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新井政美『オスマンvsヨーロッパ』(前) ~オスマン朝の勃興
2020年11月11日 (水) | 編集 |
目の調子を確認する為にとりあえず読み始めたら、楽しくてついつい一気読みしてしまったので久しぶりにレポ。
この本自体も読み易くて楽しい本でしたが、それ以上に何か、久しぶりの「読書」脳が喜んで喜んで。(笑)




13世紀後半から近代にかけて、コンスタンティノープル/イスタンブールを中心にアジア・ヨーロッパ・北アフリカにまたがる大帝国を築き上げたオスマン朝(帝国)を、古代以来のトルコ系民族(匈奴・突厥・セルジュク朝等)の興亡から遡って書いた本。
現在チャンネル銀河&Huluで放送/配信中の、いよいよ最終第4シーズン最終盤を迎えようとしている世界的人気ドラマ『オスマン帝国外伝 愛と欲望のハレム』(2011~)の副読本として読んだわけですが、そういうタイプの初心者に見事に打ってつけの、コンパクトかつ総合的で、ドラマを見ていて感じた疑問にもいちいちピンポイントで答えてくれるお役立ち本でした。・・・あとがきを読むと著者はトルコの近現代の方の専門家であってオスマンの専門家ではないとのことなので、その"門外漢"の距離感が逆にちょうど良かったのかなという印象。

その中から特に面白かった部分&ドラマとの"答え合わせ"に役立つ部分を、抜粋。
まずは(前編)として、オスマン朝の誕生から世界"帝国"になる直前までの時代を。


オスマン朝の起源

一一世紀末からアナトリアを荒らし回ったテュルクメン兵士は、「ガーズィー」と呼ばれていた。ガーズィーとは、イスラムの信仰のために戦う戦士のことである。
一三世紀の末に、イスラム側とビザンツ側との勢力争いの境界線は、西北アナトリアにあった。しかもビザンツ権力は衰微して辺境を統率する力を失い、またイスラム側にも、これを統一的に支配する権力は生まれていなかった。こうしてアナトリア西北部は、一種の権力の真空地帯、あるいは無法地帯となったと思われる。(p.61)

"アナトリア"(Wikiより)
・アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域。現在はトルコ共和国のアジア部分。"小アジア"とも言う。
・北は黒海、西はエーゲ海、南西は地中海に面す。東と南東は陸続きで、ジョージア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する。

Anatolia_map1Anatolia_map2

・左はアナトリアの位置、右はオスマン朝成立間もなくの政治的な位置についての地図(p.68-69)。

"テュルクメン"・・・部族組織を維持したまま改宗してイスラム世界に進出して来たトルコ系遊牧集団。(p.44)

そうした混沌の中で、イスラム側にもビザンツ側にも、戦闘(あるいは掠奪)を生業とする集団が土着化していたと考えられる。おそらく彼らは「侠気」のような独特のモラル、あるいは価値観を持っていたと思われる。(中略)その中でイスラム側の人々が、「ガーズィー」と呼ばれていたのである。(p.61)
(中略)
[始祖]オスマンは、ガーズィーたちを食客として養っていたのである。そして彼がビザンツ側の領土を占領すると、ガーズィーたちに「村を与え、土地を与え、財物を与え」ていたことが、やはりその年代記には記されている。
(中略)
遊牧首長だったオスマンは、いつのまにかガーズィーたちを養い、彼らの戦力を用いてビザンツ側に攻撃を仕掛けることを日常とする集団の首領となっていったと、考えることができるのではないだろうか。(p.62)

冒頭で述べた古代/東北アジア以来のトルコ系諸民族の歴史及びその中でのオスマン家の位置については割愛。というか後者については未だ正確なところは余り分かっていないということで、ここの記述も著者の想像・推測が多分に入っているよう。
ちなみにWikiだとこう。

13世紀末に、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジクにあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説が欧州では一般的であるが、遊牧民の集団であったとする説も根強く、未だに決着はされていない。

正確な起源はともかくとして、とにかく「軍事的な集団」として歴史に現れたのは確かなよう。専門的戦闘集団というか。・・・著者の記述だと、特殊な"侠(おとこ)気"モラルで結びついた武闘派集団というか。(笑)
まあ中国の王朝とかも、そんな感じの集団が興した例は結構ありますね。漢とか明とか。
後にヨーロッパ/キリスト教世界を震え上がらす不敗のオスマン軍や、あるいはドラマ『オスマン帝国外伝』での常備軍"イェニチェリ"(後述)のいつも爆発寸前ちょいちょい勝手に暴れ出す姿などと、イメージ的には合致する"武闘派"起源ではありますが。

さらに重要なことは、オスマンの下で働く部下、寄騎(よりき)、さらに盟友が、決してイスラム教徒に限られていたわけではなかったことである。(p.64)

「民族」や「宗教」もそうした[侠気]「価値観」の一つに過ぎなかったから、イスラム教徒とキリスト教徒とが手を組むことも、そこでは日常茶飯事だった。(p.61)

出自や宗派より男気。一緒に戦えばみな「兄弟」。(きょうでえと読みたい)


初期オスマン朝の支配体制

先に始祖からドラマの時代の皇帝でもある、最盛期スレイマン一世までの歴代首長/皇帝の系譜を挙げておきますか。(詳しくはこちらまたはこちら)

 オスマン(1世)-オルハン-ムラト1世-バヤズィト1世-メフメト1世-ムラト2世

 -メフメト2世-バヤズィト2世-セリム1世-スレイマン1世

メフメト2世は東ローマの首都コンスタンティノープルを陥落させて、名実ともに世界"帝国"としてのオスマンを確立させた人物。(扱うのは次回)

では本題。

[初代]オスマン、[二代]オルハンの支配体制は素朴なものであった。そこでは行政と軍事が未分化なまま、テュルクメン部族やキリスト教徒の---あるいは改宗した---有力者たちに担われていた。「国家」の方針はこれらリーダーたちの合議によって定められ、オスマンもオルハンも、その第一人者、あるいは調停者にすぎなかったと考えられる。(p.71)

スルタンの国事が煩雑になるにしたがい、イスラム国家に広く行われていた宰相(ヴエジール)の制度がオスマンでも採用された。当初はスルタンの代理として政務に当たる職であった宰相には、のちに職務内容別に複数の有力者が任命され、[三代]ムラト一世の時代には、彼らによる御前会議が政策の最高決定機関となっていった。(p.72)

出た「御前会議」。あの意味があるのか無いのかよく分からない。(ドラマ目線)
ドラマではさっぱりよく分からないですけど、一応それぞれの宰相には専門性があるようですね。
念の為"スルタン"とは、
・イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。
・オスマン朝でスルターンの称号を最初に名乗ったのは2代オルハン(Wiki)


"イスラム"国家としてのオスマン

やや前後しますが。

トルコ族自体が、イスラム化以後の歴史も浅く、シャーマニズム的要素を色濃く残していた上に、オスマン朝はビザンツのお膝元であるアナトリアで、[キリスト教も含む]土着の要素と混淆しながら誕生・発展したため、(中略)非常に異教的色彩が強かったと言われている。
であるにもかかわらず、オスマン朝は、正統派イスラムを受容し、それに従い、それを広げることを国家の存在理由として立っていた。(p.71)

ある時点で意識的に「イスラム」であることを選び取ったことから、オスマン政権のアイデンティティ、普遍性や永続性の基礎が、一つ与えられた。

また、イスラム法の施行が「イスラム国家」としては必須であった。(中略)イスラム法に精通した学者、知識人(すなわちウレマー)(中略)が登用され、司法官として重要な役割を果たすことになった。彼らの中には、さらに行政官として、場合によっては軍事権も掌握する大宰相(サドラザム)として活躍する者も現れた。(p.72)

後のスレイマン一世時代のドラマの「大宰相」職には、単に"偉い""宰相たちを束ねる""皇帝の代理人"という純権力的意味しか見出せませんが、元はこういうものだったらしい。


イェニチェリの登場

ムラト一世の時代には、軍隊もしだいに整備されていった。元来オスマン軍は、最初期からのガーズィー集団を除くと、部族単位に組織され、族長に指揮されるテュルクメン騎兵が主力であった。彼らの武器は弓矢と槍であり、報償は略奪品であった。(中略)
常に戦利品を求める彼らの志向が、ビザンツをはじめとするバルカン諸国と政治的な交渉も行い、国内に確かな支配体制を敷こうとするスルタンの思惑と両立しにくいことであった。こうして、セルジュク朝の場合と同様、オスマン朝も「脱テュルクメン化」あるいは「脱ガーズィー化」を図ることになる。(p.73)

義理と人情とイスラム護持の大義名分でオスマン家と結びついている基本的には自生的集団であるガーズィーや、各部族の私兵というか家の子郎党に頼らない、国家独自の軍隊の整備の必要性。

ガーズィーたちは辺境に送られ、尖兵(アクンジュ)としての役割を与えられた。その役割は、不正規兵として敵地への襲撃を敢行して掠奪を行ない、正規軍の侵入を容易にすることだった。(p.73)

アクンジュ。不正規兵。
ドラマの字幕では「非正規騎兵」などとも訳されるドラマ屈指のよく分からない概念・兵制の起源は、こういうことだったのか。
前提的にはオスマン朝の支配・統制下に置かれながらも、正規軍には出来ないような汚い仕事や危険な仕事を辺境や敵との隣接地域で行って、正規軍の行動を準備する。
恐らくは普段は特段の命令が無くても割りと勝手に活動をしていて、その自由や野生自体を愛する気風が育っていて、だからドラマナンバー1の伊達男"マルコチョール"も、皇帝(スレイマン)の信頼厚い近侍という身分を振り捨てても隙あらば辺境に戻ろうとしていた。

このように、オスマン軍の主力からガーズィーたちをはずすなら、当然それにかわるものが必要になるだろう。
常備軍団としてスルタンの統制下におかれた徴募兵の軍が、まず歩兵、騎兵いずれにおいても編制された。
だが、より強大、かつ絶対的な忠誠心を持つものとして、やがてイェニチェリが登場することになる。人員は、デヴシルメと呼ばれるキリスト教徒子弟の強制徴発によって供給さ れた。こうしたキリスト教徒の強制的な徴用は、すでにアナトリアのトルコ化、イスラム化の過程でも見られていたが、ムラト一世はこれを、オスマン軍の中核を形成するための制度に練り上げようと したのだった。(p.74)

彼らは君主の「奴隷」であったが、その言葉が実際に意味するところは、君主との間に擬似的血縁関係を結んだ者、すなわちほとんど「養子」であり、し たがって彼らは国家の支配階層に属し、給与を支払われた。(p.74)

"イェニチェリ"
・14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団
・当初はキリスト教徒の戦争捕虜からなる奴隷軍であったが、15世紀にキリスト教徒の子弟から優秀な青少年を徴集し、イスラーム教に改宗させてイェニチェリなどに採用するデヴシルメ制度が考案され、定期的な人材供給が行われるようになる
・長官であるイェニチェリ・アアス以下部隊ごとに分かれて強い規律を持ち、16世紀までのオスマン帝国の軍事的拡大に大いに貢献した。同じ頃にヨーロッパでが普及し始めるといち早くこれを取り入れ、組織的に運用した(Wiki)

このイェニチェリとそれ以外の常備軍・正規兵との違いがなかなか分かり難いところですが、簡単に言えば前者は"奴隷"で"歩兵"、後者は"自由民"で"歩兵・騎兵混合"という感じですかね。
ただ"奴隷"と言ってもその地位は高く、例えばメフメト二世のコンスタンティノープル攻略を描いたネットフリックスの半ドキュメンタリードラマ『オスマン帝国 皇帝たちの夜明け』(2020)によると、当時のオスマン軍の例えば攻城戦のセオリーでは、まず新顔捕虜や犯罪者などの最底辺のそれこそ"奴隷"軍が、第一陣の切り込み隊として"死に"に行かせられる。次に彼らが切り開いた血路を「正規軍」が広げに行く。その後の真打ち、切り札として最後に投入されるのがイェニチェリというそういう三段構えが取られていたということ。
先に死ぬのは自由民の方(笑)。恐らく装備にも育成にも金がかかってるんでしょうが、イェニチェリには。

そして何より重要なのは、"奴隷"でありかつ皇帝の"養子"でもあるという特殊身分からの絶対的な忠誠心で、こうした性格の軍団の力を背景に、皇帝家の国家内における絶対的地位が確立され、またこうした彼らの優劣入り混じった特殊な自負心・自意識が、後にはしばしば暴走して帝国の悩みの種ともなったわけですね。


バヤズィト一世の治世

そのイェニチェリを整備した三代ムラト一世の次代。

彼は、デヴシルメによってバルカン方面から徴集された男童を、兵士(イ ェニチェリ)として使うだけでなく、官僚としても登用することを始めて、オスマン朝のその後の発展に、確かな道筋をつけることになる。
スルタン個人に忠誠を誓う官僚と強力な常備軍とに支えられた絶対君主となることで、バヤズィトはオスマン朝のさらなる発展をめざしたのである。(p.79)

軍だけでなく、官僚についても"奴隷"身分の皇帝直属の人材が主役なった。
ドラマでは各"宰相"たち含めてお馴染みの風景ですけど、ある時期まではそうではなかったわけですね。


オスマン朝の"普遍"性"寛容"性

そのバヤズィト一世や前代ムラト一世の、オスマンがアナトリアを飛び出してヨーロッパ/ビザンツ/バルカン半島方面に勢力を広げて行った時代の風景。

バルカンの諸王(あるいは諸侯)は、国内の権力闘争を勝ち抜くために、あるときはオスマン軍に敵対し、またあるときにはそれに味方をしたのであった。そしてオスマン側は、こうした人々を平然と受け容れていた。そうした態度は、千数百年の昔、匈奴が漢人を利用して以来、遊牧国家がとり続けてきた態度と共通していた。種々の部族の連合体を、支配部族の名である匈奴の名で呼んだように、オスマン朝も、種々の言語を母語とし、種々の宗教を信じる人々を糾合した国家の名として、建設者オスマンの名が冠されていたのである。(p.78-79)

"オスマン"(人)概念の緩さ。

イェルサレム巡礼を果たしたキリスト教徒メッカへ行って来たイスラム教徒と同じ「ハジェ」としてイスラム教徒からも敬意を表された(p.83)

宗教的寛容さ。
またはアブラハムの一神教としてのキリスト教への同族意識。


こうした"潜在"力を窺わせながら、次はいよいよ軍事的政治的に、文字通りの「世界帝国」に成長するオスマンの姿を見て行きます。


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テーマ:歴史関係書籍覚書
ジャンル:本・雑誌
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