2020年06月10日 (水) | 編集 |
サッカーの試合も含む今正に見ている番組の実況的感想とか、多くはツイッターで流れて来るweb記事や他の人のブログ記事の紹介的感想とか、あるいは即時性以外何の内容も無い(笑)、体調が悪いとか天気がいいとか、そういうのはまあ自然に書けるんですけど。
ただそれ以外のorそれらの中間の、結構言いたいことはあるんだけど特に世間の何きっかけでもなくてこいついきなり何言ってんの?となりそうなものや、短くまとめるとかえって意味が分からなくなりそうなものとかを、書こうと思ってやめて書こうと思ってやめて、その内忘れちゃうみたいなことを陰で勝手に繰り返しているので(笑)、もう諦めてブログで書くことにしようかなと。
今までも忘却を繰り返しているので、思い付いた時に書いてたらどのくらいの量になるのか、自分でもよく分からないんですけどね。週一まとめか、隔週か。あんまり多いようだと、やっぱりツイッターで書け!という感じになりそうですが。
「クズ」とはどういう人たちか ~「しくじり先生」より
・放送形態を変えながら、何やかやと6年以上続いているテレ朝の人気番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(公式、Wiki)
・僕も最初期を除いてほぼ毎回欠かさず見ていますが、基本何らか「"成功した人"の過去の失敗談」が語られる事の多いプロクラムの中で、ネタ不足もあるのでしょう、最近割りと増えて来た感があるのが別に成功したわけでもない芸人のほとんどただただ"しくじっ"てるだけのクズエピソードが、申し訳程度の反省と共に披露されるパターンで、実は僕これ割りと好きなんですよね。(笑)
・今年だと
反省の仕方がわからず逆切れした津田篤宏先生(ダイアン)['20.4.6]
空気階段 家庭を顧みないクズ男のもぐら先生['20.3.16]
嫌なことから逃げまくって何も無くなっちゃった三瓶先生['20.2.3]
あたり。
・それ以前に遡ると
借金界のキングクズ スパローズ大和先生['19.5.20]
すぐ人を怒らせてしまう日本代表 丸山桂里奈先生['17.9.10]
#13 杉村太蔵先生['15.1.8]
あたり。
・今年になって増えてるのは確かでしたが、全体の中では意外と多くなかった。印象が強烈なだけか。
・太蔵&桂里奈の"怪物"二人を、他と一緒にしていいのかという問題もありますし。(笑)
・性格破綻、ギャンブル、逃避癖、借金とそれぞれのジャンルにおいて、タイトルに含まれることもあり、収録中も遠慮なく出演者から"クズ""ダメ"呼ばわりされるこれらの人たち。
・共通しているのはその突き抜けた"正直"さで、空気読まずに突き進む太蔵&桂里奈的な"強者"の正直もあれば、三瓶の逃避癖のようにただただ自己破壊的で非生産的なものもあり、あるいはその中間でもぐらのギャンブルや大和の借金のように駄目は百も承知で自己弁護はしないんだけど、一方でそういう自分の欲望を"否定"する気も頑としてないという「心中」型とでも呼ぶべきようなものや、パターンは色々。
・ダイアン津田は、"強者"型と"三瓶"型(弱者型)が混じったような、不思議な類型か。
・とにかく彼らの身も蓋も無い"正直"さは僕を大いに笑わせてくれるわけですが、しょうがねえなあとつぶやきつつもその時僕は彼らは馬鹿にしているわけでは全然ないんですよね。
・三瓶、津田ですら、尊敬までは出来ないけれど(笑)軽蔑しているわけではない。
・もっと嫌いな奴もっと尊敬出来ない奴は、それこそここで「成功者」として演台に上がっているタイプの人の中にもいくらでもいる。
・それは結局彼らが"正直"であるからでありますが、正直だから偉いとかいうモラル的なことというよりも、彼らの発露する「正直」の中に自らの欲望生理への忠実の中に、否定しようのない「正しさ」を感じる瞬間がしばしばあるから。
・「正しい」と感じたらその種類はともかくそれには向き合わないといけないので、軽蔑して済ますことは出来ない。"モラル"と言うならそっちの方。
・実際自虐や放言の間にたまに挟まれる彼らの「だって~じゃないですか」式の"分析"は、ほとんど例外なくドキッとする程正しく感じられる。
・それらはあくまで"エピソード"(挿話)であって、その種の"正しさ"や冷静さが、彼らの人生の"中心"として機能することはまず無いようなのだけれど。(笑)
・そうしたある意味での"鋭い洞察力"や、ある種の、褒めていいのかよく分からないですが(笑)自分の身も蓋も無い欲望生理と"心中"する「強さ」を持った彼らのようなタイプの人が、なぜ世間的には『クズ』と言われるような人格・人生を形成してしまうのかですが。
・一言で言えば、「早過ぎる」、からかなと。早熟・促成、早過ぎる"正しさ"。
・どういうことかというと、彼らが身をもって実行しているような"箍"(たが)の外れ方、規範の緩み方、自分の理想化や幻想的期待を放棄して、生理や"本音"に身を委ねて生きるというような行動は、実は僕ら平均人の多くもやっているんですよね・・・ただし専ら年を取ってから。
・ええええそうですよ、おっさんですよ、汚いですよ、恥知らずですよ?悪いですか?だっておっさんだものという。(笑)
・勿論おばさんも同じですけど、"おっさん"が「男」濃度を高めるニュアンスがあるのに対して、おばさんの場合は「女を捨てた」と言われる場合が多いのが、非対称なところ。
・それはまあいいんですけど、一方でではなぜ加齢と共にそういう現象が起きやすいかというと、一つには「成熟」という社会上の概念が、そうした非理想主義的非純粋主義的振る舞いを良しとしている是としている、"奥行き"や"深遠"や"厚み"として肯定している部分があるからでしょうね。
・それ以前にもっと個人的に、理想や純粋や建前が"破れ"続ける各々の人生行路の中で、否応なくそれ以外のアプローチの必要性を感じさせられる経験があって、そこにある種の「渡りに船」として、"成熟"のような概念が存在しているのでそれで渡っちゃうという、そういう感じか。(笑)
・とにかくそうして僕らも多かれ少なかれ"クズ"化する、"クズ"である自分(の部分)に正直になって行く、内面的な経験としても、社会的に許容された位置付けとしても。
・ただ違うのは普通の人の場合、それ以前に、"クズ"ではなかった"クズ"の比重高く生きていなかった前半生が存在することで。
・それは少年少女的潔癖としても勿論そうだし、青年・壮年期においても、"何者"かになる為に"何者"かに見てもらう為に、なにがしかの理想を掲げ、幻想的期待を自分に寄せ、それをプレゼンテーションし、建前や外聞にも配慮しながら人生を構成して行くわけです。
・それらの大部分は実現しなかったり無内容だったり虚偽だったり、虚偽であることを意識すらしていたりするわけですが、とにかく常に、"何か"はある。何かと共に生きている。
・「何かに熱中している人が好き」「夢に向かって生きている人が好き」と、女の子たちも言うしね。(笑)
・そして夢破れようが虚偽だろうか、何らかそういう精神の働きや経験の領域との、「対照」で"クズ"の領域も存在する。
・僕らの"クズ"も彼らの"クズ"も、基本的な内容は変わらないはず。(だから苦笑しつつも共感が出来る)
・違うのは・・・タイミング。その発露の。開花(?)の。
・人生後半か、早々か。(笑)
・それによって生まれる"隠し味"と"主力"という、機能のありようの違い。
・同じ内容なのに彼らの腐されようは気の毒だとか、人格構成が立体的でないといけないと誰が決めたんだとか、そもそも僕ら普通人が偽善者なだけなのではないかとか、様々疑問も浮かぶわけですが。
・一方ででは"正直"な彼らは"正常"なのかというと必ずしもそうも思えないところがあって。
・やはり何がしかの"奇形"性、たとえそれ自体に真実性があっても余りにも早く狭く"固まり"過ぎるという、控えめに言って"早熟"の害というものはあるようには思います。
・更に言うと彼らが"正直過ぎるクズ"に甘んじる、自己弁護の能力を持たないことには恐らく理由があって、普通の人が持つようなそもそもの「理想」や「幻想」を抱く能力抱かせる素質というものが、具体的な思想内容以前に欠けているところはあるのではないかなと。
・誰だって自己弁護はしたいわけで、その為に必要な能力は生きていれば普通に磨かれるはずで。
・だから逆に、"欠けている"からこそ"正直"でいられるという、因果の方向はあるんでしょうけどね。
・それでも彼らの「正直」を基本的には僕は支持しますし、しばしば感動を覚えるのも嘘ではないですけど。
・でも自分の"偽善"も、そこまで責める気はない(笑)。これはこれで、やはり"ノーマル"かつ有益な部分は多くあると思ってますが。
・結論は何でしょうね。「人生は"正しさ"だけで構成されているわけではない」、とか?
・もしくは、「正しさだけでは"間がもたない"」(笑)。80-100年間の構成上。
・だからもし人間の寿命が20年とかだったら、彼らの生き方こそが正しいのかもしれない。
・その場合はむしろ、"動物"に近付く感じはしますが。
・ん?でも動物にもそれなりにライフサイクル(によるパーソナリティの変化)はあるよな。やっぱり彼らは何かおかしいのか。
・まあこれくらいで。
・それなりに予想はしていましたが、それにしてもずいぶん長い"ツイート"になった。(笑)
・これを140字で書けないかというと、書けないことはないんですが。
・こんな感じ。どっちがいいでしょうね。(笑)
・意味は通ると思うけど、いきなりツイッターでこれ読まされてもなという感じはするんですが。(笑)
複数ネタが基本のつもりのコーナーなんですが、いきなり随分書いてしまったので今回はあと一つだけ。
ポップ音楽におけるジェネレーション・ギャップ
・"毎年"少しずつという感じなんですが、(音楽を最も能動的に聴いていた)大学時代に好きだった/熱中していたバンドが、スマホでヘッドフォン聴き用の google play music のリストから、一つまた一つと姿を消していきます。
・去年まではまだ聴けたけど、今年はもう厳しいかなという感じで。(部屋でながら聴きくらいなら問題ないですが)
・寂しいな、あんなに好きだったのに、というのと同時に、自分自身の趣味でもそうなんだから、他人の世代の違う人の趣味・感性なんかとは、理解・対話が成立する方が奇跡的だと思ってた方がいいよなと改めて。
・実際ネット上でそれなりに年の離れていると思しき(まあ10歳前後以上?)"友人"たちと交流したりツイートを眺めていて、他の事なら多少年が離れていても分かり合えるところも多いな、知己だなと感じる人でも、ひとたび(世代の)ポップミュージックについての話になると、え?そうなん?まあ君たちにとってはそうなんかも知れんねと突然距離を感じたり"年上"マウントを取りたくなったりする自分を発見して、苦笑いすることがままあります。(笑)
・僕の他の大きな趣味ジャンル、サッカーとか海外ドラマとか漫画とかのどれと比べても、(ポップ)音楽におけるジェネレーションギャップの越え難さは際立っているように感じますね。
・その理由として考えられるのは、一つは音楽というのが非常にフィジカルなメディアであって、気持ちいい/気持ちよくない、リズム的にノれる/ノれないというようなことがストレートに出てしまって、「理解」や「対話」ではそう簡単に乗り越えられないこと。
・もう一つはその逆のような話ですが、特にポップミュージックは非常に"ファッショナブル"なジャンルなので、各バンドなりミュージシャンなりの名声が、音楽メディアを筆頭とする"世評"のしばしば偶発的な宣伝や流行やプロパガンダや都市伝説(?)に左右される部分が大きくて、それなりのレベルの知性や感性を持っている人でもそのバイアスや刻印付けから逃れるのがかなり難しいということがあるんだと思います。
・別な言い方をすると、"世代"の刻印から。
・二つまとめての補完としては、基本的にはやはり"若者"のものであるポップミュージックは、それぞれの"若者"時代の生理や特権的経験に、大きく縛られてしまうと。
・僕が「大学時代」の音楽が聴けなくなるのにも、見ていると二つのパターンがありますね。
・リズムやテンションに生理的密着感が無くなる場合と、かつて「革命的」とか言われて少なからずその気になっていたり(笑)したものが、改めて聴くと何なのこれ?と、年月を経て洗脳が解けてしまうというパターン。(笑)
・対してサッカーの場合では、~ジャパンから見ているとか~政権からのファンとか、物理的に試合を見ている見ていないのギャップは実は小さくないはずですが、その割にそれはそれとして、年上の書き手の書く物も余程"今時の若いモンは"的書き方でもしない限り(笑)、後発読者は丁寧に受け止めて読んでくれるという伝統があるように思います。
・恐らくは勝つ/勝たないという分かり易く公平な指標が、存在していることが大きいと思いますが。
・良い/悪いとかではなく。(笑)
・あるいは漫画については以前ちらっとつぶやいた
ように、こちらは逆に"先発"読者が後発作者の作品をリアルタイムでウェルカムで楽しめているという意味で、純然たる文化差以上の"ギャップ"はほとんど存在していないと、言えるのではないかと思っています。
・恐らく逆に"古い"と感じるような文体や絵柄についての感じ方も、新旧読者に大して差は無いように見えますが。細かいギャップを探し出せば、切りは無いとしても。
・次に海外ドラマ・・・はちょっと後述する事情でややこしいところがあるんですが、代わりに「映画」という例で見てみると。
・"過去の名作について語る"という習慣が妙に盛んな(笑)独特の風土もあって、世代間の連絡はすこぶる円満なように見えます。
・共通の遺産を持つ一つのファミリーというか。
・実際に各々が見る作品の範囲は限られていたとしても、古いから駄目だとか世代が違うから敵対心を持ち合うとか、そういうことはほとんど無いように見えます。
・ていうかぶっちゃけ「スタイル的な革新」という程のものは主流ではほとんど起きないジャンルなので、そもそも「世代」で見るようなものでもないんですよね、「思い出」という意味以外では。(笑)
・せいぜい特殊撮影技術の進歩くらいでしょうか、"時代"の緊張感が存在しているのは。
という流れで次は「後述」部分について書こうかと思ったんですが・・・やめます。また今度。(笑)
一応"音楽"の話ではあるんですけどね、別の"ツイート"なので。(笑)
ただそれ以外のorそれらの中間の、結構言いたいことはあるんだけど特に世間の何きっかけでもなくてこいついきなり何言ってんの?となりそうなものや、短くまとめるとかえって意味が分からなくなりそうなものとかを、書こうと思ってやめて書こうと思ってやめて、その内忘れちゃうみたいなことを陰で勝手に繰り返しているので(笑)、もう諦めてブログで書くことにしようかなと。
今までも忘却を繰り返しているので、思い付いた時に書いてたらどのくらいの量になるのか、自分でもよく分からないんですけどね。週一まとめか、隔週か。あんまり多いようだと、やっぱりツイッターで書け!という感じになりそうですが。
「クズ」とはどういう人たちか ~「しくじり先生」より
・放送形態を変えながら、何やかやと6年以上続いているテレ朝の人気番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(公式、Wiki)
・僕も最初期を除いてほぼ毎回欠かさず見ていますが、基本何らか「"成功した人"の過去の失敗談」が語られる事の多いプロクラムの中で、ネタ不足もあるのでしょう、最近割りと増えて来た感があるのが別に成功したわけでもない芸人のほとんどただただ"しくじっ"てるだけのクズエピソードが、申し訳程度の反省と共に披露されるパターンで、実は僕これ割りと好きなんですよね。(笑)
・今年だと
反省の仕方がわからず逆切れした津田篤宏先生(ダイアン)['20.4.6]
空気階段 家庭を顧みないクズ男のもぐら先生['20.3.16]
嫌なことから逃げまくって何も無くなっちゃった三瓶先生['20.2.3]
あたり。
・それ以前に遡ると
借金界のキングクズ スパローズ大和先生['19.5.20]
すぐ人を怒らせてしまう日本代表 丸山桂里奈先生['17.9.10]
#13 杉村太蔵先生['15.1.8]
あたり。
・今年になって増えてるのは確かでしたが、全体の中では意外と多くなかった。印象が強烈なだけか。
・太蔵&桂里奈の"怪物"二人を、他と一緒にしていいのかという問題もありますし。(笑)
・性格破綻、ギャンブル、逃避癖、借金とそれぞれのジャンルにおいて、タイトルに含まれることもあり、収録中も遠慮なく出演者から"クズ""ダメ"呼ばわりされるこれらの人たち。
・共通しているのはその突き抜けた"正直"さで、空気読まずに突き進む太蔵&桂里奈的な"強者"の正直もあれば、三瓶の逃避癖のようにただただ自己破壊的で非生産的なものもあり、あるいはその中間でもぐらのギャンブルや大和の借金のように駄目は百も承知で自己弁護はしないんだけど、一方でそういう自分の欲望を"否定"する気も頑としてないという「心中」型とでも呼ぶべきようなものや、パターンは色々。
・ダイアン津田は、"強者"型と"三瓶"型(弱者型)が混じったような、不思議な類型か。
・とにかく彼らの身も蓋も無い"正直"さは僕を大いに笑わせてくれるわけですが、しょうがねえなあとつぶやきつつもその時僕は彼らは馬鹿にしているわけでは全然ないんですよね。
・三瓶、津田ですら、尊敬までは出来ないけれど(笑)軽蔑しているわけではない。
・もっと嫌いな奴もっと尊敬出来ない奴は、それこそここで「成功者」として演台に上がっているタイプの人の中にもいくらでもいる。
・それは結局彼らが"正直"であるからでありますが、正直だから偉いとかいうモラル的なことというよりも、彼らの発露する「正直」の中に自らの欲望生理への忠実の中に、否定しようのない「正しさ」を感じる瞬間がしばしばあるから。
・「正しい」と感じたらその種類はともかくそれには向き合わないといけないので、軽蔑して済ますことは出来ない。"モラル"と言うならそっちの方。
・実際自虐や放言の間にたまに挟まれる彼らの「だって~じゃないですか」式の"分析"は、ほとんど例外なくドキッとする程正しく感じられる。
・それらはあくまで"エピソード"(挿話)であって、その種の"正しさ"や冷静さが、彼らの人生の"中心"として機能することはまず無いようなのだけれど。(笑)
・そうしたある意味での"鋭い洞察力"や、ある種の、褒めていいのかよく分からないですが(笑)自分の身も蓋も無い欲望生理と"心中"する「強さ」を持った彼らのようなタイプの人が、なぜ世間的には『クズ』と言われるような人格・人生を形成してしまうのかですが。
・一言で言えば、「早過ぎる」、からかなと。早熟・促成、早過ぎる"正しさ"。
・どういうことかというと、彼らが身をもって実行しているような"箍"(たが)の外れ方、規範の緩み方、自分の理想化や幻想的期待を放棄して、生理や"本音"に身を委ねて生きるというような行動は、実は僕ら平均人の多くもやっているんですよね・・・ただし専ら年を取ってから。
・ええええそうですよ、おっさんですよ、汚いですよ、恥知らずですよ?悪いですか?だっておっさんだものという。(笑)
・勿論おばさんも同じですけど、"おっさん"が「男」濃度を高めるニュアンスがあるのに対して、おばさんの場合は「女を捨てた」と言われる場合が多いのが、非対称なところ。
・それはまあいいんですけど、一方でではなぜ加齢と共にそういう現象が起きやすいかというと、一つには「成熟」という社会上の概念が、そうした非理想主義的非純粋主義的振る舞いを良しとしている是としている、"奥行き"や"深遠"や"厚み"として肯定している部分があるからでしょうね。
・それ以前にもっと個人的に、理想や純粋や建前が"破れ"続ける各々の人生行路の中で、否応なくそれ以外のアプローチの必要性を感じさせられる経験があって、そこにある種の「渡りに船」として、"成熟"のような概念が存在しているのでそれで渡っちゃうという、そういう感じか。(笑)
・とにかくそうして僕らも多かれ少なかれ"クズ"化する、"クズ"である自分(の部分)に正直になって行く、内面的な経験としても、社会的に許容された位置付けとしても。
・ただ違うのは普通の人の場合、それ以前に、"クズ"ではなかった"クズ"の比重高く生きていなかった前半生が存在することで。
・それは少年少女的潔癖としても勿論そうだし、青年・壮年期においても、"何者"かになる為に"何者"かに見てもらう為に、なにがしかの理想を掲げ、幻想的期待を自分に寄せ、それをプレゼンテーションし、建前や外聞にも配慮しながら人生を構成して行くわけです。
・それらの大部分は実現しなかったり無内容だったり虚偽だったり、虚偽であることを意識すらしていたりするわけですが、とにかく常に、"何か"はある。何かと共に生きている。
・「何かに熱中している人が好き」「夢に向かって生きている人が好き」と、女の子たちも言うしね。(笑)
・そして夢破れようが虚偽だろうか、何らかそういう精神の働きや経験の領域との、「対照」で"クズ"の領域も存在する。
・僕らの"クズ"も彼らの"クズ"も、基本的な内容は変わらないはず。(だから苦笑しつつも共感が出来る)
・違うのは・・・タイミング。その発露の。開花(?)の。
・人生後半か、早々か。(笑)
・それによって生まれる"隠し味"と"主力"という、機能のありようの違い。
・同じ内容なのに彼らの腐されようは気の毒だとか、人格構成が立体的でないといけないと誰が決めたんだとか、そもそも僕ら普通人が偽善者なだけなのではないかとか、様々疑問も浮かぶわけですが。
・一方ででは"正直"な彼らは"正常"なのかというと必ずしもそうも思えないところがあって。
・やはり何がしかの"奇形"性、たとえそれ自体に真実性があっても余りにも早く狭く"固まり"過ぎるという、控えめに言って"早熟"の害というものはあるようには思います。
・更に言うと彼らが"正直過ぎるクズ"に甘んじる、自己弁護の能力を持たないことには恐らく理由があって、普通の人が持つようなそもそもの「理想」や「幻想」を抱く能力抱かせる素質というものが、具体的な思想内容以前に欠けているところはあるのではないかなと。
・誰だって自己弁護はしたいわけで、その為に必要な能力は生きていれば普通に磨かれるはずで。
・だから逆に、"欠けている"からこそ"正直"でいられるという、因果の方向はあるんでしょうけどね。
・それでも彼らの「正直」を基本的には僕は支持しますし、しばしば感動を覚えるのも嘘ではないですけど。
・でも自分の"偽善"も、そこまで責める気はない(笑)。これはこれで、やはり"ノーマル"かつ有益な部分は多くあると思ってますが。
・結論は何でしょうね。「人生は"正しさ"だけで構成されているわけではない」、とか?
・もしくは、「正しさだけでは"間がもたない"」(笑)。80-100年間の構成上。
・だからもし人間の寿命が20年とかだったら、彼らの生き方こそが正しいのかもしれない。
・その場合はむしろ、"動物"に近付く感じはしますが。
・ん?でも動物にもそれなりにライフサイクル(によるパーソナリティの変化)はあるよな。やっぱり彼らは何かおかしいのか。
・まあこれくらいで。
・それなりに予想はしていましたが、それにしてもずいぶん長い"ツイート"になった。(笑)
・これを140字で書けないかというと、書けないことはないんですが。
アト@atosann 6月10日
『#しくじり先生』に出て来る"クズ"系芸人先生たちを見てて思うのは、彼らは要するに普通の人なら人生後半の"成熟"として気付くような自分の"本当"の欲望"本当"の姿に、不幸にして人生早期に気付いてしまってそこから動けなくなってしまった人達なのではないかという事。不都合な"正しさ"。
・こんな感じ。どっちがいいでしょうね。(笑)
・意味は通ると思うけど、いきなりツイッターでこれ読まされてもなという感じはするんですが。(笑)
複数ネタが基本のつもりのコーナーなんですが、いきなり随分書いてしまったので今回はあと一つだけ。
ポップ音楽におけるジェネレーション・ギャップ
・"毎年"少しずつという感じなんですが、(音楽を最も能動的に聴いていた)大学時代に好きだった/熱中していたバンドが、スマホでヘッドフォン聴き用の google play music のリストから、一つまた一つと姿を消していきます。
・去年まではまだ聴けたけど、今年はもう厳しいかなという感じで。(部屋でながら聴きくらいなら問題ないですが)
・寂しいな、あんなに好きだったのに、というのと同時に、自分自身の趣味でもそうなんだから、他人の世代の違う人の趣味・感性なんかとは、理解・対話が成立する方が奇跡的だと思ってた方がいいよなと改めて。
・実際ネット上でそれなりに年の離れていると思しき(まあ10歳前後以上?)"友人"たちと交流したりツイートを眺めていて、他の事なら多少年が離れていても分かり合えるところも多いな、知己だなと感じる人でも、ひとたび(世代の)ポップミュージックについての話になると、え?そうなん?まあ君たちにとってはそうなんかも知れんねと突然距離を感じたり"年上"マウントを取りたくなったりする自分を発見して、苦笑いすることがままあります。(笑)
・僕の他の大きな趣味ジャンル、サッカーとか海外ドラマとか漫画とかのどれと比べても、(ポップ)音楽におけるジェネレーションギャップの越え難さは際立っているように感じますね。
・その理由として考えられるのは、一つは音楽というのが非常にフィジカルなメディアであって、気持ちいい/気持ちよくない、リズム的にノれる/ノれないというようなことがストレートに出てしまって、「理解」や「対話」ではそう簡単に乗り越えられないこと。
・もう一つはその逆のような話ですが、特にポップミュージックは非常に"ファッショナブル"なジャンルなので、各バンドなりミュージシャンなりの名声が、音楽メディアを筆頭とする"世評"のしばしば偶発的な宣伝や流行やプロパガンダや都市伝説(?)に左右される部分が大きくて、それなりのレベルの知性や感性を持っている人でもそのバイアスや刻印付けから逃れるのがかなり難しいということがあるんだと思います。
・別な言い方をすると、"世代"の刻印から。
・二つまとめての補完としては、基本的にはやはり"若者"のものであるポップミュージックは、それぞれの"若者"時代の生理や特権的経験に、大きく縛られてしまうと。
・僕が「大学時代」の音楽が聴けなくなるのにも、見ていると二つのパターンがありますね。
・リズムやテンションに生理的密着感が無くなる場合と、かつて「革命的」とか言われて少なからずその気になっていたり(笑)したものが、改めて聴くと何なのこれ?と、年月を経て洗脳が解けてしまうというパターン。(笑)
・対してサッカーの場合では、~ジャパンから見ているとか~政権からのファンとか、物理的に試合を見ている見ていないのギャップは実は小さくないはずですが、その割にそれはそれとして、年上の書き手の書く物も余程"今時の若いモンは"的書き方でもしない限り(笑)、後発読者は丁寧に受け止めて読んでくれるという伝統があるように思います。
・恐らくは勝つ/勝たないという分かり易く公平な指標が、存在していることが大きいと思いますが。
・良い/悪いとかではなく。(笑)
・あるいは漫画については以前ちらっとつぶやいた
間違いなく言えるのは高度な「論理性」や「エリート性」が少年漫画でデフォ化せざるを得ない位、今の子供が"厳しい"世界で生きてるという事。
— アト (@atosann) March 24, 2020
ただ言わせてもらうと笑かつての少年読者ももっと「厳しい」作品が読みたいとは実は思っていたので、そういう意味での"世代差"は無い気がする。純粋な成熟。
ように、こちらは逆に"先発"読者が後発作者の作品をリアルタイムでウェルカムで楽しめているという意味で、純然たる文化差以上の"ギャップ"はほとんど存在していないと、言えるのではないかと思っています。
・恐らく逆に"古い"と感じるような文体や絵柄についての感じ方も、新旧読者に大して差は無いように見えますが。細かいギャップを探し出せば、切りは無いとしても。
・次に海外ドラマ・・・はちょっと後述する事情でややこしいところがあるんですが、代わりに「映画」という例で見てみると。
・"過去の名作について語る"という習慣が妙に盛んな(笑)独特の風土もあって、世代間の連絡はすこぶる円満なように見えます。
・共通の遺産を持つ一つのファミリーというか。
・実際に各々が見る作品の範囲は限られていたとしても、古いから駄目だとか世代が違うから敵対心を持ち合うとか、そういうことはほとんど無いように見えます。
・ていうかぶっちゃけ「スタイル的な革新」という程のものは主流ではほとんど起きないジャンルなので、そもそも「世代」で見るようなものでもないんですよね、「思い出」という意味以外では。(笑)
・せいぜい特殊撮影技術の進歩くらいでしょうか、"時代"の緊張感が存在しているのは。
という流れで次は「後述」部分について書こうかと思ったんですが・・・やめます。また今度。(笑)
一応"音楽"の話ではあるんですけどね、別の"ツイート"なので。(笑)
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