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’20年12月の東京V & いくつかの思い残し
2020年12月23日 (水) | 編集 |
12/2 38節 千葉△1-1 [得点者 : 藤田譲瑠チマ]
12/6 39節 町田●0-1

12/13 40節 長崎●0-2
12/16 41節 松本△1-1 [得点者 : 山下諒也]
12/20 42節 水戸●0-1

・2引き分け3敗で勝利無しですか。
前月に比べるとあからさまに点が取れなくなって(失点の方はそれほど変化は、元々あんまりそういうタイプのチームには見えないですが、確かにパッション的なものの減退は感じられる気がします。"原因"の一つとして。
・ベクトルを揃えるだけの集中力というか。(集中にはまず気力が必要)
「永井サッカー」の実践自体を最大のモチベーションにしているようにも見えていたチームでしたが、なんだかんだ"昇降格"という外的目標も、人並みに重要ではあったのかなと、そう感じさせる割りと急激な落ち方。
・シーズンの落ち着きどころが定まって、普通にダレたというか。
・"打算"で手を抜いたとかではなくて(そんな器用な選手たちでは逆に)、入れた気合が入れた先からどこかから漏れるのをどうしようもなかったという、そんな感じ。一生懸命集中力不足。(笑)
「チームの経営危機」問題とかは、どうなんですかねえ。
・どこまで聞かされているのか、聞かされたらプレーに影響が出るのか、出るとしたらどちらの方向に?
・例えば「奮起」したくとも、自分自身が固まっていないと、その意気込みに自分が耐えられないみたいなこともあるわけですし。(特に若い選手には?)
・最終盤の各選手の突発的に出るプレーの脆さも、そうしたタイプの影響の表れだと、考えられたらある意味幸せなんでしょうけどね。(少なくとも"無気力"よりは)
・大久保が「選手」として元気だったら、何か明確で"強い"言葉を聞かせてくれそうではありましたけど、さすがに今年の状態では。

・永井ヴェルディ全体について、僕なりに言いたいことが無いわけでは勿論ないですが、続投も既に決まっていることですし、僕自身の思考も"中途"という感じなので(その一部についてはこの後)、「総括」的なことは今年は特に書きません。
・経営問題についてもまあ、現時点で僕が言うべき何かも思い当たらないので、パス。
・では"思い残し"とは何かと言うと・・・

・ここのところ思うところあって、web版 footballista の記事を集中的に読んでるんですけど。
・その中で(永井)ヴェルディについて僕が過去に言ったことよよく言われることの、理解や発展や解決(?)のヒントになりそうな記事がいくつかあったので、シーズン終わりにあたってメモ的に紹介しておこうかなと。
・言ったってfootballistaの記事数も膨大ですし、有料化したことでそんなに誰もが気軽にアクセス出来るものでもなくなってしまったので、書き留めておかないとなかなか知られることも無く終わりになる可能性が高そうですし。
・といってもやっぱり有料(笑)なので、得意の"引用"書法は使えないので、「記事紹介」+「僕の問題意識」+(それとの関連での)「記事内容の"目次"的紹介」みたいな形になると思いますが。それくらいが多分限界というか。
・...ぶっちゃけ不便ですねえ。ほとんど「公共財」みたいなサイトだっただけに。「図書館」というか。または大学の「書庫」。
「本」なら誰か買った人読んだ人が、かなりの程度内容の紹介を具体的にしていいという、何となくの慣習はありますが(僕がよくやるように)、webだとほぼ半永久的に駄目な感じになりますし。
・中の人たちには感謝もしているし尊敬もしているし、いち営利企業(?)に過大な要求は出来ないわけですけど、何かもうちょっといい形は無いのかなと、考えてしまいます。
・いっそwebは完全新装開店で、別の名前・形態でやってくれた方が、すっきりしたかもという。
・footballistaだと思うから、欲求不満になるという。(笑)
・別に自分がお金払うのは構わないんですけど、人に紹介しづらいのがどれくらいの人が読める環境にあるのかが分からないのが、何とも困る。


・思い付きで言っただけですけど、この"時限付き"方式駄目かな。
・まあ多分これは「各記事課金」方式の場合の方がはまって、実際はサブスク方式なので払わなければ(有料記事については)0で払った人は過去ログ読み放題という、今の形な訳でしょうけどね。


・ともかく(笑)本題。
・まず最初は、この間のメキシコ戦で見られた日本代表の「対応力」(の不足)について論じた前・後編に渡る対談記事。

【戦術対談】五百蔵容×山口遼。メキシコ戦で見た日本代表の「対応力」問題 (2020.12.15)

五百蔵「日本はメキシコを丸裸にして、その情報をいつもよりインプットされて戦っていて、前半からガチンコで挑んだ試合、今までのそういう試合――アジアカップ準決勝のイラン戦やウルグアイと引き分けた試合など――は大体良い結果が出ていたんですけど、この試合は内容的に全然だったなと思いました」


山口「僕が思うのは、日本では攻撃は攻撃、守備は守備と、同じ局面として捉えてトレーニングをしがちだと思うんです。でも守備と言っても、例えばハイプレスをかける時とミドルプレスをかける時、あるいはブロック守備になった時で、ボールにどの程度チャレンジするかの度合いは変わってきます。これまでの日本代表の試合を見ていて感じるのは、攻撃も守備も局面ごとの原則が分かれていなくて、ハイプレスの局面もブロック守備の局面も同じ原則でプレーしているように見えるんです。自陣に押し込まれた時にボールに行き過ぎてしまったり、逆にマンツーマンで人に行き過ぎてスペースを開けてしまったりという綻びが常に見られる。


【戦術対談】五百蔵容×山口遼。日本サッカーには「マクロな戦術行動」がない? (2020.12.18)

五百蔵「今まで議論してきた相手の戦術に対するピッチ上の対応能力とは別に、マクロな部分の対応、例えば相手が4バックに変えてきたらこうする、と決まってくることがあるじゃないですか。まずは『4バックにしたらSBとCBの間のスペースが空くことに対してこのチームはどうするのか』を見ておけばいいとか、構造上で見るポイントが決まってくる。
 ロシアW杯の壮行試合で、どの相手かは失念してしまったのですが、日本が途中で4バックから3バックに変えたんですけど、『SBがウイングバックに変わったぞ』『相手の立ち位置が変わってくるからこういうふうに変えよう』と、かなりオートマチックに2、3分しないうちに相手の対応が変わっていたんです。
 一方、日本の場合はアジアカップ決勝がわかりやすいですけれど、カタールが3バックというのはあり得たのに南野や大迫が始まってから10分ぐらい『どうしようか』と試行錯誤しているうちに、点を取られてしまった。フォーメーションの噛み合わせで生じる問題はマクロな問題なので、少なくとも初手の対応は始まる前から準備できるはずです。事前の落とし込みにしろ選手の判断にしろ、そのマクロな部分が弱いままなのかなと。その理由というのが、戦術行動をマクロなものとミクロなものに分離していないからなんじゃないかなと」


・...引いたのは「無料」部分からだけですが、見てみるとこれに関してはこれだけでも、まあまあ何とかなるかなという感じ。
・日本代表(または日本人選手)について昔からよく言われる、「試合中の相手の変化への対応力が無い」という問題について、その内実や原因を、二人の論者がそれぞれに推論しています。僕なりにまとめてみると・・・

五百蔵
1.日本代表は事前に対策を練ったある試合ピンポイントの「対応」は実は(昔から)上手い。
2.しかし"ピンポイント対策"以前の、(4バック時と3バック時のような)"一般原則"的な対応の仕込み/共有が甘くて、試合中の変化への対応には問題が出て来ることが多い。

山口
1.日本は局面の細分化が不十分なままトレーニングしているので、当然「対応」の細分化も不十分で、試合中の変化への対応に戸惑うことが多いのではないか。


・記事全体は「マクロ」と「ミクロ」として括ってあるわけですが、二人の言っている「マクロ」と「ミクロ」は一応別のことで、五百蔵氏は一般原則というマクロと個別の対策というミクロの問題の区別を、山口氏はサッカーの"局面"の(「攻撃」と「守備」のような)大まかな把握というマクロと、より細分化した把握というミクロを問題にしています。
・ちなみに"有料"部分では(笑)、山口氏は五百蔵氏と同様の議論もしています。
・「日本代表」についての二人の議論、特に五百蔵氏の言う日本代表の"特徴"にどれほど同意できるかは人それぞれでしょうが(山口氏のは練習状況の純粋な推測なので余りそういう問題はない)、今回の問題はそこではなく。
・ここでは日本代表について言われている
 「一般原則」(と)
 「ある試合ピンポイントの対策」
 「そもそもの試合状況の局面の認識の細かさ」

という問題意識、問題の区分が、今季永井ヴェルディについても界隈でよく言われていた「対応力」の問題と重ならないか、理解の助けにならないかという、そういう話です。
・永井監督自身が、「相手に合わせる」「局面に合わせる」("相手と対話する""相手のいないところを狙う")ということをかなりテーマ的に言っている人なだけにね。
・チームとしてマメに「対策」は練っているようだけど、そのゲームプランがハマらなかった時あるいは相手が(多くはハーフタイムに)変えて来た時に、再度の対応が出来ずにずるずるやられるということがよくありましたよね。
・それは
 1.対応の「一般原則」が仕込まれていないせいなのか。
 2.仕込んでも選手が修得出来ていないせいなのか。
 3.「一般原則」という考え自体を監督が重視していないのか。
 4.全ての場合に共通して、局面の想定の細分化が不十分で、実戦に対応できるレベルに(練習が)達していないのか。


"3"は何か突然出て来たように見えるかも知れませんが(笑)、"有料"部分で日本は対策と一般、特殊と普遍を別のものと考えてしまっている傾向があって、"対策"の人は対策をやる、そうじゃない人は"自分たちのサッカー"をやると対立的になってしまっているということが語られていたので。
・仮に2分するとしたら永井監督がどちらなのかは、難しいところがあるかもしれませんが。
・"狂気のポゼッションサッカー"の人として「自分たち」派の究極として、特に"批判"される場合も多いですが。
・ただその"スタイル"の構築自体の中に「対策」「対応」の思想が色濃く入っているとも思うので。
・僕自身は、あえて言えば「対策」「対応」派の監督だと思っています。
そっちのタイプの"弱点"が目につく場合が多いというか。
・あるいは「自分たち」派としては、良い意味での執着が弱過ぎるというか。
・まとめて"どっちつかず混乱"派、あるいは"弱いスタイル"派である可能性もありますが。
・どうなんでしょうね。
・そもそも僕自身が「対策」「対応」に余り関心が無くて、上で挙げたような問題意識自体が借り物なので、これ以上の問題の特定は出来ません。
・得意な人関心のある人の、問題整理のヒントにでもなればと、一応書いてみました。(紹介してみました)


・・・次は僕自身が、特に最近関心を持って論じて来た問題に関して。


「エコロジカル・トレーニング」ムバッペたちを磨き上げた新理論 (林舞輝 2019.08.19)

これは全無料記事でした。ならば遠慮なく(?)

“スターの原石”を集めては次々と“真のスター”に育て上げてきたモナコとレオナルド・ジャルディン監督。その「原石を磨く」秘密は、彼らが採用した革新的なトレーニング理論「エコロジカル・トレーニング(生態学的トレーニング)」にあった。


エコロジカル・トレーニングとは何なのか? その中心的な考えは「エコロジー」、つまり生態学(生物学の一部門。生物の個体、集団の生活、他の生物や環境との相互関係を研究する分野)である。生態学的な面から練習を積み重ねる、つまりチームを一つの生態系、選手を生物としての一つの個体と捉え、生態学での知識やアプローチによってトレーニングを構築しようという理論だ。


この理論で最も重要視されるのは、「環境での関わり合い」であり、「相互関係」である。したがって、すべての練習は選手同士の関係性を深めることに重きが置かれ、選手が自分の能力と個性を環境の中で最大限に生かし、また他の選手と互いに生かし生かされるような、ある意味「相互依存」のような関係の構築を促すことが、このトレーニングの最大の目的である。



エコロジカル・トレーニングが従来のトレーニング理論、例えば「戦術的ピリオダイゼーション」や「構造化トレーニング」と比べて革命的なところは、ゲームモデルのゲの字も出てこないことだ。現代のサッカーでは「ゲームモデル至上主義」とも言えるような、ゲームモデルとプレー原則がすべての元となるトレーニングが主流だ。ゲームモデル至上主義の欠点として、「いい選手」とは「ゲームモデルに従ったプレーができる選手」であり、ゲームモデルに合わない選手はチームから排除されてしまう。


サッカーはもしかすると、今後この方向に進むかもしれない。CLを3連覇したレアル・マドリーも、W杯で優勝したフランス代表も、「ゲームモデル」と呼べるものはなかった。フランスの場合、一見するとバランスが悪そうなところから試合を重ねるごとに各々が快適なプレースペースと連係を見出し、少年ジャンプ方式で試合の中で成長していった印象だ。ゲームモデルに選手を当てはめるのではなく、選手の関係性によってチームができ、生態系がより洗練されていった。



・・・そのジダン・レアルについて。
ただし上の"CL3連覇"の後の昨シーズンの話ですけど。

ジダン監督がたどり着いたのは、選手の顔ぶれ次第で変幻自在のスタイル。懸念だった得点力はSBの“FW化”で分担 (木村浩嗣 2020.10.10)

こちらは核心部分は有料パートに書かれていますが、無料の範囲だとここらへんか。

ジダンは定評のあった人心掌握術を、選手を意のままに動かすことに用いて戦術家となった。[4-3-3]、[4-4-2]、[3-5-2]といったシステムを使い分けただけではなく、同じ並びでも中身はMF5人だったり、純粋なウインガー2枚だったり、ウインガー1枚+ MF4枚だったりと、選手の顔ぶれを変えることでチームの機能を変化させ、同時に酷使による体力の消耗を避けた。


要は"モデル"化"普遍"化ではなく、個人化個別化(という"生態系"の形成)ということですね。


で、これら一連の議論が何に関係しているように見えるかというと。

『サッカーにおける"グループ"について』 ('20.10.28)

という、僕が最近書いたこの記事ですね。
つまりこの"グループ"という問題意識が、(書いている時は知らなかったですが)林氏の紹介する"エコロジー""生態系"という枠組みと、かなり重なっている部分があるのではないか。だから僕も今更、あるいは2020年の永井ヴェルディ(というあえて言えば"ゲーム・モデル""プレー原則"派サッカーの好例)を見て、改めてこの問題を考えたくなったのだろうと。
・・・実はその次に書いた『通り魔的リカルド・ロドリゲス考』('20.12.1)も、リカロド徳島における"組織"と"オートマティズム"を、間接的に「グループ」現象の一端として自分の中では結びつけながら書いていたんですけど、読み返しても余りそうは読めないので今回は本格採用を断念。(笑)

とにかく引用してみますと。

・サッカーが必ずしもそういうものでなくてはいけないそうでないと勝てないというものではないという身近な例としては、Jリーグにおける鹿島アントラーズなどというものがありますね。
・これといった大文字の(全体)"戦術"があるわけでも資金力やそれに伴う選手の質がそこまで突出しているわけではなくても、結果的に長期に渡り、"突出"して安定した好成績を収め続けて来た鹿島。
・それを可能にして来た有力な一つが、正に"グループ"の強さだと思うわけですけど。受け継がれる。


>CLを3連覇したレアル・マドリーも、W杯で優勝したフランス代表も、「ゲームモデル」と呼べるものはなかった。
>フランスの場合、一見するとバランスが悪そうなところから試合を重ねるごとに各々が快適なプレースペースと連係を見出し、少年ジャンプ方式で試合の中で成長していった印象だ。
>ゲームモデルに選手を当てはめるのではなく、選手の関係性によってチームができ、生態系がより洗練されていった。


・要は「成熟」「熟成」というのは、専ら"グループ"に宿るものなのかもしれない。
・監督とその頭が司るチーム/全体戦術は、その性格からどうしても「計画」と「理屈」の型通りというか一面的なものになる。ある意味それこそが目的でもあるし。
・個人は勿論、勝手に熟成することは出来ないというか出来たとしてもそれは言わば"独自解釈"が深まるだけなので、下手すると断絶孤立の元になる。進歩が進歩になるのは、"共有"されてこそ。
・となると「成熟」などという曖昧なもの、成果や経験の一定の遊びを持った保持、そこからの蓄積や化学反応とその継続のようなものが発生するのはそれらを抱え込めるのは、"グループ"の領域なのではないかと。あえて特定すれば。


>チームを一つの生態系、選手を生物としての一つの個体と捉え、生態学での知識やアプローチによってトレーニングを構築しようという理論だ。
>すべての練習は選手同士の関係性を深めることに重きが置かれ、選手が自分の能力と個性を環境の中で最大限に生かし、また他の選手と互いに生かし生かされるような、ある意味「相互依存」のような関係の構築を促すことが、このトレーニングの最大の目的である。


我田引水含めて、概ねこんなような対応。
「生態」や「グループ」という(部分)集団の関係性自体が、サッカーの主体となり得る、あるいは現代的意義を見出し得るという、そういう話。

エコロジカル・トレーニングでは選手が生態系の中で「自分の生きる道」を探る生物としての個体となるため、各々がそのポテンシャルを存分に生かすことができる。これが、力で劣るはずのモナコがCLベスト4に入り、その中で各選手が本当に生き生きとプレーし最大限のポテンシャルを発揮できていたこと、さらにその上でチームとしての連係も素晴らしかったことの理由の一つに違いない。
(『「エコロジカル・トレーニング」ムバッペたちを磨き上げた新理論』)


違うのは「鹿島」(やかつてのヴェルディ)という例では基本的に"自然発生"的な"伝統"とだけ考えられているものが、「エコロジカル・トレーニング」では明示的包括的な"練習方法"として理論化されていること。
ただ僕も永井ヴェルディと対置して「山形」(『サッカーにおける"グループ"について』)や「徳島」(『通り魔的リカルド・ロドリゲス考』)について考えている時は、それらのチームがより意図的計画的に"グループ"形成を行っていることを想定はしていたので、全く想定外というわけではないんですけどね。ただ練習"理論"というスケールでは考えていなくて、へえと思いました。
(実際それらの文章を書きながら"生態系"という言葉自体は浮かんでいたので、書いたかなと思って読み直した書いてなかったので、ちぇっ鬼の首取り損ねたとなりました(笑))


現代"「モデル」と「原則」"サッカーに欠けているものと、永井ヴェルディに欠けているもの。それがどの程度重なるのか、あるいは永井ヴェルディの問題をどの程度一般論的理論的に考えるべきなのかそれとももっと個別的具体的に考えるべきなのか、今後も考えては行きたいですね。(続投するようですし)

今回は以上。
今年はというか。(笑)


(追記)
言い忘れてましたがさんざん引用しておいてなんですが、林氏の論には一つ大きめの疑問もあって、それは「生態学的に」一つの「生態系」内で選手を育成する事と、そこで活躍した選手たちが移籍した先で大活躍する("“スターの原石”を集めては次々と“真のスター”に育て上げてきた")事には理論的なつながりは無い、むしろ矛盾しかねないのではないかという事。
つまり"生態系"というのは唯一的で互換不能な存在なので(だから壊れると再生出来ない)、そこでの"活躍"は基本的に特定の環境への"適応"でしかなく、別の環境でその選手が活躍出来ることの少なくとも積極的な理由にはなり得ないのではないかという事です。
現に活躍しているわけですから、何か別に理由はあるんでしようけど。あるいは別な説明が。


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テーマ:Jリーグ
ジャンル:スポーツ
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