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アニメ『ソードアート・オンライン アリシゼーション』最終章が結構行くところまで行っちゃってた感があった件
2020年10月13日 (火) | 編集 |
一言で"最終章"と言っても、少々ややこしいんですけど。
同名のライトノベルを原作とする『ソード・アート・オンライン』(通称"SAO")のアニメシリーズ第3期『ソードアート・オンライン アリシゼーション』の、"第2部"として始まった『ソードアート・オンライン アリシゼーション War of Underworld』後半部分の"第3部"が、今年の7-9月にかけてMX他で放送された「最終章」という、そういう構造になっているようです。ややこしい(笑)。(Wiki)

どうでもいいと言えばどうでもいいんですけど、一応確認まで。ちなみに原作小説の方は、僕は読んでいません。
で、とにかくその内容が、想像上に野心的で驚いたという話。
・・・といってその"内容"そのものが僕にとって未知だったとか衝撃的な結論だったというのではなく、論理的帰結としてはそう展開してもおかしくはないんだけれどまさか行かないだろうと高を括っていた方向に、本当に行ったんで驚いた、舐めててすいませんというそういう"驚き"なんですけど。
注釈多いな(笑)。とにかく以下。


1."ゲーム"(人工現実)と"現実"の「対等」性

始まりはここらへんですか。

マンガ『神のみぞ知るセカイ』(2008〜2014年)の主人公、桂木桂馬が口にする「現実(リアル)なんてクソゲーだ!!」という台詞は、そのことを象徴している。ゲームデザイナーはゲーム制作を通して現実の理不尽さを指摘したいわけではない。にもかかわらず、一部のゲーマーはゲームを遊んで、現実と重ね合わせてしまいたくなるのだ。

(『現実とゲームの関係性が揺らぐとき何が起きるか……求められるゲーム・リテラシー教育』小野憲史/メディア芸術カレントコンテンツ)

僕がこの作品に触れたのは2010年のアニメ版でしたが(Wiki)「現実」と「ゲーム」との拮抗関係について、それまでにない新鮮な印象を確かに受けたのを覚えています。
一言で言えば、「ゲーム」の側から、「現実」を見る視点ということになりますか。「現実」からの"逃避"や「現実」に出来る限り寄せた"偽物"としての「ゲーム」という、従属的な立場ではなく。

改めて言うと、逆になぜ「ゲーム」が"従属"的に見られていたかと言えば、「現実」の持つような"複雑さ""奥深さ"(?)を「ゲーム」が持っていないと見られていたからで、いわく"現実はゲームのようには行かない""ゲームのように単純ではない"というような言い方、蔑視。
現実にはリセットボタンが無い!なんて言い方を、誰かがバラエティ番組でしているのをつい最近も見た記憶がありますが。(笑)
引用文の言葉で言えばそれこそ"理不尽"な部分も含めての広がりがあるから「現実」は「ゲーム」より偉いという、そういう理屈なわけですが・・・逆に「ゲーム」、少なくとも良ゲー、神ゲーの類が持つ秩序性、"理"が尽くされている状態こそが『本来』あるべきものなのであって、「現実」と伝統的に称されているものは単に十分に理が尽くされていない、無秩序な、ただ単に『出来の悪い』ゲーム("クソゲー")なのではないかという、そういう逆方向からの主張が、この作品では語られていたわけです。

努力して工夫して頑張れば、ちゃんと成果が出る"良ゲー"としての「ゲーム」と、しばしばそうした真面目さとは関係の無いところで結果が決まり、設定の合理性・公平性など望むべくもない、"クソゲー"としての「現実」
「現実」(や社会)が理不尽の塊である、努力する価値の薄い"クソゲー"であるという感覚や絶望的気分自体は、多くの人が様々なレベルで、ほとんど有史以来(笑)折に触れて感じて来たことだろうと思います。でもそれしかなければ、それが"現実"であるならば、それでも頑張るなり諦めるなり適当なところで手を打つなりして、付き合うしかなかった。
『神のみぞ知るセカイ』の桂木桂馬とその背後に透けて見えるある世代(以降)の場合違うのは、作中起きている時間のほとんどを携帯ゲーム機を操作して過ごす主人公を極端な例として、それまでと違う没入度や時間投資や生活の中での存在感で(技術的進化を遂げた)「ゲーム」と共にあることが当たり前になっているらしいことであり、つまりはより整然として秩序だった"良質な"「現実」を目撃し続ける体感し続ける、それによる所謂「現実」の相対化対象化が自然と進む、所与のものと容易に受け入れなくなる、そういう傾向・契機かなと。
・・・僕自身はほとんどゲームをやらない人なので、想像でしかないですけど。

上で小野憲史氏が言っているように、それらは作り手サイドもユーザーサイドも基本的に意識してのものでない現象なので、逆に説得力があったんだと思いますが。つまり特定の誰かの"思想"ではなく、そういう"リアリティ"というものが、確かにあるらしいということに。
ここに「現実」と「ゲーム」の伝統的主従関係は揺らぎ始め、逆転、少なくとも対等比較の可能性が、実感レベルで見えて来たと、そういう話。ゲームを"やらない"僕の視野も、何か一つ開けた感はありました。


2."ゲーム"(人工現実)と"現実"の「類似」性

『神のみぞ知るセカイ』で映されていたのは主に孤立した携帯ゲーム機の小さい画面でしたが、一方で世は本格的な「オンラインゲーム」の時代に入り(例『ウルティマオンライン』1997)、3DCGの類も日々進化し、"ゲーム"としての活用はまだまだのようですが技術としてのVR/ARも順調に実用化されて行って。
まとめてここで何が起きるかというと、ゲームの"中"に「住む」、そこで「生きる」という事の可能性・現実性が、相当程度実際的なものになって行った。上で言う「現実」と「ゲーム」の『対等』性の可能性が、理念的なレベルを越えてより具体化した。

そこで登場するのが技術的にはまだギリギリ絵空事なんでしょうけど(そうとも言えないのか?)、そうした技術を駆使して作られる「現実」とほとんど区別のつかないリアリティで構成される「ゲーム」世界での冒険や生活を描いたストーリーたち。『ソード・アート・オンライン』を筆頭とする。
まあ雨後の筍ですよね。テレビアニメ基準で言うと僕が数話以上見たものだけでも、

『ソードアート・オンライン』(2012)
『ログ・ホライズン』(2013)
『オーバーロード』(2015)
『異世界はスマートフォンとともに。』(2017)
『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』(2018)
『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』(2020)

あたり。本質的には同じ構想である「異世界転生」もの全般を含めればもっと切りなくありますが、「ゲーム」「テクノロジー」が最初から意識的に絡んでるものとしてはここらへん。『ID:INVADED』(2019)とかも面白かったですけど、あれは生身の人間の精神活動の方が主体なので、一応別で。
初見時の『ソードアート・オンライン』に"斬新"という印象はなく、むしろそれまでの流れの要領のいい"まとめ"と感じていたので、先行作品は色々あるんでしょが、どうもこれといったものが見つからなく。多分"要素"として、各々ばらけているんでしょうね。それはともかく。

こうした作品群の特徴として、僕が見ながら特に感じていたこととしては、
 1.いわゆる「現実」と同様の"人間ドラマ"、争い、愛憎 etcが積極的に描かれている。
 2.世界設定の置き方や、その中での秩序・集団ひいては"社会"の形成過程を描く事で、「現実」社会・世界の成り立ちについての社会学的心理学的考察のようなものが自然に行われる。
といったことがあります。

その内"1"については僕は余り興味が無くて、はいはいまた始まったよという感じで視聴打ち切りのきっかけになること多し(笑)。人間は醜いですよ、愚かですよ、そんなの知ってますよ、で、これから見せてくれるものは今まで散々描かれて来たものと何が違うの?どこが新しいの?何か越えてくれるものがあるの?と、そんな感じになります。"設定"が特徴的なものほど、設定との緊張感というかその設定ならではのものが描かれていないと、急激に見る気が失せてしまいますね僕は。最初から"人間ドラマ"を見る気なら、別にいいんですけど。
まあ"1"が"1"なりに、それこそ僕の言う「"現実"としての"対等"性」の表現になっていることは、理解するんですけど。"この"新しい革袋にもちゃんと古い"酒"は入る、そして飲める!一昔前は、"絵に描いた"袋だったけど。・・・ただだからと言って面白いわけではないので(笑)。酒が飲みたいだけなら別に古い革袋で足りてるので。たまたまその"酒"が特別に美味しければ飲むかもしれないけど、たいていは"酒らしき味"を再現することで精一杯になっていますし。

面白いのはやはり、"2"の部分ですね。例えば『デスマーチ』(2018)初見時のコメント

ストーリーとしては最近やたら量産されている「ゲームの世界に飛び込んだ」パターンですが、ただこれ意外と平均値が高い気がするんですよね。やはり「世界」への思索というのが、自動的に含まれる感じになるので、少なくとも知的には"面白い"感じのものになり易い。

ちなみにこうした特徴を個人的に最も顕著に感じたのは、Eテレの『ログ・ホライズン』(2013)でした。あれは面白かった。

こうした作品群の中には"哲学"や"本格SF"的なある種の知的使命感で書(描)かれているものもあれば、単に時流に乗っているものやそれらの中間と、動機の重さ(?)は雑多なわけでしょうが。
しかしそうした違いを飛び越えて共通して感じるのは、それらの中で行われる「現実」を模する作業再現する作業シミュレートする作業、はたまた思考実験的に未知の方向に動かしてみる作業、そしてその為に行われる基本的には"ゲーム"的な/ゲーム由来の様々な設定上の工夫や仕掛け、それらの"ハマり"が存外良くて、もっともらしくて、"ゲーム"的"ファンタジー"的な道具立ての中でも妙に「現実」の構造を言い当ててる感が生まれることが多くて。しばしば恐らくは、意図した以上に。

意外と「現実」って、この程度なんじゃないの?世界ってこんな感じで作れるんじゃないの?という手応えなり予感なりのものが、"世代"というようなスケールで広がっているような気配を、見ていて感じなくはないんですよね。前"世代"の、非"ゲーマー"の(笑)僕にも。
一方で既に市場に出ている一般公開されているいるVRツールの、まだまだ不完全ながら個人的には予想以上の"現実"感喚起力や、近年の3DCG技術が生み出す時々ぎょっとするような現実感を伴うゲームやドラマ/映画映像の体験なども併せて。
・・・まあ上で挙げているようなテレビアニメは基本的には"2D"なので、"3D"体験を踏まえて描かれた、2Dフィクションということになるでしょうが。



3.『ソードアート・オンライン アリシゼーション』

詳細は省きますが、アニメで言う「1期」と「2期」がそれぞれ"ゲーム"として予め設定された世界の中での主人公たち(プレイヤー)の冒険を描いていたのに対して、この"アリシゼーション"/3期では、とある目的で実験的に作られたAIたちの疑似世界の中での、主人公(後に"たち")の活動が描かれます。ゲーム的に言えば所謂"NPC"(ノンプレイヤーキャラクター)ばかりがいる世界で、PCである主人公は例外的存在。
さる理由で"アンダー・ワールド"と「現実」世界の人間たちが呼ぶその世界から出られなくなっている主人公は、アンダー・ワールド内時間(≒ゲーム内時間)でゆうに一生分以上をそこで過ごすことになるわけですが、そこで出会うNPCたちはハナから電子的な存在であり、現実世界、"リアル・ワールド"の技術者たちに好きにいじられてしまう存在ではある訳ですが、それによるところどころの不自然な心理障壁を除けば、十分に"人間"らしい思考や感情を伴う"リアル"な内容を備えていて、いつしか主人公は彼らに感情移入し、絆を結び、彼らが設定上さらされている不条理で隷属的で残酷な"運命"と、"リアルワールド"人としての知識・経験を駆使して戦うようになります。
その戦いの帰趨と、「現実」世界への主人公の帰還が、主なストーリー。

アンダー・ワールドのNPCたちがかくも「人間」的であることには理由がある訳ですけど、それについては作品の方を。一応言っておくと、"AI"である、人工生命体(知性体)であること自体は、当初の前提通りです。

(1)"アリシゼーション"の特徴① NPCたちの世界

この文章の1,2及びSAOシリーズの1期2期と比べての。
一言で言えばやはり、"NPC"の世界であるという事ですね。
本体/肉体を「現実」世界に置きながら、ゲーム世界内に用意されたアバターを"操作"するPCたちの活動ではなく、全存在を電子世界内に最初から置いているNPCたちの。
そういう彼らの、「自由意思」的活動の。
ユニークというかかなり極端な設定ではあると思いますが、僕が述べて来たような「世界」や「現実感」は電子的に十分に作れるという醸成された時代的気分を背景に、特段の違和感の無い描写になっていると思います。こうして書くまで、何が違うのか僕自身余り意識していなかったくらいに。(笑)
科学的哲学的には、そこまでまだ"解かれた"問題ではないんでしょうけど。

(2)特徴② 「創造主」の可能性(とその"悪意")

『アリシゼーション』(2019)以前&以外の様々な「人工現実」ストーリーを無作為に見続ける中で、これだけ電子的人工現実の実在感がある意味"所与"のものとなって来ているのなら、本当なら次に来るのは何らか(知的存在による世界の)「創造」の現実的可能性の考慮、少なくとも連想であるべきだよなとは思いつつ、でもまあ、なかなか行かないだろうなとも。
・・・つまり我々が技術的に「世界」「現実」を作れるなら、当然我々自身の「世界」や「現実」も、"誰か"が作ったものである可能性を考えないと、論理的には不自然なので。ただその「創造」説という発想の避け難い"宗教"臭が、"科学""技術"の最果ての、それもどちらかというと軽薄で露骨な推進の果てとしての「ゲーム」ストーリーとの連結を難しくする、せっかく"軽く"して来た「現実」にいきなり"重さ"をまた付与するややこしさで、仮に連想はしても容易には出来ないだろうしないだろうなと、そう思っていた期待しないでいたわけですが。

それをかなり徹底的にやって見せたのが、この『アリシゼーション』。
一から電子的に"創"られた「意思ある」NPCたちの世界(アンダーワールド)に対して、「創造主」として振る舞う技術者たちの姿を通して。後にはそのNPCたちの世界に大挙(これは従来通り)アバターでダイブして、一つ上のレベルの世界に根拠を置く存在、言わば「神々」として好き勝手に振る舞うゲーマーたちの姿を通して。

この技術者たちやゲーマー/ダイバーたち(の全員ではないですがかなりの割合の人)の描写がなかなか酷くて。悪意に満ちた存在として描写されていて。作品は基本、暗く暗く流れます。

最終シーズン開始一か月弱での感想ですが。見るのも相当辛くて、以降基本流しながら他の事やってましたね。(笑)

要は技術的な"作り物"であることが明らかに分かっている世界とその中の"存在"たちの"生命"や"感情"("心")に対して、技術者たちはひたすら技術的研究的都合で無頓着に(結果的に)非情な操作・作為をやりまくり、ダイバーたちは面白半分に"殺し"まくりという事を繰り返すという事ですが。

(2)'「悪意」の意味

彼らがそのように"無慈悲"に"残酷"に振る舞う事には、勿論物語的に具体的個別的なそれぞれのキャラクター的事情もある訳ですがそれはひとまず置いておいて。
描かれていてるのは、物語全体を僕が辟易した(笑)ような暗さ不穏さに包ませているのは、そうした(技術的に)"作った""作られた"ものに対して人間がそのように振る舞う、現実的な可能性だと思います。視聴者に憎まれるだろう彼らは、しかし実は特殊な存在ではない。あえて言えば"人間"そのもの。

こうしたテーマ自体は特に"SF"小説の世界では多分それほど珍しいものではなくて、例えば僕が子供の頃に読んだ確か星新一の作品の中にも、科学者が実験的に作った小さな『宇宙』を、最初は観察だけしていたのだけれどその内興味本位でレーザー光線で有人惑星を破壊してその反応で遊ぶようになるみたいな話がありました(作品名失念)。たいていはそのまま滅ぶけど、中には宇宙船で脱出する"人類"などもいて、いやあ今度の奴らは賢かったなあ、じゃあ次行ってみよう的な。
酷い話ですが、でもありそうだなと、小学生の自分は割りと素直に受け取っていた記憶があります。

世界が"技術的"に「創」られた可能性と、そこからその「創造主」たちが単なる"技術者""人間"である(恐ろしい)可能性。
最近では"宇宙人が地球人を創った"系の説もある意味流行りですが(笑)、あれはまあ所詮地球一個の話なので、そういう意味では大した話ではない。問題はその当の"宇宙人"も含めての、「創造」の話。
「ストーリー」創作的にある意味重要かなと思うのは、こうした"創造主""神"の、「悪意」という分かり易い表現を通した「人間」化・非「宗教」化が、この作品に『創造』説を扱う事を可能にしたんだろうというそういうこと。"現実"を"軽く"するという、それまでの流れと矛盾無しに。

(3)特徴③ 主人公の立場とその行き着く先

ここまででも結構やったな感はあるんですけど、僕がある意味一番驚いて、この文章を書く直接の気にさせられたのは、最後の最後でバタバタと語られた主人公の"決意"表明。
冒頭でも言ったように主人公は、興味本位でも遊びでもなく、やむを得ぬ事情で彼ら"創られた者"たちとゲーム(ヴァーチャル世界)内時間で「人生」同等かそれ以上を、見た目は彼ら同様の存在として生活を共にし、その中で彼らと"絆"を結び、"心"を通わせ、彼らを自分と全く同様の「人間」と見なすようになります。そして自分自身の帰還の為のメインの戦いの一方で、彼らの言わば「人権」の為に、技術者たちが設けた非情な設定・拘束のある部分は"神"の知識を駆使して打ち破り、また悪意あるダイバーたちの虐殺からAIたちの"生命"を守ります。

そこまてばまあ、言わば"感情"の問題であり、ある意味定型通りの英雄ストーリーなわけですが、最後の最後に妙な事を言います。
帰還が可能になった後も事情もあって自らの意思で、更に数百年間主人公はアンダーワールドにとどまり続けるんですが、その結果、具体的経過は語られませんが主人公はアンダーワールドの「神」に、簡単に言えばなります。・・・「神」と言ってもアンダーワールド"内"の神ですけどね。「創造主」ではなく。レベルはある意味同じでただより力を持ち上位世界の知識も持つ、まあ何か土俗的世界各地の神話的神・"守護神"のイメージか。

その彼が最後に宣言するのが、「アンダーワールドの"神"として、この世界とそこに生きる人々を守るのが自分の使命だ」ということ。若干の次へのプロローグを挟みつつ、ここでいったんストーリーは終わります。

この宣言で僕が面白いなと思ったのは、それまでの話と違って戦いは一応終わり、主人公も所謂現実、(アンダーワールドに対する)リアルワールドの生活に戻り、双方の絶対的な力の差はそのままですが二つの「世界」の関係も一応は安定して並存している状態での発言であること。
つまり彼が問題にしているのは目前の"敵"や"悪者"ではなく、アンダーワールドがアンダーワールドでありリアルワールドがリアルワールドであることから来る恒久的構造的問題、具体的には上位世界(存在)にいつでも好きにされてしまう可能性を持つ下位世界(存在)をいかに守るか、それ以前に彼らは守られるべきである、守られるべき"権利"を持った"人間"であるというその主張と問題意識。

これは、今まさにこの文章を読んでいる"我々"の「世界」自体が"技術的"に創造可能であり、言わば更に上位の"リアルワールド"に対する"アンダーワールド"である可能性を想像すると、実に何というか・・・切実な問題意識であると思います。切実であり、現実的であり、またある意味ではこれ以上なく"宗教"的な問題でもある。"技術"の果ての。

彼の主張は"我々"自身の「神」「創造主」に対する訴えである・・・とまでは言わないとしても、可能性としては随分"遠く"まで見ているなと感じました、作者は。少なくとも予感しているというか。
そこまで言うとはおよそ思っていなくて、びっくりしたという。


まあ怖い話です。(笑)
面白くはありますが。でも楽しくはなかった。(笑)
続きを楽しみにはしていますが。おっかなびっくり。
未見で興味ある人はどうぞ。





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