2021年09月10日 (金) | 編集 |
永井秀樹監督 辞任のお知らせ(ヴェルディ公式)[9.1]
今日またフライデーに記事が出たりと、なかなか落ち着かない感じですがそれはともかく。
僕は勿論、あくまでサッカーの話について。
今季唯一永井ヴェルディについて書いた開幕前のプレビュー記事で、僕は約1年半を経ての永井監督のチーム作りの進捗状況とそれについての永井監督の捉え方について、こんなことを書きました。。
これは永井監督が、自分のサッカーを"異常なほど高い"理想という自認のもと行っているという発言に対して書いたことですが。(『永井秀樹監督の「異常なほど高い」理想。ロティーナ監督の称賛も「現状維持は後退の始まり」』)
更に、大きく言えば永井ヴェルディと同種のサッカーをやっている、その方面の第一人者マンチェスター・シティのペップ・グアルディオラ監督との比較として、こういうことを書きました。
その内ペップが意外と"刹那"的にやっているように見える部分がある云々はまた別の問題なので置いておいて、言いたかったのはとにかく似たようなことをやっていてもチーム作りの作業の"回転"感、試行錯誤のスビート感が全く違うということ。勿論ペップの方が、格段に速いわけですけど。
この二つの問題意識、永井メソッドは(今も)"先端"なのか、そして永井監督のチーム作りは(例えばペップと比べて)どうして遅く/悠長に感じられるのか。
これらを通して、あるいはこれらの背後に僕が抱いている監督永井秀樹像としては、
「進行形の戦術家/理論家/勉強家ではなく、ある特定のやり方をor人生のある特定の時期に行った"勉強"の成果を、「答え」として「結論」として、後生大事に抱え込んでチーム運営を行っている(た)人」
というようなものになります。
それが今この瞬間も、大中小様々な答えを求めて突き進み続けるペップのような人との、スピード感・プロセス感の違い。(あるいはJリーグ全体の進歩・変化に比して、永井ヴェルディが優位性画期性をどんどん失って行ったように見える理由)
勿論ペップと比べられたら大抵の監督は勘弁してくれという感じにはなるわけでしょうけど、そういう"量"的"程度"的問題とは別に、"開いている"ペップと"閉じている"永井監督という質的な違いの印象は、並行して見ていた僕にはどうしても否定し難いものとして感じられました。
永井監督が最初からそうだったのか、ある時期まではそうでなかったけどある時期から段々そうなって行ったのか、そこらへんの評価の幅については、ふかばさんあたりの見方も参考にしたいところではありますが。
"勉強"というもの
上を承けて、ただここからは永井監督個人の話では特になく。
結局だから、"勉強"というのは意外と難しくて。すればいいってもんでもなくて。場合によってはしない方がマシなんてことにもなり得て。
"勉強"を始めたら、少なくともそれを"拠り所"にしようとするなら、勉強し"続け"ないといけないんですよね。走り出したなら止まっちゃ駄目。(笑)
ある時期の勉強の成果は放っておくとあっという間にアウト・オブ・デートになりますし、その割にその"成果"の価値は本人の中でそう簡単に揺らがないし、愛着もあるし、「勉強した」という自負もあるし自信もあるし、あるいは(勉強を始めた当初のように)「自分は勉強熱心で頭の柔軟な人間だ」という自己像も残り続けるし。実際には少し前の通説・流行に固着しているだけの、自負だけはやたら大きい傲慢で「頑固」な人間になっていたとしても。
結果だから人生のある時期たまたま少し熱心に何かを勉強したことによって、勉強する前よりもかえって頭の固い人間になってしまうということは、ままある。元々素朴に頭の少し固い人よりも、むしろ不可逆的に。
こういう書き方をするとまるで勉強し続けなかった人中途半端な勉強をした人を責めているようですが、実際は勉強し"続け"る(た)人の方がレアなんだと思います。(地頭も含めた)勉強の為の資質に恵まれ、環境に恵まれ、出来れば職業的要請もあった一部の人。
だからそれ以外の普通の人に必要となるのは、むしろ"勉強"についてのある種の"見切り"ではないかと思うわけですけど。やってもいいけど余り大げさに考えない、マウンティングの快楽に溺れない、人はある日突然賢くなったりはしないという常識を忘れない(笑)。あるいは"勉強"を拠り所としない(タイプの)人たちが時に発する、素朴で端的な言葉の力に耳を塞がない。まあ色々。
ともかくこと"サッカーのプロ監督"に限れば、今日ますます"職業的要請"はマスト化し、また情報化し他の人のやっていることが可視化され易くなって刺激も受け易くなっているという意味で"環境"にも恵まれ、後は資質の問題が残るだけと言えばそういう状況な訳ですけど。
その点においてでは永井秀樹氏はどうなのか・・・と、おっと結局そこに帰って来てしまったか。(笑)
上で言ったことからも分かるように、結論から言えばそこまでの勉強体質ではないだろうと、僕自身は思っています。人生で最も意欲的で最もオープンマインドで知的緊張感の高い特別な時期に達成した勉強・学習の成果を、今ちょうどヴェルディという実地で試し終わったところ。別な言い方をすると、(見てませんが)ヴェルディユース監督時なりトップ監督就任時が言わばベストコンディションで、そこからは成長・学習の速度は停止に近く鈍化し、貯金の取り崩し、同じことの繰り返し、内部論理内の循環に終始していたのではないかと。そして一回"開いた"頭も徐々に閉じて行き、かつてはあった客観性や現実との緊張関係を失い、それでも"勉強した"自信は変にあるから上手く行かないことを("異常なほどの")「理想の高さ」のせいにしたり、あるいは苛立ちを"パワハラ"的な指導としてぶつけたり・・・というのはまあ、いささか大雑把過ぎる想像ではありますが。
もう一度言うと"勉強"の真価は勉強し続けることにあるので、勉強が本当に得意な人好きな人は勉強を通じて"勉強"そのものを、勉強する/し続けるシステムを学んで自分の中に形成する訳ですね。そこまで行けない人が、ある特定の勉強の「結果」を「正解」として自分の中に取り込んで、そこで停止してしまうのに対して。
就任後の永井監督だって、海外サッカーを見るなり吉武コーチを改めて招聘するなり、勿論勉強を続けてはいたわけでしょうけど。ただそれがかつての集中した勉強ほどの密度や体系性を持ち得たのか、日々現実とぶつかって動揺する体系の補強や刷新に役立つようなものになり得ていたのか、そこまで永井監督が勉強熟達者なのか体質者なのか、率いるチームの2年余りの観察の答えとしては、僕はNOですね。結局最初に持ち込んで来たものの余韻で、それが深まることも固まることもないままその"中"でぐるぐる回っていた、そういう印象です。

・・・突然すいません(笑)、今のは元中国国民党軍上級将校の語る、軍事指導者としての蒋介石(国民党総裁)の話でした。(年譜)
最近好きでこのドラマ。(笑)
"永井秀樹"への期待
監督永井秀樹が、ではどうしたら良かったのか今後どうなって欲しいのか的な話。
永井秀樹が監督を目指しているという話が伝わって来た時、多くの人がイメージしたのは個人技/個人能力を重視した、どちらかというと古風でベーシックなプレースタイルの監督像だったのではないかと思います。現役時代のプレーからも、"緑の血"からも。(笑)
そうか頑張れよと、出来れば少なくともラモス先輩よりは何とかなってくれよと、概ねそんな感じの生暖かい期待。(笑)
ところが実際に姿を現した"監督"永井秀樹は、嘘かほんとか欧州トップモード追従の"本格"派ポジショナルプレー監督で、なんだなんだと。どうしたどうした。大丈夫なのかそれ逆にと。(笑)
まあ現役時代のスタイルと監督としてのスタイルの連想なんてのは、ありとあらゆる形で裏切られるのが相場ですし、その後吉武"先生"とのそれなりの年月の研鑽の話(記事)なども伝わって来て。まあとりあえず現物を見てみましょうと、勿論すぐに切り替わりはしたわけですけど。
そしてその"現物"がどうだったかというと、全く駄目ということは無かった、少なくとも事前に危惧していたようなレベルの付け焼刃ではなかった、それなりの内容はあったしいい場面も定期的にあった、教育効果もはたまた"布教"効果(笑)もあったと思います。(それこそ僕が本格的に"和式"を受け入れられなくなった原因の間違いなく一つではありました)
ただそれでも最後まで、どうも借り物感というか上っ面感というか、"お勉強"したんでやってます感というかそういう手応えの薄さは僕は拭えませんでした。別な言い方をすると、なぜ"永井秀樹"がこれをやらなければいけないのかやっているのか感というか。
・・・別にそんな必然性が無くてもいいとは思いますが、少なくとも"選手"永井のことなど忘れさせる説得力は、"監督"永井は持たなくてはならないと思います。
例えば監督高木琢也を見ている時に、"アジアの大砲"のことなんて、リアルタイムで/最も多感な時期に(笑)そのプレーを見ていた僕でも、全く思い出しませんから。それくらい"監督"としての高木琢也に実体感があって、彼がどういう人間だからそういうサッカーをするのか、スタイルの好き嫌いとは別の次元での説得力がある。覚えてる限りではほとんど最初から。
その点"永井秀樹"の場合は、誰がやってもいいようなことをやっている、だからいつまで経っても焦点が定まらない、そんな印象が僕はありました。
"選手"永井秀樹のイメージは、悪い意味でまだ上書きされていない。
だから仕方なく(?)現役時代に戻って、そこから"将来"像を描き直してみると。
一つはまずは、現在の姿・方向性がやっぱり正しいんだという可能性。それもないわけではないと思います。
例えば選手永井秀樹が晩年(引退は2016年)に見せていた、途中投入で(当時の感覚では)ほとんど"魔法"のようにしばしば局面を一気に切り開いて見せたあのゲームメーク、パスワーク、あの中に"ポジショナルプレー"が集大成的に内蔵しているポジションやスペースの"魔法"と共通するものが存在していたのは多分間違いなくて、そこから監督としての永井秀樹の志向がそちらに向いたそういう可能性や少なくとも部分的な繋がりは、あるんだろうとは思います。思いますが・・・ちょっと"間"が飛び過ぎかなと。そういう内在的な繋がりを引きちぎる勢いで「完成品」としてのポジショナルプレーの学習に向かっちゃった、そういう薄さを、監督としての永井秀樹の仕事からは僕は感じてしまいます。なまじ完成品があったゆえにかも知れませんが。
"繋がり"があるとすればむしろ、佐藤優平に代表される特定選手のプレーに先祖帰り的に依存する部分。彼らを"選手"永井秀樹の代わりと考えれば、結局"選手"としての次元と監督/戦術としての次元が、上手く繋がっていない間が飛んでいる/空白があると、そういう風に言えそうには思いますが。"やりたいこと"ではあるんでしょうけど。(ポジショナルプレーが実現しているものが)
もう一つは全く逆で、そんな借りて来た猫はやめて、大向こうの予想/期待通りに、"名人"選手らしく"名人"サッカーをやれと、そういう方向性。
・・・いや、やれということではないんですけど。というかどういうサッカーをやれなんてことは言わない。言えないし言いたくもないし。ただ余りに"結論"(ポジショナルプレー)がいきなり降って来た感じだったので、もう少し過程の見えるチーム作りが見たい、監督としての脈絡・成長が見たかった、その中になるほど永井秀樹だあるいは永井秀樹はそうしたかみたいな、そういう納得や理解を積み重ねてみたかった、そういうことです。その中に出来れば選手としての"魔法"の監督バージョンが見られれば喜ばしいですけど、それはまあ純然たるロマンの領域なので。
とにかくなんか、一回チャラにしてみたいというか、"重力"に引かれて落ち着くところに落ち着いて、そこで(例えば高木琢也のように)永井秀樹の実体性が出て来るのを見たいというか、その時それはどちらかというとやはり"名人"サッカーなのではないかという、そんな予感の話。(笑)
そうですね、例えばストイコビッチは、監督成りたて当初はベンゲル・オシム両恩師の薫陶よろしく、結構鮮やかに整然とした知的なサッカーをやってましたが、気が付くとスーパースターのカリスマを前面に出したモチベーター型監督としてJリーグ優勝を成し遂げて、その後も基本はその路線に落ち着いていたように見えましたよね。例えばあんな感じ?(笑)
まあ現状でもポジショナルプレーの伝道師として、少なくともJではそれなりの需要はある気がするので、現実的にはこのまま世を渡って行くんだろうなという感じはします。その中で僕も納得するような(笑)、方法論の内面化を永井監督が成し遂げてくれたら、多分それが一番いいのかなと。
最後にちゃぶ台返しみたいなことを言うと、本当は永井監督も別に"ポジショナルプレー"がやりたいわけではない筈なんですよね。あくまでテクニカルな攻撃サッカー的なものがやりたいことであって、それがたまたま奇才ペップ・グアルディオラによって知性主義の極み的欧州トップモード"でもある"という状態が作られていたので、まとめて手を出して少しごちゃごちゃしたというか情報過多になったというか、そういうことかと。つい背伸びさせられて、現実感を失ったというか。
だからまあ、"チャラ"にするかはともかく(笑)として、結局何がやりたいんだろう何をやっているんだろうということを、一度ゆっくり考える時間は必要なのではないかなと、ヴェルディでの現場経験を経て。
そんな感じです。選手としての、特に晩年のプレーへの尊敬はやっぱり僕も忘れられないので、成功は願ってます。
今日またフライデーに記事が出たりと、なかなか落ち着かない感じですがそれはともかく。
僕は勿論、あくまでサッカーの話について。
今季唯一永井ヴェルディについて書いた開幕前のプレビュー記事で、僕は約1年半を経ての永井監督のチーム作りの進捗状況とそれについての永井監督の捉え方について、こんなことを書きました。。
とどめとして言うならば、北九州なり何なりも含めた2020年のJ1/J2の各チームのサッカーを見て、永井少年/青年が吉武先生と構想を温めていた(らしい)数年前ならともかく、今永井ヴェルディがやってることやれることが、"Jリーグ"水準でもそこまでレベルが高かったりレアだったりするのだろうかという。ちょっと何か、内向きに固まり過ぎているのではないか自画自賛に過ぎるのではないかと、そういう印象は受けます。
これは永井監督が、自分のサッカーを"異常なほど高い"理想という自認のもと行っているという発言に対して書いたことですが。(『永井秀樹監督の「異常なほど高い」理想。ロティーナ監督の称賛も「現状維持は後退の始まり」』)
更に、大きく言えば永井ヴェルディと同種のサッカーをやっている、その方面の第一人者マンチェスター・シティのペップ・グアルディオラ監督との比較として、こういうことを書きました。
そもそも「理想」という言い方自体、実は少し気に入らないんですよね。永井ヴェルディのチーム作りのプロセスに感じていたもやもや感と、リンクもするし。どういう"プロセス"感なのか、どういうスピード感なのか。
・・・つまりですね。あくまで例えばではあるんですけど、ペップ・シティを日々&数年間見ていて、ペップが「理想」を追求していると感じることは、実はほとんど無いんですよね。もっと端的に、日々の課題目前の状況を、遥か先の問題としてではなくて今この瞬間解決しようとする、そういうある意味刹那的な作業の実は積み重ねに見える。そういう"切迫"感の方が、ペップとそのチーム作りが帯びているアトモスフィアのメイン。
その内ペップが意外と"刹那"的にやっているように見える部分がある云々はまた別の問題なので置いておいて、言いたかったのはとにかく似たようなことをやっていてもチーム作りの作業の"回転"感、試行錯誤のスビート感が全く違うということ。勿論ペップの方が、格段に速いわけですけど。
この二つの問題意識、永井メソッドは(今も)"先端"なのか、そして永井監督のチーム作りは(例えばペップと比べて)どうして遅く/悠長に感じられるのか。
これらを通して、あるいはこれらの背後に僕が抱いている監督永井秀樹像としては、
「進行形の戦術家/理論家/勉強家ではなく、ある特定のやり方をor人生のある特定の時期に行った"勉強"の成果を、「答え」として「結論」として、後生大事に抱え込んでチーム運営を行っている(た)人」
というようなものになります。
それが今この瞬間も、大中小様々な答えを求めて突き進み続けるペップのような人との、スピード感・プロセス感の違い。(あるいはJリーグ全体の進歩・変化に比して、永井ヴェルディが優位性画期性をどんどん失って行ったように見える理由)
勿論ペップと比べられたら大抵の監督は勘弁してくれという感じにはなるわけでしょうけど、そういう"量"的"程度"的問題とは別に、"開いている"ペップと"閉じている"永井監督という質的な違いの印象は、並行して見ていた僕にはどうしても否定し難いものとして感じられました。
永井監督が最初からそうだったのか、ある時期まではそうでなかったけどある時期から段々そうなって行ったのか、そこらへんの評価の幅については、ふかばさんあたりの見方も参考にしたいところではありますが。
個人的な思いとしては、ユースのころはまだなんかこう新しいことをやるんだ!って野心があって、実際有効かどうかはともかくたくさん言葉も作って……感じで面白かったけど、今年はなんていうか、こう、そういうのが見えなくなってて、あぁ……ってはなってた。
— ふかば (@VCB_25) September 1, 2021
"勉強"というもの
上を承けて、ただここからは永井監督個人の話では特になく。
結局だから、"勉強"というのは意外と難しくて。すればいいってもんでもなくて。場合によってはしない方がマシなんてことにもなり得て。
"勉強"を始めたら、少なくともそれを"拠り所"にしようとするなら、勉強し"続け"ないといけないんですよね。走り出したなら止まっちゃ駄目。(笑)
ある時期の勉強の成果は放っておくとあっという間にアウト・オブ・デートになりますし、その割にその"成果"の価値は本人の中でそう簡単に揺らがないし、愛着もあるし、「勉強した」という自負もあるし自信もあるし、あるいは(勉強を始めた当初のように)「自分は勉強熱心で頭の柔軟な人間だ」という自己像も残り続けるし。実際には少し前の通説・流行に固着しているだけの、自負だけはやたら大きい傲慢で「頑固」な人間になっていたとしても。
結果だから人生のある時期たまたま少し熱心に何かを勉強したことによって、勉強する前よりもかえって頭の固い人間になってしまうということは、ままある。元々素朴に頭の少し固い人よりも、むしろ不可逆的に。
こういう書き方をするとまるで勉強し続けなかった人中途半端な勉強をした人を責めているようですが、実際は勉強し"続け"る(た)人の方がレアなんだと思います。(地頭も含めた)勉強の為の資質に恵まれ、環境に恵まれ、出来れば職業的要請もあった一部の人。
だからそれ以外の普通の人に必要となるのは、むしろ"勉強"についてのある種の"見切り"ではないかと思うわけですけど。やってもいいけど余り大げさに考えない、マウンティングの快楽に溺れない、人はある日突然賢くなったりはしないという常識を忘れない(笑)。あるいは"勉強"を拠り所としない(タイプの)人たちが時に発する、素朴で端的な言葉の力に耳を塞がない。まあ色々。
ともかくこと"サッカーのプロ監督"に限れば、今日ますます"職業的要請"はマスト化し、また情報化し他の人のやっていることが可視化され易くなって刺激も受け易くなっているという意味で"環境"にも恵まれ、後は資質の問題が残るだけと言えばそういう状況な訳ですけど。
その点においてでは永井秀樹氏はどうなのか・・・と、おっと結局そこに帰って来てしまったか。(笑)
上で言ったことからも分かるように、結論から言えばそこまでの勉強体質ではないだろうと、僕自身は思っています。人生で最も意欲的で最もオープンマインドで知的緊張感の高い特別な時期に達成した勉強・学習の成果を、今ちょうどヴェルディという実地で試し終わったところ。別な言い方をすると、(見てませんが)ヴェルディユース監督時なりトップ監督就任時が言わばベストコンディションで、そこからは成長・学習の速度は停止に近く鈍化し、貯金の取り崩し、同じことの繰り返し、内部論理内の循環に終始していたのではないかと。そして一回"開いた"頭も徐々に閉じて行き、かつてはあった客観性や現実との緊張関係を失い、それでも"勉強した"自信は変にあるから上手く行かないことを("異常なほどの")「理想の高さ」のせいにしたり、あるいは苛立ちを"パワハラ"的な指導としてぶつけたり・・・というのはまあ、いささか大雑把過ぎる想像ではありますが。
もう一度言うと"勉強"の真価は勉強し続けることにあるので、勉強が本当に得意な人好きな人は勉強を通じて"勉強"そのものを、勉強する/し続けるシステムを学んで自分の中に形成する訳ですね。そこまで行けない人が、ある特定の勉強の「結果」を「正解」として自分の中に取り込んで、そこで停止してしまうのに対して。
就任後の永井監督だって、海外サッカーを見るなり吉武コーチを改めて招聘するなり、勿論勉強を続けてはいたわけでしょうけど。ただそれがかつての集中した勉強ほどの密度や体系性を持ち得たのか、日々現実とぶつかって動揺する体系の補強や刷新に役立つようなものになり得ていたのか、そこまで永井監督が勉強熟達者なのか体質者なのか、率いるチームの2年余りの観察の答えとしては、僕はNOですね。結局最初に持ち込んで来たものの余韻で、それが深まることも固まることもないままその"中"でぐるぐる回っていた、そういう印象です。

・・・突然すいません(笑)、今のは元中国国民党軍上級将校の語る、軍事指導者としての蒋介石(国民党総裁)の話でした。(年譜)
最近好きでこのドラマ。(笑)
"永井秀樹"への期待
監督永井秀樹が、ではどうしたら良かったのか今後どうなって欲しいのか的な話。
永井秀樹が監督を目指しているという話が伝わって来た時、多くの人がイメージしたのは個人技/個人能力を重視した、どちらかというと古風でベーシックなプレースタイルの監督像だったのではないかと思います。現役時代のプレーからも、"緑の血"からも。(笑)
そうか頑張れよと、出来れば少なくともラモス先輩よりは何とかなってくれよと、概ねそんな感じの生暖かい期待。(笑)
ところが実際に姿を現した"監督"永井秀樹は、嘘かほんとか欧州トップモード追従の"本格"派ポジショナルプレー監督で、なんだなんだと。どうしたどうした。大丈夫なのかそれ逆にと。(笑)
まあ現役時代のスタイルと監督としてのスタイルの連想なんてのは、ありとあらゆる形で裏切られるのが相場ですし、その後吉武"先生"とのそれなりの年月の研鑽の話(記事)なども伝わって来て。まあとりあえず現物を見てみましょうと、勿論すぐに切り替わりはしたわけですけど。
そしてその"現物"がどうだったかというと、全く駄目ということは無かった、少なくとも事前に危惧していたようなレベルの付け焼刃ではなかった、それなりの内容はあったしいい場面も定期的にあった、教育効果もはたまた"布教"効果(笑)もあったと思います。(それこそ僕が本格的に"和式"を受け入れられなくなった原因の間違いなく一つではありました)
ただそれでも最後まで、どうも借り物感というか上っ面感というか、"お勉強"したんでやってます感というかそういう手応えの薄さは僕は拭えませんでした。別な言い方をすると、なぜ"永井秀樹"がこれをやらなければいけないのかやっているのか感というか。
・・・別にそんな必然性が無くてもいいとは思いますが、少なくとも"選手"永井のことなど忘れさせる説得力は、"監督"永井は持たなくてはならないと思います。
例えば監督高木琢也を見ている時に、"アジアの大砲"のことなんて、リアルタイムで/最も多感な時期に(笑)そのプレーを見ていた僕でも、全く思い出しませんから。それくらい"監督"としての高木琢也に実体感があって、彼がどういう人間だからそういうサッカーをするのか、スタイルの好き嫌いとは別の次元での説得力がある。覚えてる限りではほとんど最初から。
その点"永井秀樹"の場合は、誰がやってもいいようなことをやっている、だからいつまで経っても焦点が定まらない、そんな印象が僕はありました。
"選手"永井秀樹のイメージは、悪い意味でまだ上書きされていない。
だから仕方なく(?)現役時代に戻って、そこから"将来"像を描き直してみると。
一つはまずは、現在の姿・方向性がやっぱり正しいんだという可能性。それもないわけではないと思います。
例えば選手永井秀樹が晩年(引退は2016年)に見せていた、途中投入で(当時の感覚では)ほとんど"魔法"のようにしばしば局面を一気に切り開いて見せたあのゲームメーク、パスワーク、あの中に"ポジショナルプレー"が集大成的に内蔵しているポジションやスペースの"魔法"と共通するものが存在していたのは多分間違いなくて、そこから監督としての永井秀樹の志向がそちらに向いたそういう可能性や少なくとも部分的な繋がりは、あるんだろうとは思います。思いますが・・・ちょっと"間"が飛び過ぎかなと。そういう内在的な繋がりを引きちぎる勢いで「完成品」としてのポジショナルプレーの学習に向かっちゃった、そういう薄さを、監督としての永井秀樹の仕事からは僕は感じてしまいます。なまじ完成品があったゆえにかも知れませんが。
"繋がり"があるとすればむしろ、佐藤優平に代表される特定選手のプレーに先祖帰り的に依存する部分。彼らを"選手"永井秀樹の代わりと考えれば、結局"選手"としての次元と監督/戦術としての次元が、上手く繋がっていない間が飛んでいる/空白があると、そういう風に言えそうには思いますが。"やりたいこと"ではあるんでしょうけど。(ポジショナルプレーが実現しているものが)
もう一つは全く逆で、そんな借りて来た猫はやめて、大向こうの予想/期待通りに、"名人"選手らしく"名人"サッカーをやれと、そういう方向性。
・・・いや、やれということではないんですけど。というかどういうサッカーをやれなんてことは言わない。言えないし言いたくもないし。ただ余りに"結論"(ポジショナルプレー)がいきなり降って来た感じだったので、もう少し過程の見えるチーム作りが見たい、監督としての脈絡・成長が見たかった、その中になるほど永井秀樹だあるいは永井秀樹はそうしたかみたいな、そういう納得や理解を積み重ねてみたかった、そういうことです。その中に出来れば選手としての"魔法"の監督バージョンが見られれば喜ばしいですけど、それはまあ純然たるロマンの領域なので。
とにかくなんか、一回チャラにしてみたいというか、"重力"に引かれて落ち着くところに落ち着いて、そこで(例えば高木琢也のように)永井秀樹の実体性が出て来るのを見たいというか、その時それはどちらかというとやはり"名人"サッカーなのではないかという、そんな予感の話。(笑)
そうですね、例えばストイコビッチは、監督成りたて当初はベンゲル・オシム両恩師の薫陶よろしく、結構鮮やかに整然とした知的なサッカーをやってましたが、気が付くとスーパースターのカリスマを前面に出したモチベーター型監督としてJリーグ優勝を成し遂げて、その後も基本はその路線に落ち着いていたように見えましたよね。例えばあんな感じ?(笑)
まあ現状でもポジショナルプレーの伝道師として、少なくともJではそれなりの需要はある気がするので、現実的にはこのまま世を渡って行くんだろうなという感じはします。その中で僕も納得するような(笑)、方法論の内面化を永井監督が成し遂げてくれたら、多分それが一番いいのかなと。
最後にちゃぶ台返しみたいなことを言うと、本当は永井監督も別に"ポジショナルプレー"がやりたいわけではない筈なんですよね。あくまでテクニカルな攻撃サッカー的なものがやりたいことであって、それがたまたま奇才ペップ・グアルディオラによって知性主義の極み的欧州トップモード"でもある"という状態が作られていたので、まとめて手を出して少しごちゃごちゃしたというか情報過多になったというか、そういうことかと。つい背伸びさせられて、現実感を失ったというか。
だからまあ、"チャラ"にするかはともかく(笑)として、結局何がやりたいんだろう何をやっているんだろうということを、一度ゆっくり考える時間は必要なのではないかなと、ヴェルディでの現場経験を経て。
そんな感じです。選手としての、特に晩年のプレーへの尊敬はやっぱり僕も忘れられないので、成功は願ってます。
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