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「立場」をどこに置くのか 〜アニメ夜話『イノセンス』
2006年05月05日 (金) | 編集 |
イノセンス2

公開収録で行なわれたBSアニメ夜話、押井守『イノセンス』の回。
”難解”の定評があるこの作品にかなり激しい賛否両論があることは勿論知っていましたが、ああいうアニメに対して好意的で、作り手の冒険心に比較的寛容であるはずの聴衆(&視聴者)の中にさえ、あれほど激しい「否」、もっと言えば反感が渦巻いていることに結構びっくりしました。

あそこまでの対立/断層があるというのは、ことは単に一般的な作品論の問題ではなくてそこに何らか政治的党派的構造が存在することが予測されるわけで、具体的にはそれは「知的エリート」かそうではないかという党派性。
つまり『イノセンス』の中に散りばめられた聖書や仏典、哲学書などからの様々な引用、及びそれらが表現する概念や思想、そうしたものを「知っている/理解できる」側に自分を置くのか置かないのか。

これは実態的問題であると同時にみなしの問題でもあって、「知的エリート」の側に自分を置いている人にとっては、仮にそれらの引用に知らないものや当座理解出来ないものがあったとしても(普通はあるだろう)、それは言ってみれば”誤差”の範疇でいずれ解消される、または総体としては受容可能なタイプの問題となるわけです。押井守の勇み足も身内の不手際として許せるというか。

逆に「知らない/理解できない」側に自分を置いてしまうと(みなしてしまうと)、いくつか分からないことがあるだけで全体を分からないと悲観したくなる、あるいは全体から拒否されているような感覚に陥って、実は分かっていたり分かることが十分な可能な部分があってもそれに目が行かない。作品自体へのオープンな評価の可能性も閉ざされてしまう。

これが”みなし”の問題だと言うのはこの両側にいる人の間の実際の知識量や知性(の差)は必ずしも主体的要因ではなくて、初期条件としての「立場」の方がむしろ決定的な要因なのではないか、だから問題が政治化してここまで鋭く対立・衝突が生じてしまうのではないかとそう感じているからなわけですが。
分かると思えば分かる、分からないと思えば分からない。(笑)


・・・・ちなみに。
1.僕自身はお察しの通り、自分を「知的エリート」の側に置いています。
2.この「エリート」性は当面は『イノセンス』用のものであって、対象が変われば「立場」が変わることもあり得ます。
3.『イノセンス』自体の作品論、内容については以前は書こうかとも思ってたんですが、その後士郎正宗の原作漫画(『攻殻機動隊』1&2)を読んでみたらそれが非常に良くて、テレビ版も映画版もまとめてその劣化コピーにしか見えなくなってしまったのでやる気を失いました。アニメ版に疑問を感じた人はとりあえず読んでみそ。

続きます。

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コメント
この記事へのコメント
原作を先に読んでから、映画の方に行ったので、押井監督の作風では「重すぎるなぁ」とは思いました。でも期待してた通り、ぐらいの感じだったので別に。原作の2は読んでて目がチカチカする。視力の良い人間にはむしろ厳しい。
夜話は最後の20分ぐらいだけ見て、中川翔子の「喋りたいけど自分の領域じゃないのでもどかしいウズウズ感」的オーラを眺めつつ、「ああやっぱコンビニのシーンって考えて作りこんでたわけね」とか納得してたので、会場からそんな意見があったのは存じませんでした。
自分の立場はともかくとして、あれを「分からない、難解だ」と考える人は、「今さら押井にそれを言っても・・・・」と。むしろ断層や対立があることすら、今まで知りませんでした。あれを「分からん」という人は、何を求めて見に行ったんだろうか、ぐらいの。
でも大半の人が求めるのは、やっぱりSACシリーズぐらいの出来か。いやSAC面白いけど。アニマックスで見てるけど。タチコマよりはフチコマ派ですが。
映画やるなら押井守に脚本を書かせてはいけないというのが個人的持論であります。監督だけやらせとけ。脚本は信本敬子あたりに書かせろ。
「みなしの問題」。確かにその通りかも知れませんね。
2006/12/28(Thu) 13:17 | URL  | 詠 #/HoiMy2E[ 編集]
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