2020年10月28日 (水) | 編集 |
もう10月も終わりですか。
10/3 24節 大宮〇3-1 [得点者 : 平智広、山下諒也、平智広]
10/11 25節 岡山●0-1
10/14 26節 愛媛〇4-1 [得点者 : 新井瑞希、高橋祥平、小池純輝、佐藤優平]
10/17 27節 栃木△0-0
10/21 28節 磐田△0-0
10/24 29節 山形●0-4
6試合?意外と少ないなと、一瞬思ってしまう慣れが怖い。
・試合内容としては、とにかく点が取れないというのが、数字として出ているところ。
・固め取りはしてますけど、点が取れないチームが固め取りだけしてると、尚更"弱さ"が引き立つ感があるという。
・トータルの数字はそこそこ残すけれど、実質余り役には立ってない外国人大砲的な。(主に野球。サッカーでもたまに。(笑))
・そういう選手は、どのチーム行っても同じなんですよね。所変われば軸として活躍し出したりはしない。常に"楽"なところでだけ活躍する。
・話戻して。
・要するに形は持っているけれど、その形を出せる状況を自力で作り出せないチームというか。
・形は持っているので必要なのは"上積み"や"新オプション"ではなく、その"形"を含めた"持っているもの"をきちんと状況適応的に回転させる有機的なチームの内実・・・て、何言ってるのか分からないな。(笑)
・とにかくプログラムだけ増やして行っても、その時々やることが"変わる"だけで、一向に向上したり強くなったり"成熟"したりはしない感じ。
・Aを上手く使えなければBも上手くは使えない。あるいは同レベルでしか使えない。
・ひと昔前はこういう"選択肢"志向のチームに対してよく浴びせられた、「順列組み合わせ」という皮肉そのものの状況というか。
・ちなみに最近は「順列組み合わせ」であること自体はある意味当たり前になったので、その中での優劣に焦点が移動している、そういう感じだと思いますが。
・こうしたことに関係する・・・のかどうかよく分かりませんが、最新山形戦で興味深かったのが、解説の越智隼人氏の82分頃のこの解説。
・"似ている"事は肯定しつつもの、越智氏のこの解説。
・まず僕は山形のサッカーをそこまで注意して見たことはない。
・あとヴェルディが「長い距離のパスも多用」しているのは、比較的最近のことですよね。
・だからそこまで2チームのサッカーに「両極端」と言う程の違いがあるかについては何とも言えないところはあるんですが、それはそれとして、面白い指摘だと思いました。思い当たるところもある。
・要は『グループ』ということだと思うんですよね、越智氏の直観の中心にあるのは。
・ヴェルディが"グループ"を作らないということについては実は前半でも一回越智氏は述べていて、その時もびくっと(笑)はしたんですがとりあえずはこの日のヴェルディが"コンビネーション"が上手く行ってないと、そういう一般的な指摘として流してありました。
・ただその後のこの指摘を聞いて、やはりそれ以上の何かを言おうとしていたんだなと。
・越智氏の解説の解説(笑)を続けると、"ボールの近く"に"ちっちゃいグループ"を作って"数的優位"というと、思い浮かぶのはやはり最近だと何と言っても森保ジャパンのサッカーで、つまり所謂"和式"的なものの中心的な特徴。
・対して永井ポジショナルはなるべくスペースを広く均等に効率的に使って、無駄な密集を作らないようにボールと人を動かして行くスタイル。
・それが結果的に最少人数の敵味方の"やり合い"に繋がるのであって、別に「個の強さ」に自信があるからそれを前面に出しているという事ではないと思うんですけど(笑)。そんな言い方されると照れるぜというか。(笑)
・ヴェルディはオランダでもリバプールでもないよという。
・勿論ウィングを中心に特定の選手(例えば小池)については、意図的に1対1的な状況を作ろうとしている場合もありますが。
・ただ全体としてそこを押し出しているわけではなくて、ヴェルディはヴェルディなりに、"集団"でボールを運ぶことが中心にはある。
・その一方でじゃあ石丸モンテディオが森保ジャパンなのかと言うとそんなわけは明らかにないので、ここで越智氏が言っているのはつまり、2チームのポジショナル的な共通のスペース使用の感覚に"加える"ものとして、山形には"グループ"の感覚・意識が強くあると、そういう事だろうと思います。専従解説者として、日々見ている中での観察として。
・逆に言うとそれが(少なくともこの日の)ヴェルディには欠けている/薄いと、越智氏は感じた。
・で、多分それは基本的に当たってるだろうと、僕も思います。
・つまり伝統(というほど古い話ではないかもしれませんが)的に「個人」「グループ」「チーム」(全体)の3階建てで語られることの多かった"戦術"の中で、永井ヴェルディを主に構成しているのは全体/チーム戦術とそれを遂行する個人の二層であって、そこに「グループ」という層を特に介在させる必然性現実性は薄いだろうと。
・ただそれは別にあえてそうしようと永井監督がしているということではなくて、"ポジショナル・プレー"を筆頭とするサッカーの戦術、よりはっきり言えばチーム戦術全体戦術の高度化徹底化の中で、広範に自然に起きている現象だと思います。その一例としての、永井ヴェルディ。
・サッカーが必ずしもそういうものでなくてはいけないそうでないと勝てないというものではないという身近な例としては、Jリーグにおける鹿島アントラーズなどというものがありますね。
・これといった大文字の(全体)"戦術"があるわけでも資金力やそれに伴う選手の質がそこまで突出しているわけではなくても、結果的に長期に渡り、"突出"して安定した好成績を収め続けて来た鹿島。
・それを可能にして来た有力な一つが、正に"グループ"の強さだと思うわけですけど。受け継がれる。
・「個人」と「全体」の、言わば"中間"にある。
・その背景に"ブラジル"サッカーの強固で特定的な伝統があるのは確かですけど、ただこれは別にブラジル特殊の現象という事ではないので。
・上で言ったように「全体戦術の世界的発展」により「グループ」の影が薄くなったのであれば、それ以前はむしろ「グループ」が強いのが当たり前というか、そこで勝負が決する可能性が高かった。(だから鹿島も"常勝"だった)
・そこまで徹底的なチーム戦術を持っている監督の割合も限られていたし、またこれは現在でも同じことですが、そうそうチーム"戦術"なんてものは狙い通りには上手く行かないものなので、それを補完したり補強したりセーフティネットを張ったり、場合によっては(挫折後に)代替するものとしてのグループの強さの重要性は、ごく当たり前のものだった。"事実"として。
・まあブラジル/南米/ヨーロッパでもラテン寄りの方が、より"グループ"が主役である度合いは大きいという事は言えると思いますけどね。
・オランダなんかは割りと昔から、ほとんど「全体」と「個人」の印象しか無い。
・ちなみに我らがヴェルディも勿論というか何というか、ある意味鹿島と双璧に"グループ"の主役性の強い伝統を持っていて、そこにはやはり「ブラジル」という共通性は小さからぬ役割は果たしているわけでしょうが。
・それを"強み"として継続利用に成功して来た鹿島に比べると、弱みというか偏りというか、逆にチーム戦術の"弱さ"として表現してしまう事も少なからずあって、両者の成績・現状の差の一因にもそれはなっているわけだろうと思いますが。
・ただそれでも定期的に訪れる、たいていは"チーム戦術"的な整理が上手く回転している時には、他のチームにはなかなか無いようなグループ/コンビネーションの強さ濃密さで、(チーム)戦術が保証する以上の戦闘力をヴェルディが発揮することは、その歴史の要所要所であったように思います。
・そのヴェルディに"グループ"の影が薄い、むしろそれが"特徴"にすら見える、基本の戦術に共通性の多い山形との直接比較においてと、越智氏は言うわけですけど。
・それが本当なのかだとしたらなぜなのかという話をする前に、そもそも"グループ"は必要なのかあるとどんな役に立つのかという話を、一回してみた方がいいかも知れません。
・一つにはやはり"普遍"的な現象として上でも言ったように、全体戦術のその時々の状態に応じて、局面の威力を追加したりそれ以前にチーム戦術のスムーズな進行を補助したり繋がりのぎくしゃくしたところを調整したり、一定の範囲でずれを"吸収"したり、そういう機能は果たすと思います。
・崩壊時には勿論代替で動きのベースを提供するわけですが、そこまで行くと別の話になるのでおくとしても、例えばそのチームが元々持っていたコンビネーションやグループ性と、新たなチーム戦術が要求する機能性が上手く"結婚"したりすると、単に"学習"する以上の活き活きとした様相をそのチームのサッカーは呈することになりますね。
・より大きな構図で言うと例えばこういう視点。
・以前、去年、永井ヴェルディの特徴/問題点として、「空間性については緻密だが時間性については無頓着だ」という話をしました。(『"時間"の問題。/東京V-鹿児島(’19)、東京V-山形(’19)』)
・その時に空間性について近年のサッカー戦術の精度が大きく増したのは確かだが、そのように皆が空間性に気を配るようになったのなら、逆にプラスして時間性についても繊細であればより競争性が高くなる理屈だ、あるいは"空間の時代"以前の世代の監督であるロティーナには正に空間に加えて時間についても一定の繊細さがあって、それが空間一本の永井監督との違い/差として見えるという話をしました。
・同じ論法で、皆がチーム/全体戦術に腕の冴えを見せるようになった時代において、そこでいったん置き去りにされた"グループ"という要素が、差別化・横並びからの抜け出しの逆に鍵を握るという可能性も、論理的には大いにあるのではないかという。
・この1試合の結果(笑)だけを踏まえるならば、今回の越智氏の観察・分析も、見ようによってはそう言うことを言っている、"グループ"の有る無しが山形とヴェルディの差だと言っているとも取れる。(そこまでの意図は無いでしょうけど。(笑))
・そういう"敗因分析"の可能性を受け止めつつただ僕が越智氏の解説から一番強く思いを馳せたのは、実は今回の冒頭で述べている"成熟"の問題、(永井)ヴェルディが順列組み合わせを繰り返すだけで余り蓄積したり成熟したり熟成したりしないようにここまで見える問題について。
・要は「成熟」「熟成」というのは、専ら"グループ"に宿るものなのかもしれない。
・監督とその頭が司るチーム/全体戦術は、その性格からどうしても「計画」と「理屈」の型通りというか一面的なものになる。ある意味それこそが目的でもあるし。
・個人は勿論、勝手に熟成することは出来ないというか出来たとしてもそれは言わば"独自解釈"が深まるだけなので、下手すると断絶孤立の元になる。進歩が進歩になるのは、"共有"されてこそ。
・となると「成熟」などという曖昧なもの、成果や経験の一定の遊びを持った保持、そこからの蓄積や化学反応とその継続のようなものが発生するのはそれらを抱え込めるのは、"グループ"の領域なのではないかと。あえて特定すれば。
・「チーム」戦術とそれを遂行する「個人」という直線的垂直的な関係ではなく、その間に挟まって監督の意向とも個人の欲望とも、一定の距離一定のずれを構造的に持ちながら、それらを現実と接合したり吸い上げたり柔軟に運用したり時にデリバティブを利かせたり("戦術が保証する以上の戦闘力")する"グループ"。
・勿論"邪魔"することもあるんですけどね(笑)。ザックやハリルホジッチと、「本田・香川」(グループ)のように。
・だからこそ「戦術」化の進展と共に、どちらかというと消えつつある領域な訳ですけど。
・かなり思いつき&独断的ではありますが、監督の頭が司る"チーム戦術"が、専らAという状況に対するBという対処の並列的集合で形成されるとしたら、それら"横"とは違う"縦"方向つまり時間的変化が主に存在する場所としては、「個人」「グループ」「チーム」の3分類の中では"グループ"が有力というのは、とりあえずそんなにおかしい考えではない気がします。
・その3分類自体の妥当性や、"グループ"と呼んでいるものの中身については、新しい知見にも基づいて更なる検討が必要でしょうが。
・という一般論から"ヴェルディ"と"山形"の対置にもう一回話を戻すと。
・まあ分からないことだらけというか仮定だらけというか。
・ヴェルディで言えば、現在のヴェルディの主な問題が時間的蓄積(ととりあえず総称しておく)の不足にあるという仮定。それからその更に主な原因が永井監督による"全体"戦術の施行ないしはそのやり方にあるという仮定。
・山形で言えば、山形の"ちっちゃいグループ"志向自体は部外者であるので越智氏の観察を信用するとして、それがどの程度監督が意識的に採用しているものなのか。
・...このタイミングで言うのはちょっと遅きに失する感じはするんですが思いついたので一応言っておくと、「全体戦術がグループを破壊・阻害する」ということについては、"FW"というポジションの変化が特に分かり易いかなと。
・長らく主流だった"2トップ"というシステムにおいては、2トップ(+1,2人)自体のコンビネーション("グループ")が重要でそれがチームや攻撃の動きの大きな基準になっていることも多かったそういう状態から、近年の主流システム3トップにおいては、それこそ永井ヴェルディの「ワイドストライカー」と「フリーマン」のように、チーム戦術からのダイレクトな指令によって個々の動きが決められていて、当事者間(グループ)の関係性は副次的なものにとどまるわけです。"チーム"からの直接な"個人"の繋がり。"グループ"を介在させない。
・...逆に言うと、そうなったから、高度にプログラム化したからこそ日本でも3トップなんてものが一般的に使われるようになったわけですよね。つまり前時代的3トップ、左右ウィングがゴリゴリ単騎突破して上げたクロスをドカンとヘッドで叩き込む的なタイプのものは、およそ日本の人材タイプ的に一般化しえなかったわけで。
・だから永井ヴェルディでも時に0トップはもう沢山的な悲鳴(笑)はサポ間で上がったりするわけですが、そう簡単にそこらへんの調整はつかない事情。
・とにかくこんな感じの"全体"から"個人"への直接指令的な関係が、多かれ少なかれ各ポジションで成立しているのが昨今の趨勢だと思います。それによる、"グループ"の希薄化。
・ああどうやって終わろう。書こうとすればまだまだいくらでも書けるテーマですけど、このままだらだら書き続けてもさすがに読み難いだけだろうしな。
・とりあえず話戻して山形の"グループ"性は、実際どういうものなんでしょうね。
・監督が意識的に、(永井ヴェルディとも共通のベースの上に)"あえて"付け足しているものなのか、元々あった何かを利用したものなのか。
・あるいはいち"山形"というチームを仕上げる上での方便としてやってる事なのか、それとも上で"森保ジャパン"などという例も挙げましたが、"洋式"に"和式"を接合する、何らかの可能性的な問題意識の元に行っていることなのか。
・詳しい人がいたら、教えてもらいたいですが。
・ヴェルディにとっての当面の問題としては、やはりヴェルディと山形の間の少なくともこの試合で見えたような習熟度の差が、"ヴェルディにはなくて山形にはある「グループ」という要素"に起因する、その可能性ですけどね。
・繰り返しますけど、越智氏自身は、単に"違う"と言っているだけですけどね。
・そこからこちらが、心当たりを勝手に探っているだけで。
・まあ「距離が遠すぎる」とか(監督の指示なのかもしれないけれど)「関係性が薄い」という意味の指摘は何度かしているので、それ以上のことを言いたい気持ちはあったんだろうと思いますが。そこはまあ、お互い外交的なあれが。(笑)
・諸々書き残しはやはりあるんですが、最後にひょっとしたら参考になるかもしれない、ちょっと変わった事、畑違いの引用で気分を紛らわしてみて、今回は終わりにしたいと思います。
・デュルケムというのは19世紀末から20世紀初頭に活躍した「社会学」の始祖的人物。(Wiki)
・個人的には昔文化人類学の学史について勉強した時に、そのはしりの一人としてちらっと読んだことがあったかなというくらいの人。
・そのデュルケムがこういうことを言っているのは知らなかったですが、まあいかにも言ってそうではある、社会学/国家論のかなりテーゼ的に巷間に流布している内容。
・つまり僕は今回、この図式における②"〈中間集団の不在の問題性〉"について、特に論じたわけですね。(笑)
・と冗談めかしてはいますが、僕が「"全体"から"個人"への直接指令的な関係」などという言い方をしている時に、"全体(主義)に抗することの出来ない裸の個人の脆さ"的なイメージを、ぼんやり浮かべながら書いていたのは実際のところほんとです。
・それを補完・留保させるものとしての、中間集団≒"グループ"。
・中間集団。時代状況によって内容は微妙に変わりますが、簡単に言うと「国家」と「個人」の"中間"にある、(大)家族や地域社会、学校、企業などの中間的なまとまりのこと。(参考)
・尚今回僕は、純粋にサッカーチームとしての機能や戦闘力という観点から"中間集団の不在の問題性"的な事を言いましたが、一般社会、より広い"本物"の社会の問題としては、基本的に中間集団なんてくそくらえ、解体してくれてありがとう近代社会、いいぞもっとやれなタイプの人です。(笑)
・①"存続"の方が問題だというか。
・まあサッカーチームなんて、どんなに社会だ家族だと言っても所詮はむしろ"軍隊"とかに近い、単一目的の特殊集団ですからね、一般論と一緒にする必要は無い。
・話をサッカーに戻すと、"①普遍的権力による中間諸集団の否定"的な事を、日本サッカーの歴史の中で華々しくやったのが、代表的にはハリルホジッチ。(本人のつもりは別にして)
・ただその結果が余り"個人の解放"のような明るいものには見えずにまた戦闘力的にもいくつかハマる試合はあったもののさほど純然たるプラスに見えない部分も大きかったので、やっぱグループじゃね?中間集団じゃね?という事で"反動"したのが、西野ジャパン以降のジャパン・ウェイと、まあこんな文脈を考えることも可能かと。(笑)
・うん、意外といいんじゃないですかね、この引用。分かり易くなった気が。
・今回のような僕の観察が正しければ、その後少なくとも"中間集団"(の解体)という観点からは、時間差で日本のサッカーも結局"ハリルホジッチ"の方向に進んではいるのかもしれませんが。
・まあ中間集団と一緒に全体的組織化そのものも否定しているように見えた(むしろそちらに日本人はびびった気がする)ハリルホジッチと違って、こちらは全体的組織化の"副産物"としてひっそり進んでいるものなので、だいぶ印象は違いますけど。
・ただ気が付くとある意味"個人"が剥き出しになっているのは同じ。
・越智氏の目に永井ヴェルディが、"個力"勝負を挑んでいるように見えたように?(笑)
こんな感じです。
『’20年10月の東京V』という元タイトルからは、かなり遠くなって(笑)しまいました。
10/3 24節 大宮〇3-1 [得点者 : 平智広、山下諒也、平智広]
10/11 25節 岡山●0-1
10/14 26節 愛媛〇4-1 [得点者 : 新井瑞希、高橋祥平、小池純輝、佐藤優平]
10/17 27節 栃木△0-0
10/21 28節 磐田△0-0
10/24 29節 山形●0-4
6試合?意外と少ないなと、一瞬思ってしまう慣れが怖い。
・試合内容としては、とにかく点が取れないというのが、数字として出ているところ。
・固め取りはしてますけど、点が取れないチームが固め取りだけしてると、尚更"弱さ"が引き立つ感があるという。
・トータルの数字はそこそこ残すけれど、実質余り役には立ってない外国人大砲的な。(主に野球。サッカーでもたまに。(笑))
・そういう選手は、どのチーム行っても同じなんですよね。所変われば軸として活躍し出したりはしない。常に"楽"なところでだけ活躍する。
・話戻して。
・要するに形は持っているけれど、その形を出せる状況を自力で作り出せないチームというか。
・形は持っているので必要なのは"上積み"や"新オプション"ではなく、その"形"を含めた"持っているもの"をきちんと状況適応的に回転させる有機的なチームの内実・・・て、何言ってるのか分からないな。(笑)
・とにかくプログラムだけ増やして行っても、その時々やることが"変わる"だけで、一向に向上したり強くなったり"成熟"したりはしない感じ。
・Aを上手く使えなければBも上手くは使えない。あるいは同レベルでしか使えない。
・ひと昔前はこういう"選択肢"志向のチームに対してよく浴びせられた、「順列組み合わせ」という皮肉そのものの状況というか。
・ちなみに最近は「順列組み合わせ」であること自体はある意味当たり前になったので、その中での優劣に焦点が移動している、そういう感じだと思いますが。
・こうしたことに関係する・・・のかどうかよく分かりませんが、最新山形戦で興味深かったのが、解説の越智隼人氏の82分頃のこの解説。
・ヴェルディと山形の志向するスタイルが似ていて、そしてこの試合で山形がその"理想"形を示してくれたというような言い方は、この完敗の試合を承けてのヴェルディサポのツイートの中にもいくつか見られましたが。ヴェルディは相手を広げる為にポジションをワイドに広げながら、長い距離のパスも多用しながら、ボールを相手から離した時に個の強さとかを出して行くという狙い。
逆に山形はもう(ヴェルディとは)両極端で、ボールの近くにグループを作ると言うんですか、ちっちゃいグループを作って数的優位を常に維持して行くというところで、大きな違いがあって。
似たようなサッカーを志向しているなとは思いつつも、形は全然違いましたね。
・"似ている"事は肯定しつつもの、越智氏のこの解説。
・まず僕は山形のサッカーをそこまで注意して見たことはない。
・あとヴェルディが「長い距離のパスも多用」しているのは、比較的最近のことですよね。
・だからそこまで2チームのサッカーに「両極端」と言う程の違いがあるかについては何とも言えないところはあるんですが、それはそれとして、面白い指摘だと思いました。思い当たるところもある。
・要は『グループ』ということだと思うんですよね、越智氏の直観の中心にあるのは。
・ヴェルディが"グループ"を作らないということについては実は前半でも一回越智氏は述べていて、その時もびくっと(笑)はしたんですがとりあえずはこの日のヴェルディが"コンビネーション"が上手く行ってないと、そういう一般的な指摘として流してありました。
・ただその後のこの指摘を聞いて、やはりそれ以上の何かを言おうとしていたんだなと。
・越智氏の解説の解説(笑)を続けると、"ボールの近く"に"ちっちゃいグループ"を作って"数的優位"というと、思い浮かぶのはやはり最近だと何と言っても森保ジャパンのサッカーで、つまり所謂"和式"的なものの中心的な特徴。
・対して永井ポジショナルはなるべくスペースを広く均等に効率的に使って、無駄な密集を作らないようにボールと人を動かして行くスタイル。
・それが結果的に最少人数の敵味方の"やり合い"に繋がるのであって、別に「個の強さ」に自信があるからそれを前面に出しているという事ではないと思うんですけど(笑)。そんな言い方されると照れるぜというか。(笑)
・ヴェルディはオランダでもリバプールでもないよという。
・勿論ウィングを中心に特定の選手(例えば小池)については、意図的に1対1的な状況を作ろうとしている場合もありますが。
・ただ全体としてそこを押し出しているわけではなくて、ヴェルディはヴェルディなりに、"集団"でボールを運ぶことが中心にはある。
・その一方でじゃあ石丸モンテディオが森保ジャパンなのかと言うとそんなわけは明らかにないので、ここで越智氏が言っているのはつまり、2チームのポジショナル的な共通のスペース使用の感覚に"加える"ものとして、山形には"グループ"の感覚・意識が強くあると、そういう事だろうと思います。専従解説者として、日々見ている中での観察として。
・逆に言うとそれが(少なくともこの日の)ヴェルディには欠けている/薄いと、越智氏は感じた。
・で、多分それは基本的に当たってるだろうと、僕も思います。
・つまり伝統(というほど古い話ではないかもしれませんが)的に「個人」「グループ」「チーム」(全体)の3階建てで語られることの多かった"戦術"の中で、永井ヴェルディを主に構成しているのは全体/チーム戦術とそれを遂行する個人の二層であって、そこに「グループ」という層を特に介在させる必然性現実性は薄いだろうと。
・ただそれは別にあえてそうしようと永井監督がしているということではなくて、"ポジショナル・プレー"を筆頭とするサッカーの戦術、よりはっきり言えばチーム戦術全体戦術の高度化徹底化の中で、広範に自然に起きている現象だと思います。その一例としての、永井ヴェルディ。
・サッカーが必ずしもそういうものでなくてはいけないそうでないと勝てないというものではないという身近な例としては、Jリーグにおける鹿島アントラーズなどというものがありますね。
・これといった大文字の(全体)"戦術"があるわけでも資金力やそれに伴う選手の質がそこまで突出しているわけではなくても、結果的に長期に渡り、"突出"して安定した好成績を収め続けて来た鹿島。
・それを可能にして来た有力な一つが、正に"グループ"の強さだと思うわけですけど。受け継がれる。
・「個人」と「全体」の、言わば"中間"にある。
・その背景に"ブラジル"サッカーの強固で特定的な伝統があるのは確かですけど、ただこれは別にブラジル特殊の現象という事ではないので。
・上で言ったように「全体戦術の世界的発展」により「グループ」の影が薄くなったのであれば、それ以前はむしろ「グループ」が強いのが当たり前というか、そこで勝負が決する可能性が高かった。(だから鹿島も"常勝"だった)
・そこまで徹底的なチーム戦術を持っている監督の割合も限られていたし、またこれは現在でも同じことですが、そうそうチーム"戦術"なんてものは狙い通りには上手く行かないものなので、それを補完したり補強したりセーフティネットを張ったり、場合によっては(挫折後に)代替するものとしてのグループの強さの重要性は、ごく当たり前のものだった。"事実"として。
・まあブラジル/南米/ヨーロッパでもラテン寄りの方が、より"グループ"が主役である度合いは大きいという事は言えると思いますけどね。
・オランダなんかは割りと昔から、ほとんど「全体」と「個人」の印象しか無い。
・ちなみに我らがヴェルディも勿論というか何というか、ある意味鹿島と双璧に"グループ"の主役性の強い伝統を持っていて、そこにはやはり「ブラジル」という共通性は小さからぬ役割は果たしているわけでしょうが。
・それを"強み"として継続利用に成功して来た鹿島に比べると、弱みというか偏りというか、逆にチーム戦術の"弱さ"として表現してしまう事も少なからずあって、両者の成績・現状の差の一因にもそれはなっているわけだろうと思いますが。
・ただそれでも定期的に訪れる、たいていは"チーム戦術"的な整理が上手く回転している時には、他のチームにはなかなか無いようなグループ/コンビネーションの強さ濃密さで、(チーム)戦術が保証する以上の戦闘力をヴェルディが発揮することは、その歴史の要所要所であったように思います。
・そのヴェルディに"グループ"の影が薄い、むしろそれが"特徴"にすら見える、基本の戦術に共通性の多い山形との直接比較においてと、越智氏は言うわけですけど。
・それが本当なのかだとしたらなぜなのかという話をする前に、そもそも"グループ"は必要なのかあるとどんな役に立つのかという話を、一回してみた方がいいかも知れません。
・一つにはやはり"普遍"的な現象として上でも言ったように、全体戦術のその時々の状態に応じて、局面の威力を追加したりそれ以前にチーム戦術のスムーズな進行を補助したり繋がりのぎくしゃくしたところを調整したり、一定の範囲でずれを"吸収"したり、そういう機能は果たすと思います。
・崩壊時には勿論代替で動きのベースを提供するわけですが、そこまで行くと別の話になるのでおくとしても、例えばそのチームが元々持っていたコンビネーションやグループ性と、新たなチーム戦術が要求する機能性が上手く"結婚"したりすると、単に"学習"する以上の活き活きとした様相をそのチームのサッカーは呈することになりますね。
・より大きな構図で言うと例えばこういう視点。
・以前、去年、永井ヴェルディの特徴/問題点として、「空間性については緻密だが時間性については無頓着だ」という話をしました。(『"時間"の問題。/東京V-鹿児島(’19)、東京V-山形(’19)』)
・その時に空間性について近年のサッカー戦術の精度が大きく増したのは確かだが、そのように皆が空間性に気を配るようになったのなら、逆にプラスして時間性についても繊細であればより競争性が高くなる理屈だ、あるいは"空間の時代"以前の世代の監督であるロティーナには正に空間に加えて時間についても一定の繊細さがあって、それが空間一本の永井監督との違い/差として見えるという話をしました。
・同じ論法で、皆がチーム/全体戦術に腕の冴えを見せるようになった時代において、そこでいったん置き去りにされた"グループ"という要素が、差別化・横並びからの抜け出しの逆に鍵を握るという可能性も、論理的には大いにあるのではないかという。
・この1試合の結果(笑)だけを踏まえるならば、今回の越智氏の観察・分析も、見ようによってはそう言うことを言っている、"グループ"の有る無しが山形とヴェルディの差だと言っているとも取れる。(そこまでの意図は無いでしょうけど。(笑))
・そういう"敗因分析"の可能性を受け止めつつただ僕が越智氏の解説から一番強く思いを馳せたのは、実は今回の冒頭で述べている"成熟"の問題、(永井)ヴェルディが順列組み合わせを繰り返すだけで余り蓄積したり成熟したり熟成したりしないようにここまで見える問題について。
・要は「成熟」「熟成」というのは、専ら"グループ"に宿るものなのかもしれない。
・監督とその頭が司るチーム/全体戦術は、その性格からどうしても「計画」と「理屈」の型通りというか一面的なものになる。ある意味それこそが目的でもあるし。
・個人は勿論、勝手に熟成することは出来ないというか出来たとしてもそれは言わば"独自解釈"が深まるだけなので、下手すると断絶孤立の元になる。進歩が進歩になるのは、"共有"されてこそ。
・となると「成熟」などという曖昧なもの、成果や経験の一定の遊びを持った保持、そこからの蓄積や化学反応とその継続のようなものが発生するのはそれらを抱え込めるのは、"グループ"の領域なのではないかと。あえて特定すれば。
・「チーム」戦術とそれを遂行する「個人」という直線的垂直的な関係ではなく、その間に挟まって監督の意向とも個人の欲望とも、一定の距離一定のずれを構造的に持ちながら、それらを現実と接合したり吸い上げたり柔軟に運用したり時にデリバティブを利かせたり("戦術が保証する以上の戦闘力")する"グループ"。
・勿論"邪魔"することもあるんですけどね(笑)。ザックやハリルホジッチと、「本田・香川」(グループ)のように。
・だからこそ「戦術」化の進展と共に、どちらかというと消えつつある領域な訳ですけど。
・かなり思いつき&独断的ではありますが、監督の頭が司る"チーム戦術"が、専らAという状況に対するBという対処の並列的集合で形成されるとしたら、それら"横"とは違う"縦"方向つまり時間的変化が主に存在する場所としては、「個人」「グループ」「チーム」の3分類の中では"グループ"が有力というのは、とりあえずそんなにおかしい考えではない気がします。
・その3分類自体の妥当性や、"グループ"と呼んでいるものの中身については、新しい知見にも基づいて更なる検討が必要でしょうが。
・という一般論から"ヴェルディ"と"山形"の対置にもう一回話を戻すと。
・まあ分からないことだらけというか仮定だらけというか。
・ヴェルディで言えば、現在のヴェルディの主な問題が時間的蓄積(ととりあえず総称しておく)の不足にあるという仮定。それからその更に主な原因が永井監督による"全体"戦術の施行ないしはそのやり方にあるという仮定。
・山形で言えば、山形の"ちっちゃいグループ"志向自体は部外者であるので越智氏の観察を信用するとして、それがどの程度監督が意識的に採用しているものなのか。
・...このタイミングで言うのはちょっと遅きに失する感じはするんですが思いついたので一応言っておくと、「全体戦術がグループを破壊・阻害する」ということについては、"FW"というポジションの変化が特に分かり易いかなと。
・長らく主流だった"2トップ"というシステムにおいては、2トップ(+1,2人)自体のコンビネーション("グループ")が重要でそれがチームや攻撃の動きの大きな基準になっていることも多かったそういう状態から、近年の主流システム3トップにおいては、それこそ永井ヴェルディの「ワイドストライカー」と「フリーマン」のように、チーム戦術からのダイレクトな指令によって個々の動きが決められていて、当事者間(グループ)の関係性は副次的なものにとどまるわけです。"チーム"からの直接な"個人"の繋がり。"グループ"を介在させない。
・...逆に言うと、そうなったから、高度にプログラム化したからこそ日本でも3トップなんてものが一般的に使われるようになったわけですよね。つまり前時代的3トップ、左右ウィングがゴリゴリ単騎突破して上げたクロスをドカンとヘッドで叩き込む的なタイプのものは、およそ日本の人材タイプ的に一般化しえなかったわけで。
・だから永井ヴェルディでも時に0トップはもう沢山的な悲鳴(笑)はサポ間で上がったりするわけですが、そう簡単にそこらへんの調整はつかない事情。
・とにかくこんな感じの"全体"から"個人"への直接指令的な関係が、多かれ少なかれ各ポジションで成立しているのが昨今の趨勢だと思います。それによる、"グループ"の希薄化。
・ああどうやって終わろう。書こうとすればまだまだいくらでも書けるテーマですけど、このままだらだら書き続けてもさすがに読み難いだけだろうしな。
・とりあえず話戻して山形の"グループ"性は、実際どういうものなんでしょうね。
・監督が意識的に、(永井ヴェルディとも共通のベースの上に)"あえて"付け足しているものなのか、元々あった何かを利用したものなのか。
・あるいはいち"山形"というチームを仕上げる上での方便としてやってる事なのか、それとも上で"森保ジャパン"などという例も挙げましたが、"洋式"に"和式"を接合する、何らかの可能性的な問題意識の元に行っていることなのか。
・詳しい人がいたら、教えてもらいたいですが。
・ヴェルディにとっての当面の問題としては、やはりヴェルディと山形の間の少なくともこの試合で見えたような習熟度の差が、"ヴェルディにはなくて山形にはある「グループ」という要素"に起因する、その可能性ですけどね。
・繰り返しますけど、越智氏自身は、単に"違う"と言っているだけですけどね。
・そこからこちらが、心当たりを勝手に探っているだけで。
・まあ「距離が遠すぎる」とか(監督の指示なのかもしれないけれど)「関係性が薄い」という意味の指摘は何度かしているので、それ以上のことを言いたい気持ちはあったんだろうと思いますが。そこはまあ、お互い外交的なあれが。(笑)
・諸々書き残しはやはりあるんですが、最後にひょっとしたら参考になるかもしれない、ちょっと変わった事、畑違いの引用で気分を紛らわしてみて、今回は終わりにしたいと思います。
デュルケムの「国家―中間集団―個人」
この論点は,2段階に分けて,とはいえ一対のものとして考えることが重要である。
①国家という普遍的権力が中間諸集団を否定することによってはじめて個人が解放されるという主張,
②肥大症的な国家と未組織の無数の個人の無媒介的接触は社会学的怪物であり,中間集団の再建が必要であるという主張,
のふたつである。①は〈中間集団の存続の問題性〉であり,②は〈中間集団の不在の問題性〉である。デュルケムは〈中間集団の存続の問題性〉と〈中間集団の不在の問題性〉をともに考えようとしていたのである。
(『デュルケムの「国家―中間集団―個人」プロブレマティーク』/中島 道男(奈良女子大学))
・デュルケムというのは19世紀末から20世紀初頭に活躍した「社会学」の始祖的人物。(Wiki)
・個人的には昔文化人類学の学史について勉強した時に、そのはしりの一人としてちらっと読んだことがあったかなというくらいの人。
・そのデュルケムがこういうことを言っているのは知らなかったですが、まあいかにも言ってそうではある、社会学/国家論のかなりテーゼ的に巷間に流布している内容。
・つまり僕は今回、この図式における②"〈中間集団の不在の問題性〉"について、特に論じたわけですね。(笑)
・と冗談めかしてはいますが、僕が「"全体"から"個人"への直接指令的な関係」などという言い方をしている時に、"全体(主義)に抗することの出来ない裸の個人の脆さ"的なイメージを、ぼんやり浮かべながら書いていたのは実際のところほんとです。
・それを補完・留保させるものとしての、中間集団≒"グループ"。
・中間集団。時代状況によって内容は微妙に変わりますが、簡単に言うと「国家」と「個人」の"中間"にある、(大)家族や地域社会、学校、企業などの中間的なまとまりのこと。(参考)
・尚今回僕は、純粋にサッカーチームとしての機能や戦闘力という観点から"中間集団の不在の問題性"的な事を言いましたが、一般社会、より広い"本物"の社会の問題としては、基本的に中間集団なんてくそくらえ、解体してくれてありがとう近代社会、いいぞもっとやれなタイプの人です。(笑)
・①"存続"の方が問題だというか。
・まあサッカーチームなんて、どんなに社会だ家族だと言っても所詮はむしろ"軍隊"とかに近い、単一目的の特殊集団ですからね、一般論と一緒にする必要は無い。
・話をサッカーに戻すと、"①普遍的権力による中間諸集団の否定"的な事を、日本サッカーの歴史の中で華々しくやったのが、代表的にはハリルホジッチ。(本人のつもりは別にして)
・ただその結果が余り"個人の解放"のような明るいものには見えずにまた戦闘力的にもいくつかハマる試合はあったもののさほど純然たるプラスに見えない部分も大きかったので、やっぱグループじゃね?中間集団じゃね?という事で"反動"したのが、西野ジャパン以降のジャパン・ウェイと、まあこんな文脈を考えることも可能かと。(笑)
・うん、意外といいんじゃないですかね、この引用。分かり易くなった気が。
・今回のような僕の観察が正しければ、その後少なくとも"中間集団"(の解体)という観点からは、時間差で日本のサッカーも結局"ハリルホジッチ"の方向に進んではいるのかもしれませんが。
・まあ中間集団と一緒に全体的組織化そのものも否定しているように見えた(むしろそちらに日本人はびびった気がする)ハリルホジッチと違って、こちらは全体的組織化の"副産物"としてひっそり進んでいるものなので、だいぶ印象は違いますけど。
・ただ気が付くとある意味"個人"が剥き出しになっているのは同じ。
・越智氏の目に永井ヴェルディが、"個力"勝負を挑んでいるように見えたように?(笑)
こんな感じです。
『’20年10月の東京V』という元タイトルからは、かなり遠くなって(笑)しまいました。
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