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[定期]web footballistaより('21.11.24) ~ポジショナルプレーの「中庸」性と普及
2021年11月24日 (水) | 編集 |
サブスク化以降のfootballistaは、たまに読みたい記事がある時だけ契約して、契約期間中に読めるだけ読んでまたしばらく契約しないというせこい使い方(笑)をしている僕です。まあこれはNetflixHuluも同じで、僕の基本的なサブスクの使い方。
そうした"成果"の一部を過去「無料記事編」「有料記事編」の2回に分けて放出しましたが、数か月ぶりにまた契約したのでその中から引っ掛かりのあった記事を。

なお前回悩んでいた"有料記事の引用"をどうするか問題ですが、この間(かん)の別の契約期間中にツイッターの方でいくつかやった"引用"に対して、footballistaの公式がその都度リツイートしてくれた()ことから判断すると、余程長々とやらない限りはむしろ歓迎してくれそうな感じなので、今回もさじ加減に注意しながら有料部分についても、適宜使って行こうかなと。


と言いつつ最初は2年以上前の使い残しの無料記事から。

対談後編:結城康平×らいかーると「ポジショナルプレーVS和式」論争 (足立真俊 2019.08.13)

結城「ポジショナルプレーの考え方は、それほど属人的ではありません。同時に、厳しく選手を戦術で縛りつけるわけでもない。そういったバランスこそが、ヨーロッパで成功を収めている要因だと考えています。スペイン人指導者の言葉を借りれば、ヨーロッパは日本と比べて個人主義的なので『我が強い選手たちを、自分たちが操られていると感じない状態』でチームの戦術の中で動かすために『ポジショナルプレーという基準』が求められてきたという考え方も存在するようです。


属人ではないけど縛り・操作でもない。"個人"でも。"組織"でも。
2年前の記事ですが、これはポジショナルプレーの結果的な本質として、結構あるよなと僕も思います。・・・"結果的"というのは、別にその為に作られたものではないだろうということですが。ただ結城さんの言うようにそれが"普及"に大きな役割を果たしているなら、無視は出来ない"結果"論。
僕自身の問題意識で言えば、これは何度か書いていますがオシムの代表を見た時に、独特の違和感というかはてこれは「組織なのか個人なのか」、代表で言えばトルシエや加茂・岡田のようなそれ以前の"組織"的サッカーと同じタイプの把握をしていいものなのかどうかという疑問を感じたのが、時期的には最初。特にオシムの"アジア杯"仕様、俊輔・遠藤・憲剛のファンタジスタ3人を同時に"使う"前提で組まれたようなチームを見た時に、これジーコの発想とそこまで対立的ではないよな通じる"個人"ベース性があるよなと、個人/組織の対立図式の前提性が揺らぐのは感じましたね。だからポジショナルプレーが出て来た時に、すぐ同じ匂いを感じる事は出来た。"新しさ"の性格というか。
話戻して結城さんはその後「より協調的・集団主義的な性質を持った日本人とポジショナルプレーの相性は悪くないのかもしれません」と続けるんですが、これについてはそうかな?という部分が僕はあります。その後の日本における普及の状態を見ても。
つまり日本人は個人のひらめきというか、よくある言い方で言えば"アイデア出して行こう"でプレーするのは、得意と言えば得意。少なくとも慣れてはいる("悪癖"になってるというか(笑))。一方でこれもよく言われるように、こうやれと細かく指示されたことは真面目に忠実にこなす。ではその中間は?バランスは?
これはちょっと前提自体が限りなく仮定で僕自身も何とも言えない所があるんですけど、仮に永井ヴェルディも勿論含む"日本人によるポジショナルプレー"、日本におけるポジショナルプレーの受容・理解に現在遅滞が見られる苦戦が続いているという状況があるとするなら、その原因の一つとしてポジショナルプレーの中庸性どっちつかず性があるという可能性はあるかなと。理論的には、結城さんの言うようにそれが"ヨーロッパ人選手的な我"(の強さ)をあくまで前提とした「バランス」であるなら、そこの"変数"が変わることによって必要な"計算"や"式"も変わって来る可能性は当然ある。現象としても、ヴェルディの発揮すべき個人能力も戦術遂行の為の真面目さも両方備えているように見える選手たちが、変に戸惑っている、自由と規律の間で宙ぶらりんになっているように見えることがままあるという、そういう心当たりは無くはない。
ただ現協会首脳部を筆頭にまだそこまで日本全体としての取り組みが進んでいるとは言えない状況ではあるでしょうし、ポジショナルプレー的発想の存在が当たり前の世代の選手たちへの単純な代替わりを見てみないと、向いてる/向いてないみたいなことは最終的に言えないとも思います。そもそも"進んでない"と言えるのかどうかも、正直何とも言えない。J2レベルでも導入を進めているチームは少なからずありますし、意外と優秀なのかも知れない。代表チームがあれなので、どうしても"国"全体の印象は悪くなりがちですが。

・・・というようなことを読んだ当時考えていた訳ですが("2年前"ではないと思いますが)、それと関連しそうな今年の記事。

岩瀬「ただ日本人は、この線の内側なのか、外側なのかをすごく真面目に守る選手が多い印象なので、ピッチの白線に基づいた5レーンのように動かないレーンを基準にプレーすることは簡単である一方、柔軟に対応できないデメリットもあるかもしれません。状況によっては、レーンにとらわれすぎて、バランス良く立っているけど、人とボールが前に進まないことも起こり得ます」
浅野「それこそポジショナルプレーも、より個人主義的な欧州だからこそ生まれた側面がありますからね」

(「岩瀬健と考えるポジショナルプレー(前編)」 [2021.09.30])


浅野編集長のは、ストレートに結城さんのコメントが念頭にあるのかな?やっぱり。(知りませんが笑)
やはり何か、こういう問題はある気がしますね。決まり事に従ったらいいのかいけないのか、割と"二択"的に迷ってしまう日本人的問題。


次にではその岩瀬健氏×浅野編集長対談記事から。(有料)

日本サッカーに根づく「中重心」とは何か。 岩瀬健と考えるポジショナルプレー(前編) (フットボリスタ・ラボ 2021.09.30)

岩瀬「僕が最初にポジショナルプレーに触れたのは1998年、選手の時にピム・ファーベックというオランダ人監督がやってきて、攻守において自分たちのポジショニングを示していました。今振り返ってみると、まさにポジショナルプレーのような考え方でした。


1998年か。
李国秀のヴェルディ総監督就任が1999年
何となくオリジンというか、時代の風景が見えて来るような気はします。"草創期"の風景。
ピム・ファーベックは1998途中~1999年の大宮アルディージャの監督。(Wiki)
岩瀬健氏はちょうど同じ時期に浦和から大宮に移籍して来た当時MF。(Wiki)

岩瀬「ここ10年間は異常なスピードでポジショナルプレー的な考え方が入ってきていると感じます」


その後引退して指導者になった岩瀬氏(今季は大宮の監督を春先に解任)ですが、(1998年)当時からそうしたことを意識して来た氏の体感は、信用出来そうな気がします。やはり今急激に"ポジショナルプレー的な考え方"が浸透している最中なのか。

話変わって。

岩瀬「これは僕の個人的な意見ですけど、中が最優先、中が閉じていたら外に振るというものが日本サッカーに根づいてきたベーシックな形だと考えています。僕はそれを『中重心』と呼んでいて、中重心の時はそういう攻撃の作り方をします。それは相手が均等に散らばっている前提で、中を狙えば相手は閉じるから外が空くという理屈ですけど

岩瀬「『中を使わないと外がフリーにならない』というふうに考えるのは、指導者でも選手でもよくあります。


外を開ける為に一回中に集めるという"手続き"自体は万国共通ですけど、それはそれとしてやはりしばしば盲目性が際立つ、真ん中に殺到しがちという日本的"悪癖"の、"プレーモデル"性。
やはり個々の戦術という次元を越えた半(くらいだと思いますが)意識的な"共有"が、実際存在しているのか。
僕の立場から一つ言うと、"根づ"くとは言っても例えば~1998年フランスW杯の加茂/岡田ジャパンの時点では、むしろ日本人の中央攻撃やパスサッカーなど世界に通用しない、だから徹底サイドだショートカウンターだという前提で、"国の"サッカーは構成されていたわけですよ。(中田ヒデの異能一発スルーパスは、例外的クオリティで許されてましたが)
更に遡れば讀賣クラブの"中央突破"が「革新」だったのは、要するに出来ないのが"普通"だったからな筈な訳で。
その後トルシエ以降、徐々に自信をつけ始めていつしかお家芸化して行く訳ですが、いずれにしろそんなに起源の古い"ベース"ではないのではないかという疑問はあります。ただその割に根深い印象は確かにあるので、国内レベルの何か古い伝統と近年の国際的な"自信"が、妙な結合をして出来上がったものなのかも知れませんね。現協会だった乗っかってるだけで、別に彼らの誰かがある時点で広めたものではないように思いますから。
クラマーだって杉山から釜本のセンタリングアタックですしねえ。あったとすればどういう伝統なんでしょうね。さすがに古過ぎて僕も何かを見て言ってるわけではないですが。


指導現場で続く、理論を感覚へ落とし込む試行錯誤。岩瀬健と考えるポジショナルプレー(後編) (フットボリスタ・ラボ 2021.10.02)

浅野「日本サッカー全体の課題としては、ダブルボランチが両方とも高めの位置に行ってしまい、カウンターを受けた時にCB2人しかいないというポジションバランスの悪さが目立つ時がありますよね。狭い局面に人数をかけているから独特な崩しができているメリットはありますけど、カウンターを受けた時の立ち位置に関しても5レーンで整理できたりするのではないでしょうか?」
(中略)
岩瀬「ポジションバランスが悪い中、中央から突破される。このような状況のカウンターに対してどう守るかのアイディアを持っている指導者は、たくさんいると思います。(中略)おそらく10年後とか、15年後ぐらいになれば、数的不利へのカウンター対応が上手い選手はたくさん出てくるはずです。理由は、そういうカウンター対応の考え方を指導者が理解しているからですね。


後編。
引用しといて最初気付かなかったんですが、何か面白い事が話し合われてますね。
つまり"ポジションバランスの悪さ"という特徴をポジショナルプレー(5レーン理論)で矯正するのではなくて、特徴はそのままに(バランスは悪いまま)その弊害をポジショナルプレーで緩和・対応する可能性が、話し合われているよう。
和洋折衷というかポジショナルプレーの日本化というか(笑)。浅野さんはどちらかというと"矯正"の可能性について問うて、それに対して岩瀬さんが"対応"の可能性で答えている感じ?

岩瀬「現状は理論としてはあるけど、感覚に落とし込めていない。しかし、サッカーのロジックについては溢れていますし、カウンターの攻撃や守備に対して、攻めながら守るやり方をチームやグループで共有していたり、CBとGKの個人練習で数的不利の守り方をトレーニングしている指導者はたくさんいますから、あとは時間の問題だと思います」


タイトルにあるように大テーマは理論の感覚化で。それについて編集部は割とストレートに"学習""浸透"的に設定したつもりが、知ってか知らずか岩瀬氏が独自に"日本化"的に答えている。そういう形でしか"感覚"化が難しいと考えているのか。ポジショナルプレー的な洋式"ロジック"についても、大いに利用はするんだけどそれはしかし一回取り出して文脈を組み直す(日本化する?)形で利用しようとしている。
それら学習と組み直し、全部ひっくるめて(前編で言っているように)普及自体は急速に進んでいるので、いずれ成果は現われて来るから待ってて下さいと。
まあ15年待つのはややしんどい気はしますけど(笑)。もう少し早く、お願いしたい。いずれ宿題は他にも切りなく出て来るでしょうし。

岩瀬「ポジショナルプレーでハーフスペースや5レーンを質的な優位と数的な優位を効率良く最大化させると考えた時に、監督のアイディアと選手の心地よさが、マッチしない時もあると思います。その時に、目的だけを明確にして手段は選手に委ねることが、最適な状況に繋がることもありますよね」


"監督のアイディアと選手の心地よさがマッチしない時もある"こと自体は、どの地域どのレベルでも起こり得る問題。
ただ本家ヨーロッパでは"心地よさ"についての選手の我の強さが自ずと作り出していた両者のある種のバランスが、日本では選手が従順過ぎることによって同じように取れないことがままある(という岩瀬氏の前出の観察)。そこで意識的に選手に委ねる部分を増やすことによって、ヨーロッパで機能していたようなバランスを"再現"しようと試みたりもする的な話。それが日本の場合の"最適"化というか。
まあ"目的だけを明確にして手段は選手に委ねるというのは、実はポジショナルプレーの方法そのものでもあって'(それが"選手を戦術で縛りつけるわけでもない"[結城]ということ)、だからその"委ねる"部分を強調した教え方をするというのは原理的にもありはありなんですが、日本の"学習"段階を考えると若干危険な匂いもしなくはない(笑)。緩め過ぎて元も子も無くなりそうな不安が。具体的には結局、今後の進捗具合、あるいは「岩瀬監督」の作るチームを実際に見て是非や匙加減を考えたいという結論にはなりそうですが。(正直今までちゃんとは見てなかった笑)


ネタ自体はあといくつかありましたが、内容的にまとまりがいいようなので今回はここまでで。
まとめるとポジショナルプレーには組織と個人("監督"と"選手")の等価的中庸的なバランスという特徴が一つあって、(組織プレーの厳格性ではなくて)その中庸性自体が日本人の学習の阻害要因になる/なっている可能性があると。例えば日本人指導者の中でもポジショナルプレー歴の長い部類の指導者である岩瀬健氏は、それを鑑みて日本人用のニュアンスの調整や文脈の組み換えを日々努力模索していると、将来的なその成果の現れに自信を持っていると、そういう話でした。


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コメント
この記事へのコメント
いつも楽しく拝見させて頂いております。
「目的を決めて選手に委ねる」
本文でおっしゃっている、日本人にそれをやらせると生じる危険性というのが森保ジャパンで起きているのではないかと思いました。

ただ西野さんも最初に「俺はヨーロッパのこと分からんから、お前らのやりたいようにやれ」と監督に就任してすぐに選手言ったと岡田さんとの会談で言ってたような気がするので、西野さんの成功はまさにこの文で述べられてる中庸を取ることに成功したのかなと思いました。
そして森保さんとしては同じことを日本サッカーの継続した強化の一環としてやってるつもりなのかなと。


ブログ主さんがどこかの記事で森保さんの印象として別にやりたいことがない人と評していましたが、西野さんと森保さんの違いはそこなのかなと、森保さんにはやりたいことがないから、目的がないからただ選手任せのように見えるというか、まさに選手任せになってしまってる今の現状があるのかなと

長文失礼しました。
2021/11/26(Fri) 00:04 | URL  | 名無し #-[ 編集]
森保ジャパンの場合、決めているのは「目的」というより「手段」のレベルに近いプレーの「形」になってしまっていて、その筆頭が大迫のポストへの固執・依存で。で、決めちゃったなら決めちゃったなりに監督が責任持って最後まで決めればいいものを、一方で"選手の自主性に委ねる"的な国策がある(ほんとにあるっぽい)から変な所で任せちゃって、不自由なのに秩序も無いみたいな誰の得にもならないような状態になってるように思います。そこらへん西野さんは本当に潔く任せていたんでしょうね。

で、任せられた選手たちが依拠したのがその後言われるようになった"暗黙のプレーモデル"ですが、ただそれは最初から"自由""個人"とかなり癒着したもので、独立して対項として取り出せるようなものかは疑問。そういう意味であれを「中庸」と評価してしまうのはちょっと我田引水的な感じがします。ある程度以上対立的なAとBの中を取る、対立の回避がなされるから「中庸」なので、そもそもくっついてるものに中庸も何もないというか。(笑)

就任当初を思い出しても森保さんが最初から「形」ありきだったとは思いませんが、日々の試合に追われる中で、恐らく森保さん自身のサッカーの把握の限界もあって、結局は目の前の分かり易い形(の選択)のレベルに仕事が終始することになったのではないかなと。
広島時代の方が、形はある程度決まってはいてもこだわってはいないみたいなゆったりした構えでやれていたように思いますね。逆にそれが、形の機能性も高めていた。
2021/11/27(Sat) 12:00 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
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