初代から今回取り上げる全盛期のスレイマン一世までの、系譜だけ再掲しておきますか。
オスマン(1世)-オルハン-ムラト1世-バヤズィト1世-メフメト1世-ムラト2世
-メフメト2世-バヤズィト2世-セリム1世-スレイマン1世
コンスタンティノープルの征服
メフメット二世の即位後も、政治の実権を握っていたのはいまだにトルコ系の有力者、特に父ムラトの時代から大宰相の地位にあったチャンダルの当主ハリルであった。(p.91)
前編で触れたネトフリ『オスマン帝国 皇帝たちの夜明け』によると、ムラト(二世)とハリルは主従と言っても同盟関係に近くて、メフメット二世にとっては第二の父親のような存在、結局コンスタンティノープル攻略をコケの一念で成功させるまでは皇帝側(メフメット二世)絶対優位という関係は確立出来なかったという感じですね。"コンスタンティノープル"前、"コンスタンティノープル"後というかなりはっきりした区分け。
こうして準備を重ねたスルタンは、あくまでも攻撃に反対するチャンダルル・ハリルとその一党を、オスマン朝国家が持つ、イスラムの信仰のために戦うガーズィーとしての伝統を盾に押し切って、一四五三年早々に、コンスタンティノープル攻撃を正式に決定した。(p.93)
ここでガーズィーが出て来るのか。
イスラム聖戦士集団ガーズィー(前編参照)とオスマン家は、その勃興の最初期からの結びつきではある訳ですが、それはそれこそ便宜的"同盟"的関係であるのが第一で、オスマンの"イスラム"がそこまでシリアスであるという印象はこの本の範囲ではないですね。
だから若き名ばかり皇帝メフメット二世が親父たち世代へ対抗する為に宗教的求心性を利用した、あるいは煽った、そんな情景は想像される訳ではありますが。「若者世代の右傾化」と、当時の良識派が嘆いたかどうかは知りませんが。(笑)
コスモポリタン君主
メフメットは、即位以前からアラビア語、ペルシャ語とイスラム諸学だけではなく、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語も修得し、ことにギリシアの文献を広く学んでいたことが知られている。(中略)そうした知識に裏づけられ、スルタンは自らをアレクサンドロス大王の衣鉢を継ぐ者とも意識していた。実際、彼は東西の融合を果たすべく、ローマ征服を目指してイタリア半島(オトラント)に橋頭堡を築くことにもなるのである。
またスルタンは、イタリアから芸術家を招聘、保護して、コスモポリタンな文化の育成に努めてもいる。(p.95)
そんな一見"愛国"君主メフメット二世ですが、本来はこういう人だったと。
まあそもそもが"辺境"国家であるオスマンが"コスモポリタニズム"を標榜する事それ自体に、愛国主義の性格はあるとは思いますが。"中心"国家が"外"に開くのとは意味が違って、結局は征服による融合ですからね、正に"アレクサンドロス"がそうであったように。
それこそチンギス・ハンのモンゴルにも、"アレクサンドロス"の例に倣うという意識はあったようですし。そういうある種の"パターン"。みんな大好きアレクサンドロス。
世界帝国の編成
イスタンブルには徐々に多くの異教徒が移り住み、征服後二五年で一〇万人に回復したと言われるこの町の住民の、およそ四割が異教徒ということになった。イスタンブルは、当初から国際都市だったのである。(p.97-98)
イスタンブルは勿論、征服したコンスタンティノープルをオスマンが改名した名前。語源はギリシャ語だとか。
四割異教徒か。
約70年後の世界を描いたドラマ(『オスマン帝国外伝』)の描写だと、それよりはだいぶイスラム純度は高い印象ですけどね。"外国商人"が儲け過ぎるという苦情は出てても"住民"の話という印象は無かった気がします。人口構成が変わったのか、あるいはオスマンの統治の継続安定に従って、ある種の"市民権"としてのイスラム信仰が代替わりや改宗で行き渡ったのか。(ドラマの描写を信じるならばですけど)
新航路の模索
このように、オスマン帝国の存在は、基本的には東地中海世界に新たな秩序をもたらし、盛んな交易活動を保障するものではあったが、同時にヨーロッパ諸国にとっては、中継貿易が滞 りなく円滑に行なわれるための不安定要因でもあった。
そもそもオスマン帝国は、軍事・行政・経済の重心をアナトリア[半島]とバルカン[半島]東部においた内陸国家であった。それは東地中海を制圧しはしたが、食糧の補給を、地中海周辺からの海上輸送に頼っていたわけではなかった。またその首都イスタンブルは、紅海からも、ペルシア湾からも遠くへだたっていた。こうしたオスマン帝国による東地中海の制覇は、ヨーロッパ諸国に、より安定した香辛料の供 給ルートを模索させることになる。(p.113)
オスマンに邪魔されたこそのアジア直通ルートの開拓、大航海時代という。
確かに「内陸国家」感はドラマを見ていても感じなくはなかった気がします。海軍が外注(海賊)なのは勿論ですし、「世界帝国」「世界帝国」と連呼しながら何か閉じている印象。"陸"の中でも(両)"半島"が中心で、草原的な広い光景も見当たらない。狭めの土地の連なりというか。
メンタル的にも、これはドラマ自体の描写の限界や現代"トルコ"の方の問題なのかも知れませんが、帝国外の地域や人々の描き方が類型的というか雑というか(笑)。自己中心に過ぎるというか。
一六世紀初頭の危機
(バヤズィト二世の)長兄のアフメットは父にも愛された有能な行政官だったが、軍事的には無能でイェニチェリたちに嫌われていた。(p.119)
スレイマンの父親のセリム1世の兄貴の話。
やはり"軍事集団"という出発点からの流れが脈々と生きている感じと、ドラマでも散々駄々こねて暴れていたイェニチェリの支持が、既に後継決定に大きな要素となっている様子。
スレイマン一世の登場
八年間の短い治世でセリムが病死すると、一五二〇年、すでに二○代半ばに達していた息子スレイマン(一四九五?~一五六六)が後を継いだ。四六年におよぶその治世を通じて、オスマン帝国を文字通りの世界帝国として歴史に輝かせ、ヨーロッパ人にさえ「壮麗者」と呼ばれたスレイマン一世の登場であった。
彼は皇太子としてのほぼ全期間を、エーゲ海沿岸地方の総督として過ごし、そこで、いわば治世の実地を学んでいた。トルコ語で「立法者」(Kánini)と呼ばれることに象徴されるように、 スレイマンは単なる征服者ではなく、帝国の集権化を図り、統治の合理化を果たすべく多くの法典を発布するスルタンである。彼の時代にオスマン帝国は、時代と地域の実情に適合した合理的な法と、それを運用する官僚機構とを整えた中央集権的国家になってゆく。(p.121)
ドラマではほとんど描かれなかった"実績"部分なので、確認的に。(笑)
ローマ教皇とオスマン帝国
一五五五年に教皇位に就いたパウルス四世(一四七六~一五五九)は、すぐにオスマン海軍によるイタリア攻撃にさらされたが、彼にとってより重大だったのは、それよりむしろ、アウクスブルクにおいてカール五世がプロテスタント諸侯と帝国都市とに譲歩し、ルター派を公認してしまったことだっ た。(中略)
一五五六年末に枢機卿をヴェネツィアへ送り、反スペイン同盟を模索させた。そしてそのヴェネツィアは―――常識とは裏腹に――プレヴェザ(一五三八年)、レパント(一五七一年) 両海戦の前後を例外に、 スレイマン時代のオスマン帝国とは友好的関係を保つことに腐心していたのだった。イスタンブルに駐在するヴェネツィア大使こそが、常にヨーロッパに関する機密情報をオスマン側に伝える役割を果たしていたのである。(p.146-47)
神聖ローマ皇帝カール五世。説明がややこしいですけど、大雑把に言うと(滅亡した)西ローマの後継を自称するドイツ広域国家"神聖ローマ帝国"の君主。"カルロス一世"としてスペイン国王も兼務し(そっちが本拠)、フランス国王と当時のキリスト教世界を二分する勢力の片方。(Wiki)
上で言ったように、『オスマン帝国外伝』の外国/ヨーロッパ人描写は熱意があるとは言えないもので、見ていて明確に印象に残っている人も少ないだろうと思いますが、一応他ならぬ"教皇"周りの動きと、あと確かにちょいちょいちょろちょろしていた(笑)ヴェネチア大使の動きが書いてある箇所なので引用しておきます。
なおイタリアの都市国家ヴェネチアとオスマンの関係性について前提的なことを言っておくと、基本的に(東)地中海の貿易・支配権を争う長きに渡るライバルで、ヴェネチア単独でオスマンと戦端を開いた事さえあります。メフメト二世がコンスタンティノープルを攻撃した時も、要請に応えて援軍を送った国はヴェネチアだけだったという。(ただしその時は間に合わなかった)
イブラヒム・パシャの処刑
スレイマンの治世の前半を支えてきた寵臣イブラヒム・パシャが一五三六年に処刑されたことが、ヨーロッパの芸術家、職人の保護者としてのオスマン宮廷の性格を転換させた。(中略)
彼は、ヨーロッパの工芸品に対して、ほとんど湯水のように金をつぎ込んでもいた。メフメット二世以来の、芸術家のパトロンとしてのオスマン宮廷の役割は、イブラヒム・パシャによって、ほとんど地中海全域を覆うコスモポリタンな文化の演出者の地位にまで高められようとしていたのである。(中略)
イブラヒムの財産はスルタンに没収され、そして彼の後釜にすわった大宰相たちは、いずれも財政の引き締めを打ち出した。その結果、ヴェネツィアなどへの工芸品の発注も激減することになった。(p.150-151)
この本は特に主題的にイブラヒム・パシャを取り上げてはいないんですが、その中で強調していたのはここ。ドラマの中ではそこまでの印象は無かった(むしろ軍事面の活躍シーンが多かった)ので、そうだったのかと。
ドラマでは単なるイブラヒムの個人的趣味ヨーロッパかぶれとして、イスラム主義者からの攻撃の的になっていた部分ですよね。こんな文化的文明的意味/目的があったのかという。
イスラム化への傾斜
老境にさしかかると、スルタン自身もイスラム神秘主義に傾倒していったと言われている。そうした君主の変貌は、かってメフメット二世やイブラヒム・パシャによって推進されていた、東西の融合によるコスモポリタンな文化の創造という壮大な実験を、色あせた絵空事にしてしまったであろう。そしてイブラヒム・ パシャの処刑後、彼が持ち帰らせたブロンズ像を破壊した人々がいたように、宗教の違いを重視し、イスラムを強調したい人々もまたその数を増していたと思われる。(p.159)
イブラヒム・パシャ処刑後のスレイマン。(処刑当時は42歳。死去時71歳)
イブラヒムの在世中&死後の彼がギリシャから持ち帰って鑑賞していたブロンズ像に対するイスタンブル市民の風当たりの強さについては、ドラマのそのシーンを見ていた当時はごく一般的なイスラム純粋主義的感情だとしか思っていなかったんですが、その後この本などで知ったオスマン帝国の"コスモポリタニズム"や"宗教的寛容"、及びその最盛期の君主であるスレイマンが持っていたはずの国際的視野や当然その支持の下に行われた(ドラマでもちらっとそんな描写はありました)ろうイブラヒムの"文化事業"の性格を考えると、若干の違和感を覚えなくもないですね。あからさま過ぎないかというか随分気軽に国策に楯突くんだなというか。
上の"イスタンブル市民のイスラム教徒率"の問題と合わせて、ドラマの描写が単純化され過ぎているのか、それとも"最盛期"スレイマンの在位時のそれほど遅くない時点で、既にイスラム純粋主義内向き化は始まっていたのか。スレイマン自身の実際のパーソナリティ(の変化)含めて。
まあここらへんは、別にもっと学術的な本でも見てみないと分からないのかもしれませんが。
スレイマン一世死後(の衰退)
たしかにオスマン帝国には莫大な富が存在していた。
だがオスマン帝国の富は、まず第一に宮廷とその周囲に偏在していた。そして第二にその宮廷人や軍人、宗教知識人たちも、いつスルタンによってその富を没収されるかわからない状況に置かれていた。もともと彼らの富は、スルタンの恩寵とし て与えられたものだったからである。第三に、無事にその富を守りおおせても、それは分割相続の定めによってしだいに細分化される運命にあった。
そして第四に、富貴の人々はその富をもっぱら都市の不動産へ投資した。オスマン帝国の経済政策は、帝国内での安定供給をあえて言えば消費者の保護を基本に据え、そのため商工業はギルドによって規制され保護されていた。したがって、せっかくの富の集積も、それらが新たな産業の育成へ向けられることはなかったのである。(p.170-171)
経済面の理由。オスマンの富・経済が西欧近代的な無限ともいえる"発展""拡張"の方向に行かなかった理由。
重要というか面白いなと思ったのは第四ですね。先ほどの「内陸国家」という話とも重なりますが、"三大陸にまたがる大帝国"オスマンの、意外で独特な内部完結性。
恐らくはある種の「イスラム・ユートピア」国家だったのではないかなと、"富"が「拡張」や「投機・投資」による無限化ではなく、"消費者保護"帝国臣民の安心安全の方により振り向けられていたというここの説明を見る限り。構造的には中世ヨーロッパにも「キリスト教ユートピア」的な性格はなくはなかったんでしょうが、いかんせん貧しかった(笑)。みんなで貧乏。
無限発展的経済という意味での"近代"は無かったけど、ある種の"民主主義"はあった?
まあ現代のアラブの産油国とかを考えると、"豊か"だからといって余り理想化するのは危険そうではありますが。"隣の民主主義"を知らない分、皇族絶対支配のストレス自体は現代程は無さそうですけど。食えれば満足、自由とかはそれほどでも?
教会組織を持たないオスマン帝国では、宗教はきわめて緩やかに人々の間に行き渡っていた。「正統的」教義から見ればほとんど異端と見えるような儀礼や習慣までが、疑われることもなくイスラムの信仰として人々に受け容れられていた。さまざまな形でさまざまなレヴェルに、イスラムは「正しい信仰」としてしみわたっていたのである。
宗教を桎梏(しっこく)とみなすような考え方は、そこでは生まれにくかったであろう。中世において偉大な思想家や哲学者を輩出したイスラム世界が、「近代的思惟」の面で目に立つ貢献をしていない理由の一半は、そのあたりにあるのではないかと思われる。(p.204-205)
今度は精神面。十分に知的な文化・文明だったのに、(西欧)近代的"自我"や"個人"の意識が発展しなかった理由。
教会組織の直接的監視・干渉やそれを一因とする教義の厳格化が行われなかったゆえに、それとの格闘としての"プロテスタント"や"ルネッサンス"(自由な精神の「回復」)も起きなかった的な話。なるほど。
結局だから、自己完結的な(僕の言い方ですが)「イスラム・ユートピア」がある種完成してしまったゆえに、そこで終わった、それ以上変わるモチベーションが得られなかったと、そういう話になりますか。"不幸"だったから"進歩"した西欧と、"幸福"だったから衰退したオスマン。
まああんまり勝ったから偉いとか自己完結的な幸福が駄目だと決めつけてしまうと、「近代主義」を礼賛しているだけで逆に最近・今後の人類の問題に対する視野という点で実りの少ない話になってしまうと思いますが。"あの当時"の問題の整理としては、こういう話のようです。
以上でだいたい、ドラマとの関連を中心に僕が興味を惹かれた部分については書けました。
入門書としてはかなり絶妙な感じのする本なので、お薦めしておきます。