ヴェルディ、代表、二次元、女子バレー 他
"戦後民主主義"との距離感 (栗本慎一郎と呉智英) ~"右"と"左"についての個人史的考察:大学生編 [2]
2019年07月12日 (金) | 編集 |
(はじめに)(小学生編)(大学生編[1])

大学生編目次

PMRCとポリティカル・コレクトネス 
上野千鶴子とフェミニズム 
( 渋谷陽一の音楽批評 "左""右" 双方 )
栗本慎一郎と現代思想 であり
呉智英の「封建主義」 
大本教への興味 
"市民運動家"との出会い 反左


3.栗本慎一郎と"現代思想"

(1)栗本慎一郎と『鉄の処女』

栗本慎一郎。元明大教授、国会議員、経済企画政務次官。
本人は"経済人類学"(者)という名乗りを最も好み、また大学で主に受け持っていた講座は"法社会学"らしかったりしますが、結局は「哲学者」と紹介しておくのが、一番実態に合ったラベリングになるだろうと思います。'80年代初頭の日本における所謂「現代思想」ニューアカ」ブームを代表する一人。(栗本慎一郎Wiki)

経済・歴史から生物学・オカルトまで、多岐に渡り言及した著作があり、僕も余裕で二桁冊数読んでると思いますが、一番印象に残っていて今でもたまに開くのは、結局一番最初に読んだこの本だったりします。



『鉄の処女 血も凍る「現代思想」の総批評』(光文社カッパサイエンス、1985年)。
タイトル通り、当時の主に日本の思想状況の概説・評論書ですが、僕が手に取ったきっかけは例によって(?)偶然に近くて、「鉄の処女」つまり"Iron Maiden"(イギリスのヘヴィ・メタルバンド) のファンだったからです。(笑)
メイデンの曲以外で、「鉄の処女」なんて日本語を見たのは初めてで、妙に嬉しかったです。(笑)
そこで取り上げられている思想家たちをその時点では僕はほとんど知らなかったですが、それでも書いてあることはあらかた理解・想像出来て、そういう意味では僕の"潜在需要"に結構ぴったりはまっていた本だったんだろうなと思います。(勿論その後この本を手掛かりに、あれこれ読んではみました)

数ある概説的な本の中でこの本の大きな特徴を挙げてみると、思想家・学者の思考対象領域を大きく二つ、秩序的理性的な"Aゾーン"非秩序的非理性的な"Bゾーン"に分け、

AゾーンとBゾーン

各思想家がそのどちらをどの程度重視しているかの割合を数値化した「思想の品質表示」一覧として示す

思想の成分表示

という、自ら"暴挙"と称する思い切った単純化を行ったこと。
ま、具体的には、見てもらうのが一番ですね。むしろ何にも言わずにこの二つの図表だけを置いておいても、良かったかも知れない(笑)。勿論個々の"数値""評価"に対する説明も、本文ではありますが。
ちなみに興味があるだろうと思うので僕自身の思想の"Aゾーン"と"Bゾーン"の割合を自己評価してみると、だいたい「3対7」くらいかなと。「4対6」の吉本隆明と「2対8」の栗本慎一郎の間。自己評価する資格が僕にあるかは謎ですが、それぞれを読んだ時に感じる"違和感"を手掛かりに、ある意味客観評価してみるとそんな感じ。

なお表では「3対7」の席には"ハイデッガー"が座っていますが本文では特に触れられていないので、これは同じドイツ現象学系の哲学者でこちらは本文でも触れられている"フッサール"の誤記である可能性があるかと思います(または単にフッサールとハイデッガーを同割合と評価しているか)。いや、僕ハイデッガーは余り好きじゃないんですけどフッサールは好きなので、"同居"相手としては出来ればそっちの方が嬉しいなという、そういう動機の話ですが(笑)。ハイデッガーは、なんか色々濃そうでヤなんだよなあ。(笑)

とにかく、そういう本です。


(2)「理性主義」としてのマルクス主義

その中から今回の記事("右"と"左"の個人史)に直接関連しそうな内容を探すと、まずはここらへん。

p.157

弁証法は、表層あるいは体系内の思考の試みである。(中略)
ヘーゲルの弟子、マルクスの雑駁な議論をさらに単純化したマルクス主義者たちは、歴史の流れを、体系内部の意図的な努力(イコール理性)でコントロールできるという、楽天的な物語を作り出した。

「社会主義」(共産主義)が人間の理性の能力への非常に"素朴"な信頼に基づいた思想であるという認識は、既に"小学生編"の「計画経済」の項で述べました。・・・当時の自分の"素朴"さの回顧・反省と共に。
「計画」すれば、何でも出来る。だから全て「計画」して「計画」通りにやるべきだ。

その後も例えば"プロレタリア独裁"という発想を聞いた時に、いや、元は"プロレタリア"だったとしてもいったん上に立っちゃえば結局ただの"権力者"じゃね?"政治家""官僚"じゃね?どんだけ性善説なの?人間・大衆に希望を持ってるの?と、ほぼ単に語感からの連想ですが、子供ながらの疑問を社会/共産主義に対して重ねていたりはしたわけですが、この本でそれらの背景にある「哲学」としてのマルクス主義と、その元となったヘーゲル哲学自体が理性主義である、理性("表層あるいは体系内の思考")で世界は完全に理解出来て、歴史も理性的必然的に推移する(体系内部の意図的な努力でコントロールできる)という思想であることを教えられて、なるほどと。
実務者が考え無しだから素朴だったのではなくて、元々の構想からして素朴だったのかと、納得したというか位置づけが"確定"出来たというか。

マルクス主義は理性主義、それを中心or源とする"左翼"の基本も理性主義、そう性格を確定することは後々も自分の思考の経済にとって大いに役立ちました。それでたいていある思想がある人がなぜそのようであるかの"理由"が理解できるし、"限界"も予測出来るので。
ちなみに栗本慎一郎自身も、マルクス経済学(宇野派)から出発した人ですね。その経験・反省の元に、こういうことを言っている。


(3)「戦後民主主義」と左右知識人

(2)は言ってみれば「その当時の自分」にとってのみ、特に重要だった気付きで、内容的には初歩的と言えば初歩的なんですけど。
こちらは今日の状況に至るまで、普遍的に重要性があるように思える話。

p.132

ことに渡部昇一、竹村健一、小室直樹、谷澤永一らの人々は、戦後民主主義が生み出したパターン的な思考、硬直した思考へのはっきりしたアンチテーゼとして存在しているのは事実だ。そのことだけとれば、吉本隆明、蓮實重彦、山口昌男らと同じである。


渡部昇一、竹村健一、小室直樹、谷澤永一。
未だに存在感があるのは"ネトウヨの教祖"の一人、渡部昇一くらいではないかと思いますが、とにかく(吉本隆明、蓮實重彦、山口昌男らによる)"現代思想"や"ニューアカ"ブームので、主に"ビジネスマンに人気のあった"(らしい)思想家たち。現実主義的実用主義的で、それゆえに保守的体制寄り"右"寄りでもある。
"らしい"というのは当時的にも僕には単純にピンと来ない名前だったからですが、今回の後半で紹介する呉智英も似たような問題提起を行っているので、恐らくは結構重要で大きめな思想状況的"盲点"に位置していた人たち。それ(問題提起)が見過ごされたことによって、今日の"総右傾化"的状況が引き起こされた。
(ちなみのちなみですが、上記のような"ビジネスマン向け"思想家たちの「読者」のなれの果ての代表として、幸福の科学の大川隆法主宰などを、今ならば個人的には挙げたいです。そこからの"極右"への流れも含めて)

ここで何が言われているかというと、まずは"知的"と自負する階層からは通俗的だと馬鹿にされがちなこういう思想家たちも、「戦後民主主義が生み出したパターン的な思考、硬直した思考へのアンチテーゼ」という"知的"な機能、目的意識をはっきり持っている"立派"な思想・知性であること、そのことを偏見なく認めるべきであること。そしてまたそうした"機能"や"目的意識"は、「吉本隆明、蓮實重彦、山口昌男」らバリバリの"現代思想"家たちも("左寄り"という)方向は違えど共有しているということ。

さらっと書きましたが後半部分が実は凄く重要で、つまり今日主に右サイドからの総攻撃を受けている所謂「戦後民主主義」的なもの、西欧型の民主主義や西欧近代思想直輸入型の常識や"正論"の、批判者として「現代思想」もあったということ。今日の状況だと、まとめて「左翼」「リベサヨ」などとして、マルクス主義者やら"進歩的文化人"全般(例えばこの本で批判的に取り上げられているのは、立花隆小沢遼子)やら、極左やら社会党やらPTAやらと一緒に片付けられてしまいそうな勢いではありますが。
問題なのはいち「現代思想」ブームの取捨では勿論無くて、それらを尖鋭的な代表とする、(民主主義や社会主義もその一部とする)西欧近代の"成果"を受け止めつつその難点や形骸化を知的に乗り越えようとする、つい最近までほとんど当たり前だったアプローチの総体。

それに対して渡部昇一らのアプローチはより"否定"的かつ"先祖返り"的で、(戦後)民主主義なんてほんまは要らんかったんやまとめて綺麗事やおとぎ話や、男は黙って腕力と伝統と"男の本音"に物を言わせとりゃあええんや(なぜ関西弁?)と言いたがっているようには見えますが、それもまた一つの"アプローチ"であり、(当時は)少数派であることを前提としたポーズでありスタイルであり逆張りであり、本質的にはまだ知的なものではあったはずです。実際には両者の間にはそこまで深刻な知的断絶は無く、極端に言えば業界内でのキャラ付けの問題でしかないところも。

p.135

新宿ゴールデン街の元左翼どもが、左翼のポーズで友だちを得るのが好きなのに対し、渡部たちは右翼のポーズで友だちを得るのが好きだ、というだけなのである。


言いたいのはつまり、日本では「戦後民主主義」のような形で直輸入的に確かにいささか矮小な形で受容された西洋近代思想の難点や堕落、それら自体は左寄りの知性にとっても右寄りの知性にとっても「共通敵」としてあったということです。・・・前回の"ポリティカル・コレクトネス"のところでも、「言葉を狩られて嫌なのは右だろうが左だろうが同じだろう」ということを言いましたが、つまりはそういうレベルの話。
要は右か左かよりも、知的か知的でないか、言葉の使用に意識的かそうでないかという、そちらの方の違い。

それがどうして今日のような真っ二つに分かれるような状況になったかですが・・・。
これ以上書くと次の「呉智英」のパートで書くことが無くなりそうなので(笑)、いったん締めます。
まとめてとして栗本慎一郎は、「現代思想」の中でもひときわ強くマルクス主義の限界と否定を主張して、"ここから左"には決して行かないというライン・目安を僕に一つ与えてくれた人ですが("右"的影響)、一方で今日総体として「左翼的」とみなされることの多い「現代思想」の世界に僕を導き入れた人ではあるので("左"的影響)、影響の性格付けとしては、『左であり右』(冒頭)としておきます。

まあ「現代思想」が「左」なのかについては、少なからぬ疑問はあるんですけど、今はそれには触れずに世評のままに任せておきます。



4.呉智英と「封建主義」

(1)呉智英の言う「封建主義」とは何か

呉智英(くれ ともふさ、またはご・ちえい)。
日本の評論家、漫画評論家。京都精華大学マンガ学部客員教授。日本マンガ学会二代目会長。(Wiki)

何か国際的な業績があるわけでも、国内でそれほどまともな"思想家"として認められているか怪しいところもある人で、名前的には「栗本慎一郎」と並列してしまうにはやや躊躇いのある名前ではありますが。
ただ「封建主義」という自ら行ったネーミングの意外性と衝撃力、そしてそれが指し示した思想領域の意外な広がりや含意の豊かさで、なんだかんだ忘れられない人ではあります。"超巨大な出オチ"というか(笑)。最高の一発屋というか。(笑)

主著としてはここらあたり。



まとまった"理論書"としては前者(1981)。僕が当時買ったのは後者(1988)。
(『バカにつける薬』という)書名共々、ネーミングは大事ですね。PVを稼ぐには?!(笑)
栗本慎一郎渾身の"パンサル"理論とか(『パンツをはいたサル』)、今言われても何のことだか全然分からない。

僕が知ったのは、紹介ですね。確か学習院大生からの。割りと学習院では読まれていたような雰囲気で、さすが皇室御用達(?)、伝統主義・"封建主義"とは相性がいいのか、なんてのは単なる憶測ですが。

呉智英流"封建主義"とは要するに何かというと、対立概念として「民主主義」を置き、その民主主義を中心とする戦後日本、更に遡って明治以来の近代日本の思想と常識を、「封建主義」という事実上廃棄処分済の趣のある純然たる"過去"的概念を引っ張り出して来て、批判・相対化更には"対案"を提示する試みです。
"純然たる"というのはつまり、右の人がよく言う「日本古来の伝統」のような擬装すら施さない、裸の"過去"だということです。その意外性。何せ基本"中世"の概念ですしね。"古代"に根すら、張っていない。

内容的にはほぼほぼ儒教なんですけどね。その儒教に基づいた中世や前近代の諸思想や徳目が、いかに「近代」や「民主主義」によるものより一面優れているかということを事例を中心に説くことによって、単なるよくある"批判"や"相対化"ではなくて、自動的に"対案"提示に近いことまで行っているというところが、一つ魅力だったかも知れません。しかもそれらが既に過去にあったもの体系的に説かれたもので、ある種"労せず"手に入るという、プレゼンテーション的魅力。

更に付け加えたいのが、こうした"先祖返り"が今日のある種の右寄りの言説や自民党・保守系の議員の発言のような知的退嬰や居直りではなく、"より知的に優れている"ことを目指した説き方をされているのが、違うところ、特徴的なところ。
だから例えば"渡部昇一"は手に取らない"知的"な若者たちも、"呉智英"なら手に取ったわけです。

そういう呉智英の記述・例示が、実際のところどこまで説得的であるかについては、今回読み返してみてあれ?というところもなきにしもあらずだったんですが(笑)、ただ"マルクス主義の革命理念"などとは違ってそもそも日本人には(古くはあっても)馴染みのある用語をそのまま使っている分かり易さがあり、また死んだと思われていた馴染みの概念が意外な生命力を与えられて復活する"逆転"の快感などもあって、何となく"成功"して欲しい"納得"してみたいという、そういう好意的なバイアスもかかる主張になっていたと思います。
"封建主義"の是非自体をここで論じるつもりは無いんですけど、せっかくなのでいくつか引いてみましょうか。
全て上記『封建主義、その論理と情熱』より。

p.49 「自由」と封建主義

自分の気に入らない意見も大切にしなければならない---という言論の自由。
こんなことは、単に寛容というだけのことである。いうまでもなく、寛容というのは、一つの"徳"[という封建時代的概念]である。

p.81 「個の尊重」と封建主義

無意味に"個"の犠牲を強いる因襲的な家族主義・ムラ主義なんていうものは、封建主義とは関係ないのだ。『論語』陽貨編にこうある。
 子曰く、郷原は徳の賊なり
(中略)「郷原」とは、ムラでエライといわれている人、ということだ。そんな奴は徳の賊なのだと、孔子は弾劾しているのである。俗耳に入りやすい理念を標榜したり、通俗道徳を押しつけようとしたり、そんな奴らにロクな者はいないのだ。

p.119 「平等」と封建主義

こんな場合、私のように封建主義者(中略)であれば、(中略)「一視同仁(サベツを解消し平等を目指す)」を説くであろう。


p.187-188 「差別」(の防止)と封建主義

封建主義者は、差別[用語]をも論理に組み込む。(中略)
「メクラ騙せば七代たたるぞ」とは、非科学的・非ヒューマニズム的な言葉ということになるだろう。
だが、かつて、この言葉が、盲人を不当に虐げることを防ぎ、(中略)盲人を助け、助けた人の心まで豊かにしたのである。

p.189-190

何故、「おい、メクラ」といういい方がなかったのか。
それは、礼に反するからである!礼に反することはいけないからである!(中略)
礼。ただ一言、礼といえばすんだのだ。


いずれも「民主主義」特有とされる諸概念が、「封建主義」でも代用可能だという主張。[ ]内は僕の補足。
最後の"メクラ"の話が、特に面白いと思います。"「メクラ騙せば七代たたるぞ」"というのは逐語的には色々滅茶苦茶なところはありますが、妙な温かみがあるというか、盲人という圧倒的弱者を騙す行為に対する建前的ではない"怒り"と"非難"の気持ちが強く感じられて、何かほろっとさせるものがあります。"差別"とか"平等"とか"権利"とか言うよりもね。次の、要は「失礼」だから面と向かって差別用語は使うなというのも、炎上するから使わないというよりも(笑)、確かに品良くは感じます。(とは言え使われていたろうとは、思いますが)
勿論こんな一人一人の徳性に期待するユートピア的なアプローチではなかなか追っつかないから、"一律禁止"のような今の状況になっているんでしょうけどね。

「郷原は徳の賊なり」というのも、いい言葉ですね。孔子の侮れなさを、改めて感じさせる。
飽かずに人の道を説いた孔子は、しかし同調圧力を伴った通俗(化した)道徳は、敵視していたという話。あくまで一人一人の、心の中の話だと。実際にはそういう孔子の思想は、東アジア全体を支配する"同調圧力"そのものとして、使われてしまったわけですけど。あるいはその根拠として。


(2)「民主主義」の専横

というようなものが呉智英の「封建主義」の基本的な論ですが、「封建主義」自体の有効性についてはひとまず置いておいて、彼がこういう論を編もうとする動機である、「民主主義」(をめぐる状況)の方の問題について、書いておこうと思います。・・・"栗本慎一郎"の項では、スルーしていた内容でもありますし。

仏教と民主主義

どこかのある禅寺で(中略)学生を集めて体験参禅会のたぐいの催しがあった。(中略)
一人の学生が、自分は政治に関心があるが、民主主義や政治参加ということについてはどう考えたらいいのかと、質問した。すると、誠実そうなボーズは、禅の精神が民主主義や政治参加といかに一致しているかについて、真摯に熱弁をふるったという。何というバカなボーズだ。私はそう思った。
(中略)
民主主義や政治参加の文脈でしか解釈されない仏教など、とっとと捨て去ればいい。そしてもっと純粋に民主主義者なり政治家なりになればいい。

(『バカにつける薬』p.26-27)

キリスト教と民主主義(的徳目)

遠藤(周作)は言う、「神殿の境内で鳩を売っていた商人や両替屋をイエスは縄で作った鞭で追っ払ったり、彼らの台をひっくり返したりしている・・・・・・。しかしねえ、私にとってはやさしいイエスにやっぱり一番魅力があるのです。神殿で怒っているイエスなどは、私には余りぴったりこないのです。」
 キリスト教徒でない人が、そう思うのは、それはそれで勝手だ。しかし、遠藤周作はキリスト教徒なのである。キリスト教徒が、聖書にちゃんと書いてあるイエスについて、あれは好きだが、あれはぴったりこないから嫌いだなどということが、どうして言えるのであろうか。

(同上 p.168)

同じような例二つ。
仏教の正当性の根拠を"民主主義との近さ"で主張しようとする坊主と、キリスト教の教義を、"やさしい"という民主社会的通俗道徳を基準に勝手に切り分ける有名クリスチャン作家。

ちなみに今回読み直して、唯一はっきり記憶にあったのがここの"民主ボーズ"のくだりで、つまりよっぽど我が意を得たというか(笑)、僕自身腹に据えかねる事例だったんでしょうね。だからここでの呉智英にはほとんど100%賛成です。基準や結論が「民主主義」で固まっているのならば、この"ボーズ"に仏教は必要ないし、遠藤周作はキリスト教徒とは言えない。黙って民主主義者として市民生活を送っていればいいんですよ、それ自体は別に悪いことではない。ただ仏教の専門家やクリスチャン作家を、名乗らなければいいだけです。
それぞれ"民主主義"より2000年前後も古い起源を持つ宗教思想を、こうも気楽に新興思想で根拠づけるという顛倒を行える、知的な鈍感さ。屈辱的だとは思わないのか、あるいは傲慢だとは。

更に遠藤周作の発言から。

["最後の審判"について]
ところが、遠藤はここでも「私自身あまり関心がないのです」と言い、「イエスが説いたのは、裁きとか罰するとかいう神のイメージではなくて、愛してくれる神のイメージのほうです」と言う。

(同上p.171)

イメージって何だよイメージって、他のことならともかく。それで済むのなら"異端"で命を落とした無数の人たちの立場はどうなる。はじめに言葉ありきは聞いたことがあるけど、はじめにイメージありきとは聞いたことが無いぞ?"関心がない"で済む話なのか、いったいどういう立場で遠藤周作は勝手にキリスト教の教義を取捨選択しているのか、世が世ならそれこそ立派な"異端"審問の対象になるんじゃないかと思いますけど。舐めてるのか。
まあ舐めてるんでしょうね。"民主主義"(社会)に優しく包まれて、あるいはその絶対の盾に守られて、知的な緊張感を失っている。
ここでもつまり、"民主主義"的通俗道徳との"合致"具合によって、キリスト教の教義は選別されてしまっている。もっと言えば、"現代民主社会の住人である"という資格を持って、遠藤周作は"教祖"であるはずの古代のイエス・キリストよりも無意識に自分を上位に置いている。鈍感さに基づいた傲慢。

・・・激してつい引用が長くなってしまいました(笑)。ここらへんは、僕の地雷原なので(笑)。(ははは)
他のタイプの例。

民主主義と「進歩」

民族学や文化人類学の発達によって、現在では多くの人が、異文化・異民俗というものは、必ずしも先進・後進という関係なのではなく、あれはああいう文化、これはこういう民俗、と考えることが正しいと知っている。
(中略)
ところが、ここで奇妙なことに、たとえば自国の宗教・言語・風習などを基準にして、他民族を蔑視することはサベツだという人も(中略)民主主義以外の政治思想をはっきりとサベツするのだ。あたかも、民主主義以外のあらゆる思想は"後進的な""未開な""野蛮な"思想であり、最終的には、あらゆる劣等思想は、民主主義という先進思想にたどりつくべきだ、とでもいわんばかりなのである。

(『封建主義、その論理と情熱』 p.84)

後段の「"後進的な""未開な""野蛮な"」という言い方は、正に前段の「民族学や文化人類学」が苦労して駆除・相対化して来た、マルクス主義のそれを筆頭とする一方的な"進歩"史観、西欧近代絶対史観の言い方で、つまりそういう"皮肉"な現象が起きていると言いたいわけですね。
ただしここは少し話が錯綜している部分があって、つまり「民主主義」(西欧近代)と「文化相対主義」は、直接の関係は無いというか、むしろ前者の欠陥を後発の学問が修正した結果が後者であるわけですね。ただ民主主義のそもそもの理想の中に「平等」自体はあるわけで、それをより完全な形で実現したのが後者の作業だとは言える。だから呉智英は、一緒くたに話しているわけですけど。
まあ今日では「リベラルな価値観」とか「寛容主義」というような言い方で、歴史的経緯はすっ飛ばしてまとめて認識されているところは実際ありますね。(特に批判的に語られる時は)

それはそれとして本論の方ですが、確かに政治思想、更に言うと"システム"としての民主主義が、いささか無防備に無前提に、「正義」とされてしまっている場面は多々ありますね。善意で、あるいは"アメリカニズム"のような形での覇権の道具として。
その矛盾や危うさが理論的にクリティカルに問題となったのは、例えばパーレビの専制支配をホメイニのイスラム革命が打倒した時に、"イスラム"自体も「民主主義」ではないということにどう態度決定するかということが、西側知識人の間で結構問題になりました(学祭の講演で中沢新一が突然イランについて滔々と語り出して、当時は何のことかよく分からずぽかーんとなっていた記憶があります(笑))。あるいはもっと実際的にガバナンスの問題として、"フセインを倒して良かったのかどうか"ということは、今でもイラクをめぐって議論されていることですね。"民主主義"であることに、どこまで優先順位を与えるべきなのか。
今後は勿論、「中国」のガバナンス問題というのが、大きな世界史的思想的焦点となって行くでしょうしね。

ここでもつまり、"民主主義の専横"が問題にはなっているわけですが、ただこれについてはそこまで僕のトーンは上がらないですね。なせなら確かに理論的な無神経・傲慢さが鼻につく場面も少なからずありますが、基本的には「他にない」から、背に腹は代えられないから"民主主義"一択であえて押し通している、そういう性格のものだと思うからです。そしてそれによって救おうとしているつまりは「人権」が、確かに"近代"的概念ではあるんだけれど一方で超時代的な理想ないし感情であるという面を、やはり無視出来ないだろうと思うからです。救えるなら何でもいいんだよという、少々の理論的矛盾があろうと無かろうと、当座。
ちなみに呉智英自身も、「封建主義」がベターな代案となり得ることを主張しつつも、当座間に合わないだろうことは、認めています。(笑)

ただ矛盾は矛盾ですし根拠薄弱は根拠薄弱ですし、何よりそうした誤魔化し誤魔化しの運用が続いて理論的緊張感を失ったことが、ついには大衆的説得力を失わせて今日の世界的な不人気を招いてはいるわけですよね。
新規なのか改訂なのか、何らか"次"の展開を考えないといけない時期に来ているのは、多分確か。



(まとめてのまとめ)

栗本慎一郎も呉智英も、要するに同じ事態について語っているというところが多いので、まとめもまとめてやってしまいます。
まず改めて呉智英の位置づけ。
戦後民主主義とその大元にある西欧近代崇拝主義への懐疑・批判という意味では同じでも、西欧近代の諸成果を評価しつつその難点・欠陥を乗り越えようという基本的な方向性を持つ栗本慎一郎/現代思想に対して、呉智英は枠組みとしての近代の価値や必要性についてより根本から否定的であり、かつ「封建主義」という否が応でも伝統性保守性の印象の強いネーミングでそれなりに説得的魅力的な論を展開することによって、大きく言えば"現代思想"もその一部である「改革・リベラル」という一般的な思潮・イメージの"外""逆"の可能性に目を向けさせたという意味において、「右」か「左」かの二択で言えば、明らかに「右」方向の影響を僕及び当時の思想青年たちに与えたと言えると思います。
呉智英自身、"右翼"の直接的支持はしないまでも、"サヨク"への敵愾心・軽蔑が露わな論を実際に随所で展開していますし。・・・まあ「封建主義」というどこまで本気か謎でもある用語法もあって、ぶっちゃけそんなに深刻に受け取っていた思想青年(笑)は少なかったと思いますけどね。面白い極論という扱い。

一方で"渡部昇一"的な保守派の知識人の批判が主に"戦後"日本に集中していて、程度の差はあれ"戦前・戦中"の日本には肯定的であるのに対して、呉智英"封建主義"の批判対象は明治も昭和もひっくるめての「近代」日本、近代化であり、例えば"憲法"としては戦後憲法は相対的にマシな方だ"押し付け"というならそもそも開国・明治維新の方がよっぽど根本的な押し付けだろうなどという発言もあるように(『封建主義、その論理と情熱』p.178)、所謂"右傾化"への直接的な影響力という意味では恐らくさして問題とすべき存在ではないと言えると思います。勿論"日本古来の伝統"という右翼の常套的虚構に対しても、前近代史への真剣な関心から大いに異議を唱える、少なくとも個別の精査を要求する立場でしょうし。

位置付けとしてはこんなところですが、二人の議論を今日改めて眺めてみて思うのは、こうした「知的」な範囲での近代批判・民主主義への留保的議論が社会的に真剣に受け止められなかった消化されなかったからこそ、巡り巡ってもう一段古層からの「反知性主義」という脈絡での近代への反逆の出番を用意することになってしまったのだなということ。軽症を放っておいたから、重症になったという。
そしてまた同時に、これは世代的な反省でもありますが、30年前の時点でも心ある人に自覚はされていた"民主主義"の根拠の危うさ、知的頽廃や更には傲慢を、結局は見過ごして運用で誤魔化してしまったからこそ、今日のように比較的「知的」な階層までも含めた大規模な反感・攻撃を呼び起こす事態になったという、そういうこと。

疑問は持ちつつも僕らの世代は、それでも大きくは"リベラル"の範疇にとどまった。しかし次かその次の世代は、遂に飛び出してしまった。両者に議論や合意が成立しないとは、日々眺めていて必ずしも僕は思わないんですけど、ただ"モード"が決定的に変わってしまって当分戻ることは無い、それを乗り越えて議論のもつれを解くのは簡単ではないというのは、強く感じるところですね。
その"飛び出した"プロセスについて、次回以降で書く・・・ことになるかどうかは、正直書いてみないと分かりません(笑)。お楽しみに。(?)


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テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済
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