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「ドリブル」と「戦術の内面化」の観点からのヴェルディ回顧 (1)
2020年08月18日 (火) | 編集 |
ふかばさんが提起した「ヴェルディとドリブラー意外と縁が薄い」問題と、同じ記事のふかばさんや最近だとuaiohさんが提起している「ヴェルディの戦術遂行ちょいちょい内面的理解が留守になってしまう」系問題(折に触れて色々な人が提起している問題)に刺激を受けて、一度まとめて振り返りたくなったので振り返ります。
過去のヴェルディはどうだったか、それは今のヴェルディと関係があるのかあるなら(無いかもしれない)どう関係があるのか。
古い長い話でもあり、正直着地点は特に見えていませんが、書きながら/書くことによって考えて行こうという、そういう場当たり企画です。

全体の参考として、こちらでも脇に置いておくといいかなと。
 東京ヴェルディ1969の年度別成績一覧Wiki


1.「讀賣クラブ」時代 (1969~1992)

(ドリブル)

この時代は僕自身もほぼ見ていないので、専ら伝聞と想像です。

・昔話した当時を知る人の証言やいくつか読んだ文章の記憶によると、讀賣クラブのサッカーの基本イメージは、「マンツーマンでがっちり守って奪ったボールをドリブルで運んでゴールに向かう」というものだったらしい。
・特に"ドリブル"が強調されているのが印象的。"パス"ではない。
・また指導体制としては、最初期'69~'72年の成田十次郎監督はドイツ留学経験のある体育学者でデットマール・クラマーの発掘者、'74年からコーチを務めて'81年には監督にも就任した相川亮一氏はそのクラマーの弟子、その後も'82年にはご存じ湯浅健二コーチ、'84年にはドイツ人監督ルディ・グーテンドルフを迎え入れていて、日本サッカー全体の趨勢でもあったんでしょうが、かなり"ドイツ"色の強い人選でした。
・一方で与那城ジョージの入団は'72年、ラモス瑠偉は'77年と、選手レベルでの"ブラジル"要素の導入もほぼ並行して進んでいます。
・'86年にはそのジョージが監督にも就任し、以後は監督レベルでも"ブラジル"化が進みます。(日本リーグ末期のペペ等)
・ちなみに三浦知良の入団は'90年。

歴史としては、こんな感じ。
ドリブルなのかパスなのか。
見てないついでに残っている記録だけから大胆に単純化してみると、「ジョージ与那城中心だとドリブル、ラモス中心だとパス」、ということではないかなと。前者は'72~'85'年、後者は86'年以降。

まず"ジョージ中心だとドリブル"とはどういうことかというと、これは特定の"ドリブル中心の戦術"を志向していたということではなくて、「自分で運べるなら運ぶ(ドリブル)し、足りなければ他人も使う(パス)」という、サッカーにおける最もシンプル&ナチュラルなプレー原理・優先順位(の形の一つ)でプレーしていたという事。そしてジョージを筆頭とするブラジル人選手や、後には戸塚・都並等の日本人テクニシャンも揃え日本リーグの中で相対的に個力優位だった讀賣クラブにおいては、自然ドリブルの優先順位も目立つことが多かった、それが上の『讀賣クラブ≒ドリブル』というタイプの証言の、理由があるとすれば理由かなと。
そうして中心選手としてジョージが年月を重ね、またラモスを筆頭とする理解者も集まって来る中で、パスワークの方の緻密さも本国ばりに増しては行ったでしょうが、この時点ではまだそれも自然的な総合性の中で機能していたのではないかと。ドリブル出来る時はドリブルする。その"威嚇"との対照でのパス。

それが"選手"ジョージが監督に退き、ラモス中心に変わって行った時に何が起きたかについては、次の記述を。

「ジョージが引退したことで、読売のパスの出し手がラモス(瑠偉)ひとりに減った。ジョージは長短のパスもドリブルも自在。試合の序盤は、こちらがしっかりとマークしていると、後ろからロングボールを散らして出てこない。ところが少しでも隙を見せると、一気に飛び出して来る。止めようがなかった。でもラモスは5~10メートルのパスは抜群でも30メートルのパスはない。気持ち良くボールを持たせておいても、最後はワンツーに飛び込まず、3人目の飛び出しをケアしておけば良かった」(清水秀彦)


サッカーダイジェストwebということですけど、元ネタは以前僕もレポしたこの本。



とにかくその結果讀賣クラブ/ヴェルディ川崎は、日産/横浜マリノスに全く勝てなくなります。

そんな日産が1987年3月に読売クラブから初勝利を飾ると、プロの時代に変わる1993年11月10日まで読売(ヴェルディ)の天敵であり続けた。引き分けを挟み15連勝の通過点には、当然Jリーグの記念すべき開幕戦も含まれていた。


簡単に言えば(ショート)パス"だけ"サッカーになったことによって、日産のカウンターサッカーの格好の餌食になってしまった。それが'86年以降の"ラモス中心"時代。
この続きはまた次章。


(戦術の内面化)

上で説明したように、専らドイツ系の監督の指導の下で、半ば自然発生的後付け的に、"選手発"で形成されて行ったのが所謂讀賣の"ブラジル"スタイルであろうと思われます。・・・広い意味での技術志向、"高度な"サッカーへの志向は、クラブ創設時から漠然とした目標としてはあったとしても。
だから"戦術の内面化"は最初から問題にならずに、むしろ"内面"が"戦術化"したと、極端に言えばそういう事態だったのではないかなと。
やがてそれは指導陣の選択の方向性まで変えて行き、乗っ取りが完成した(笑)というか一体化が進んだと言うか。
まあ"乗っ取り"とは言っても、輩出された選手たちを見れば分かるように、既に下部組織の方はそちら(ブラジル)の色彩濃く形成されていた(創設は'79年)わけで、クラブぐるみの方針ではあったんでしょうけどね。恐らくは出発点における"ドイツ"系指導者の選択自体が繰り返しになりますが"海外と言えばドイツ"だった時代の趨勢に従った暫定的なものであり、「内面化」すべきドイツ「戦術」のようなものがどれほど明確にあったのか無かったのか。
ともかくトップチームの人の動きだけ見ると、こういう風景が見えては来ます。



2.松木/ネルシーニョ・ヴェルディ (1993~1996)

(ドリブル)

"ヴェルディ川崎"初代監督松木安太郎による「オランダ」化の試み、それを継いだネルシーニョ・コーチ/監督による"ローテーション・フットボール"的な各種合理化と、色々改革も施されたJ開幕後でしたが、結論的に言うと日本リーグ末期"ラモス中心"時代から引き継いだ讀賣クラブ流のパス(偏向)サッカーに、本質的な変化は無かったように思います。

僕がフルに見始めたのもこの時代からな訳ですが、同時にスタートした各Jチームのサッカーと見比べて、極端に"ドリブル"の影が薄いなあという事は、すぐに気が付きました。
まず単純に"人"がいない。ドリブルの出来る人が。戦術的インパクトを与えるレベルで。
中盤の基本的構成は、柱谷哲二、ラモス、北澤、戸塚哲也という組み合わせが一番多かったですかね。松木監督期待のオランダ人DHハンセンは、スキル不足ですぐCBに下げられて、加藤久のポジションを"無駄に"奪っただけでしたし。哲さんは勿論そういう選手ではないし、ラモスは前項で述べられたように"ドリブルの出来ない"ジョージでしたし、北澤は"走る"けれどボールは扱えない、戸塚哲也は若い時はまた違ったのかもしれませんが33歳になっていたこの時点では専らパスでたまにアクセントをつけるだけの選手になっていました。永井秀樹はベンチが定位置、出ても"テクニックはあるようだな"と確認は出来るけれどそれ以上の実効性のあるプレーは出来ず(むしろ北澤的汗かきプレーの印象の方が強い)。菊原志郎が健在ならまた違ったのかもしれませんが、故障がちなのもあってほとんど出番は無し。
前線ほぼ固定の武田・カズコンビ(まあマイヤーというのもいたはいましたが)は、武田は勿論抜け出しとこぼれ球専門の"ボールに触らない"選手、一方カズは・・・ちょっと説明が難しい

プロデビューしたブラジルでは、「ブラジル人なら代表に入れた」と言われることもあったらしい、ハイレベルな"ウィング"だったらしいですが、そもそもそのブラジル的な"ウィング""11番"というポジションが、代表でもヴェルディでも、どうも見当たらない。基本的には"2トップ+1(ウィング)"みたいな組み合わせで、数え方によっては3トップなのかもしれないけど幾何学的にそんなにすっきりしたものではなくて、なかなか今のサッカーのイメージでは捕まえずらい(僕もよく分からない)。比較的最近の選手だと、2000年前後にブラジル代表で活躍したデニウソンとかが、近いイメージなのかなと思いますが。ああいう細身で左利きのサイド専門選手。間違っても"ストライカー"ではなく、デニウソンも今見たら"MF"という分類になってますね。でも別にゲームメイクに関与するわけでも守備をするわけでもない(笑)。使いづらっ。(今の観点では)
当然帰国当時の代表監督横山謙三氏もそれを引き継いだオランダ人監督オフトも技術は認めつつも扱いには困ったようで、かつクラブの方のぺぺ監督も自身ブラジル人でありながら、しょっちゅうカズに関する愚痴を新聞紙上で吐露していたような記憶があります(笑)。・・・当時の面子的には「トニーニョ・武田の2トップ+11番カズ」で、フォーマットは収まりそうに思うんですけど。サッカー状況的な必然性が無かったのかな。

で、最終的にはご存じの通り、「2トップの一角の"ストライカー"」として自分を作り直すことでカズはスーパースターになって行くわけですが、その分ドリブルテクニックの使いどころは限定的になり、要はシュート直前の最終的な障害回避にほぼ集中されるようになります。
つまりはカズ個人のシュートの助けにはなるけれど、チームとしてのチャンスメイクの一部ではないドリブル。
それにしてもあれほどの確度のドリブラーがいたわけですからもう少しプレゼンスを感じていても良さそうなものですが、ヴェルディがそもそも("ウィング"カズからの)"クロスを叩き込む"タイプの点の取り方を得意としていなかった(そういうFWがいなかった)こと、そして一方でカズの"MF"的なセンスがお世辞にも高くなかったことが、存在を限定的にしたのかなと。(前線のスーパースターではあっても)

いちカズの説明にえらい手間取ってしまいましたが、とにかくヴェルディには個の突破を期待出来る選手がいなかった、今も昔もドリブラーの重要な"転職"先であるサイドバックすら、石川康と中村忠ですからね(都並は慢性の負傷)。佐々木博和なんて"元天才ドリブラー"だったらしい選手もいましたが、少なくともJ開幕時点では端的に威力不足。これは藤吉も同じ。一番"期待"出来たのはたまに見せるCBペレイラの攻め上がり・・・というのは笑えない冗談のようですが、事実。あれで状況が動くことは、結構ありました。
他のチームには普通にいたんですよ、チームのチャンスメイクの重要な一部としてドリブルを駆使する選手が、それぞれに。エース級の攻撃手(鹿島・アルシンド、市原・リティ、浦和・福田、清水・長谷川健太&向島建、ガンバ・磯貝、広島・ノジュンユン)なり、スーパーサブ(横M・山田隆&神野、横F・桂、名古屋・平野&岡山)なり、あるいはそこまでの能力は無くてもサイドバックのどちらかはたいていドリブラー要素を持つ選手でした。(鹿島・賀谷、横M・平川、横F・モネール、名古屋・小川、広島・柳本&片野坂)

次の項で述べるように、当時のヴェルディの選手たちは"意地"も含めてその欠落を"欠落"としては位置付けていなかったと思いますが、見ている立場としてはこの流れならここでドリブル、はねえのかよとカックンする(笑)ことがしばしばでしたし、パスでの崩しが手詰まりな時は当然個人で壊してくれる選手を渇望しましたし、何でウチだけ縛りプレイなんだろうと嘆きながら見る部分はどうしてもありました。
開幕シーズン、不振の1stステージを承けて新司令塔としてブラジルから途中補強されたビスマルクでしたが、その"柔"のラモスに対する"剛"のゲームメイクの頼り甲斐もさることながら、"突破"まではしないけれどほぼ100%とられない確実なドリブルで必要なところまで持ち上がってポイントを作ってくれるプレーが滅茶苦茶大きくて、「一つドリブルが入るだけで何て組み立てがになるんだろう」と、一気に視野が開けた感じになったのを覚えています。

翌年以降のネルシーニョ指導下でのヴェルディも、勝っていたこともあってメンバー編成には大きな変化は無く、石川・中村等の"ドリブル出来ない"サイドバックを駆使してのサイド攻撃の構築に、ネルシーニョが変態的工夫を色々凝らすのを、それはそれで面白くは(笑)見ていた記憶があります。


(戦術の内面化)

サッカーもメンバーも基本的に変わらなかったのであれば、日本リーグ時代に形作られた"戦術と内面の一致"の方も当然継続された理屈。
むしろJ開幕後の挫折経験と成功経験を通して、それは更に凝固の度を深めたのではないかと思いますが。
"成功"は分かるとして"挫折"の方は何かというと、初年度'93年二年目'94年のスタート時に、共に経験した不調期間。それぞれビスマルクとネルシーニョという異色人材により最終的に救われたとはいえ、単に"スロースタート"という以上の深刻な「このサッカーでは駄目なのではないか」という不安感を、強気一本の口ぶり程鈍感な人では決してない、"体現者"のラモスだって、心の底では感じたであろうと僕は思いますが。
ただ救われた。結果勝っている。テコ入れはあったけど、表立って自己否定的な変化は被らないままで。そうなると"不安"を感じた分の反動含めて、ますます「これでいいんだ」という自分たちのスタイルへの肯定感情は強くなる、ならざるを得ない、最終的には"救世主"のネルシーニョの更なる変化の提案すら拒否する程にと、末期はそのように見えましたが。

一方で結局のところ、その自信と肯定感、戦術と内面の"癒着"に近い一致こそが、この時期のヴェルディの強さの本体だったのではないか、そのようにも僕は思います。
ここまで書いて来て分かるように(過去に何度も書いているように)、僕個人はこの時期のヴェルディのサッカーに、余り肯定的な感情は持っていませんでした。とにかく攻め手が少ない、華麗なようで単調。安定したボールキープと時折見せる名人芸的なパスワークの技術レベルが他のチームに無いものだったのは確かですが、それだけで勝てる程草創期のJリーグも甘くはない。・・・ていうかまあ、本当に"華麗"な姿を見せられたのは、"お荷物"レッズなどの一部の不調チームを相手にした時のみ。
当然ドリブルはしないし、ヘッドで競れるFWもいないし、まともなFKのキッカーすらいない。(CKはカズがいましたが)
とにかくパスパスパス、ショートで、中央で。どんなに状況が膠着しようが相手がベタ引きしようが、ひたすらボールを回して細かい駆け引きを繰り返し、いつか来るはずの必殺のスルーパスが通るその"瞬間"を待つという感じ。

で・・・来るんですよね、その"瞬間"が。結構。たいてい。90分の中、多くは最後の方には。
ヴェルディの狙い自体はとっくにバレてる、何せ他の事しないし。でも当時のJリーガーの限界なのか、肉体的スタミナ残量の低下と共に精神的注意力的スタミナがどうしても切れて、単純に90分はもたないのかそれとも"終わり"が見えた事による心の隙か、それまで凌いでいたヴェルディの見え見えの狙いを、なぜか通してしまう瞬間が毎試合訪れる。そしてその瞬間を厚かましいくらいの不動心でひたすら待っていたヴェルディが逃さず衝いて、勝利の一点をもぎ取って行く。そんな繰り返し。

勝ちまくりつつも戦術的に勝ってる感じは全然しなくて、じゃあ何で勝ってるかと言えば戦術の「密度」差かな?それも加えた総合的結果的な戦術力と、言えない事はないかも知れませんが。遊びのディベートと、本気の口喧嘩の違いというか。(笑)
前提にはやはり、歴史や実績や成功体験の違いによる「格」の差のようなものがあって、この幻想が壊れるまでは戦術的劣勢が決定的に露わには、なかなかならなかった。逆に日本リーグのある時点からヴェルディを恐れなくなっていた日産/マリノスには当然それは通じなくて、ショートパス中央突破一本やりサッカーに対する嵌め手のカウンターを、その相性通り決められ続けた。上の「時間」のアドバンテージも、むしろあちら側にあった感じですねこの場合は。そろそろやられる頃だな、そろそろペレイラがクリアミスする頃だな、ほらみたいな。(笑)
あのやり方は分かっているのに根負けして注意力が届かなくなって結局やられるみたいな感じを、普段はヴェルディは他のチームに味あわせ続けていたんでしょうね。それはともかく。

まとめるとこの"王者"時代のヴェルディは、技術力そのものではなくてそれに基づいた自分たちのスタイルの"内面化"の深さ、遂行の密度の濃さ、迷いの無さ、的確さ、根気強さ、こうしたものの圧力の総計でもって、あれだけの勝利を積み重ねていたというのが、僕の今の認識(後はやっぱり、カズの"超"決定力)。それは讀賣/ヴェルディの独特の歴史によって形成されたものであって、仮に同レベルの技術力で同じことを他のチームがやったとしても、到底あんな"常勝"チームにはなれなかったろうと思います。上手いチームがまた一つというだけで。上で言ったようにヴェルディの"技術力"自体は、それだけでは雑魚専でしかないというのが、既に当時の僕の観察でしたし。


こんなところですかね。
まだ二つの時期しかやってませんが、今日頑張って終わるものでもないので、これくらいで。"書きながら"考えているので、一つのところで余り書き過ぎると、後で辻褄・・・もとい言葉の対応(笑)が難しくなりそうですし。(笑)
このペースで行くと、次はレオンと李期ですかね。レオン・リー。(over40限定ネタ)
幸福な黄金時代が終わって、「戦術」と「内面」の関係も、もう少し複雑になるはず。


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テーマ:Jリーグ
ジャンル:スポーツ
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