"シティ"ファンと"ペップ"ファンという入り口の違いによる、「ペップ・シティ」の見方の微妙な違い。
"ペップ"ファンである牽牛星(@EVA0330penguin)さんがブログ『牽牛星のよろず日記』で書かれた6つのペップ/ペップ・シテイ記事をまとめて読んで、"シティ"ファンである僕が改めて意識したいくつかの視点というか自分の立ち位置。それが主な内容。
ペップシティとコアUT (2019-12-10)・・・[1]
ペップの大耳10年戦争 (2021-06-14)・・・[2]
ペップバルサ総論 (2021-07-13)
もう一度あの場所へ(21/22ペップシティ展望) (2021-08-13)
始祖から連なる流転する多角形の物語 (2021-08-26)
鶴の翼を広げて(ペップシティ21/22選手名鑑風) (2021-09-04)・・・[6]
・・・ペップの前任ペジェグリーニ時代がお初という限りなく俄かの僕が「"シティ"ファン」のアイデンティティで語るのもそこそこ気は引けるんですけど、さりとて"ペップ"ファンではもっとない、ペップの仕事をちゃんと見たのはシティに来てからなので、まあ"立場"としてはそういうことになります。
ちなみに今季の僕は「井上潮音ファン」という立場を通して「ヴィッセル神戸」の試合を毎試合見ているので、牽牛星さんが時折気にする純正"シティ・ファン"との距離感みたいなものは、読んでいてそれなりに分かるところはありました(笑)。まあちょっとペップと潮音では、現チームへの関与のレベルが違い過ぎますけど。
とにかくそういう前提での、何か。
全部読みましたが直接の引用は、1,2番目と6番目の記事から。(それぞれ[1][2][6]と引用元を表示)
"最終生産者"問題
"最終生産者"というのは牽牛星さん独特の言い回しで、要は(実効性のある)"ストライカー"、"最終的に点を(いつも)取る人"みたいな意味。タイプとしては別に(レバンドフスキやケインのような)"本職"FWである必要は特に無くて、それこそメッシ/クリロナのような本職やスタート位置がウィングの選手でも、点さえ絶対的に取ってくれればそれが最終生産者。
牽牛星さんのサッカーやペップ・シティの論や見方は、多くの場合この概念をキーとして展開されていますが、"シティ"ファンとしての僕が読んでいて最初に単純にあっと思ったのもこの問題、"ペップ"のチームと"最終生産者"の問題でした。
・・・いや、つまり凄く単純なことで、"ペップ"のチームが"最終生産者"がいない前提で構成されているのはそれはシティにおいてだけで、バルサの時はメッシやエトゥーが、バイエルンの時はレバンドフスキやミュラーという最終生産者がちゃんといた、いる前提でチームが構成されていたということ。
シティだけ見ていると、まるでペップは"最終生産者"抜きでいかに勝つかという縛りゲーに専心しているマニアな人にも思えて、そして見ているシティ・ファンもそのことに慣れ切っているところがあると思うんですが(笑)。確かに定期的に"ストライカー"問題は話題にはなりますが、それはそうなったらいいなそれもいたらいいだろうな楽だろうなという、"贅沢""付け足し"的な関心で、そこまでの切迫したニュアンスは基本無いと思います。
後で見るようにそのことにそれなりの必然性はあると思いますしその範囲でも十分にペップ・シティはエキサイティングではあるわけですが、ただ"歴史"的問題として言われてみると全くそうで、知らず自分の視野が限定されていたことに気付かされたという、そういう話です。
まあ牽牛星さんからすればごく当たり前のことで、"気付か"せるつもりも特に無かったろうとは思いますが。(笑)
とにかく「"最終生産者"のいるペップのチーム」の方を(歴史的に)常態と見なしている牽牛星さんは、シティについてもそのような観点から基本語ります。
そしてペップはバルサ時代の旧友チキとソリアーノが待つマンチェスターへ向かう。そして、満足する最終生産者がいない苦しみが始まる。[2]
シティ最大の問題、『結局このチームって誰に点を取らせる目的のチームなのか分からない』問題が浮上する。[2]
バイタルでメッシにフリーでボールを持たせる、レバミュラにサイドからハイクロス爆撃を行う。これがペップチームの必殺技。しかしシティでは必殺技を見つけられずにいる。今まではスペシウム光線で怪獣を倒していたのに、シティではひたすら怪獣が死ぬまで殴り続けるだけだ。[6]
うーんなんか、謝っといた方がいいのかなという気持ちにはなります。
ごめんねペップ。(?)
"ペップらしさ"問題
と、とりあえずは謝っておくという日本人的対処はしつつも(笑)、そこまで納得してないというか申し訳なく思ってない部分も実はあって。
確かにペップが来てからの5年間、シティが獲得したレギュラー級の(ウィングタイプ以外の)"FW"はジェズスただ一人で、そのジェズスの結果的な得点力やそもそもの既存のエースFWアグエロの稼働率を思えば、ペップが恒常的に頼りになるストライカー不在で戦っていたのは事実。それはハンデではあり出来ればそういう選手が、欲しかったか欲しくなかったかと言えばそれは欲しかったでしょう、当たり前ですが。
と、牽牛星さんも。思えば1年目夏のオーバメヤン獲得未遂、冬のジェズス獲得、2年目冬のサンチェス獲得未遂とマーケットが開く度に最終生産者の獲得に向かっていて、不満はあったのだろう。[2]
ただそれはシティの編成の純粋な"失敗"なのかシティ・ファンはペップに申し訳なく思うべき(笑)なのかというと、そうでもないのではないかという気も。
つまり逆に、余りにも"獲っていなさ"過ぎるんですよね。本命が駄目で二番手を獲って、それが不発みたいなことすら起きていない。ほとんど不動。一瞬イヘアナチョとかいう名前も浮かびましたが、彼は下部組織上がりなんですね、そうだったのか、それでいたのか、大して役に立たないのに(笑)。というくらい、"2人"以外の名前が挙がらない。(2016年以降の"FW"の項参照)
これだけ消極的となると、やはりペップ自身にそういう消極性が、つまり満願に近いレベルの選手が獲れなければ別に獲らないでいいと、そういう意向なり了解なりがあったと、考えるべきだろうと思います。あれほどクラブにとって大事な監督な訳ですから。
別な観点として、先程ある種の"根拠"として挙げた"歴史"の問題、つまりバルサでもバイエルンでもいたんだからシティでも"最終生産者"はいるのが当然でいないのは欠損で異常事態だという認識、これもそうなのかなと思っているところがあります。
つまり逆に、"たまたま"だったのではないかと。特にバルサに、"メッシ"がいたのは。
それはメッシが余りにも特別な選手でそもそも一般的に言って代わりを求められない選手だというのは勿論ですが、と同時に"バルサ""バルサのカンテラ"にとっても、特別特殊な選手な訳で。シャビやイニエスタ、ブスケツやペドロなら、バルサのカンテラはある程度狙って作れるでしょうが、メッシはそうはいかない。だから"バルサ"の申し子としてのペップのサッカーの構想が思想が、"怪物的な最終生産者"としてのメッシのような選手を前提として作られているとは、どうも想像し難い。・・・そもそもメッシ自体、途中まではあくまでドリブラーであって、ストライカーとしての覚醒は後年の事だったわけですしね。
つまりそういう意味で、"最終生産者"不在のここまでのペップ・シティも、ペップ的にはそこまでイレギュラーではないのではないか不満はあれど"本意"の範疇なのではないかと、そう考えるわけです。「ペップ・バルサ」の再現にはメッシないしそれに近い怪物的"最終生産者"が必要だとしても、"ペップのサッカー"自体はそうではないのではないかと。バイエルン時代の問題は問題としてありますが、とりあえず"出発点"を重視するならね。
シティ・ファン一般の気持ちとしても、概ね現実としての"最終生産者抜きのペップ・シティ"には肯定的、歩調を同じくしているように見えて、"最終生産者"抜きでペップとシティが達成して来たものに誇りと愛着を持っていて、そりゃストライカーは欲しいけどそれが突出するのは嫌だ、"ペップ"(シティ)より"〇〇"が大きくなるのは御免みたいな気持ちは、やせ我慢でなくあるだろうと思います。それこそ今更クリロナなんかの力を借りて勝つくらいなら負けた方がマシだ、おととい来やがれあんた塩持って来ておくれ塩みたいな気持ちに、この前の"噂"の時になった人は少なくないのではないかと。(僕はなりました(笑))
ハリー・ケインくらいならいいですけど。逆に。(逆に?(笑))
まあ牽牛星さんも、別にそこらへんの機微が、僕が言ったようなことが分かってないわけではないのは分かるんですけどね。
秩序だった無秩序の具現化のためのUT[ユーティリティ:筆者注]性の高いタレントによる無限ポジション変換と無限パス交換を主軸とする支配理論、これこそがペップの目指す真の理想なのだろう。[2]
ただ"ペップ"への愛が強過ぎて、その苦労が見ていられなくて(笑)そしてペップに"大耳"(ビッグイヤー。UCLタイトル)をまた取らせたい気持ちが強過ぎて、つい不満が先に立ってしまうことがあるだけで。(笑)
ただ↓のような言い方には、ちょっと待ってくれと言いたくなるところがありました。
これはシティの特徴でもあるが有効な指し手を打ち続けていれば自ずと得点は獲れる、という一種のカルマを信奉している節があり[2]
いや、それはあくまで"ペップ"の、ペップが来てからの"カルマ"(ドグマ?)であり、シティのじゃないよ、濡れ衣だよと。(笑)
ペップが来る前のシティなんて、良くも悪くも"普通"のチームだった筈。作り込みが甘い(&その一方で個々の能力が高いので何かしらで点は取れる)分、いやにのんびりと攻めてるように見えることは往々にしてあった(笑)としても。
"ペップの奇策"問題
チャンピオンズリーグや国内リーグの強豪相手の大事な試合で、ペップが時に/しばしば狙い過ぎた戦略の不発で自滅しがちだという批判・定評に対する、牽牛星さんの見解・反論。
まずはその代表例。
'13-'14シーズン、バイエルン初年度のCL準決勝レアル戦。
2ndlegにおいて現在まで続く大耳ペップバッシングの起点『奇策溺れ』が始まった。424をぶつけてバランスを大きく崩した。433でバランスを整え構えれば良いものをリベリの『攻撃的にいきたい』というコメントを受け、ロベリと心中すべくロベリと2topの前線4枚で攻撃を加えるシステムを採用。ロベリーが封じられ、U字パスを繰り返し、可能性のないクロスが跳ね返されてカウンターを受け、バイエルンの『群れ』の後ろの広大なスペース目掛けてベイルとロナウドが駆け抜けて0-4で敗北。[2]
'14-'15シーズンバイエルン2年目、CL準決勝バルサ戦。
ペップは『家』カンプノウでMSNに3バックをぶつけ、マンツーを選択した。勇敢なカウンタープレスは早々に怪しさが漂い始める。(中略)
ペップは早期に4バックへ変更しゲームは拮抗状態へ。ノイアーのビッグセーブもあって75分間0-0で凌いでいたゲームは、(中略)メッシの輝きによって2ゴールをあっという間に奪われ、バルサはチャビを投入しティキナチオ発動。攻めかかるバイエルンをあざ笑うネイマールのカウンターからのシュートで万事休す3-0で大耳制覇の夢は散った。[2]
'19-'20シーズン、シティ4年目のCLベスト8リヨン戦。
この試合3バックをペップは選択する。ラポルテ、ガルシア、ジーニョの3バックに大外がウォーカー、カンセロ、2セントラルがギュン、ロドリで前線はジェズスを1topにスータリングとデブ神がシャドーに配置され、リヨンの352をはめ込む布陣となった。
リヨンは3バックの両脇を広げアンカーをケアするロールを担うジェズスをピン止めしWBを前線に上げて数的有利を作り先制点を挙げる。ペップは慣れた4231に戻し同点弾を奪うも今度はリヨン本来の布陣の良さが活きてくる。[2]
'20-'21シーズン、シティ5年目CL決勝チェルシー戦。
シティ初の大耳決勝に胸躍る多くの人々が見守る決戦でペップはギュン4番でフォームを崩していたスターリングを先発させ、またも奇策と騒がれる中で1-0負けで涙を飲んだ。[2]
このように"失敗"例を列挙して見せた後で、しかしその内実を牽牛星さんは次のようにそれぞれ評価します。
・・・バイエルン、レアル戦。今季のバイエルンはロベリを活かす為のシステム構築が中心で433をぶつけたとして勝てたか、は何とも言えない。[2]
・・・バイエルン、バルサ戦。この敗北を昨年に続き奇策で負けた、と表現するメディアもあったが、これは正確ではない。おそらくどうやっても負けたはずだ。[2]
・・・シティ、リヨン戦。ただ最初から4231で挑んだとしても普通に負けていたと思う。4231になってからリヨンを崩すことが出来なかったのを見ていると厳しかっただろう[2]
・・・シティ、チェルシー戦。この試合最大の論点4番ギュンの是非であるが、ジーニョであれば我慢強くパスを散らせていたかと問われると難しく、失点シーンもスライディングで防げたか、と言うとそれも何とも言えない。(中略)
スターリングの選択も幅を取りハーフを攻め、根気強く攻撃し続けるためには必要な駒であり(中略)幅を獲って深く掘れるのはスタリンしかいないので妥当と言えば妥当である。[2]
長々(笑)引用して来ましたがまとめて言うと、"奇策"で敗れたとされる試合はどれも他の方法や"正攻法"でも勝てたとは思えない力関係であり、策そのものにも一定の合理性が認められるという、そういう主張です。
ペップの奇策溺れが印象に残りやすいが、大耳でペップが負ける時(殆どだが笑)は戦術云々というより普通に人的資本が足りていない。相手の得意戦型を受け切れないというのが殆どだと思う。[2]
そうだとすれば敗戦自体は根本的にはペップの責任ではないですし、「奇策の不発」の方も、そのままなら負ける可能性が高い試合におけるそれでも逆転の可能性を探ったペップの無理を承知の努力の表れであって、例え不発でも必ずしも責められるべきものではないということになります。
実際そうだったとして、それを認めたとして、その場合に敗戦後に多くのシティ・ファンが漏らす(漏らした)不平・不満を、どう考えたらいいのか。ただの見当違いなのか、結果乞食のたわ言なのか。直近20-21UCL決勝のチェルシー戦後に、同様の解説をしてくれた文章は他にもありましたが、それを読んでなるほどなとは思いつつも納得して気が晴れるようなことは、残念ながらほとんどありませんでした。試合直後に感じた不平・不満は、今でもほぼ変わらず残っている。
その理由を探るにまず上のような(牽牛星さんが説明するような)事態において、ペップの「奇策」が果たしている機能をもう一度確認すると、つまり本来、あるいは他の監督ならばもっと公衆の目に明らかなものとして見えた筈の"劣勢"が、見える前に先手を打ってペップの"策"が施されることによって見えなくなってしまう訳ですね。(それは同時に"策"自体も、「前提」の知られない「結論」として、奇妙なものとして公衆の目の前に現れることを意味する訳ですが。)
そうして策の甲斐なく負けた時に見ている人(シティ・ファン)が思うのは、一つは勿論、普通にやったら勝てたのではないかという想い。ただそれはどこまで行っても"if"の問題でしかないのはみんな分かるのでそこまでしつこく追及はしないでしょうが、それでも残るのが、言わば"負け方"の問題。勝ち負け別にしても/仮に負けるにしても/どうせ負けるなら、いつもの形でいつもの力を出して、それで負けたかったという想い。それならば諦めは付きやすい、恨みっこ無しだというのと、更に言えばもしそんなに奇策に頼らなければ負けるくらいにチームが/シティが弱いのならば、そのことをきちっと見届けて受け止めたかった、その機会をペップの"奇策"が奪った、そういう不全感、そういう不満、そういう"怒り"。負けたから怒ってる、ペップ〇ねと言ってる(僕は言ってないですけど(笑))わけではない多分。ほとんどの人は。
そうですね、怒ってますね、まだ怒ってますね僕そう言えば。あのチェルシー戦には。珍しくしつこい。(笑)
勿論上でも言ったように、ペップが仮に僅かでも勝利への可能性を探り続けること、"見えて"しまうゆえに何かを"やって"しまうこと、そのこと自体を否定したり批判したりするのは酷ですし、やめさせるのは難しい(笑)だろうと思います。
ただ長年サッカーを見てれば惨敗も大敗も少なからずみんな体験はしてるでしょうし、僕自身はもう10年以上日本の二部リーグを抜け出せずにいる緑のチームのファンでもあるのでサッカーが上手く行かないこと自体は慣れっこなわけですが。それでもペップの"奇策負け"が与える「負け味」の悪さというのは、なかなか類を見ない、特別な性格のものに感じます。後を引く。(笑)
・・・それで思い出しましたがそう言えばヴェルディも(名前言った)ミゲル・アンヘル・ロティーナに率いられて近年最も一部昇格に近付いた2018年のJ1昇格プレーオフの磐田との決定戦の際には、それまでチームの要であったアンカー内田達也をいきなり外してノーアンカーの即席中盤で挑むというロティーナの"奇策"の果ての負けというものを、経験してましたね。ロドリかフェルナンジーニョかを直前数試合探った挙句フェルナンジーニョで行くと決めた、と思って本番迎えたらどっちもいない即席中盤で負けたシティのチェルシー戦と、似てると言えば似てる。(笑)
ヴェルディの場合シティと違ってほとんど誰にでも分かるくらい地力負けしていてどのみち負けたろうなという部分については余り異論は無かった筈ですが、それでもロティーナの選択の後味の悪さについては、当時のほとんど絶対支持の空気の中でもかなり厳しい声、恨みや怒りの声が飛んでいました。そういうものですね。そういう"負け方"。
結局だから何に怒っているのか、いたのか、シティ・ファンは(あるいはヴェルディ・ファンは)、改めてより一般化した形で言ってみると、それは
試合を奪われた
ということではないかなと。あるいは「プレー」を。プレーを見る機会を。
勝利をではなく。タイトルでも、昇格でもなく。(それもあるでしょうが)
丸々一試合、無かったことになっている。クライマックスになる筈だった試合の経験が。空白になっている。なんか知らんが負けたらしい。負けという結果は、残っているらしい。
監督は試合をしたのかもしれない。でも選手は?観客は?
選手はまあ、試合してないことはないでしょう。でも半分くらい?どうも余り要領を得ない感じでやっていた、これ以上ない大事な試合に対してテンションを高めきれないままやっている感じの選手はそれぞれの試合で何人もいた気がしますから。観客は?どうなんでしょう。僕はほんと、無かったことになってますね。試合について"書かれた"文章は覚えてますけど、試合についてはあんまり。
ああ、試合したかったなあ。もう一回やって、ちゃんと負けたい。(勿論出来れば勝ちたい(笑))
繰り返しますがペップ(やロティーナ)の勝利への努力を否定することは、ほとんど論理的な問題として出来ないと思います。ただそうですね、少なくともペップに対しては、こういういちゃもんをつけることは可能なのではないかなと。
つまりペップも属する筈の"クライフ"流、クライフ教の根本教義は、観客に向けてプレーする、観客の喜びの為にエモーションの為にプレーする、そういうものだった筈。だからペップの、監督の、先回りし過ぎの"処置"によって、例えそれが結果"悲しみ"であったとしても観客の試合によって呼び起こされる素直なエモーションの噴出が阻害されたならば出口を塞がれてしまったならば、それは流派的にも罪であって、抗議する権利が観客にあるのではないかという。
勿論これはたまたまペップに対してだけ使える抗弁であり告発であり、ロティーナがどう言うかは知りませんが。(笑)
例えばそういうことです。
最後の"ロティーナ"の部分が意外と重要かもしれないのは、ペップやロティーナに限らず、今後ますます(or少なくとも当分の間は)"先取り脳内将棋"の比重の高い監督の活躍は増えて来るわけでしょうから、ペップにシティ・ファンが、ロティーナにヴェルディ・ファンが味あわされたような、喉に各種栄養剤だけ突っ込まれてはい食事終わりみたいなそういう釈然としない"ディナー"、試合の出現も増えて来るだろうと予想されるからですね。
それにサッカーファンは慣れて行くのか、サッカーはそういうものだとなって行くのかというと、あんまりそうは思わないかなあ。ことはサッカーのレゾンデートル的なものに関係していて、必ずしもサッカー・インテリジェンス(だけ)の問題ではないのではないかと。
まあどんな"策"もどんな"戦術"も、選手が消化して得心して動いていれば、自ずと"プレー"にはなって行く"試合"にはなって行くものだと思いますから、そいう意味ではやはり"俄か仕込み"が問題なのであって、他の選択肢が無かったか他の選択肢の方が良かったのではないかと、何周かした挙句にごく普通の批判・問いかけを、することになるのかも知れませんが。
逆に似たようなケースが増えて行けば、その中での批判・検討、監督間での考え方の洗い直しなども、自ずと起きて行くのかも知れませんね。
以上つまり、今のところ監督と観客、どっちも悪くはないと思うけれど、どちらかというと監督の方に譲って欲しいなあと思っているという、そういうある現代的で構造的な"不幸"についての、僕の見方でした。
過保護反対!子供に失敗する自由を!機会を!的な話でもあるかも知れません。(笑)
・・・まあ、牽牛星さんの"エモーション"はエモーションで、よく分かりますけどね。(笑)
絶対的最終生産過程の不在が不安を駆り立て、奇策的な応手を『取らされ』一発勝負に沈む負のサイクル[6]
不安定な最終生産過程から奇策を放ち炎上する未来が心配でならない。twitterのTL上で『大耳負けた、ペップ死ね』が広がる景色を見るかもしれないと思うと心が痛くてしょうがない。[6]
テーマとは特に関係無いですが、読んでて妙に面白かった箇所について。
"チームの最大値"の出し方問題
牽牛星さんが"最終生産者"(の質)にこだわるのは、下のようなサッカー観/チーム観とそれに基づいていかにペップにチャンピオンズリーグを勝ち抜けるようなチームを作らせるかという問題意識があるわけだと思いますが。
監督の仕事とはビルドアップとポゼッションによる組み立ての部分までで、そこからの得点を狙う崩しは選手の質に大きく依存するために最終生産者となる点取り屋の質以上のチームを作ることは出来ない[1]
大耳とは戦術の完備性ではなく絶対的得点源で殴れるか、が重要な大会であって分かってるけど抑えられないレベルの攻撃力こそが物を言う。[1]
一方でご存知のようにペップ・シティは、(意図的か仕方なくかは別にして)特定の点取り屋に頼らない、流動性互換性を特徴とする「戦術の完備性」で専らここまでの5年間を戦って来た訳ですが。
ここでひとつ疑問がわきます。コアUTは分かった、変換可能性の開拓も分かった。
しかしながら、そのチームって強いの?なんでペップはバイエルン、シティではCLを獲れないの?[1]
"コアUT"とは牽牛星さん独自の言い方で、"偽"系でお馴染みユーティリティ(UT)系起用選手の中でも、複数ポジションで「本職」のクオリティを発揮できて"変換可能性"を前面に押し出したペップの(それ以外でもそうですが)チーム作りにおいて"コア"として働ける特別な選手[の機能]。(でいいのかな?)
ともかくこうした問いに対する牽牛星さん自身の最も直接的な答えは、「ある程度強いけど結局"最終生産者の質"以上の強さにはなれない」そして「特に最終生産者の質が物を言う大会であるCLではそれだけでは当然勝てない」ということになると思います。
処方箋としては当然ながら、選手獲得等による質の高い最終生産者の確保がまず挙げられる訳ですが、それと共に牽牛星さんが提案しているのがこれ。
③ リーグは流動、大耳は不動を徹底
ケイン獲得、フォーデン期待、どちらになったとしても大切なのは、リーガはコアUTを用いて柔軟な起用で乗り越えながらビッグチーム相手で最終生産過程のブラッシュアップに時間をかけるべきだ。
リーグはケガの予防と戦術の拡充と実験も兼ねてフレキシブルな起用を心掛け、同格格上との闘いが続く大耳やリーグの重要な試合ではスタメンを完全に固定するのが良いと思う。[2]
誤解を恐れず言えば、流動さすな、互換さすなという、否定的と言えば否定的(笑)な提言。
その是非は別にして僕が興味を感じたのは、それがあえて言えば「自分たちのサッカー」と「理想の11人」世代の観戦者である僕が、ユーティリティとそれに基づいた"対応"サッカー全盛の現代において、なかなか拭い去る事の出来ない疑問にもリンクする問いに見えたからです。
それは強いの?それでどうやって強さの最大値を上げるの?という。
・・・そもそも"最大値"という概念はあるの?という疑問でもあるかも知れませんが。
古い話をごちゃごちゃしてもしょうがないので簡単に言うと、なぜ「自分たちのサッカー」が常套句的正義であり得たかと言うと、その方が強かったからですね、経験的に。小器用な"対応"を繰り返すよりも。対応すればその場はその試合は上手く行くかもしれないけど、それをメインにすると長いスパン長いシーズンの中ではチーム力の高止まりが起きて結局勝てない、タイトル獲得レベルまでは行かない。多少不器用なようでも特定のスタイル(戦術やシステム)を多くは特定のメンバーで煮詰めて、それの運用で"対応"にも当たった方が結局効率がいい、これがある時点までの、国によって程度の差はあれ日本に限らないサッカーチームの経験則だったと思います。
それがある時期から潮目が変わった、マメに対応するやり方の期待値の方が上回って来た、その能力が無いと舞台が上がれば上がる程絶望(笑)が見えるようになった。
「徹底」は「中途半端」を上回るが、「バリエーション」を凌駕できない。
— 岩政大樹 (@_PITCHLEVEL) September 18, 2021
でも、「バリエーション」と「中途半端」は紙一重。
ちょうど岩政先生も、こんな発言を。
僕流に言うと"「徹底」は「バリエーション」を凌駕できない"がスタンダードになったのは割と最近の事で、昔はそんなことは無かった。
現状の観察としても、自称「バリエーション」の中の「中途半端」率は無視出来ないほど高い、あるいは「徹底」の仕方が分からないのを「バリエーション」で逃げてるだけに見える監督はちょいちょい見かけるみたいな話。
まあ概ねレベルが低いほど「徹底」の優位性は高くて(例・J2での反町松本)、上に行けば行くほどそれでは追っつかなくなって来て「バリエーション」の優位が高まると、そんな大勢はあるかなと思います。
そう言えば岩政先生の出身の鹿島は長らくシンプルイズベストの「徹底」の雄として孤高の地位を保って来たと認識していますが、近年宗旨替えしたと聞くのでそれで強くなるのか弱くなるのか、注目!みたいな。(笑)
話戻して牽牛星さんがこんな年寄り臭い問題意識を特に持っているようには見えませんが(笑)、「バリエーション」優位の筈のトップレベルのサッカーの"頂点"対策の話として、回り回って再び「徹底」っぽい話が出て来ているのに単純におっと思いました。
勿論僕もそういうことを考えたことが無いわけではないんですけど、自分が「徹底」世代だという自覚がある分、なんか言ってはいけないんじゃないかみたいな感覚というか遠慮というか、そういうものは無くは無いので。"ペップ・バルサが原体験"だとおっしゃるような世代の論者が言ってくれると、あ、いいの?という感じに。(笑)
ならばもう少し、そういうことについても真面目に考えてみようかな的な。しばらく止めてたけど。
論理的には、「替えの利かない絶対的点取り屋」("最終生産者")を、しかもそれに「耐久性」つまり常時出場を求めるという牽牛星さんの基本的な要求("大耳獲得に必要なのは耐久性のある最終生産者を活かすメソッドの開発、であり"[2])からすれば、ある種のメンバー固定論への道筋は最初から開かれていたと言えなくはないですけどね。
同様に「最終生産過程」(の決定)、「必殺技」を求めるという論からは、非バリエーション派的、やり方の"固定""徹底"派への道が。
まあ上の(③の)箇所は基本的には割と直接的な、CLという(僕から言わせれば)特殊トーナメント戦対策として提示されているものなので、どこまで一般化し得る話なのか牽牛星さんの"サッカー観"的なものに関わる話なのか、それは改めてお聞きしないと分からないですけどね。
とにかく僕は、妙な刺激のされ方をしたと、そういう報告です。(笑)
以上、牽牛星さんのペップとシティに関する大変ありがたいまとまった論考から、最近僕が考えたことという話でした。
特に僕のように"シティのペップ"しかよく知らないというような薄いファンは、読んでみると為になると思います。(笑)