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読書録『「ジャパン」はなぜ負けるのか 経済学が解明するサッカーの不条理』(8~14章)
2020年12月19日 (土) | 編集 |
(1~7章)はこちら




Part2 ファン

サッカーを"する"人と"見る"人

p220

自分でサッカーをプレイする人は、どの国でもそれほど多くなかった(人口の10%を超える国 はそんなになかった)。スタジアムでサッカーを見る人はさらに少なかった。


一瞬あれ?と思ったんですけど、思う必要があるのかないのか、書いている今もよく分からない。
例えば日本で「サッカーが好きです」と言う人が目の前にいたとして、その人がテレビやネットでサッカーの試合を見るだろうことは当然としても、次に浮かぶ疑問としては「スタジアムにまで行く人なのか」どうかであって「自分でプレーするかどうか」ではないと思うんですよね。だから不等号としては逆じゃないかという気が一瞬したわけですが、まあ話は統計の話なので少なくともこの人が見た統計ではそうだったわけでしょう。
まあ「プレイ」のレベルにもよるのかも知れませんが、例えば学校体育あたりも含めて「やったことのある」人数だったら当然「スタジアム観戦したことがある」人数より遥かに多いというのは分かりますが、職業や学校を離れて定期的にプレーする愛好する人となると、かなり日本の中ではレアなイメージ。"草野球"をする大人と"草サッカー"をする大人との、イメージとしての馴染みの差というか。
一方で"Jリーグの観客動員"に絡んで、「自分でもプレーするある程度サッカーに詳しい人」はJリーグには興味を余り持たないとか、「サッカースクール等に通う子供」は土日は自分の練習があるので見に行けないというようなこともよく言われるので、そういう層も考えれば日本でも (テレビ等で見る人)>プレーする人>プロサッカーを生観戦する人 という不等号もおかしくはないのかもしれない。
・・・とまあ、僕があれこれ考えていても何の結論が出るわけでもないんですが(笑)、割りとあっさり、"当然の"結果として上の内容が書いてあったので、ちょっと色々と渦巻いてしまったという話です。なかなかバスケみたいにリンクがあるからちょっと遊びでやるという感じのスポーツでもないのでね。基本かなり広いスペースが無いと出来ないし。下手が蹴り合うとボールがあっちゃこっちゃ行って危ないし(笑)。("キャッチボール"などと比べても)
"やる"スポーツとしては、若干ハードルが高い気はしますね。


イングランド及び世界の"サッカーファン"

p.243

それは、イングランドのクラブをサポートする外国人のファンはひとつのクラブを一途に応援しているわけではないというものである。中国サッカーについて書いた『竹のゴールポスト』の著者ロワン・サイモンズによれば、中国では多くのファンが「いくつものライバルチームを同時に」サポートしており、好きなクラブをころころ替える。サイモンズはこう書いた。「中国には浮気性のサポーターが非常に多く、ひとつのクラブに揺るぎない忠誠を誓うファンはほとんど見つからない」


p.246-247

イギリスのサッカーファンの大多数は、スタジアムに試合を見に行かない書斎型ファンだ。2003年にMORI社が行った調査によれば、イギリスの成人の45%がサッカーに関心があると答えている。だが前の章でみたように、イングランドとスコットランドの全プロチームの平均観客数は人口の3%程度でしかない。イギリスのサッカーファンの大半は、スタジアムにまったく行かないか、ほとんど行かないかのどちらかなのだ。
フレッチャー・リサーチが1997年に行った調査は、イングランドのサッカー市場を初めてまともに取り上げたもののひとつである。それによると、プレミアリーグのクラブをサポートしている人のうち、1シーズンに1試合でもスタジアムで試合を見るという人は約5%だった。ファンがスタジアムに足を運ぶ回数がこれほど少ないなら、ホーンビィのようにホームゲームをすべて見るファンはさらに少ないことになる。


中国とイギリスの"ライトサポ"像ですが、いずれも若干、僕の日本での生活実感からすると意外な感じ。
まず"イングランド"を筆頭とする外国クラブを応援している日本人サポをネット上で見る限り、基本的には国内クラブを応援する場合と同様、対象クラブは固定している、忠誠心を持って応援しているように見えます。勿論"地元"ではないという意味では変わり易いものではあるでしょうが、その場合でもあくまで"忠誠心"を向ける対象が、何らかの理由で変わるというタイプの行動に見えます。決してここで言われている中国人ファンのように、"ころころ"変わったりはしない。
ただ言われてみるとああなるほどねと心当たりがあるのが、最近ではもっと多様化しつつあるのかもしれないですが、伝統的に言われて来たアジアにおけるマンチェスター・ユナイテッドの圧倒的な人気について。正直何でマンUなの?、そりゃ確かにPRは先駆け的に熱心にはやったのかもしれないけどという気持ちがずっとあったので。バルサやレアルなら"憧れ"の対象として分かるし、ACミランにも神話的に強かった先進的だった時代はある。でもマンUって有名ではあっても良くも悪くも非常にイギリス的イングランド的なクラブで、"イギリス文化"へのフェティッシュなセンチメントを除けば外国人が憧れるような対象には思えない。ファーガソンのチームは長く安定して強かったけど、それも別に世界のサッカーをリードしたとかではなくて、イギリス的なサッカー様式美の理想形としてじゃんという。ベッカムなの?ベッカムなのか?という。
まあ"ベッカム"に単純化していいかどうかはともかくとして、要するに究極のミーハー、メジャーなもの何かお祭りがやっている賑やかなものに素朴に寄って行く、そういうマインドがメインなのかなと、中国のファンについての上の描写を読んで軽く納得してしまったんですが。
勿論前提にはプレミアリーグ中継自体のアジアにおける普及の早さというのがあったわけでしょうけど、そうは言っても情報化時代だしなあという。日本でもさすがに"ダイヤモンドサッカー"の時代は神話の時代で、"歴史"としてはセリエAダイジェストあたりがやはり現代への繋がりのスタートだと思いますし。"心当たり"が薄いなあという。
後者に関しても、少なくとも僕のツイッターのリスト"ヴェルディ"や"ジェフ"TL(笑)を眺めている時の"出席"率というか、生観戦の"常識感"度と比べると、思いの外"本場"のサポの実態はライトだなとそういう印象。
まとめて何が言いたいかと言うと、大きくは中国なども含めたアジアの"後発"サッカー国の中にあって、日本人サポはひときわ模範的というか、「理想的なサポーター像」を素直に受け入れている度合いが大きいのではないかという事。そういうものにどうしても馴染めない部分が未だ多く残る、自分の良心の呵責(笑)の軽減感と共に。
あくまで印象ですし、ネットの海は呆れる程広大(未だによく呆れる)なので、僕の"リスト"のサンプリングの有効度に不安はあるとしても。

p.252-253

このモデルはすべてのクラブに完璧にはあてはまらないだろう。それでも92チーム全体のデータを考えれば、前年は見に来ていたファンの50%が次の年には帰ってこないという推定は確実に成り立つ。イングランドサッカーのある分析にはこう書かれている。「たとえばロンドンに本拠を置く3部リーグのクラブには、推定で約1万人のハードコアなファンがいる。チームの状況や相手チームの順位によって観客数は2万人に増える」。この文章は、ロンドンのシンクタンク、ポリティカル・アンド・エコノミック・プランニングが1951年に発表した報告書にあるもの だが、いまでも戦後イングランドのサッカーファンの姿を的確に表している。


p.253

この高い「年間死亡率」は新しい現象ではない。61年間の観客数のデータをみると、イングランドの観客の行動はほとんど変わっていない。ホーンビィ型のハードコアなファンがいることはたしかだが、イングランドでサッカーの試合に行く人の大半はごくたまに行く程度で、応援する チームを替えることも多いのが実情だったようだ。


"92チーム"というのはイングランドの"プロ"クラブの数。「年間死亡率」は前の段落で言っているある年に来たサポが次の年にはいなくなる率。"ホーンビィ"というのはイギリスの"熱狂的"サポのライフスタイルを描いた『ぼくのプレミア・ライフ』の著者。
1950年代から60年間変わってないというのが、感慨深いというか何というか。景気の上下や"プレミアリーグ"の興隆とかは、特に関係なく一定。言わばこれが、"普通"の、もっと言えば"正常な"(イングランド)サッカーファンの姿。


"根無し草"としてのイギリス人

p.262-263

イギリスは、農民が生まれた村を離れ、縁のない工業都市で働きはじめた世界で初めての国だった。教会に人々が行かなくなった時期も多くの国より早かった。世界中で人々を土地に根づかせている絆が、イギリス人のあいだには非常に希薄だった。
産業革命が終わったあとも、イギリス人は相変わらず移動を続けていた。いま平均的なイギリス人は、住む場所をおよそ7年に1度の頻度で変えている。欧州委員会が行っている「ユーロバロメーター」調査の2005年版によれば、イギリス人はノルウェー人とオランダ人に次いで、ヨーロッパで最も頻繁に住所を変える国民だ。国を出て行く人も多い。いま海外には約600万人のイギリス人が住み、ほかにイギリス人の血を引く人々が5000万人以上いる。イギリス政府によれば、これだけ多くの移住者を広い地域に出している国は、ほかにインドと中国くらいしかない。


前半は前回出て来た、産業革命時の民族/労働力大移動の話。後半は"海外移住"が多いのは何となく大英帝国の名残りで想像がつきやすいですけど、国内移住の多さというのはなんか意外でした。
・・・多分"イギリスドラマ"愛好者の僕が、「田舎町」や「僻村」を舞台にしたミステリーストーリーを見過ぎているからかも知れません(笑)。そこでは基本住民は固定的で、たまにロンドンに行くとかになったらもうそれだけでちょっとしたイベントなのでね(笑)。(そして名探偵の捜査はたいてい住民の閉鎖性や入り組んだ人間関係に邪魔される)
日本で言えば、いくら金田一耕助ものが繰り返し映像化されているからといって、あれが日本の"典型"だと思われても困るみたいな話でしょうか(笑)。まあこれは余談。

p.263

イギリス人が失ったルーツはもうひとつある。生まれた場所だけでなく、生まれた階級を離れる人も多いのだ。この変化が大規模に始まったのは60年代である。経済が成長を遂げ、学校に通う年数が長くなり、大学進学率も上昇した。労働者階級の国は「中流の国」に変わっていった。
多くのイギリス人には痛みのともなう変化だった。父親は工場労働者だったのに、その子どもたちはサラリーマンや専門職になった。必要とされる経験や技能は父親と違う。人々はルーツとの接点を失った。


引き続きイギリス事情。単純に面白いというか、言われてみるとなるほどというか。
全体としては何を言っているのかと言うと、

1.イギリスにおける特定のサッカークラブを重要なアイデンティティとして熱狂的に応援するという習慣、(多数派ではないにしても)典型的象徴的な"サポーター"像誕生の背景
2.そしてそれが実は"多数派"ではないにも関わらず、"典型"として受容され"物語"として愛される国民的背景

についての説明です。
これ自体はそれなりに説得的だとは思いますが、日本も含む世界各国の"サポーター"と"熱狂"の実態や由来について理解するには、やはりまた別途研究・思索が必要な感じはします。面白いけれどこれだけだと、割りとありがちな"国民性"論に見えなくはない。イギリス特殊論というか。


自殺と悲劇

p.281

国を挙げての一体感がこれほど生まれるのは、スポーツを除けば戦争や大災害くらいだ。わかりやすい例をあげれば、1963年にジョン・F・ケネディが暗殺された直後の1週間――アメ リカ中が悲しみに暮れるとともに「ひとつ」になった日々だーには、調査対象となった3都市で自殺が1件もなかった。やはりアメリカが「ひとつ」になった9・11同時多発テロの直後には、「自殺防止ホットライン」にかかってくる電話が通常の約半数の1日300件程度に減った。ジョイナーによれば「史上最少」の数字である。イギリスでは1997年、ダイアナ妃が死んだ後に自殺が減っている。


このすぐ後で述べるように、著者は大型スポーツイベントやスタジアム建設(≒プロスポーツチーム招聘)に"経済効果"なんてものはない、コンサル業界や一部御用学者によるアメリカ発の壮大な詐欺であるという立場の人なんですが、一方で幸福"感"一体"感"を与える効果はある、その良い例が(別の原因での予備軍に対する)自殺率の抑制であるということも主張していて、これはその流れでの議論(統計)。
直接サッカーは関係無いですけど、単純に面白いですね。別に夢"も"希望"も無くても他に大きな気がかりや関心事があると人は自殺しなくなるというのは、やはり自殺というものが、"甘え"とは言わないですけどかなり特殊な行動だということを表しているようには見えますね。"自然"なor"仕方のない"自殺というものは少ないというか。もし自殺志願者に会ったら、とりあえず"止め"ておいて間違いは少なそう。(笑)


スポーツの「経済効果」

p.283-284

いま南アフリカには、これによく似た言い伝えがある。2010年に世界のリッチな人々が飛行機でやって来て、この国を救ってくれる......。2004年5月に南アフリカがワールドカップ開催国の座を勝ち得た日、ソウェトの人々は歓喜のあまり叫んだ。「金が来るぞ!」ヨハネスブルクで出会う人々の半数は、2010年に向けた計画を何かしらもっている。大会期間中に貸すためにアパートを買う、スタジアムの外でソーセージとコーンプディングを売る、 農家の女性たちを集めて参加国すべての国旗をビーズで編む。南アフリカの人々の話題はそんなことばかりだ。新聞を開けば、有名人がいま取り組んでいる仕事を話し、たいていこうつけ加える。「とにかく2010年に間に合わせないと」。「2010」はすっかりマジックナンバーになった。


2010年のサッカーW杯開催を控えた南アフリカの人々。
なんか微笑ましいというか、みんなの願いが叶えばいいね!と、単純に盛り上げてあげたくなりますが。(笑)
しかし・・・というのが、以下の話。


[スタジアム建設と地元経済]

p.285

アメリカの場合、スポーツチームのオーナーは本拠地になりたがっている都市の納税者に、だだっ広い駐車場つきスタジアムの建設費用を払わせる。やがてスタジアムはオーナーに譲り渡され、さらに彼はチケットを売って金を儲ける。


p.285-286

典型的な例が1989年にあった。当時のアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュの息子をはじめとする10人の投資家が、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズに8300万ドルを出資した。ブッシュらはもっと大きなスタジアムを欲しがった。右派の億万長者のグループだというのに、彼らはスタジアム建設費用を納税者に負担させようと決めた。もし実現しない場合はレンジャーズを他の都市へ移すと、新しいオーナーたちはおどかした。地元アーリントンの人々は市内の消費税の0・5%引き上げにおとなしく賛成し、スタジアム建設に必要な1億9100万ドルを捻出した。
(中略)
ブッシュのグループは1998年、レンジャーズを2億5000万ドルでトム・ヒックスに売却した。金額のほとんどは納税者が建てたスタジアムに対する評価だった。ブッシュ個人は1490万ドルを儲けた。


ひでブ。
子ブッシュとその取り巻き連中がいかにナチュラルにク〇かなんてことは今更真面目に論じるような話題でもないと思いますが、ここでの問題は彼らがどんなに悪どくて小狡いことをしたかではなくて、こうした「ビジネスモデル」がいかに確立・定着して日常的に行われているかという、そういうことだと思います。彼らの"悪"が独創的なら、まだ救いはあるというか。

p.286-287

納税者にスタジアム建設費用を払わせたい人は、経済学者を雇って「経済効果」を分析させた。まったく奇妙なことに、この手の分析はほぼ例外なく、スタジアムを建てれば納税者はリッチになると結論づけていた。


p.287

理屈はたいていこんなところだ。スタジアムを建てればまず建設業界に雇用が生まれ、完成後はスタジアムで働く人の雇用を生む。ファンがあらゆるところから集まってきて(「それをつく れば彼が来る」)、金を使う。ファンにサービスを提供する新しいビジネスが生まれる。スタジアム周辺に人が移り住み、さらに多くの人が移り住みたいと願う。そうなるともっと多くのビジネスと雇用のチャンスが生まれる。


前者のような試算が下駄を履かされているだろうことはさすがにどんな能天気なタイプの人でも薄々は感じるところだとは思いますが、それでも後者のような"説明"に心躍らされる面は大きい、何らかそんなようなことが起きるんだろうな起きて欲しいなと、割りと普通に納得しているというかこういう説明を"流通"させているところは広くあると思います。理想的過ぎる想定ではあるだろうし後に問題は残るんだろうけど、とりあえずは"効果"はあるんだろうと、渇望に近い期待を込めて。

p.287

たとえば経済学者が、もしスタジアムを建てれば、むこう1年間に3億ドルの経済効果があると言ったとする。実際は市の収入が10年間で10億ドルしか増えなかったら、そこにはべつの要因 (たとえば世界経済の状況)があったと言えばすむ。もともとの予測がまちがっていたことを証明するには、スタジアムを建てなかった場合にどれだけの収入増があったかを予測しなくてはならない。だが、そんな仮定の数字はわからない。スタジアムはもう出来てしまっているからだ。やがて経済学者は、今度はオリンピックにもっと多額の金をつぎ込むことを正当化する研究にとりかかる。


オチが秀逸。(笑)


[ロブ・バーデによる反"経済効果"説]

p.289

バーデの率直な問いかけは、スタジアム支持派にいつも無視された。たとえば、新しいスタジアムを建てる建設労働者はどこから来るのか。彼らにはすでに仕事があったのではないか。だとしたら他の場所で人手不足が起こらないか。もし労働者の奪い合いになれば、建設コストがかさむことにならないか。 1ドル入ってくるとしたら、おそらくどこかで1ドル出て行く。とりわけ市が財政を均衡させ くてはいけないなら、スタジアムに金を使えば病院や学校に回す予算はその分減る。そこで職が失われれば、スタジアムのもたらす利益からは差し引いて考えるべきだ。


p.290

他の都市からスタジアムにやって来る人もそれほど金を落とすわけではないと、バーデは考えた。市外から来るファンはホットドッグとビールを買い、試合を見る。そして帰る。これを経済効果とは呼ばない。ショッピングモールシネマコンプレックスのほうが、あるいは病院でさえ、スタジアムよりは消費を促すはずである。


名前からしてドイツ系かな?とは思いますが、原語表記及び本人データは見つからず。そう言えば注とか一切無い本だな。
とにかくロブ・バーデという元バスケットボールプレーヤー(ウィスコンシン大のキャプテン)の若手経済学者(多分すっごい変わり者)による、空気を読まないというか"王様は裸だ"研究。すると・・・という。多分研究自体は、そんなに複雑なものではないんだろうと思いますね。誰もやらなかっただけで。金持ちクラブへの恐れと、上で言った庶民的"願望"の煙幕に遮られて。
"ショッピングモール"や"シネマコンプレックス"はともかくとしても、"病院"との比較は結構痛快。あっという感じ。何らか精神の"死角"に届いている研究なんだろうなと、瞬間ぴりっとします。(結果は調べてみないと分からないわけですけど、調べてみなくてはという気にはさせる)

p.290-291

スタジアムが建設されなかった場合の経済状況は予測できないかもしれないが、スポーツチームの本拠地となった都市と、そうではない都市の経済成長を比較することはできる。
(中略)
バーデは、さまざまな都市の市民1人あたりの収入や新たに設立された企業の数、新規雇用などのデータを分析した。突っ込めば突っ込むほど、スタジアムがある都市とない都市の経済状況には差が見えなくなっていった。スタジアムの建設費用は明らかになんの利益も生んでいなかった。


スタジアム建設の項の最後の、"経済効果"の検証不能性(建てなかった場合との比較が出来ない)という問題に対応した研究。

p.291

やがて周囲が注目しはじめた。他の経済学者もバーデの研究を下敷きにして、スタジアムが富を生むかどうかを検証する新たな方法を見つけていった。こうしてアメリカの多くの都市で、スタジアム建設への反対運動が始まった。


90年代半ば、バーデは連邦議会で証言を依頼された。彼が証言する日、議会ではクリントン大統領の不動産取引に端を発する「ホワイトウォーター事件」と、ボスニアへの軍事介入に関する公聴会が開かれていた。だがスタジアムに関する公聴会が始まると、他の部屋は空っぽになった。


ざっとした記述ですが、さすがアメリカいったん火が付いた後の、進捗もリアクションも早いなあという感じ。
後半は一応、連邦議会に招かれるまでに認められたという事を表す記述ではありますが、アメリカのおじさんたちがスポーツ大好きな感じが窺えて面白いですね(笑)。それだけにインパクトのある研究でもあったんでしょうけど。

p.292

このころには、スポーツ大会のホストになるのはいいことだとするアメリカの議論が外国にも広まっていた。
「巨額の経済効果」への期待がふくらみ、あえなく砕け散るという展開は、やがてサッカーの主要大会にはつきものになった。


"本国"では廃れ始めた理論の、時間差での他国への波及という悲喜劇。ちなみに"商業主義"五輪の始まりと一般にされるのが、1984年のロサンゼルス五輪(Wiki)。子ブッシュの(手慣れた)案件が1989年で、バーデの研究が認められて議会に呼ばれるのが90年代半ば。(というタイム感)
"ロサンゼルス"の時点で、既に国内的にはやばさが囁かれていた、そういう時期だったのではないかなという。


[サッカーの大型大会の例]

外国のファンは金も落としていかなかった。大会がイギリスにじかにもたらした金額は1億5 500万ドルだった。1996年の1年間に外国人観光客はイギリスで200億ドルを使っていたから、まったく微々たるものである。リバプール大学とリバプール市の調査によると、大会期間中にリバプールを訪れた外国人は3万人で、使った金額はわずか156万ドルだった。これによって雇用はどれだけ創出されたのか。答えは30件、すべて臨時雇いだった。


1996年の欧州選手権イングランド大会。
30件て何?病院作ろう、病院。

p.292

数年後、日本と韓国で2002年のワールドカップの経済効果が試算され、(中略)ワールドカップが経済を押し上げた痕跡はないに等しく、フーリガン騒ぎを恐れた観光客が渡航を控えた証拠だけが見つかった。


むしろ大型スポーツ大会が"あるから"来ないタイプの観光客もいるという視点は、結構盲点でした。引き算の"経済効果"。

p.293

しかもスタジアムはほとんどが税金によって建てられていた。日本がスタジアムの新築・改築に投じた3340億円の約64%は開催地の自治体が負担していた。この金額の大半は、親切な納税者からJリーグクラブへの贈り物となった。


正直に言いましょう。皆さんも。
この機会だから上手く自治体をだまくらかしてかっちょいいスタジアム建てさせちゃえとい邪心/下心は、リアルタイムで持ってなくはなかったですよね。(笑)
嘘つきなのは投資家だけではない。どだいスポーツなんて儲からないに決まっている、"社会的価値"は無いとは言わないけれど、本質的にはスポーツ側の自己利益的"弁論"であると、本当はみんな知っているはず。

p.294-295

ワールドカップに来ていた他の外国人(全体の4分の1程度)は、ふたつのグループに分けられる。まず「訪問時期変更組」。どうせドイツに行くことになっていたからワールドカップ期間中に合わせた外国人だ。もうひとつのグループは、ちょうど大会期間中にドイツにいたので、ワールドカップはどんな感じなのだろうと見に来た外国人である。プロイスのチームはこれを「ついで組」と呼ぶ。
「訪問時期変更組」と「ついで組」を合わせても、経済を押し上げる効果はほとんどない。この人たちはワールドカップがなくてもドイツで金を使っていたのである。プロイスのチームは調査対象者に支出の内訳を細かく尋ねたうえで、ワールドカップに来た人々が落とした金額を8億ユーロと推定した。ドイツの消費者の年間支出は1兆ユーロを超えているから、まったくたいしたことのない金額であり、ドイツが大会のために投じた金額も大きく下回っていた。


2006年ドイツワールドカップ。
先ほどの"むしろ来ない"観光客という事例と、似た話。
経済"効果"を計算する時に、何を"足し"たらいいのか引いたらいいのか、全体像をどう見るべきなのか。

p.295-296

UEFA(欧州サッカー連盟)は関係者とゲストのために、すべてのスタジアムから車で5分以内の場所に5つ星ホテルを丸ごと借り切るよう求めている。さ らに参加国向けに16のホテルが必要になる(大半は5つ星)。審判はスタジアムに近い5つ星ホテルに宿泊しなくてはならない。ドーピング検査を担当する医師にも5つ星ホテルが必要だが、こちらは「田園地帯」にあることが条件だ。ホテルにかかる費用の大半はポーランド政府が負担する。


これは端的にUEFAの乱脈というか"体質"の例、かな。
どうもてなすかなんて開催国の裁量だなどという"正論"は、招致活動の時点で既にとっくにどこかへ消えているんでしょうね。
"ポーランド"というのは2012年欧州選手権ポーランド/ウクライナ共催大会の主催者。(ぶっちゃけ記憶に無いですが)

p.302

幸福感は大会後に大きく上昇する一方で、大会前にはいくらか低下している。スタジアムの工事は間に合うのか、イングランドのフーリガンは押し寄せてくるのか、わが代表チームはふがいない戦いをしないだろうかといったお決まりの騒ぎが、ストレスを高めているものと思われる。大会の6年前、4年前に行われた調査では、サブグループの多くに幸福感の低下が確認で きた。


おまけ。
今回端折っちゃいましたが、スポーツの大会招致や本拠地化は、経済的には地元に利益をもたらさないが、"幸福感"は確かにもたらすという、著者のもう一方の主張に関連して。
ワールドカップと欧州選手権の、複数の大会を対象にした研究の結果。
大会前に必ず一回幸福感が低下する時期があるという、面白い結果。マリッジブルーみたいなものか。(そうなのか?)
まあ招致成功の喜びという最初のピークと、その後一回冷めて現実的な心配事が色々目につき出すというのは、言われてみれば当たり前の事ではあるんですけど。改めて"研究"として出されるとまた別の感慨が。
結局図らずも口走った"マリッジ"という例が、近いような気はしますけどね。"利益"計算で出来るようなものではない、先に地獄が待ってるかもしれないけど今はとにかくするんだ!という。(笑)



Part3 代表

プレミアリーグとイングランド人選手

p.321

イングランド代表の問題はプレミアリーグにイングランド人選手少ないことではない(中略)
それどころかイングランド人は多すぎるのだ。トップクラブでプレイするイングランド人がさらに少なくなれば、代表はもっと強くなれる。


いま世界で最も厳しいリーグで、イングランド人選手は国籍別では最もプレイ時間が長いのだ。


とくに「ビッグ4」と呼ばれるクラブでプレイする選手は、大変な負担を強いられる(イングランド代表の中心選手はほとんどがビッグ4に いる)。


p.323

したがって、イングランドが国際大会の成績を上げたければ、イングランド人選手をもっと楽なリーグ(たとえばクロアチア)へ輸出すべきなのだ。


まあ純粋にイングランドの話で関係ないっちゃ関係ないんですけど、議論の"逆転"ぶりが面白かったので。
全体としては、代表チームが成績を上げる上での"疲労""消耗"という単純な問題の指摘と、もう一つは"イングランドのリーグではイングランド人がプレーすべきだ"(プレーしてないから代表が弱いのだ)という、UEFAのプラティニ会長のくちばしなども含めてこの当時盛んに聞かれたらしい、(イングランド)サッカー界における素朴な国粋主義や"定説"に対する、この本全体を貫くシンプルな合理主義の立場からの反論というか"アングル"というか。


イングランドサッカーと「階級」

p.324

イングランドサッカーの問題は、優秀なイングランド人選手がプレミアリーグに到達する前にある。トップにのぼり詰めるイングランド人選手の大半は、縮小しつつある単一のグループの出身だ。昔ながらの労働者階級である。イングランドの中流階級は、プロサッカーにはほとんど入り込むことができない。この点は代表にとってマイナスだ。


p.326-327

教育程度で階級を分けるな ら、最近の代表選手のなかで「中流階級」の出身者は34人中5人、わずか15%ということになる。
(中略)「全英世帯パネル調査」によれば、1996年に35-54歳だったイギリス人男性(表に取り上げた選手の父親はほとんどがこの世代だ)のうち、義務教育を終えたあとも学校に行っていた人は半数をやや超えていた。サッカー選手の父親にはとくに中流階級が少ないことがわかる。


これは盲点というか、日本人にはなかなか分からないポイントで、面白かったです。
イングランド・サッカーを見て、武骨だな、"労働者階級"的だなという感想は多かれ少なかれ抱くものではあると思いますが、ただどちらかというとそれは"イングランド人""アングロサクソン人"全体の傾向として呑み込んでしまっていて、ここまではっきり「階級」が反映しているとは思っていなかった。イングランド人がサッカーをやれは、概ねああいう武骨な感じになるのかと。一部特別な才能を持った選手は除いて。
勿論"サッカー選手かロックミュージシャンになるしか立身の手段が無い"という「階層」の問題としては、意識していましたけどね。ただそういう"貧困"問題自体は、全世界的にあることではあるので。

p.327

イングランドサッカーの人材プールが圧倒的に労働者階級に偏っていても、これまではほとんど問題がなかった。イングランド人のほとんどが労働者階級だったからだ。80年代後半になって も、16歳で学校を終えるイギリス人は70%もいて、彼らは肉体労働者になることが多かった。
(中略)
現在では16歳を過ぎても学校に行くイギリス人が70%以上に及ぶ。大学に進学する人も40%以 上いる。イギリスはさらに中流の国になっている。しかしサッカーの人材はまだ圧倒的に労働者階級に偏っており、人口のなかで急拡大しているグループを排除している。これがイングランド代表の足かせにならないはずはない。


(労働者階級に)"根差している"レベルを越えて、"偏っている"と言っていい現状だという。
勿論現世代の人口比という問題とはまた別に、これまで培って来た"労働者階級"的なイングランドのサッカーの「文化」「伝統」自体はそう簡単には変わらないでしょうし、引き継ぐべき美点や長所のようなものも、あるにはあるんでしょうけどね。
・・・特に僕ら外野の愛好者からすると、その偏り(の産んだもの)自体がある種の"味わい"になっている面も、捨て難くあるだろうとは思います。(笑)

ただそうも言っていられない諸"問題"がというのが、次。

p.328

イギリスの労働者階級にみられたもうひとつの問題は、サッカーは専門の資格をもったコーチに教わるものではなく、自分でプレイしながら学ぶものだと考えがちだったことだ。こうした考え方は、労働者があまり教育を受けていない産業によくみられる。コーチングコースの普及に尽力してきたあるサッカー協会関係者は、クラブには「大学出の新しがり屋が考えそうなこと」と思われており、「教えられるのは恥ずかしいことだという雰囲気があった」と私たちに語った。「コーチング」と「戦術」は「忌むべき言葉」とされていたと、この人物は言う。


p.329

イングランドのサッカーは、いまも中流階級を歓迎していない。一例をあげるなら、17歳のときにイングランド学校選抜に選ばれていたスチュアート・フォードはプロになることを断念した。教育を受けていないコーチに怒鳴られるのにうんざりしたためだ。中流階級出身の彼は、いつも自分はよそ者だと感じていた。「いい学校に行っていることをからかわれたり、着ている服が変だとバカにされたりした。それもコーチやスタッフからだ」。


まとめて"反知性主義"というか。
前者はやっぱりそうか!という感じ(笑)がしますし、後者は胸の痛む話ですね。選手どうしならまああるだろうなという感じですが、コーチやスタッフからというのが、どうにもやり切れない。
ちなみに"もうひとつの"ということでその前に置かれている問題は、イングランドではお馴染みの「大酒」と「乱行」の"伝統"の問題です。それを許容する"労働者階級"メンタリティ

ちなみにこれは「イングランド」の「階級」問題として提出はされていますけど、日本でもこうした摩擦は無いわけではないんだろうなと思います。トップカテゴリーの選手たちの間での、"教育"格差とそれに基づく"カルチャー"の違い。
具体的には、小村徳男や秋田豊や渡邉一平といった大卒Jリーガーの解説を聞いている時に、彼らの高校/ユース卒選手たちとは少し違う自尊心の持ち方や、後者のタイプの選手たちが主に構成している日本サッカーに現役時代に感じていた違和感や不満みたいなものが、言葉の端々に出ていると感じる時があるんですよね。ありませんか?(笑)。あいつらと一緒にしてくれるな的な。それで結構嫌な思いや居心地の悪い思いを、したこともあったんだろうなというのも含めて。
"大卒"ではないですが、中田ヒデが"旅人"になってしまったのも、現役引退してまで「サッカー選手」なんかとつるんでられるかという、そういう馴染めなさ馬鹿馬鹿しさみたいな感情が、あるような気もしないではないです。ま、余談ですが。

p.329-330

サッカーになじめない中流階級出身のアスリートは、クリケットやラグビーに流れていく。(中略)
イングランドのサッカ ーは優秀な人材を他のスポーツと奪い合っているのに、教育のある中流階級出身者を怖がらせている。


p.330

これらを考え合わせると、イングランドには貧しい国よりも優秀な選手が育ちにくい理由がみえてくる。イングランドサッカーから外国人を排除するより、イングランドの中流階級をサッカ ーに取り込むことが先決なのだ。オランダやアルゼンチンのように、あるいはブラジルでさえそうであるように、イングランド代表にも教育を受けた選手が入るようになれば、代表はその力を最大限に発揮できるかもしれない。


"中流を取り込め"というのは、提言として具体的なだけに、興味深い/魅力的な視点ではありますね。
ただ全体としては、イングランドサッカーの(著者の言う)「労働者階級」的な伝統や非知性者義的傾向に対する、個人的な恨みも強めに感じます(笑)。それをここぞとばかりに言っているというか。
それはそれとして「階級」問題としてここで重要なのは、「貧しい国よりも」の部分ですかね。単なる貧困(貧富の差)が問題なのではなくて、階級の固定、"階級"としての固定が、人材の吸い上げ・活用を妨げていると。この場合は"豊かな"階層からの。

関連して更に。

[イングランドサッカーの反知性主義]

p.333

誰もフランス人に野球チームの監督をやらせようとは思わない。フランス人は野球を深く考えたことがないからだ。同じ理由から、イングランド人をサッカーチームの監督に据えるべきではない。イングランド人はサッカーを深く考えたことがないからだ。


伝統のキック・ア ンド・ラッシュ戦法で数々の失敗を経験したあとに、ようやくイングランドはヨーロッパ型サッ カーを受け入れ、イタリアで長く経験を積んだスウェーデン人のスベン・ゴラン・エリクソンを監督に迎えた。


言いたい放題ですね(笑)。本人もイングランド人だからいいようなものの。やはり色々と溜まっているものが。それにしても、"イングランド人サッカー監督""フランス人野球監督"と一緒にするのは酷い。(笑)
まあでも確かにエリクソン招聘の時点では、かなり世界中から、それこそ極東のサッカー後進国のファンからも、馬鹿にされるような存在だった記憶はあります。"イングランド"サッカーは。

p.334

彼の仕事は、西ヨーロッパサッカーの知恵をイングランド 人に授けることだ。
そのひとつをあげると「サッカーの試合は90分である」。イングランドの選手はたいていキックオフから走り回り、まだたっぷり時間が残っているのに力尽きてしまう。
主要大会でのイングランドの得点パターンをみれば一目瞭然だ。ふつうワールドカップでは、大半のゴールが後半に入る。当然の話だ。後半になれば選手は疲れ、どちらのチームもゴールを狙いはじめ、ピッチ内の選手の距離が開いてくる。ところがイングランドは、過去5回の主要大会であげた34点のうち、22点を前半に入れている。重要な試合になると、この傾向はさらに際立つ。大会からの敗退が決まった試合では、7点のうち6点を前半に入れている。イングランドの試合運びは、安売りされている乾電池のようだ。選手がタフなリーグで戦っているせいもあるだ ろうが、そもそもペース配分という概念がないようにみえる。


"彼"というのはエリクソンではなくて、その後一回イングランド人監督に戻った後また就任した外国人代表監督カペッロのこと。
昔のイングランド代表のサッカーをそんなに真面目に見た記憶はない(どちらかというと"敗退"のニュースの方でお馴染み)ので僕からは何とも言えないですが、そういう特徴がある、のかな。ありそうではあります。イメージではあるという。"一本調子"という。
"労働者階級"の話題以降のサイモン・クーパーによるイングランドサッカーの特徴の描写は、何というか自分でも「偏見」なんだろうなと思っていた"イングランドサッカー"の類型的イメージが、実は偏見ではなくてそうである理由もあるということを延々裏打ちするような内容ではある(笑)んですけど、まあサイモン・クーパーもイギリス人とはいえアフリカ生まれオランダ育ちという人なので、最初から批判的外国人的に見ている面も強そうですから、あんまり簡単に自分の偏見を許して安心しないようにしておこうと、一応自戒はしているところです。(笑)
・・・ていうか「ペース配分が出来ない」とか「反知性主義」とか、微妙に"日本サッカー"っぽくもありますね(笑)。"階級"も無いし、(イングランドに比べれば)教育も重視されている筈ではあるんですが。いずれ大雑把な話ですが、理由について、何か考えてみたいところではあります。「島国」というだけではあんまりですし。(日本が「反知性主義」というのは言い過ぎ感もあるかもしれないですが、ここぞというところで"テンション"任せのプレーに走る傾向はかなり強くあると思います。最後まで考えるのはめんどくさい。)


アジアサッカー

p.368

1990年のワールドカップ決勝が日本でテレビ中継されたとき、放送席に意外なゲストが現れた。元野球選手の王貞治である。「王さん」と試合中にアナウンサーが尋ねた。「野球とサッカーのスライディングは、どこが違うんで しょう?」


この王さんの「解説」はぼんやり覚えています。確かに子供心に何でやねんとは思いましたが、王さんの解説自体は、"門外漢"であることを弁えた上での率直な観察と感想という感じで、悪くなかったというか、さすがの誠実さで全く不快ではなかったです。(某張〇氏とかとは人間の出来が(以下自粛))
下手な"専門家"の決まり文句の羅列を聞かされるよりは、よっぽど良かった。

オーストラリアでもサッカーはまだ相手にされていなかった。元オーストラリア代表選手でのちにサッカー解説者となったジョニー・ワレンは、回顧録に『女と移民とオカマたち』というタ イトルをつけた。ヒディンク以前のオーストラリアでは、サッカーを見るのはこの3つのグループくらいだと信じられていた。


"移民"と"オカマ"(多分"男らしくない男")は分かるけど、"女"って何でしょうね。男がラグビーを見るからと言って、女がサッカーを見るという情景も想像しづらいんですが。
まあ強くなった今でも、移民特に東欧系のそれの印象は強い気がしますけどね。日本にも来ないかな。(そう言えばほぼ見かけない)


以上です。
若干"抜き"過ぎて、宣伝なのか営業妨害なのか微妙な感じになった気もしますが(笑)、なかなか面白かったです。
全体としては、予想/期待した程「経済学」と「統計学」の本ではなくて、個別の意外な事実や良エピソードはあっても知的ショックはそれほど無かったかなと。その分読み易くはありました。

・イングランド(やバルセロナ)の根無し草労働者とクラブサッカーの関係
・"スタジアム""スポーツイベント"の経済
・イングランドサッカーと中流階級/労働者階級

の話が、面白かったベスト3でしょうか。


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テーマ:欧州サッカー全般
ジャンル:スポーツ
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