2023年08月18日 (金) | 編集 |
(1)は6/9か。
関連番組の確認や長期の夏バテによる体調不良で、気が付けば2か月以上経ってしまいました。
[前回の内容]
では続きを。
改めてラウンジ・ミュージック/イージー・リスニングとは
ラウンジ・ミュージックとその母ジャンルとしてのイージー・リスニング。
欧米ではともかくここ日本では"ラウンジ・ミュージック"自体特に馴染みがある用語ではないと思うので、ここからはほぼ"イージー・リスニング"についての話として読んでもらった方がいいと思います。
改めて"イージー・リスニング"とはというと、番組が取り上げているのは主に3種類
1.ポール・モーリア『恋はみずいろ』等の世界的大ヒットでポピュラーになった、既存ポップ曲をオーケストラ的アレンジで"イージー・リスニング"なインストゥルメンタル曲化する手法によるもの。狭義のイージー・リスニング。
2.映画音楽
3.ソフト・ロック/MOR ・・・カーペンターズ等
1。世代的に"イージー・リスニング"というワードと"ポール・モーリア"は分かち難く結びついて記憶されているんですが(笑)、そういう記名性はともかく手法としては、現在でも日々ひどく馴染みのあるものですね。別に"ラウンジ"まで行かなくても、各種店舗の"BGM"として。
特にコンビニでは、最近益々馴染みのある洋邦ロック/ポップのヒット曲クラシック曲がイージー・リスニング化されたものがガンガン流れて来る機会が増えている気がして、うわあとなるというかそんなんまでするかあと苦笑させられて困るというか。(笑)
2.はそのまま。特に映画本体と切り離された形で流される時に、"イージー"感は増すかも。
3.ロック史が主題なので"カーペンターズ"なんて名前が出て来てますが、日本的に言えば"歌謡曲"とか、ロック以前のポップスとか、そもそもの有象無象全部ひっくるめたカテゴリーとして捉えた方が、いいと思います。"親や大人が(も)聴くポップ・ミュージック"というか。
・・・と、だいたいこれで、イメージは掴めたと思いますが。
"ロックの原点としてのイージー・リスニング"という主張の意味
前回(1)では60年代ロックの所謂"進化"、具体的にはサウンドやアレンジの幅の広がりを"イージー・リスニング"化として表現してあって驚きましたが(笑)、ビートルズや60年代"アート・ロック"やそれを母体とした70年代ハード・ロック&プログレ等が、"イージー・リスニング"であることを主眼としてサウンドの幅を広げたとは歴史的に見てどうしても思えないので、これはまあストリングスやオーケストラ的ビッグアレンジと言った音楽要素を文脈度外視(またはイージー・リスニング寄り)で純粋抽出した時の、意外性を狙った一つの言い方でしかないかなと。
そうではなくでは(イージー・リスニングの)何が僕にも刺さるような意味で「原点」である(可能性がある)のかというと。
それは簡単に言うと、個々のミュージシャンの、「音楽体験」の問題。原体験というか。
更に言えば、それらの"盲点"の。
つまりあるミュージシャンが自分の音楽性の背景や原点について語る時、たいていは自分が少年時代に熱中したアイドルや特別な出会い方をしたインフルエンサー(?)や、自分なりの研究で改めて認識したレジェンドやクラシックの尊敬すべき点について語る訳です。
あるいはロック全体で言えば、職業作曲家による白人ポップスの箱庭的世界に飽き足らずに目を向けた、黒人ブルースのエモーションやジャズの演奏テクニックや、あるいはクラシックの複雑な曲構造や、時には白人音楽全体のオリジンとしての広義のフォーク・ミュージックや、そうしたものの"影響"が語られる訳です。
それらはそれぞれに嘘ではない訳ですが、ただ共通して言えるのは、いずれも彼らがある年齢になって音楽的に"物心"ついて後に、特定の問題意識と共に"あえて"聴いた音楽だということ。
でも当たり前過ぎてあえて言うのもあれな感じですけど、子供が意識しての自分の選択でor自分のお金で(笑)音楽を聴くようになる聴けるようになるまではには、生まれてから結構な時間が必要な訳です。そしてそれまでの間にも日々大量の音楽を、それと意識せずに聴き続けている聴き重ねている。親の好み(笑)や最大公約数的なチャートミュージックや、"子供の夢"としてはたいてい音楽より早いかもしれない"映画"の、あるいはアニメ等の子供番組の印象的な挿入/背景音楽や、それこそコンビニですが街中で流れるBGMの類や。
中には特別に"音楽"的な環境に生まれ育つ子供もいるでしょうが、ほとんどの子供にとってはそれらあえて"名前"を挙げたりは余りしないタイプの"音楽"の影響こそが、長じての推しバンドなどよりも時間的には先行している訳です。
勿論聴いたもの全てが同じように影響を与える訳ではないですし、繰り返しになりますが当たり前の事実過ぎて逆に屁理屈みたいに聴こえるかも知れませんが、つい最近も(「ミュージック・グラフィティTV」の兄弟チャンネル)ミュージック・エアの『偉大なるソングライターたち』というシリーズで、"ザ・ヴァーヴ"というブリットポップの一角も担っていたらしい'90年代の有名バンドのリーダーが、自分で音楽を聴き始める前に親などから受けて"しまった"音楽的影響について割と苦々しく(笑)語っていたりしているのを見たので、当時のイギリスのミュージシャン/若者の間でそうした問題意識、そうした"陰の"原体験的なものへの注目が実際あったんだろうことはうかがえると思います。
・・・ここらで一回まとめると、イージー・リスニングが"ロックの"原点であるとはさすがにストレートには言えないと思いますが、ただロック・"ミュージシャン"の原点として、原体験の物理的に大きな一部として、イージー・リスニング的な音楽が存在するだろうことは、それ自体は明らかと言えば明らかな訳ですね。
言われてみれば、ですが。そんなところまで、普通は目配りしませんが。
それがまあ、"ロックの原点としてのイージー・リスニング"(の可能性)の、とりあえずの意味。
ブリットポップがイージー・リスニングを"原点"として認めることの意味 ~ロックを"諦めて"しまったロック?
以上、番組の論旨を僕なりに頑張って代弁してみましたが、一応筋は通っていてもどうも釈然としないというのが、大多数の人の感想ではないかと思います。(笑)
だってロックですからね。むしろ"イージー"に"リスニング"されないような音を出すのが大目標みたいなところがある(笑)ジャンルなのに、その原点がイージー・リスニングだなんて、論理的可能性としてもそんな馬鹿なという感じ。あるいは所謂イージー・リスニングであろうとなかろうと、親世代や世間が(垂れ)流す音楽への不満や反抗を契機にそれとは違う音を出すというのが、ロックやそれ以降の若者世代発のポップ・ミュージックの、基本的な姿勢の筈。
前者はある程度"趣味"の問題かもしれませんが後者は多分重要で、どんなに広義に影響を受けてはいても、ロック的ポップ・ミュージックがそう簡単に(ここで言うところの)"イージー・リスニング"を原点とは認められない構造的理由だと思います。
反抗云々は置いておくとしても(笑)、ある程度以上意識的に選択した影響源を組み上げて"あるべき"だと思う音楽の姿を意思的にシーンにぶつけるというのが、ロック的ポップミュージックのほとんど有史以来やり続けて来たことで、上ではブルースやジャズやクラシック(やフォーク)という"影響"源を挙げましたが、その後もソウルやレゲエやアフリカ音楽や、あるいは電子音楽/楽器やダンス/クラブミュージックなど様々に影響源を刷新しつつも、そういう意味でのアプローチは大きく変わりは無かったと思います。
今回"イージー・リスニング"として総称されている音楽要素のどれかを、改めて解釈して"影響"源としてロック的ポップ・ミュージックに組み込むこと自体は可能ですし実際にやっている人もシーンを見渡せばそれなりにいると思いますが、そうした意識的作業抜きの"イージー・リスニング"というのはやはり何というか、同じ「音楽」という名前の元にはあっても枠外要素というか、影響と言っても影響"以前"の影響というか。スタート地点にも立っていない。選択肢として土俵に乗っていない。担ってる人たちだって、ロック・シーンに影響を与えたり音楽性を競ったりすることなんて、基本的には考えもしていない筈。それぞれ別世界の出来事。
だから番組(の筆者)が言うようにブリットポップが自分たちの影響源として、イージー・リスニングという雑多な日常的自然的"音楽"を名指ししているのならば、それは結構本当に新しい、単に最新流行ということではなく、ロックの枠組みを"後ろ"方向に(笑)広げたというかスタートラインを思い切り引き"下げた"というか、そういうインパクトはあると思います。少なくとも僕は、読んでいてゲッと思いました。そんなところまで問題にしないといけないの?そんなものと競争しないといけないの?その発想は無かったわあ。
発想は無かったけど、それは新たな次元が開けるワクワク感というよりも(笑)、ぶっちゃけ過ぎてそもそもの枠組みの存立自体が危うくなるような不安感。
ある意味ロック(的ポップ・ミュージック)の"敗北宣言"みたいにも見えるんですよね。"特別"や"非日常"や"新しさ"を追求して来た売り物にして来た音楽文化が、匿名的な職人的"音楽"の、正直ではあるけれど安易でもある通俗/日常そのものの"気持ち良さ"にわざわざ道を空けてしまっている。音楽なんてそれだけのものだと、言ってしまっている感じ。
"言って"いるのが職人側でも業界側でもなく、"新進気鋭"の筈の若手(ブリットポップ)ミュージシャンたちなだけにね。「わざわざ」感は強いですね。極端に言えば、もう"若者の"音楽や"新しい"音楽自体要らないと。
パンクのスローガンが「ロックは死んだ」だとすれば、ブリットポップのそれは、「ロックは溶けた」?(笑)
まああくまでこの番組の論ではということで、ブリットポップをずばりこういう文脈で語っているものは、文章でもドキュメンタリーでも他に見たことが無いので、そこら辺は注意して欲しいですけど。ただブリットポップ系ミュージシャンたちがラウンジパーティー("ブロウ・アップ")に足繫く通っていたなどというくだりは満更嘘とも思えないですし、むしろ"他の"論の方が研究不足である可能性の方が高いと思います。いつもいつも"イギリス独自のセンス"というだけの説明じゃね。
こうしたブリットポップが立脚しているらしい"非ロック的"なスタンスが純音楽的には何を意味しているのか、それはより広い歴史的視野の中ではどういうことである可能性があるのかみたいな話は、また次回にしたいと思います。既に論理構成の難航が頭の中で予感ビンビンなので(笑)、一遍にやるのは気力的に厳しい。
(余談)ヒップホップ/サンプリング・ミュージックの場合
番組中でこういう話があった訳ではなくて、純粋に僕の連想。
こうした"影響"の選別が問題になる時に、"サンプリング"という形で正に「影響」を引用することが重要な表現手段になっているヒップホップの場合はどうなんだろうと、ついでに考える人もいると思います。
結論的に言うと、そこらへんは意外と自由というか、融通が利くジャンルなのではないかなと。
つまり影響を"スタイル"としていちいち昇華してぶつけなくてはならない(という言い方も変ですけど(笑))ロック等に対して、そういう部分はそういう部分として別にあるかもしれませんが、とりあえずサンプリングという形で影響を直接引用出来る形態の音楽の場合は、重大な影響は重大なように、軽い影響は軽い影響のように(笑)、サンプリングの仕方自体で無理なく濃淡が出せるので、逆にどんなソースもどんと来いで、ロックや他の一般ブラックミュージック程そこらへん神経質になる必要は無いのではないかなと。
上で出て来た『偉大なるソングライターたち』シリーズには、伝説的ヒップホップ・グループ"パブリック・エナミー"のリーダーのチャックD編なんかもあるんですが、その中でチャックDが影響を受けた音楽、子供の頃聴いていた音楽として、様々な黒人音楽と共に「アイアン・メイデン」(イギリスのヘヴィ・メタルバンド)や「ピーター・ポール&マリー」(アメリカのフォーク・グループ)の名前を、それもごくすらすらという感じで挙げていて、意外の念に打たれると共に随分自由だなあと感じました。

なかなかヒップホップ以外のジャンルの黒人ミュージシャンには、挙げづらい名前なんじゃないかと思いますね。基本的に音楽においては"黒人が上、白人が下"というのが彼らのスタンスですし、マイケル・ジャクソンのビートルズ好きくらいなら例外×例外みたいな感じで誰も特に文句は言わないでしょうが(笑)、メイデンやPPMは到底そんな"公認"の名前ではないですし、それぞれに「白人音楽」の極みみたいな音だと思いますし、うっかり口に出すと馬鹿にされるか裏切り者扱いでもされかねないような名前かと。
ただヒップホップなら、あらゆる音楽資源は基本的に平等に"利用"対象ですし、仮に引用(サンプリング)した時は上でも言ったようにその引用の仕方で、直に自分のスタンスの説明が出来ますし、色々垣根は低いのではないかなあと。
まあ話してるのを見てると、チャックD個人も、凄くオープンマインドな人には見えましたが。
ちなみにパブリック・エナミーの音を聴いていて、"アイアン・メイデン"を感じることは特に無いですが(笑)、"フォーク"を感じることは実はあります。何か独特の繊細さが。白人的というか。攻撃的黒人的な音の中に。("政治性"とかは・・・どうなんでしょうね。アメリカン・フォーク得意のそれと、関係があるのか無いのか)
そんなこんな。
一応続きも書く予定。(笑)
関連番組の確認や長期の夏バテによる体調不良で、気が付けば2か月以上経ってしまいました。
[前回の内容]
1960年代にジャンル化された「ラウンジ・ミュージック」(国際空港や高級ホテルのラウンジでかかっているような専用のインストゥルメンタル音楽)に代表される「イージー・リスニング」ミュージックの歴史とそのロック/ポップシーンにおける再評価、特に1990年代中頃にイギリスで隆盛を極めた"ブリットポップ"はかなりの部分「ラウンジ・ミュージック」を自ら及びロック自体の隠れた原点として意識していたという(当該番組の)主張。
では続きを。
改めてラウンジ・ミュージック/イージー・リスニングとは
ラウンジ・ミュージックとその母ジャンルとしてのイージー・リスニング。
欧米ではともかくここ日本では"ラウンジ・ミュージック"自体特に馴染みがある用語ではないと思うので、ここからはほぼ"イージー・リスニング"についての話として読んでもらった方がいいと思います。
改めて"イージー・リスニング"とはというと、番組が取り上げているのは主に3種類
1.ポール・モーリア『恋はみずいろ』等の世界的大ヒットでポピュラーになった、既存ポップ曲をオーケストラ的アレンジで"イージー・リスニング"なインストゥルメンタル曲化する手法によるもの。狭義のイージー・リスニング。
2.映画音楽
3.ソフト・ロック/MOR ・・・カーペンターズ等
1。世代的に"イージー・リスニング"というワードと"ポール・モーリア"は分かち難く結びついて記憶されているんですが(笑)、そういう記名性はともかく手法としては、現在でも日々ひどく馴染みのあるものですね。別に"ラウンジ"まで行かなくても、各種店舗の"BGM"として。
特にコンビニでは、最近益々馴染みのある洋邦ロック/ポップのヒット曲クラシック曲がイージー・リスニング化されたものがガンガン流れて来る機会が増えている気がして、うわあとなるというかそんなんまでするかあと苦笑させられて困るというか。(笑)
2.はそのまま。特に映画本体と切り離された形で流される時に、"イージー"感は増すかも。
3.ロック史が主題なので"カーペンターズ"なんて名前が出て来てますが、日本的に言えば"歌謡曲"とか、ロック以前のポップスとか、そもそもの有象無象全部ひっくるめたカテゴリーとして捉えた方が、いいと思います。"親や大人が(も)聴くポップ・ミュージック"というか。
・・・と、だいたいこれで、イメージは掴めたと思いますが。
"ロックの原点としてのイージー・リスニング"という主張の意味
前回(1)では60年代ロックの所謂"進化"、具体的にはサウンドやアレンジの幅の広がりを"イージー・リスニング"化として表現してあって驚きましたが(笑)、ビートルズや60年代"アート・ロック"やそれを母体とした70年代ハード・ロック&プログレ等が、"イージー・リスニング"であることを主眼としてサウンドの幅を広げたとは歴史的に見てどうしても思えないので、これはまあストリングスやオーケストラ的ビッグアレンジと言った音楽要素を文脈度外視(またはイージー・リスニング寄り)で純粋抽出した時の、意外性を狙った一つの言い方でしかないかなと。
そうではなくでは(イージー・リスニングの)何が僕にも刺さるような意味で「原点」である(可能性がある)のかというと。
それは簡単に言うと、個々のミュージシャンの、「音楽体験」の問題。原体験というか。
更に言えば、それらの"盲点"の。
つまりあるミュージシャンが自分の音楽性の背景や原点について語る時、たいていは自分が少年時代に熱中したアイドルや特別な出会い方をしたインフルエンサー(?)や、自分なりの研究で改めて認識したレジェンドやクラシックの尊敬すべき点について語る訳です。
あるいはロック全体で言えば、職業作曲家による白人ポップスの箱庭的世界に飽き足らずに目を向けた、黒人ブルースのエモーションやジャズの演奏テクニックや、あるいはクラシックの複雑な曲構造や、時には白人音楽全体のオリジンとしての広義のフォーク・ミュージックや、そうしたものの"影響"が語られる訳です。
それらはそれぞれに嘘ではない訳ですが、ただ共通して言えるのは、いずれも彼らがある年齢になって音楽的に"物心"ついて後に、特定の問題意識と共に"あえて"聴いた音楽だということ。
でも当たり前過ぎてあえて言うのもあれな感じですけど、子供が意識しての自分の選択でor自分のお金で(笑)音楽を聴くようになる聴けるようになるまではには、生まれてから結構な時間が必要な訳です。そしてそれまでの間にも日々大量の音楽を、それと意識せずに聴き続けている聴き重ねている。親の好み(笑)や最大公約数的なチャートミュージックや、"子供の夢"としてはたいてい音楽より早いかもしれない"映画"の、あるいはアニメ等の子供番組の印象的な挿入/背景音楽や、それこそコンビニですが街中で流れるBGMの類や。
中には特別に"音楽"的な環境に生まれ育つ子供もいるでしょうが、ほとんどの子供にとってはそれらあえて"名前"を挙げたりは余りしないタイプの"音楽"の影響こそが、長じての推しバンドなどよりも時間的には先行している訳です。
勿論聴いたもの全てが同じように影響を与える訳ではないですし、繰り返しになりますが当たり前の事実過ぎて逆に屁理屈みたいに聴こえるかも知れませんが、つい最近も(「ミュージック・グラフィティTV」の兄弟チャンネル)ミュージック・エアの『偉大なるソングライターたち』というシリーズで、"ザ・ヴァーヴ"というブリットポップの一角も担っていたらしい'90年代の有名バンドのリーダーが、自分で音楽を聴き始める前に親などから受けて"しまった"音楽的影響について割と苦々しく(笑)語っていたりしているのを見たので、当時のイギリスのミュージシャン/若者の間でそうした問題意識、そうした"陰の"原体験的なものへの注目が実際あったんだろうことはうかがえると思います。
ここらへんは、もう少しポジティブなニュアンスですけどね。デーモン(ブリットポップの代表バンド"Blur"のリーダー)もディヴァイン・コメディの人(Neil Hannon)もかなり音楽的な育ち方をしているようなので、そこらへんで違いが出るのかも。デーモン・アルバーンは、戦前のミュージック・ホールの音楽やジョン・バリーなどの映画音楽などに、自分の原点を見出した。ディヴァイン・コメディはオーケストラを配したポップスやマイケル・ケインが主演した映画の音楽に、ルーツを見出した。
(1)より
・・・ここらで一回まとめると、イージー・リスニングが"ロックの"原点であるとはさすがにストレートには言えないと思いますが、ただロック・"ミュージシャン"の原点として、原体験の物理的に大きな一部として、イージー・リスニング的な音楽が存在するだろうことは、それ自体は明らかと言えば明らかな訳ですね。
言われてみれば、ですが。そんなところまで、普通は目配りしませんが。
それがまあ、"ロックの原点としてのイージー・リスニング"(の可能性)の、とりあえずの意味。
ブリットポップがイージー・リスニングを"原点"として認めることの意味 ~ロックを"諦めて"しまったロック?
以上、番組の論旨を僕なりに頑張って代弁してみましたが、一応筋は通っていてもどうも釈然としないというのが、大多数の人の感想ではないかと思います。(笑)
だってロックですからね。むしろ"イージー"に"リスニング"されないような音を出すのが大目標みたいなところがある(笑)ジャンルなのに、その原点がイージー・リスニングだなんて、論理的可能性としてもそんな馬鹿なという感じ。あるいは所謂イージー・リスニングであろうとなかろうと、親世代や世間が(垂れ)流す音楽への不満や反抗を契機にそれとは違う音を出すというのが、ロックやそれ以降の若者世代発のポップ・ミュージックの、基本的な姿勢の筈。
前者はある程度"趣味"の問題かもしれませんが後者は多分重要で、どんなに広義に影響を受けてはいても、ロック的ポップ・ミュージックがそう簡単に(ここで言うところの)"イージー・リスニング"を原点とは認められない構造的理由だと思います。
反抗云々は置いておくとしても(笑)、ある程度以上意識的に選択した影響源を組み上げて"あるべき"だと思う音楽の姿を意思的にシーンにぶつけるというのが、ロック的ポップミュージックのほとんど有史以来やり続けて来たことで、上ではブルースやジャズやクラシック(やフォーク)という"影響"源を挙げましたが、その後もソウルやレゲエやアフリカ音楽や、あるいは電子音楽/楽器やダンス/クラブミュージックなど様々に影響源を刷新しつつも、そういう意味でのアプローチは大きく変わりは無かったと思います。
今回"イージー・リスニング"として総称されている音楽要素のどれかを、改めて解釈して"影響"源としてロック的ポップ・ミュージックに組み込むこと自体は可能ですし実際にやっている人もシーンを見渡せばそれなりにいると思いますが、そうした意識的作業抜きの"イージー・リスニング"というのはやはり何というか、同じ「音楽」という名前の元にはあっても枠外要素というか、影響と言っても影響"以前"の影響というか。スタート地点にも立っていない。選択肢として土俵に乗っていない。担ってる人たちだって、ロック・シーンに影響を与えたり音楽性を競ったりすることなんて、基本的には考えもしていない筈。それぞれ別世界の出来事。
だから番組(の筆者)が言うようにブリットポップが自分たちの影響源として、イージー・リスニングという雑多な日常的自然的"音楽"を名指ししているのならば、それは結構本当に新しい、単に最新流行ということではなく、ロックの枠組みを"後ろ"方向に(笑)広げたというかスタートラインを思い切り引き"下げた"というか、そういうインパクトはあると思います。少なくとも僕は、読んでいてゲッと思いました。そんなところまで問題にしないといけないの?そんなものと競争しないといけないの?その発想は無かったわあ。
発想は無かったけど、それは新たな次元が開けるワクワク感というよりも(笑)、ぶっちゃけ過ぎてそもそもの枠組みの存立自体が危うくなるような不安感。
ある意味ロック(的ポップ・ミュージック)の"敗北宣言"みたいにも見えるんですよね。"特別"や"非日常"や"新しさ"を追求して来た売り物にして来た音楽文化が、匿名的な職人的"音楽"の、正直ではあるけれど安易でもある通俗/日常そのものの"気持ち良さ"にわざわざ道を空けてしまっている。音楽なんてそれだけのものだと、言ってしまっている感じ。
"言って"いるのが職人側でも業界側でもなく、"新進気鋭"の筈の若手(ブリットポップ)ミュージシャンたちなだけにね。「わざわざ」感は強いですね。極端に言えば、もう"若者の"音楽や"新しい"音楽自体要らないと。
パンクのスローガンが「ロックは死んだ」だとすれば、ブリットポップのそれは、「ロックは溶けた」?(笑)
まああくまでこの番組の論ではということで、ブリットポップをずばりこういう文脈で語っているものは、文章でもドキュメンタリーでも他に見たことが無いので、そこら辺は注意して欲しいですけど。ただブリットポップ系ミュージシャンたちがラウンジパーティー("ブロウ・アップ")に足繫く通っていたなどというくだりは満更嘘とも思えないですし、むしろ"他の"論の方が研究不足である可能性の方が高いと思います。いつもいつも"イギリス独自のセンス"というだけの説明じゃね。
こうしたブリットポップが立脚しているらしい"非ロック的"なスタンスが純音楽的には何を意味しているのか、それはより広い歴史的視野の中ではどういうことである可能性があるのかみたいな話は、また次回にしたいと思います。既に論理構成の難航が頭の中で予感ビンビンなので(笑)、一遍にやるのは気力的に厳しい。
(余談)ヒップホップ/サンプリング・ミュージックの場合
番組中でこういう話があった訳ではなくて、純粋に僕の連想。
こうした"影響"の選別が問題になる時に、"サンプリング"という形で正に「影響」を引用することが重要な表現手段になっているヒップホップの場合はどうなんだろうと、ついでに考える人もいると思います。
結論的に言うと、そこらへんは意外と自由というか、融通が利くジャンルなのではないかなと。
つまり影響を"スタイル"としていちいち昇華してぶつけなくてはならない(という言い方も変ですけど(笑))ロック等に対して、そういう部分はそういう部分として別にあるかもしれませんが、とりあえずサンプリングという形で影響を直接引用出来る形態の音楽の場合は、重大な影響は重大なように、軽い影響は軽い影響のように(笑)、サンプリングの仕方自体で無理なく濃淡が出せるので、逆にどんなソースもどんと来いで、ロックや他の一般ブラックミュージック程そこらへん神経質になる必要は無いのではないかなと。
上で出て来た『偉大なるソングライターたち』シリーズには、伝説的ヒップホップ・グループ"パブリック・エナミー"のリーダーのチャックD編なんかもあるんですが、その中でチャックDが影響を受けた音楽、子供の頃聴いていた音楽として、様々な黒人音楽と共に「アイアン・メイデン」(イギリスのヘヴィ・メタルバンド)や「ピーター・ポール&マリー」(アメリカのフォーク・グループ)の名前を、それもごくすらすらという感じで挙げていて、意外の念に打たれると共に随分自由だなあと感じました。

なかなかヒップホップ以外のジャンルの黒人ミュージシャンには、挙げづらい名前なんじゃないかと思いますね。基本的に音楽においては"黒人が上、白人が下"というのが彼らのスタンスですし、マイケル・ジャクソンのビートルズ好きくらいなら例外×例外みたいな感じで誰も特に文句は言わないでしょうが(笑)、メイデンやPPMは到底そんな"公認"の名前ではないですし、それぞれに「白人音楽」の極みみたいな音だと思いますし、うっかり口に出すと馬鹿にされるか裏切り者扱いでもされかねないような名前かと。
ただヒップホップなら、あらゆる音楽資源は基本的に平等に"利用"対象ですし、仮に引用(サンプリング)した時は上でも言ったようにその引用の仕方で、直に自分のスタンスの説明が出来ますし、色々垣根は低いのではないかなあと。
まあ話してるのを見てると、チャックD個人も、凄くオープンマインドな人には見えましたが。
ちなみにパブリック・エナミーの音を聴いていて、"アイアン・メイデン"を感じることは特に無いですが(笑)、"フォーク"を感じることは実はあります。何か独特の繊細さが。白人的というか。攻撃的黒人的な音の中に。("政治性"とかは・・・どうなんでしょうね。アメリカン・フォーク得意のそれと、関係があるのか無いのか)
そんなこんな。
一応続きも書く予定。(笑)
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