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BBC『自由意志 思考を決定するもの』より (1)二つの"自由意志"問題
2020年05月01日 (金) | 編集 |
元ネタ原文書き起こしはこちら
未読の方は、読みながらどうぞ。まあ僕のまとめを見て訳が分からなかったら原文に当たるとかでも(笑)、いいかも知れません。


(人間にとって)「自由意志」(はあるのか無いのか)について包括的に取り上げた番組ですが、僕が見るにこの番組は2種類の当面異なる「自由意志」の問題を、ある意味ごちゃまぜに取り上げているところがあると思います。
何かと言えば、『「無意識」と「意識」(自由意志)』というどちらかというと(精神分析以降の)近代的な問題と、『「運命」と「自由意志」』というより古典的な、古代中世以来様々な人類の思想(各宗教やギリシャ悲劇やスコラ哲学等)が取り上げて来た問題の二つです。

後で述べるようにこの二つは最終的に合流するとは言えると思うんですが、当面整理の為にまずは分けて考えておきたいと思います。


1.「無意識」と「意識」

(リベット実験)

実験については本



も出ています(折り悪しくコロナで図書館が閉まってるので再開次第借りて読もうかと)し様々な解釈も既にあるようですが、とりあえずはBBCのまとめに従って、コメントして行きます。


[実験内容]

回っている点を好きな時にクリックすればいいのです。(中略)そしてこの選択をする時に脳の活動が高まります。
それでボタンをクリックすると思ってしまいますけども、実際にはその前に準備電位と呼ばれる段階がありました。1秒早く、クリックをするという決定をしているのです。

簡単に言うと、最終決定のその瞬間、言い換えれば"意識的選択"のその瞬間にピンポイントで脳の活動が高まるのではなく、その1秒前からなだらかに脳の活動が高まる(グラフ)ことが分かったという実験。つまりその決定をすることを、1秒前から脳は"知っている"。我々の意識的な決定は、常に1秒ずつの予定調和であるという話。

ちなみにこの説明とグラフだけだと、脳が知っていたのは決定の"タイミング"であって、決定"内容"については何とも言えないようにも読める気がしますが、まあこの実験は正に(クリックの)"タイミング"を測る実験であってまたタイミングが分かればプログラム上(円周上を回る)点がどこにあるか(つまり含めての決定"内容"全体)も決まって来るわけですから、ここでは区別の必要は無いのかなととりあえずは納得しておきます。

でも点がランダムで動くプログラムだと、"タイミング"だけではやはり足りない気がするけどなとまだぶつぶつ。


["心"と"体"]

自由意志というのは、心が体をコントロールしていると思うわけです。つまり心が自分の好きな決定をして、命令を体に送っているとみなされるわけですけども、リベット実験を考えると、この意識した意思というのは、その前の脳の活動によって決まっているということが分かるわけです。心と体の因果関係という考え方に、異議を唱えるんです。

少し分かり難いところがあるかな?
"心が体をコントロール"しているというのは、"意識"が"行動"をとでも置き換えれば、要するに「自由意志」(の活動)についての典型的なイメージを言っているということは分かると思います。
問題はそこで「脳」という言葉が何を意味しているかですが、「脳」というのも「手」や「足」ほど分かり易くはないですが、要するに「体」(の一部)なわけです。その事は「身」「心」問題、心はどこにあるかあるいは体と別に"心"があるのかという問題の時に、「体」側の代表として「心」という概念を否定する方向で"脳"が登場する状況を考えれば、より分かり易いと思います。
ともかくそういう「体」の一部・代表としての脳において意識("心"観念の代表)よりに"決定"がなされているらしいこの実験結果が、「心」が「体」に因果する、コントロールしているという我々の"希望"にダメージを与えるという、そういう話。


[無選択の「選択」]

リベット実験を慎重に見ると、運動が無くても何かが起こると人が予想すれば、準備電位が見られるんです。何かが起こるという予想や期待に基づいてです。

原文では同じ流れながら何か突然入って来たようにも感じた一文でしたが。
恐らくこれは、単に時間的に意識的「選択」に脳の「準備」が"先行"するのではなく、「選択」はなくても「準備」は起きる、つまり我々の行為・行動の本体は当面"準備"と副次的に位置付けられた無意識の脳の活動の方にあるのであって、実体的に見える"意識的選択"の方こそがむしろおまけ的なもの副次的なものだと、そういう事を言っている"補強"箇所なんだろうと思います。
・・・やや先取り的に言うと、ではそんな不要不急(笑)の"意識"的選択とは何なのかという話になると思いますが、それは脳≒無意識が意識というお客様(?)に提供しているパフォーマンスである、サービスである、何かをやっているという幻想的満足を与える為の、あるいは起きている事態を分かり易く認識する為の"象徴"的現象であると、上の前提からは説明出来るかも知れません。勿論前提が正しければの話ですが。

"「期待・予想」と「準備電位」"という現象自体については、何か別の観点からの検討、例えば「行為」と「イメージ」の関係とかあるいはあくまで「準備」は準備であるという視点からの論などもあり得るような気はするんですが、ややこしくなるのでここでは触れません。


[意識の非在]

実験は終わりました。私はもう心がコントロールしていません。意識下の意識によって導かれています。
お腹がすきました。我々の決定は、以前の脳の活動の決定によると言えるでしょう。

実験終了後リラックスして街を歩く"被験者"の日常の姿をバックにしてのくだり。
ついさっきまで"心のコントロール"について緊張した議論をしていた割には、やけにあっさりと「もう心がコントロールしていません」と言い切っていて、なんだあ?という感じに一瞬なりますが。
あえてまとめるとすれば、人工的な実験状況下で最も意識的に(回っている点をクリックするという)ミッションを遂行している時ですら無意識の支配が優位であったのだから、何も意識的なミッションの無い日常状況下では当たり前のように無意識、"以前の脳の活動の決定"---例えば"空腹"の信号---の影響が支配的であると、そういう事でしょうか。


[無意識と理性?]

無意識というのは、知性が無いということではありません。無意識が理性に合った反応を示すんです。

ここは分かり難いですよね。あたかも理性≒意識の決定に合わせて、無意識がその充足を"準備"するかのような言い方。今までの話と逆ではないかという。

["サブリミナル"広告]

時に我々は無意識の理性にとても影響を受けるんです。広告をする企業はそれを利用しています。心理実験を行って、無意識のサブリミナルな影響を人々に及ぼそうとしています。

そのすぐ次に出て来るのがこれ。これ自体は、もうお馴染みの話だと思いますが。
前後しますが前段に出ている具体的状況。

お腹がすいてとても疲れています。意識下の声に聞きます。疲れてお腹がすいていると言います。そして昼食に豆を食べたいと言います。

「お腹がすいてとても疲れてい」るというのは、既に意識化もされている事実。ただその事実を前提に、何を食べるのかの選択肢の部分に、例えば"サブリミナル広告"の影響の結果としての、無意識レベルで既に行われている"決定"の支配が存在しているという、そういう事でしょうか。

分かる事は分かるんですけど、あえて「無意識が理性に合った反応を示す」という紛らわしい言い方が挿入されている意味がよく分からない。いきなりサブリミナル広告の話では駄目なのか。
何か意味はあるんだろうとは思うんですけど、ちょっと分かりません。
・・・ひょっとして"理性に合った反応"の"理性"は既に「無意識の理性」なのかな。そんなこと無いと思うんだけどな。(笑)


[嘘?]

じゃあ豆はやめましょう。それとも意識下が騙されたと思うから、それをやめたんでしょうか。それは問題かもしれません。しかしこれは意識した意思決定でも起こるんです。人々は嘘をつきます。

ここはもっと本格的に分からない。
"意識した意思決定"で"起こ"っているのは何なのか。それと「嘘」はどう関係しているのか。
まず「問題」なのは、無意識の決定と想定される選択に意識が逆らおうとした、しかしその選択すらも無意識下の思考が真因なのではないかという、疑いのループですね。それはまあ分かる。
次の「これ」は何を指しているのか。(サブリミナル広告等に)"騙される"ことを指しているのか、それともループの形成のことか。

最後に「嘘」ですが、これを最初僕は自分(ないし本人)が"意識した意思決定"として嘘をついている時に、その人の無意識と意識の内部的関係が何らかサブリミナルな影響下での意思決定の状況と似て来る的な話なのかなと思ったんですが、それが具体的にどういうことなのかがさっぱり思い付かなかったのでそこで行き詰まり。
もっと単純な解釈としては、「嘘」によって自分が他人をor他人が自分を騙している時に、その「嘘」が「サブリミナル広告」と同じ働きをしていると、その状況自体は要は置き換えればいいので簡単に想像は出来ますが、簡単過ぎて逆に置き換える意味が分からない。"嘘"のつき手が企業だろうと個人だろうと、騙される方としては同じことですから(笑)。わざわざ付言する程の話かなという。
強いて言えば「サブリミナル広告」の"嘘"が無意識に働きかけるのに対して、「個人の嘘」は通常意識をターゲットにするという違いはあると思いますが、だから何なのかというのが結局分かりません。

・・・どなたかすっきりした読解が出来る方がいれば、お知恵を貸して下さい。(笑)

もやもやしますが当面解決出来ないので、とりあえず次に行きます。
"(自由意志と「想像」)"パートは[熟考編]として後編に回して・・・



2.「運命」と「自由意志」

(物理学と"決定論")

物理の法則は、その前に起こったことによって決まるということを教えてくれます。ビッグバンまで遡って、一つの出来事が一つに繋がります。因果関係です。(中略)ビッグバンのドミノを倒し始めると、一連の出来事が起こります、そして私はBではなくAを選択します。これが決定論です。全ての人生の決定は、運命づけられているという考え方です。

決定論的な世界では、一つが一つを招くわけですから、自由な選択を行っていると考えても、物理の法則が作用しているに過ぎないのです。

簡単に言うと、ある選択肢で人がAを選ぶかBを選ぶかは、ビッグバンの時点で既に決まっているという、宇宙における"因果関係"を厳密律義に捉えた考え。パッと見馬鹿馬鹿しいように思えるところもありますが、「物理学」的にはむしろ素直な考えのようでありますし、冒頭で述べたように古代以来の人類思想、特に中世のキリスト教哲学者などは、個々の出来事や行動のレベルにおいて「神が全て決定(予定)しているのか」それとも「個人の自由意志が左右する余地があるのか」ということを、真剣に議論していました。(参考:"恩寵と自由意志")

決定論者の根本的な過ちは、因果関係特に脳の因果関係が十分だと考えている事なんです。脳の因果関係が基準で制限されるものだとしたら、この因果関係は十分なものではなく、足りるかどうかという問題だと思います。

完全に無作為ではないんですね。

脳が基本的に物理法則に従うのは確かだとしても、最終的な、個々の細かい決定において、無作為に、機械的に、ビッグバン発の"ドミノ"の慣性に従うわけではないという主張。
例えば
・選択の際に課せられる概念カテゴリー的な制約
・あるパターン的な動作を、それ自体には規則性があるとしても、どのように実行するかそもそも実行するかしないかの行為者の"恣意"の介入
・行為の結果を予測しての、"道義心"の介入
といった「無作為」を制約する条件が列挙されます。

では、「乱流」(turbulence)も加えましょう。そうするとビッグバンのドミノを倒す時に、[乱流自体が:筆者注]選択AかBを選ぶ事になります。

それに対して、あるいは見越して、「決定論」側も"乱流"という概念を予め挿入して、ドミノのランダムを許容するように体系の強化・柔構造化を試みます。

進化が新たな物理的なシステムを作り出しました。それが命です。そしてそれがエネルギーのパターンがエネルギーのパターンを引き起こして、それが続きます。そして我々の意識も情報のパターンです、それが脳の中で実現するのです。そしてその世界の中であるのです。

この項の締めですが、何でしょうねこれは。
"ドミノ"に無作為には反応しない、複雑な情報パターンとしての"命"を、ビッグバンとそれに始まるドミノ自身が生み出したと、そういう事が言いたいんでしょうか。

・・・「整理」としてはこんなところですが、それぞれの"陣営"の言い分についてはこれだけでは何とも言いようが無いというのが、正直な感想。そういう図式があるんだと、ともかく了解して次へ。


(相対性理論とブロック宇宙論)

ブロック宇宙論というのは、アインシュタインが特殊相対性理論を考え付いた直後に生まれたものなんです。(中略)
パンになぞらえて下さい。時間の軸は、このパンの長さです。そしてそれぞれのスライスが空間です。
ブロック宇宙論は、将来がもう決まっているので全ての時間が共存します。ただパンの違う一切れなんです。普遍的な現在というのは無いんです。

ブロック時空パン

どのドミノのシミュレーションを選んでも関係無いのです。全てが既に存在しているのです。結局結果はいつも決まっているのです。

これだけは無いと分からないと思うので、再度画像挿入。
"ドミノ"すら無意味。ないし「因果」すら。全ては、つまり「原因」(過去)「結果」(未来)も既に、最初から存在している。同時に

この100年色々な実験をしました。アインシュタインの相対性理論が発表されてからですが、みな同じ結果となりました。将来はもう決められているのです。

ここはやけに、"決定"的な言い方。(ビッグバンドミノ的)「決定論」のような、"仮説"ではないという。


・・・("自由意志"の現実的意味)パートは、[後編]で。


(相対性理論と量子力学)

物理には二つの理論があります。相対性理論というのは、大きな規模のところで使われます。量子力学というのは、非常に小さなスケールの場合に使われるのです。

量子力学というのは結果の可能性を予想するものです。この量子ドミノ、二つの位置のどちらかに位置することになりますが、倒れてみないと分かりません
何度もシミュレーションをやってみました。Aを選ぶ時と、Bを選ぶ時とがあります。これはランダムなドミノで、これを先程の乱流と置き換えることも出来ます。

こちらも割りと、確定的な言い方。実証レベルで確かめられているという。

ブロック宇宙ということを言っていますけれども、このブロック宇宙は様々な可能性を持つものなのです。これは新しいブロック宇宙の考え方です。

相対性理論は決定論を支持し、自由意志は無いという立場、量子力学は非決定論で自由意志があるという立場です。どちらの理論もそれぞれのスケールでは、上手く物事を説明出来る。しかしその逆は無いのです。

物理学の細かいことは分からないわけですが、とにかく理論的原理的に現状両方の立場があり得るということらしいですね。

どちらかを勝手に取らない(取れないし(笑))とすれば、大きなこと(運命)はほぼ確定済みだが、その中での個々人の細々とした行動・選択に関してはある程度自由・ランダムが入る余地があるという、"予知能力者"の人などがよく言う言い方に近付いては来るイメージですね。(笑)
・・・まあ"自由"だからどうという事ではないんですけどね。つまり"大勢に影響無い"から自由なだけなので。喜んでられる場合でもない。

話戻してただし相対性理論が宇宙(とその中の人類)の運命を予言するという"大スケール"の話はいいとしても、量子力学の扱う"非常に小さなスケール"を「個人」あたりに想定していいのかは少し謎というか、イメージ的な仮定に過ぎない感じがするというか。(もっと更に"小さい"話ではないのか)
ただ"脳の因果関係"のところで既に(脳内)"ドミノ"は問題になっているので、そのドミノ自体に「量子」性("量子ドミノ")があるというなら、そこから導かれる個人の行動に「量子」性を当てはめても、文脈上はそんなに間違いではないということは言えそうな気がします。


3.二つの"自由意志"問題

以上"自由意志"の問題を、「無意識と意識」「運命と自由(意志)」という二つの局面に分けて番組の内容を整理して来ましたが、番組自身が特に分けていないように(分けるべきだとは思いますが(笑))、最終的にこの二つは別のものではないということは言えるんだと思います。
例えば"量子力学"のところでのこういう言い方。

ブロック宇宙ということを言っていますけれども、このブロック宇宙は様々な可能性を持つものなのです。これは新しいブロック宇宙の考え方です。様々な可能性があるわけですよね。ただ可能性があるということでもう決まっているわけなんですが

"様々な可能性がある"のに"決まっている"とはどういうことかというと、つまり相対論的ドミノの結果であれ量子論的なドミノの結果であれ、あるいはブロック宇宙のどういう一切れであれ、宇宙的には色々な(理論的)可能性があったとしても我々の意識が体験する現実は結局(決まっている)一つだと、そういう事を言っているんだと思います。

別な言い方をすると、あれやこれやの宇宙的(笑)顛末を経ても、結局のところ人間に与えられるのは"脳"というシステムに集約されて"無意識"として体験される情報の束&ルートでしか現状ないので、「宇宙」の話と「脳」の話、「運命」の話と「無意識」の話も、結局同じことであるというそういう事。出口(入り口かも)は一つ

("自由意志"について違う見解を持つ相対論と量子論は)
しかし一つのことでは一致しています。自由意志があっても無くても、常に私たちの選択は宇宙と関わっているのです。

脳を通じて宇宙と繋がっている。あるいは宇宙の"決定"を受け取っていると、言った方がいいかも知れません。(リベット実験的観点からは)
脳が無い生き物は脳が無いなりに、解脱した覚者も解脱した覚者なりに(笑)、それを行っているのではないかと思いますが。(あるいは解脱すれば、真の"自由意志"が持てるようになるのか)


以上、自由意志の在非在、あるいは能力範囲については概ねかなり悲観的な話に終始しましたが、後編ではそれを承けての「倫理」的問題や個人の「生き方」の問題について扱ったパートを、また検討して行くことにします。


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
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