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BBC『自由意志 思考を決定するもの』より (2)「責任」能力と「自由」の意味
2020年06月03日 (水) | 編集 |
全文書き起こし(1)より。

少し間が空きましたが、後編。


3.自由意志と「責任」

結局意志をコントロール出来ないなら、自分の責任は取れないのですから。
(中略)
外的な制約や内的な制約が、脳の活動に関わっていることを見ました。それで自由な選択が出来なくなっているのです。
(中略)
罰を与えるために、人々は自由意志の存在を正当化するわけです。しかし私はそれには反対です。不運な人をひどい扱いしている、それは彼らが不運だからだということになってしまうわけです。

前回述べたような「決定論」的世界観に従うならば、誰がいつどんな犯罪を犯すかはビッグバンの時点で決まっている避けられない運命であるし、そうではなくても誰かの「意識的選択」が既に無意識レベルで決定されている事を実行しているだけであるならば(リベット実験)、無意識そのものをどうこうすることはその人には出来ない(それを無意識という)のであるから、誰かの違法行為に責任を問うたり"罰"を与える事に正当性は無いのではないかという主張。

一応筋は通っているようですが、少なからず身も蓋も無い話な気も。これで「納得」してくれる人はそうそういないだろう(笑)というか。
多分まあこれは、「自由意志はあるのか無いのか」という、宇宙的根本的問いから来る話というよりも、日常的観察から出発しての「意志はどの程度自由なのか」というそういう日頃の問題意識を、"宇宙"を仄めかして若干ブラフ的に(笑)も言ってみたというそういう話ではないのかと。
別な言い方をするとここで問題にされているのは、「無意識はどのように意識を縛っているのか」という方の"自由意志"問題で、ビッグバンと決定論(運命)の問題では直接的にはないということ。物理学ではなくて心理学・生理学・社会学等のレベルの方の問題というか。前回「無意識」の自由意志問題と「運命」の自由意志問題は、一応分けて論じるべきだと言っていた事の、一例というか。

ここで具体的に挙げられているものとしては、「経済的要因(100ポンドが生死を分けるレベルの貧困)」「バックグラウンドとか環境・育ち」「権威による命令下であるかどうか」「知識や教育のチャンス剥奪による脳の発達不足」など。
要はお馴染み(という言い方はあれかも知れませんが)の「犯行に至る事情」の問題を、その"背景"が形成する無意識/脳の「意識」的選択への縛りを、リベット実験的な自由意志(の不在)問題として強化した主張というか。"事情"を考えているのは同じですが、それの個人の「選択」への影響を、より決定論的に捉え直す。

道徳責任というのには、段階があると思うんです。どうしてそう考えるかというと、その抑制にも段階があるからですね。どれくらいの抑制が出来るかということと道徳的責任というものは、比例していくと思うんです。
これはとても面白いんですよね。オランダの刑法のシステムですけれども、5つの段階があるとしています。黒か白かではないんですね。どんなレベルにいるかで、罰も変わって来るというんです。

「抑制」というまとめ方は、流れからするとオランダのまとめに従ったという事ですかね。前段までの内容から推測すると、恐らくは「抑制の利きやすい脳/衝動的になり易い脳」の(区別)ような生理学的知見があって、そうした脳の形成に"生育環境"や"教育機会"(の有無)が大きく関わっていると、大方そんなようなタイプの話だろうと思いますが。
いずれにしても、道徳的「責任」能力を"5段階"に分ける

オランダ刑法

というオランダのやり方は、確かに"面白い"と思います。普通に笑ってしまいました(笑)。なんちゅう理屈っぽい。オランダ人らしい(笑)。しかもそれが実際の刑法システムとして、採用されているらしいところが凄いなと。5段階(笑)、細かい。実験室か。

イギリスの刑事システムは黒か白かですよね。心神耗弱ということが認められますけれども、かなりハードルが高いです。そして年齢で制限があります。制約はありますけれども、こちらになるかこちらになるか、ぱっと変わってしまうわけですよね。これはおかしな考え方だと思います。

と、筆者(話者?)は言うわけですけど。実はそんなに本質的な違いは無いようにも、僕は思いますが。
確かに"心神耗弱"(喪失)かそうでないかという"二択"が目立つ形になってはいますが、そもそもイギリスに限らずほとんどの国の現代の刑法システムは、"犯意"に応じて罪の重さに段階を設けているわけですよね。
代表的には例えば、同じ最終的に誰かの死の原因を作ってしまったとしても、計画的な殺人(謀殺)→殺意はあったが事前に計画はしていなかった殺人(故殺)→暴行or傷害致死等→過失致死→事故みたいな段階分け(参考:"殺人罪"Wiki)。勿論先の方からつまり殺"意"の明確な順に、刑罰も重いわけですね。

だから殺人ないし誰かの死亡という結果に至る「選択」についての、意志性・意識性、意志の自由性とそれに基づく道徳的責任に関しては、少なからぬ幅があってかつその幅を区別することに意味があるという考え自体は、少なくとも法制度としてはほぼ確立しているし、またその背景にあるそれぞれの社会の通念的にも、意識されていることは余り無いでしょうが概ね受け入れられているはずと言っていいと思います。(オランダに限らず)
意識はされていないので死刑なり特定の煽情的な事件をめぐって、前提を共有しない不毛な"激論"が繰り広げられているのを見る事はままありますし、勿論犯意なんて関係ない結果死んだんだから全部死刑だ目には目をだという主張をする人も一定数はいます。
ただまあ、様々な理由で概ね現代の人類社会は、そういう"幅"で意志能力を捉えるという前提で成り立っているとは言えると思います。

近年とみに評判が悪い気がする、上でも出て来た"心神耗弱/喪失"を理由とする責任能力の一部ないし全面的免除というシステムなども、こういった基本的な"幅"の(極端ではあるけれど)"一端"として位置付けておけば、そこまで感情的な議論になることも無いはずとは思いますが。純粋に偶発的な不幸な事故も保険金殺人も、全部同じ罰でいいというなら、心神喪失だろうと何だろうと関係なく、フルマークの責任能力を認めればいいわけですけど。そんな人はそうそういないのではないかと、"厳罰"好きなタイプの人でも。

・・・と、いうような話は「相対性理論」や「量子力学」や「リベット実験」を持ち出さないと言えないのかというとそんなことは別に無い(笑)と思うので、全体としては少し違和感というか、少なくともたった25分のドキュメンタリーに無理してねじ込む話ではないように思いますが、言いたいことは分かる気がするというか確かにオランダの例は面白かった(笑)というか。

罰を与えるために、人々は自由意志の存在を正当化するわけです。

繰り返しになりますが、結局このいら付きでしょうね。自由意志があるからあるとしているのではなくて、罰を与えたい欲求の"都合"で、無理にでも責任能力を認定しているだろうという。



4.自由意志の「可能」性

(1)「自由」な思考

「自由意志」の存在について、純科学的にはかなり悲観的なヴィジョンを提出しているこの論考(ドキュメンタリー番組)ですが、それに対する"救済"的な箇所二つ。

我々は人間ですから、とっても賢いんです。ですからそうしたこと[注:自由意志]を考えることは出来ます。
我々の意思決定の多くは、この想像のヴァーチャル・リアリティの中で行われているんです。一日の半分は、色々なことを想像して過ごします。(中略)我々の想像のヴァーチャル・リアリティの中で、自由意志は動いているわけです。
リベット実験のようにそれほど選択するということではなく、大きな影響を持つ決定を行っているわけです。

想像するのは自由である。
そして想像の中だけでなされた「決定」に従って行動することが人にはままあるから、その時その人は「自由」意志を持っていると言える。

自由意志というのは知的な決定をする能力というのであれば、それには問題はありません。そうだとすれば、多くの自由意志があると言えるでしょう。

同様に、身体反応の反映や曖昧な無意識的思考ではなし得ない、高度に知的で抽象的な思考をしている時は、その人は自由意志を持ってる。

・・・のだそうですが。
そうなのか?そういう話なのか?それだけの話なのか?

例えばそれが心理・生理学的なレベルの"反・自由意志"論、パブロフの条件付け理論あたりに始まる人間は単なる刺激に対する反応マシーンであってそこに"心"も"人格"も"意識"も増して"自由意志"なんて結構なものは存在しないのだという現代の標準的な"科学"主義的人間観(相当大雑把ですが)に対してなら、こうした議論は反論になる可能性がありますし実際それに類することは方々で行われていると思います。
ただそれが"ビッグバンから始まる決定論的な因果の連なり"や、"過去も現在も未来も既に実現している確定したものだ"というブロック宇宙論的時空観のような"物理学"的な反・自由意志論を相手にした時に、上の程度の話で証明事足れりとしていいのかには大いに疑問があります。もし"決まっている"のならば、それは我々が頭の中で考えることまで含めて、どんなにそれが純知的な内容だろうと決まっているのではないか、なぜならそれが「運命」というものだからだという。

ここでもやはり、僕が最初から問題にしている"二種類"の自由意志論を区別しないで論じる弊害が出ている気はするわけですが。
つまり上で"救"われている「自由意志」は、あくまで心理・生理的レベルで攻撃を受けているマイナーな方の自由意志でしかないという。

・・・まあ多分、ここらへんが関係しているんだと思いますけどね。

決定論者の根本的な過ちは、因果関係特に脳の因果関係が十分だと考えている事なんです。脳の因果関係が基準で制限されるものだとしたら、この因果関係は十分なものではなく、足りるかどうかという問題だと思います。

こうした音のパターンが、脳の活動のパターンを決めます。そして指でトントンとするわけですけども、みんな同じリズムではありません。そして指でトントンとタップしない人もいます。ですからこのエネルギーのパターンが、予想が出来るとは限らないんです。エネルギーのパターンは、必ずしも物理の法則に従いません。

ビッグバンから始まる因果の連なりは確かに届いているのかもしれないが、それは言わば「入力」としてであってそこから何が「出力」されるかは人間の脳や行動の複雑性からするとかなりランダムがあるという。増してその「入力」の直接的影響から離れたところで勝手に行われる「想像」や「知的決定」については、ほとんど"自由"と言ってもいいのであると。

「運命」「運命」と、あんまり僕は言い過ぎたのかもしれません。ビッグバンは「帰結」するだけで、「結果」を先回りして決定するというものではないのかもしれない。("決定論"でも)
ただしそれでも「ブロック宇宙」論の方は、容易に突破出来ない"敵"として、依然存在しているように見えますけどね。(笑)


(2)自由であっても。そうでなくても。

確かに危険はありますよね、人間の存在は無意味に感じてしまう、私たちがどういう人生を選ぼうと、結局同じだと思ってしまうわけです、自分たちの道を決めることが出来ないわけですから。ただ実際私たちは未来を見ることは出来ませんよね、ですから私たちが自由意志を持っているという幻想を持つことが出来る、それで十分なんです、現実的な意味では。私たちは自分で選んでいるわけですからね。
将来がそうなってみて、後ろを振り返ってああこうなることは決まっていたんだと思うことがあっても、自由意志で選択しているのだという気持ちが駄目になることは無いわけですよ。自由意志というのは、私自身にとって今の現実であればいいのです。

基本的に「自由意志」はあるのか無いのか、あるとすればどの程度どのようにあるのかをめぐってこの論考は繰り広げられているわけですが。
しかしその全てをある意味すっ飛ばした、無くてもいいのだ、あるいはあっても無くても結局同じなのだという、予め用意された"超・結論"的な箇所。全体の総括とかではなくて、"Part1"の最後の方に、さらっとちゃっかり入ってますが。

幻想を持てれば十分だ。気持ちが駄目になることは無い。
何を言ってるのかと思うかもしれませんが、僕はこれ結構分かる気がします。
何かを"する"ことが、それについて望み通りの"結果"を出すことが人生の目的だ生きる事だと思っている人にとっては、結果が既に決まっている世界で生きることは無意味だという事になるかもしれません。
・・・ただしそういう人にとっては、望み通りの結果が"出ない"ことも失敗であり無意味な人生なんでしょうから、最初から7割5分くらい外れの確率があるわけで、大変な人生ですよね。
どういう計算かって?"決まっている"確率が決まっている決まっていないの二つに一つで5割、残り5割の"決まってない"確率を引き当てたとしても、その世界で思い通りの結果が出ない確率がまた出る出ないの二つに一つでここでも5割。5割+5割の5割で2.5割で合わせて7.5割。雑な計算。(笑)

まあそれは半分冗談にしても、実際には人生とは生きるということは、何かをすることそのものではなくて、何かをしたりしなかったり別の事をしたり、それについて当初の予定通りの結果が出たり出なかったりする、その過程で自分が考えたり感じたりあれこれするその(内的)"経験"の方ではないかと思うんですがどうでしょう、思いませんか?(笑)
思わないならしょうがない(おい)んですけど、とにかくそういう前提に立つと実際に必要となるのは瞬間瞬間の個々の選択について感じられるミクロな「自由」の感覚であって、マクロはある意味どうでもいいんですよ。特定の結果が必要なのではなくて、何らかの過程で何らかの経験が出来ればいいわけですから。ミクロな自由感が"無い"のはまずいですけどね、一挙一動常に誰かの指示を意識させられていたり、逆にゾンビにでもされて意識が無かったりすると。プロセスへの参加感が無いと、ろくな感興もわきませんから、それだと正に"虚しい"人生になってしまいます。とにかく「選ぶ」瞬間("今の現実")に自由の感覚が伴っていれば、それで足りる。十分に意義のある人生と言える。

そんなようなことを、この人は言っているんだと思います。この人の言う、自由意志の"現実的"意味とは、そういうこと。

勿論道徳的な危険はありますよね、マクロの決定論の認識には。本人が無気力になるくらいならまだしも、どうせ決まっているんだから、何やっても誰殺してもいいという事にもなりかねない。だから社会通念としてそう簡単に決定論が受け入れられることは、無いとは思いますが。
一方で頭の隅に決定論の可能性を置いておけば、各々が目の前の結果にそれほど執着しなくなって、もっと平和な世界になるかもしれない(笑)。仏教的悟りや老荘的境地を地で行く社会というか。・・・でもユダヤ・キリスト教も"運命論"だよな、でも全く平和になる気配が無いけど、どうしたことか。

真面目な話に戻して、例え最悪ミクロの自由、自由意志の"幻想"があればいいと割り切っていたとしても、マクロの不自由・決定論の可能性を意識するのは愉快なことではないですよね。それを意識していない時にしか、ミクロの自由も楽しめないでしょう。やはり出来る事ならば、未来は決まっていない方がいいと、僕も思います。・・・多分。(笑)
多分というのはつまり、人類が「自由意志」を駆使してこれから紡ぎ出しそうな未来に希望が持てなければ、危うさの方を遥かに強く感じてしまうなら、いっそ未来は決まっていた方が、安心ないしは少なくとも諦めは付きやすいかも知れないという事で(笑)。そっちは良く転がればラッキーくらいに諦めておいて、改めて個人としてはミクロな自由に専念するという。(笑)


まとめ、というわけでもないですが、この項の二つの話とこれまでの話を合わせると、例えばこういうヴィジョンが見えて来たり。
概ね決定論的に振る舞おうとするらしいビッグバン由来の「入力」から距離を取ったところで展開される、"想像"や"抽象的思考"の領域にのみ人間の自由の余地は現状見込めて、逆にそこにこそ「人生」の実(じつ)もあるという。
"具体"的な「行為」「行動」の世界、つまりは(宇宙とよりダイレクトに繋がっている)身体によって担われる人生の方は、その分ビッグバンの悪戯の操り人形性が強いので、"自由意志"という観点からは余り価値が高くないというが分の悪い投資というか。"虚"(きょ)の人生というか。
・・・優れてオタク好みのヴィジョンではあるかも知れません(笑)。見方によっては宗教者的とも。
つまり「本体」はヴァーチャル。(時代はパーシャル)

まあさっきの話からすると"操"られていても自由の幻想があればいいんだということではあるんですが、それはそれとして、なるべくなら"操"られていないことを見込みながら生きてはいたいもので。その為の"領域"の限定。
その"領域"が、「人間」という現象の総体の何%くらいを占めているのか、それは分からないですけどね。何%の自由があるのか。あるいは今後それは、拡張し得るのか。


以上でだいたい、この短い中に奇妙に意欲的な内容の込められたBBCのドキュメンタリー番組の解説は、出来たように思います。
結局そもそもの「リベット実験」というものをどう評価したらいいのかどの程度の話なのかというのが実はよく分かっていなかったりするので、それについてはまあその内読んでみて改めてと、思ってはいますが。


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
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