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アメリカドラマの右傾化&とある極右ブログ ~"右"と"左"についての個人史的考察:大学卒業後編
2019年09月25日 (水) | 編集 |
(はじめに)(小学生編)(大学生編[1])(大学生編[2])(大学生編[3])


大学を卒業してからの話。
「社会人編」・・・と言いたいところですけど、別に職業上の経験とかでは全然なくて(笑)、専ら学生時代より自由になったお金と時代的なテクノロジーの進化の恩恵を受けた、スカパーやインターネットでの"経験"の話なのでちょっと掲げ難い。(笑)
まあ余り本を読んだり友達と学問・思想の話をしたりする機会は無くなって、影響ソースが変わった(通俗化した?)という意味では、「社会人」ぽいかも。


大学卒業後編

1.アメリカドラマの右傾化

1997 スターゲイトSG-1
1999 ザ・ホワイトハウス
1999 LAW & ORDER:性犯罪特捜班
2000 CSI:科学捜査班
・・・2001.9.11 アメリカ同時多発テロ事件
2002 CSI:マイアミ
2003 NCIS ネイビー犯罪捜査班
2004 ボストン・リーガル
2005 クリミナル・マインド

とある時期のアメリカの有名ドラマたち。
ランダムなようですが、いずれも何らか僕が"政治"的なヒリヒリ感を感じる(た)作品群です。

(1) 『CSI:マイアミ』(2002)

「小学生編」『太陽にほえろ!』の項で、「犯罪を犯す側にも事情がある」という同情心やその"事情"つまり「社会の矛盾や不公平」への問題意識が太陽にほえろやそれを代表とするある時代までの警察・犯罪ドラマの基本的な視点であり、それは洋の東西を問わないということを言いました。
しかしいつからか、その前提・お約束は微妙に崩れ始めます。特に"西"の洋、アメリカにおいて。
それを最初に強く感じたのが、『CSI:マイアミ』だったような気がします。

大ヒットした『CSI:科学捜査班』(2000)のスピンオフで、舞台を砂漠のギャンブルタウンラスベガスからビーチリゾートタウンマイアミに移して、より陽性の"アクション"ドラマ的な面を強調したこちらもヒット作。
1993年の伝説的な刑事ドラマ『NYPDブルー』の名物人情刑事"ケリー"役で有名になったデヴィッド・カルーソを主人公"ホレイショ"として起用し、ケリーの役柄のイメージも引き継いだ強きをくじき弱きを助ける男気刑事として好調にスタートしたように思いましたが、どうも途中から僕はその"正義感"の独善性粗雑性、悪は悪であって自分は正義だ、"成敗"してやる的な見得の横行にうんざりし始めて、見なくなりました。

ケリーホレイショ

・・・ケリーからホレイショへ。まあ元々個人としての悪評はあった人で、単に"独善性"の方向が変わっただけという話もありますがそれはともかく。

勿論悪いのは所詮演者でしかないデヴィッド・カルーソ個人ではなくて、ドラマ自体が余りにも"警察"視点に寄り過ぎている、警察官的正義感をストレートに表現し過ぎていることにあると思うわけですが、ただなまじ"NYPDブルーのケリー"のイメージがあるだけに"似て非なる"感に憎悪に近い感情を持ってしまいました(笑)。ドラマとしても、本家『CSI』がチームの基本的には理系オタクたちをメインにしたある種"非マッチョ"な雰囲気に特徴があっただけに、差別化するにしても程があるだろうという感じでした。

その是非はともかくとして、60年代のコロンボ以来連綿と続いて来たアメリカの警察ドラマの伝統の中で、かなり違和感のある"強い正義"を表現していた作品だったと思います。もう「社会の鏡」はやめる宣言というか。
たまたま警察関係者が内部に多く入っていた作品だったという話も、どこかでは聞きましたが。

(3) 『NCIS ネイビー犯罪捜査班』(2003)

海軍案件専用という特別な捜査機関を舞台にした今も続く人気シリーズで、舞台から自然ではあるんですがしばしば軍ないし海軍への敬意・忠誠・愛情が積極的に表現され、また主人公リロイ・ギブスの相当にパワハラ的な部下マネジメントを基本的には肯定的に描き続ける、マッチョな作品。
この作品も特に先行作品と比べるとその性格が分かり易いと思って、まずこの作品のメイン製作者ドナルド・ベリサリオには既に1995年に"海軍"法務部を舞台にした『犯罪捜査官ネイビーファイル』という作品があるわけですが、見かけは大部分普通の"刑事ドラマ"であるNCISに対して登場人物のほとんどが制服の軍人であるネイビーファイルでは、「軍隊的価値観」はあくまで「軍隊」内部のものであるということが割りと明確に表現されていましたし、また軍人であると同時に弁護士である主人公たちは「法の支配」に当然忠実で、横紙破りは日常の極端に言うと私刑(リンチ)主義的なNCISとは大きな違いがありました。
更に言うとNCISで"リロイ・ギブス"を演じるマーク・ハーモンには1991年に『リーズナブル・ダウト 静かなる検事記録』という出演作品がありますが、こちらでも役柄自体は実は基本的に同じで、ただ違うのはまだリベラル的な価値観が社会の主流を占める中で、ある種"負け"前提の孤独な美学としてそれが表現されていたこと。それが『NCIS』になると"職務"上の特殊な立場に守られつつも、ドラマ自体が全体として彼を支持する形で構成されているわけです。

遂にマーク・ハーモンの"時代"が来た!というか(笑)。まあ臭味は別にして、魅力的な人・役であるのは間違いないと僕も思いますけど。
ベリサリオも非常に優れたドラマ作家なのは間違いなくて、ただ『ネイビーファイル』では嵌めていたを、『NCIS』では外してしまった。それをドラマの評価としてどう考えるか、というのもありますがそれ以上に、ある意味これ(『NCIS』)が"本音"というか、本当は表現したいとNCIS以前の時代にも心の底で思っていたことなんだろうなという感はありますね。そういうプリミティブなものが表現される時代になったというか。

(3) 『ボストン・リーガル』(2004)と"ドナルド・トランプ"

こちらは右傾化ドラマというよりも、"右傾化"ということを研究・描写したドラマかな?
『アリーmyラブ』『ザ・プラクティス ボストン弁護士ファイル』などのヒット作で知られるアメリカドラマ屈指の人気製作者&脚本家のデビッド・E・ケリーが、映画スタージェームズ・スペイダー

ジェームズ・スペイダー ボストン・リーガル

の主役起用という話題と共に、ウィリアム・シャトナー演じる"デニー・クレイン"という

デニー・クレイン

ドラマ史上屈指の強烈なキャラクターを放し飼い的に暴れ回らせた怪作。

このデニー・クレインがどういう人物かというと、元凄腕の今も名声はあるが一部認知症が始まっているらしい老弁護士で、スペイダー演じるアラン・ショアの巧みな"介護"を受けつつまだ弁護士としても時折活躍はするんですが、元々のパーソナリティと認知症含む老人的な横着さで、セクハラはやりまくりポリティカルにコレクトではない発言を日常でも法廷でもしまくり、とにかく暴れ回ります。ただ別に悪意があるわけでもあえて時流に反抗してスタンドプレー的にそういうことをしているわけではなくて(一部怪しい?)、基本的にはただただ素朴に素直に、欲望に忠実にあるいは長年の慣習に従っているだけで、何が"悪い"のかもいちいち説明してもらわないとたいていは分からない。・・・まあ"説明"してもらわないと何が悪いのか分からないというのは、広い意味のポリティカル・コレクトネスと高齢者の間では起きがちな齟齬ではあるんですけど、それが非常に極端で笑えるというか、しばしばむしろ微笑ましいというか、そういう存在。また同時に元は凄腕の弁護士だけに、にわかに反論の難しいような妙に説得的な自己弁護なども時にして、視聴者を困惑させます。

それに対するアランの立場は複雑で、事務所の為にクレインの名前を利用したいという大前提がありつつも、やはりこの"歩く不適切"のしかし愛すべき点を認め、また時にその身も蓋も無い剥き出しの本音の中に「真実」性を認めるからこそ友人であり続け庇護もし続けるわけですが、最終的にはとはいえやっぱりマズいんですよとやんわりとクレインを"説得"する方向で大部分のエピソードはしめくくられていたように思います。
それがデイブ・ケリー自身の立場でもあるんたろうと思いますが、そこら辺は割りとケースバイケースで、思想の自転車操業でやっていた印象のドラマ。

当時は面喰いつつ大笑いしつつ、結局なんなんだろうこれはと思いながら見ていた作品ですが、後にああ!と思ったのがドナルド・トランプの登場で、要するにデニー・クレインじゃないかこれは、直接参考にしたかどうかはともかく('00年最初の大統領選挙出馬、'04『アプレンティス』)、リベラリズムやポリティカル・コレクトネスをめぐる2004年当時の状況から、いずれクレインのようなパーソナリティが広くリアリティを持つ時代が来るということを、ケリーが予感していたのは間違いないだろうと思います。
今見ても、いやむしろ今見ると更に面白い作品だろうと思うので、改めてお勧めしておきます。(笑)




・・・余談(ではないかも知れない)ですが、その"デニー・クレイン"を演じたウィリアム・シャトナーというのは初代スタートレックの"カーク船長"役

ウィリアム・シャトナー

の人で、そして『スタートレック』シリーズ及びアメリカの"SFドラマ"というのは、アメリカにおける価値多様性/寛容性の一つの橋頭保みたいなところがあった。

Taku:やっぱり人間の可能性を信じているっていうのが僕がジーン・ロッデンベリーを尊敬しているところですね。『TOS』が放送されていた時期って、なんか変なこと言ったら、すぐに「お前は赤だ」って共産主義者のレッテルを貼られる時代じゃないですか。でも舞台を未来にしたら、現実ではタブーな話も入れ込める。それが『TOS』のコンセプトだったと本人も言ってて。
("Fuze"海外ドラマ特集#4 より)

"TOS"。カーク船長の出て来るオリジナル・スタートレックのこと。
つまりその"カーク船長"にこういう真逆の役をやらせるというのは、時代の変化を表す意図的な皮肉だったのかな?という話。

(4) テクノロジーと犯罪捜査

これは割りと結果論的な話ではあるんですが。
"科学捜査"というものが確立し(『CSI:科学捜査班』('00))、一方でインターネットを筆頭とする個々人が手に出来るテクノロジーの質と量が格段に向上すると、「警察・犯罪ドラマ」における"捜査側と犯人の知恵比べ"の比重・描写が、平均して恒常的に、大きくなるようになりました。そこでは"社会的弱者である犯人への同情"のような牧歌的なものの入る余地は相対的に小さくなり、それよりはまず欺かれないことが優先(笑)であり、またしばしばドラマ上個人で政府機関を翻弄するような大きな力を持つ犯人は怪物的"邪悪な天才"的に設定されることが多くなり、捜査側と犯人側の関係はますますドライになって行きます。
今も続く人気シリーズ『クリミナル・マインド』などは、所謂"科学捜査"ものとは少し違いますが、FBIの天才たちと主に連続殺人犯たちとの知恵比べが毎度展開され、さながら"異常性格者たちの見本市"の様相を呈していて、もう『太陽にほえろ!』とは全く違う世界です。(笑)

これらは直接的に何かの"ポリシー"から出ているものではないと思われますが、世相の変化の一つの反映であり、また程度はともかく「犯罪」(者)観自体の変化の影響の元にもなっているのではないかと、個人的には思っています。

(5)その他

『スターゲイトSG-1』(1997)

「地球の諸文明の起源や神話における宇宙人の関与」を扱った大ヒットSFシリーズですが、"ドラマ"としての焦点はほとんど対等な二人の主人公、"オニール大佐"の軍人的実力行使主義&伝統的男性社会主義と考古学者・言語学者の"ダニエル・ジャクソン"の多文化主義寛容主義の二つの価値観の対立が、最初から最後まで緊張感を保ち続けていたことにあったと思います。
別な言い方をすると、上のスタートレックの例にもあるように、この"SF"ドラマも本質的には後者の価値観で作られてはいるわけですが、その中で前者を最後まで否定しなかった、単なる"悪役"や"克服すべき誤り"として位置付けなかったのが、大きな特徴というか時代の変化を感じたというか。
ちなみにオニール役のリチャード・ディーン・アンダーソンが、それ以前の当たり役『冒険野郎マクガイバー』の"マクガイバー"では、徹底的な暴力嫌いの、むしろリベラルな理想主義の権化みたいな役柄を演じていたのも、面白いコントラストだと思います。

『ザ・ホワイトハウス』(1999)

NHKでもやっていた、アメリカのとある"民主党"政権の奮闘を描いた傑作ドラマ。その"大統領"役
ジェド・バートレット

マーティン・シーンが、しばしば現実の民主党の代弁者やトランプ批判の急先鋒の役割をその後果たしていることからも分かるように、イデオロギー的にならないように気を付けながらも、かなり直接的にリベラルの理想を表現していた作品だったと思います。
ただ全体としては&結論的には、そういうものがいかに実現困難かアメリカの現実の中でマイナーな位置にあるかを表現していたドラマでもあって、ドラマとして見事であればある程、ある種壮麗な"敗北"の予感というものが印象に残る作品だったと思います。

『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』(1999)

こちらも今も続く長寿作(シーズン20まで放送中)。アメリカの犯罪ドラマの典型の一つである『LAW & ORDER』のスピンオフで、アメリカに実在するらしい性犯罪専門の捜査班の活躍を描いた作品。
それ自体に政治的意図はないだろうと思いますが、何せ「性犯罪」というものがデフォルトで陰惨というか押しなべて被害者たちが気の毒過ぎるので、それを専門に扱うこのドラマの中では「犯人への純度の高い憎しみ・嫌悪感」というものが自然際立つことになり、それはそれまでのアメリカの犯罪ドラマの伝統の中でも少し浮いて感じられるように思いました。上で言った"犯罪の知能犯化"というのと、ある意味似た話ですが。
そういう暗い作品がここまでの長寿シリーズになったのは意外だったんですが、逆にその"犯人の事情汲み取り"型の枠に収まらない「正義」の手応えが、良い意味での差別化になったのかなと思わなくはないです。
・・・ただし現在も続いてるこの作品の近年の位置づけとしては、むしろ「伝統的」なアメリカの犯罪ドラマ技法の最後の希望というか"良心"として機能しているように見えるのが、面白いところです。"犯人の事情"への汲み取りに重点が無いだけで、「とにかく短絡せずにあらゆる人の事情をよく聞きましょう」という根本の姿勢は、"伝統的"なんですよね。そういう意味でも、元々別に政治性は無かったんだろうと思いますが。


以上が僕が"スカパー"時代に入って爆発的に数の増えたアメドラ視聴生活の中で、感じていたアメリカ社会の保守化・右傾化・非寛容化のサインです。
改めて"年表"として整理してみると、2001年の同時多発テロとそれに続く愛国者法の施行などによる社会の変化で潮目が変わった感は強いわけですが、ただドラマの中でそのことが直接言及されるようになるまでには少しタイムラグがありましたし、それ以前から実は"予兆"があったというのが今回の発見でもあるので、そういう一連の流れとして、全体を把握しておきたいかなと。
"影響"としてはどうなんですかね、所詮外国の話だという前提はありつつ、『スターゲイト』や『ボストン・リーガル』で"いち"人物として相対的に右翼的な人物が魅力的説得的に描かれると少しそっちに引っ張られ、一方で『CSI:マイアミ』のように全体が保守化したり犯罪者を単純に断罪的に描くドラマが増えて来ると、それへの違和感危機感から逆側に寄ったりという、そういう感じですかね。


2.とある"極右"ブログ

とあるというか、かなり全面的に(笑)、「極右」&「陰謀論」系の知識は、このブログから吸収しました。

 井口和基のブログ(Kazumoto Iguchi's blog)

現在は次のブログにお引越しして、なおも精力的に活動中のご様子です。

時期としてはどうですかね、前後から東日本大震災の後のようですから少なくとも2011年の4月以降、プラスNHK旧BS2の『トンイ』をある程度見ていた時期らしいので(笑)ひょっとしたら2012年に入っていたかもしれません。きっかけは今は亡き大手サッカー系ポータルサイト「サポティスタ」の"タレコミ掲示板"に載っていた、ブログ主の地元の徳島のサッカー状況についての記事だったと思います。(どれかは今見ても思い出せない)
直リンされたその記事をふむふむなかなか興味深いと読み終えて、ブログのトップページに飛んでみたところ、?!!!となりました。

具体的にどれだったかは覚えていませんが、「宇宙人」「在日特権」「ユダヤ/フリーメイソン系陰謀説」の、そのどれかが尋常じゃない勢いで(笑)書かれていたと思います。
なんだなんだどういうことだ、これが徳島のサッカー事情とどう関係があるんだと次々記事を読んでみたら、結局大部分がそういう記事のブログだったというそういう話です。

記事のカテゴリー一覧。↓

1.ik12.ik23.ik3

・・・壮観でしょ?(笑)

その内"宇宙人"については、それこそ前の項の『スターゲイトSG-1』なんかもありましたし、それなりに知っては僕もいました。でもこのブログきっかけでその後色んな本を読みましたけどね。ヒストリーチャンネル『古代の宇宙人』シリーズを見たのはその後で、途中までは「あ、これ知ってる。これも知ってる」状態で笑いました。(笑)
ユダヤ&フリーメイソン(イルミナティ)系陰謀説は、そんなに馴染みが無かったですかね。「上位数パーセントの資産家の富が世界全体の半分を握る」的なことが本格的に問題になったのは、もう少し後だったと思いますし。関暁夫の「やりすぎ都市伝説」シリーズは少し前から始まっていたと思いますが、関自身も要は"勉強"する立場なので、どちらかというとこのブログで読んだ事を時間を置いて関が言うみたいな、そんなサイクルでした途中からは。

そんな"世界"レベル"人類"レベルの陰謀説奇説が様々紹介される中で、しかし日本人である僕に最もダイレクトにインパクトを与えたのは、やはり"在日特権""在日朝鮮人韓国人"系の陰謀説でした。古代宇宙飛行士説やユダヤ陰謀説とは違って、それまで聞いた事も考えた事も無かった内容でしたし。せいぜい"芸能界における在日率の高さ"くらいは話題になった記憶がありますが、それもどちらかというと社会的弱者ゆえにそういう職業に付きがちという、そっちの文脈でしたし。まさか「特権」とは。

具体的には・・・。ああ、久しぶりに読んだら頭痛くなって来た。やっぱり感情的圧が高いですよねこの分野は。
在日特権問題自体はこのブログが主導的ではないようで、遡って読んでも"ありき"で話は進んでいます。
その"言葉"が出て来る最古の記述はこれかな。(2010-12-29)

実際には、アメリカのイルミナティーNWO偽猶太人の牛耳る「裏社会」があるように、日本にも在日朝鮮人/韓国人の牛耳る「裏社会」がある。そこ、すなわち、上に挙げたすべてが統合したような「秘密のネットワーク」が日本社会には存在し、そこが電通を通してマスコミをコントロールし、検察を通じて政治家や経済人をコントロールしているのだ

日本において、戦後60年以上たち、「在日特権」という政治的恩恵を受けた少数民族が今や闇の勢力を見事に使いこなして、日本社会の主流にのし上がろうとしているというのが、この10年である。簡単に言えば、「新しい階級闘争」がこの日本の戦後なのである。

どこから話そうかという感じですが(笑)、恐らく平穏に暮らしている大多数の普通の日本人は、一時期盛り上がった「在日特権」問題を"在日朝鮮・韓国人が不当に優遇されていてけしからん"と糾弾する運動だと認識していると思いますが、実際には単に"優遇"を越えてそれを利して半島系在日外国人がこの国を牛耳ろうとしている、その(彼らからすれば)「危機感」というのが"真の"動機としてあるわけですね。正当・不当というより、やはり"闘争"。
アメリカの白人至上主義運動なども似たような論理ではありますが、あちらは物理的に有色人種人口が遠からず白人の人口を凌駕するという"事実"に基づいているのに対して、絶対的少数者の在日半島人が絶対的多数者の日本人を支配するという構図は、より"陰謀"的で煽情的だと言えるかも知れません。

ほんとね、"煽情"的なんですよ。やはり忘れられないのはこれですかね、他サイトからの引用がメインの記事ではありますが。
『ある「在日」エリートの「勝利宣言」:「日本社会の仕組みというものを、とくと教えてやるよ。」』(2010-11-27)

あのさ、おれも君たちの大嫌いな在日だが。在日3世。 別に嫌われようが何されようがこっちはどうでもいいよ 日本という国における楽して稼げる職業(パチンコ)は在日・帰化人が握ってるし(笑) 金あるから在日でも日本人女とやりまくり。さらにはレイプしても全然バレない。
あと数年で日本の参政権も取得できるし(爆) 俺達はもうお前達みたいに毎日毎日職業とか将来とか金の心配なんかしなくていいんだよ
(中略)
おまえらには想像つかんだろうが、おれたちの集まりは凄いぞ。金持ちばかりだ。 毎月一回、若手在日が集まってる。六本木のあるクラブだ。(中略)
おれとおまえらどもでは、住む世界が違うんだ。 たとえばだ。おまえらが、ボロアパートで****やってる対象のグラビアアイドルとか、女優とか、大半はおれたち在日エリートのお古なんだ。

これに"同調"する物として書かれているブラマヨ吉田についての風聞記事(2012-5-31)とその前提である生活保護不正受給問題の次長課長河本への潜在的敵意や彼らの風貌が一般に与える不潔感などを合わせると、瞬間的にピキーンと来るものが自分の中にもあるのを否定は出来ないですね。事実性を確かめる余裕も無く。

まあ我ながら下衆というか他愛無いなと思うのは、経済的問題はともかくとしても「女/セックス」が絡むと、頭に血が昇り易くはなりますね。"芸能人は在日のお古"というイメージは強烈です。アメリカにおける"白人女性と付き合う黒人男性"へ向けられる古典的な敵意感情も、決して他人事と笑うことは出来ない。気持ちが分かるか分からないかと言えば、それは分かりますよ。だからこそ意識して"蓋"を開けないようにしないといけないタイプの感情なわけですが。

他にこの人は在日系の暴力集団が凶悪犯罪、特に日本人資産家の財産を暴力的に接収する事件(例1例2)を繰り返しているということを折りに触れて書いていて、これなどもその悲惨・強烈なイメージと共に、プリミティブな危機感・敵意感情を特に刺激するものではありますね。

・・・で、何で僕はこんなことを書いたんだっけ。(笑)
そう、だから"在特会"のような一見狂気の沙汰のならず者の集団のようにも見えたかも知れない人の動きの背後に、どのような感情があったのかその感情にどのような社会的・人間的な、ある意味の"リアリティ"があるのか。それについての若干の説明、かな?

結局こういう陰謀論、今ある現実を特定の"隠された事実"でまとめて説明しようという試みの力は、その事実性そのものではなくそれが"事実だったら""大変だ""許せない"という感情的な訴求力によるわけで、ある意味感情が全てなんですよね。
この場合はその内容の煽情性と共に、担い手が「韓国人」「朝鮮人」であることが大いに発火力になっているわけですが。例え"陰謀"が無くても、少なからぬ範囲の悪感情を既に向けられている存在。日本人から。増してそれが・・・という。
そして僕自身の中にも、そういう心の動きは認める事が出来るし、出来たという話。

事実性そのものについては、僕に聞かないで下さい、知りません。(笑)
そもそもの「在日特権」自体については、改めて見てみたらやけにしっかりしたWikipediaの項目が、論争的なトピックスではよくある加筆修正典拠提示を求める但し書きも無しにあったので、そういう割りとしっかりした一般的な位置づけなのかとちょっと驚きましたが。(在日特権Wiki)
だから多分問題は、在日特権の事実そのものよりもその評価の方なんでしょうね、一般的な見地からも。"特権"と言うべきものなのか、そしてどのような影響力を実際に持っているのか。


・・・で、このブログ自体がどのような"影響"を僕に与えたかですけど。(笑)
「在日」関連で言えば、"民族的排他的自尊心"や"半島アレルギー"的な感情が多かれ少なかれ自分の中にもあること自体は、今更指摘してもらわなくても分かってはいた(代表サッカーを見ているだけでもね)わけですが、それをえらく効率的に刺激されて変な"火花"が散りかけた(笑)、それは確かですね。この感情に身を任せたら、ある意味"クリア"な世界に生きられるだろうなと、陰謀説の誘惑というか醍醐味のようなものを、間近に感じた瞬間でもありました。あるんですよ、そういう誘惑は。ある種甘美な。宗教とかも勿論そうですが。
ただその一方で多種多様大量の陰謀説を集中的に摂取することで、それらに対する慣れというか飽きというかパターンの見切りのようなものも自ずと発生するので、アクセルとブレーキを同時に踏みながら、最終的には要するに"免疫"がついたというような状態になって、それ自体はいいことだったかなと。免疫に必要なのは"抑制"だけではなくて"知っている"という「経験」「備え」なので、ある程度は"アクセル"も必要なんですよね。

更に言うと元々は物理学者だというこのブログ主は、明らかに頭のいい人であって、下品な煽りを日常的にかましつつも純粋に優れた論考・分析も随所に挟まって来るので、全体としては知的な雰囲気・抑制は保たれていて、ここらへんの"知的"なフィルターや"色々なものを同時に視野に収められる"という構造は、「アーガマ」の時ともある意味同じですね。
これは別に偶然ではなくて、単に僕がそう言うものを好む、逆にそうでないと興味を持たない、一つの理論、一つの感情、一人の思想家の意見だけで一点突破的に引き込まれることは無いという、そういうことだと思いますが。生来の日和見体質というか(笑)。知性・思考とは、"視野"そのもののことだと考えているというか。

まあ別に一つ一つの説を最初から否定しているわけでも馬鹿にしているわけでもないですけどね。このブログで紹介されているようなものも全て含めて。それぞれに、受け止めてはいます。是々非々で、濃淡で。
全体としてはどうでしょうね、そもそも特殊な知識なので知らないでいいという可能性はどうしてもありますが(笑)、免疫が付いたとは言っても。僕の極右化は進んだのか、進んでないのか。ただまあ普通に暮らしていても色々と入って来る時代ではあるので、どうせ知るならこういう知り方も、悪くはなかったかなと思っています。なかなかこれだけ一遍に見ることが出来るブログ/サイトも、ないだろうと思うので。
特にお勧めはしませんが。読んでるとちょいちょい体調悪くなりますし。(僕は(笑))


思ったより書いたな。
これだけだとあんまりな気もするので(笑)、あと一回、「大学卒業後」パートを挟むか、それとももうまとめに入るか、悩んでいるところです。ネタはあるような無いような。


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テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済
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