのの意味でやりたいことしか上手く行かないし、知っているだけで得意(つまりやりたい)でないことをやっても強くならないという、どちらかというと「監督」について僕が日頃言っている事を、主に「チーム」について論じている箇所、ですかね。
チームに対して僕がそう思わないわけではないんですけど、ただこれをいきなり言うとどうも"甘やかし"になり勝ちなので(笑)、チームにはギリギリまで努力を要求しつつ、ただより「個人」でありかつ影響力の誤魔化しの利かない監督についてはむしろ早めの見切りを要求する傾向が、僕にはありますか。


このツイート全体については、要は「柔軟性」や「選択肢」の話をしてりゃあ済むと思うなよ?、必ずしもそういうことの優先順位が高くない場面は多いし、そもそもそれ"以前"に必要な、前提となる(あえて言えば柔軟でも客観的でもない)ことが色々とあるんだよという、そういうつまり僕がここ数年馬鹿の一つ覚えのように言っている話。
・・・を、普段特に「日本代表」「日本サッカー」について、鋭い意見だけど今一つ合いそうで合わないなあと、流れて来るツイートを見ながら思うことが多かった人が言っている(ように見える)ので、面白いなと。

そういう話です。(笑)


元記事

"右"と"左"についての個人史的考察:大学生編 [1] ~ポリティカル・コレクトネスとフェミニズム(2019.5.7)

・・・の中の、主に"(3)「ポリティカル・コレクトネス」と「言葉狩り」"のパートとの関連ツイート。


・・・実はあんまりよく分かってないんですけど。(笑)
ただ「言葉狩り」から「ポリティカルコレクトネス」に至る、"差別糾弾"運動の時代的変化の風景というか雰囲気みたいなものが行間(?)から浮かび出て、興味を惹かれたツイートでした。
それ以上の細かいことは、パッとググっただけでは分からなかったですね、別に勉強しないと無理。

ざっと整理すると、言論的な差別糾弾のやり方・方向には、「逐語的」「文脈的」の二種類があって、当初は逐語的な正に"言葉狩り"が行なわれていたが、その問題や限界から徐々に文脈重視に移行していったと。
この分類で言うと「言葉狩り」も「ポリティカルコレクトネス」も、"逐語的"糾弾の時代的形態ということでいいのかな?
時代も違いますし恐らく「ポリティカルコレクトネス」と言われるものの元になる運動自体には、単に"逐語"という以上のものが含まれていたのではないかと推測しますが、ただ結果的には単なる"言葉狩り"、言の葉レベルでの正しさの追求に見えてしまう部分が大きくて、それが必ずしも「差別的」でない人も含む多くの人の反発を買っていると、そういうことかなと思いますが。

それとは別に「逐語」と「文脈」の変化については、

・70年代は逐語的。
平成(1989年)に入る頃には既に文脈重視。

という"時期"が一つ示されていますね。
一方で筒井康隆『無人警察』事件

・は、1993年。この時広がったのはまだ「言葉狩り」という概念。(言葉)

まあこのつぶやき手も、正確な時期は分からないとは言っていますが。

ていうか"文脈重視"の差別指弾て、どういうことなんですかね具体的には。
差別用語は使ってはいないけれど差別的ないし差別助長効果のある発言や文章を指弾する?
と同時に差別用語自体は使われているがそれが差別的助長的意図で使われていない時は指弾しない、時にはむしろ擁護する、みたいなこと?
事例としてどうも浮かばないですね。「言葉狩り」に比べて分かり難いので、メディアに乗らないから?
分かりません。機会があれば、勉強してみたいですが。


これについては、これだけです。
皆さんも考えてみて下さいという。(笑)
勿論詳しい人がいたら、ご教授を。


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テーマ:サッカー
ジャンル:スポーツ
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